3 / 30
3話
しおりを挟む
2
その日は朝から頭が重かった。まるで水の中にいるみたいに、身体が思うようにならない。数日前、いきなり降り出した冷たい雨に濡れてから、なんだかずっと調子が悪かった。
アオが働いているのは、さまざまな部品を作る下請け工場だ。主に車の部品を作ることが多い。学歴がないので文句は言えないが、仕事はきつく、給料は安かった。
今朝、家を出る前、アオの具合を心配したリコには、「きょうは休めないの?」と訊かれた。アオは「大げさだな」と笑って出てきたものの……。
まだ発情期までには間があるはずで、アオは近日中に薬をとりにいかなければと思いながら、なかなかそのタイミングが見つけられずにいた。そのとき、くらりと目眩がした。まずいとアオが焦ったときには遅かった。
ガラガラガッシャーン……!
突然甲高い音が工場内に鳴り響き、アオは作業途中の車のパーツが散らばる中に尻餅をついていた。
「アオ! ちょっとこっちへこい!」
でっぷりと太った工場長に呼ばれ、アオは散らばった部品の後片づけもそのままに、事務所へと向かった。
「お前、そろそろアノ時期なんじゃないか?」
発情期の間は抑制剤を飲んでいても何も手につかなくなるため、数日間仕事を休ませてもらっている。もともと工場長がそのことをあまりよく思っていないことに、アオは気づいていた。
「あの……、すみません」
迷惑をかけているのは事実で、アオは唇を噛みしめうつむいた。
「お前さ、臭いんだよ。メスの匂いがぷんぷんしてるんだよ」
アオが反論できないことを見通すと、工場長はその顔に嫌らしい笑みを浮かべた。
「なあ、オメガってのは精をもらえるなら相手は誰でもいいんだろ? 相手の精がほしくてほしくてたまらず、アンアンよがるんだってな」
工場長はアオに顔を近づける。男の息は、腐ったタマネギのような臭いがした。
「いったいここに何人くわえこんでんだよ?」
耳元でささやかれ、アオはかっとなった。ミミズのような太い指が自分の尻を撫で回すのを、アオは下を向いて堪えた。以前からたびたび、アオは工場長から性的嫌がらせを受けることがあった。そして、自分以外にも、彼が弱い立場の者に対して同じような行為をしていることをアオは知っていた。その中には、アオと同じオメガの青年もいた。
駄目だ、堪えろ。こんなこと何でもない。たいしたことじゃない。
きつく握りしめた拳が、ぶるぶると震える。
工場長はアオが無反応なことが面白くないようだった。ふん、と鼻息を荒く吐き出すと、手を離し、ニヤニヤと汚らしい笑みを浮かべた。
「お前の弟もオメガなんだってな。お前みたいなかわいげのないやつはゴメンだが、まだヴァージンなら俺がもらってやってもいいぞ。俺のでかいブツを思いきりぶちこんで……」
気がつけばアオは工場長を殴りつけていた。男のでっぷりとした身体が、リノリウムの緑色の床に転がる。
男は恨めしげな目でアオを睨みつけた。
「く、首だ……! 首だ! いますぐここから出ていけ……っ! 二度とくるな!」
取り返しのつかないことをしてしまったという自覚はあった。アオは肩で息をすると、真っ青な顔で男を見下ろした。
「きゅ、給料をくれよ。未払いの分があるだろ」
アオの言葉を、工場長はバカにしたようにせせら笑った。
「そんなんいままでさんざん迷惑をかけられた分で帳消しだ。こっちはボランティアでオメガなんかを雇ってやってんだ。ろくに仕事もできない役立たずが!」
「そ、そんな……っ! そんなの困るよ……!」
悔しいけれど、男の言うことはもっともだった。すぐに発情期だと仕事を休むオメガは、雇う側からしてみたらどうしても敬遠しがちになる。アオもここの仕事をクビになったら、すぐに新しい仕事を見つけることは厳しいだろう。そんなアオの頭にあったのは、給料日になったら必ず払うからと、滞納する家賃のことだった。このままではいまのアパートを追い出され、リコとふたり路頭に迷ってしまう。
工場長は服についた汚れを払い落とすと、アオの存在など既になかったもののように、仕事に戻ろうとした。
「なあ、待ってくれ、頼むよ! このままだと住むところもなくなっちまう……!」
思わず縋りつくように男の腕をつかんだその手を、乱暴に振り払われる。
「はっ。そんなん知ったことか」
まるで犬猫を追い払うように工場から引きずり出されて、アオは茫然となった。
「どうしよう……」
この先の未来どころか、明日をも知れぬ身に、アオはぶるりと身を震わせた。朝から具合が悪かったことなど、とっくにアオの頭にはなかった。
陽が落ちた街に、灯がともりはじめる。
「仕事……。仕事を探さなきゃ……」
まずは金がいる。きょうとあしたを生き抜くための金が……。
頭痛はますますひどくなっていた。動かすのが億劫なほど身体はだるい。けれど、いまは休んでなんかいられなかった。手っ取り早く稼げる方法は、アオにはひとつしか思い浮かばなかった。アオはきつく唇を噛みしめると、何かを決意したように、暗い目で正面を睨みつけた。
その日は朝から頭が重かった。まるで水の中にいるみたいに、身体が思うようにならない。数日前、いきなり降り出した冷たい雨に濡れてから、なんだかずっと調子が悪かった。
アオが働いているのは、さまざまな部品を作る下請け工場だ。主に車の部品を作ることが多い。学歴がないので文句は言えないが、仕事はきつく、給料は安かった。
今朝、家を出る前、アオの具合を心配したリコには、「きょうは休めないの?」と訊かれた。アオは「大げさだな」と笑って出てきたものの……。
まだ発情期までには間があるはずで、アオは近日中に薬をとりにいかなければと思いながら、なかなかそのタイミングが見つけられずにいた。そのとき、くらりと目眩がした。まずいとアオが焦ったときには遅かった。
ガラガラガッシャーン……!
突然甲高い音が工場内に鳴り響き、アオは作業途中の車のパーツが散らばる中に尻餅をついていた。
「アオ! ちょっとこっちへこい!」
でっぷりと太った工場長に呼ばれ、アオは散らばった部品の後片づけもそのままに、事務所へと向かった。
「お前、そろそろアノ時期なんじゃないか?」
発情期の間は抑制剤を飲んでいても何も手につかなくなるため、数日間仕事を休ませてもらっている。もともと工場長がそのことをあまりよく思っていないことに、アオは気づいていた。
「あの……、すみません」
迷惑をかけているのは事実で、アオは唇を噛みしめうつむいた。
「お前さ、臭いんだよ。メスの匂いがぷんぷんしてるんだよ」
アオが反論できないことを見通すと、工場長はその顔に嫌らしい笑みを浮かべた。
「なあ、オメガってのは精をもらえるなら相手は誰でもいいんだろ? 相手の精がほしくてほしくてたまらず、アンアンよがるんだってな」
工場長はアオに顔を近づける。男の息は、腐ったタマネギのような臭いがした。
「いったいここに何人くわえこんでんだよ?」
耳元でささやかれ、アオはかっとなった。ミミズのような太い指が自分の尻を撫で回すのを、アオは下を向いて堪えた。以前からたびたび、アオは工場長から性的嫌がらせを受けることがあった。そして、自分以外にも、彼が弱い立場の者に対して同じような行為をしていることをアオは知っていた。その中には、アオと同じオメガの青年もいた。
駄目だ、堪えろ。こんなこと何でもない。たいしたことじゃない。
きつく握りしめた拳が、ぶるぶると震える。
工場長はアオが無反応なことが面白くないようだった。ふん、と鼻息を荒く吐き出すと、手を離し、ニヤニヤと汚らしい笑みを浮かべた。
「お前の弟もオメガなんだってな。お前みたいなかわいげのないやつはゴメンだが、まだヴァージンなら俺がもらってやってもいいぞ。俺のでかいブツを思いきりぶちこんで……」
気がつけばアオは工場長を殴りつけていた。男のでっぷりとした身体が、リノリウムの緑色の床に転がる。
男は恨めしげな目でアオを睨みつけた。
「く、首だ……! 首だ! いますぐここから出ていけ……っ! 二度とくるな!」
取り返しのつかないことをしてしまったという自覚はあった。アオは肩で息をすると、真っ青な顔で男を見下ろした。
「きゅ、給料をくれよ。未払いの分があるだろ」
アオの言葉を、工場長はバカにしたようにせせら笑った。
「そんなんいままでさんざん迷惑をかけられた分で帳消しだ。こっちはボランティアでオメガなんかを雇ってやってんだ。ろくに仕事もできない役立たずが!」
「そ、そんな……っ! そんなの困るよ……!」
悔しいけれど、男の言うことはもっともだった。すぐに発情期だと仕事を休むオメガは、雇う側からしてみたらどうしても敬遠しがちになる。アオもここの仕事をクビになったら、すぐに新しい仕事を見つけることは厳しいだろう。そんなアオの頭にあったのは、給料日になったら必ず払うからと、滞納する家賃のことだった。このままではいまのアパートを追い出され、リコとふたり路頭に迷ってしまう。
工場長は服についた汚れを払い落とすと、アオの存在など既になかったもののように、仕事に戻ろうとした。
「なあ、待ってくれ、頼むよ! このままだと住むところもなくなっちまう……!」
思わず縋りつくように男の腕をつかんだその手を、乱暴に振り払われる。
「はっ。そんなん知ったことか」
まるで犬猫を追い払うように工場から引きずり出されて、アオは茫然となった。
「どうしよう……」
この先の未来どころか、明日をも知れぬ身に、アオはぶるりと身を震わせた。朝から具合が悪かったことなど、とっくにアオの頭にはなかった。
陽が落ちた街に、灯がともりはじめる。
「仕事……。仕事を探さなきゃ……」
まずは金がいる。きょうとあしたを生き抜くための金が……。
頭痛はますますひどくなっていた。動かすのが億劫なほど身体はだるい。けれど、いまは休んでなんかいられなかった。手っ取り早く稼げる方法は、アオにはひとつしか思い浮かばなかった。アオはきつく唇を噛みしめると、何かを決意したように、暗い目で正面を睨みつけた。
1
お気に入りに追加
109
あなたにおすすめの小説
【完結】陰キャなΩは義弟αに嫌われるほど好きになる
grotta
BL
蓉平は父親が金持ちでひきこもりの一見平凡なアラサーオメガ。
幼い頃から特殊なフェロモン体質で、誰彼構わず惹き付けてしまうのが悩みだった。
そんな蓉平の父が突然再婚することになり、大学生の義弟ができた。
それがなんと蓉平が推しているSNSのインフルエンサーAoこと蒼司だった。
【俺様インフルエンサーα×引きこもり無自覚フェロモン垂れ流しΩ】
フェロモンアレルギーの蒼司は蓉平のフェロモンに誘惑されたくない。それであえて「変態」などと言って冷たく接してくるが、フェロモン体質で人に好かれるのに嫌気がさしていた蓉平は逆に「嫌われるのって気楽〜♡」と喜んでしまう。しかも喜べば喜ぶほどフェロモンがダダ漏れになり……?
・なぜか義弟と二人暮らしするはめに
・親の陰謀(?)
・50代男性と付き合おうとしたら怒られました
※オメガバースですが、コメディですので気楽にどうぞ。
※本編に入らなかったいちゃラブ(?)番外編は全4話。
※6/20 本作がエブリスタの「正反対の二人のBL」コンテストにて佳作に選んで頂けました!
まばゆいほどに深い闇(アルファポリス版・完結済)
おにぎり1000米
BL
グラフィックアーティストの佐枝零は長年オメガであることを隠し、ベータに偽装して生活している。学生時代に世間で作品が話題になったこともあるが、今はできるだけ表に出ず、単調で平凡な毎日を送っていた。そんな彼に思ってもみない仕事の打診がもたらされる。依頼人は佐枝が十代のころ知り合った運命のアルファ、藤野谷天藍だった! ――親の世代から続く「運命」に翻弄されるアルファとオメガの物語。
*オメガバース(独自設定あり)エリート実業家(α)×アーティスト(偽装Ω)ハッピーエンド
*全3部+幕間+後日談番外編。こちらに掲載分は幕間や番外編の構成が他サイトと異なります。本編にも若干の改稿修正や加筆あり。ネップリなどであげていた番外編SSも加筆修正の上追加しています。
*同じオメガバースのシリーズに『肩甲骨に薔薇の種』『この庭では誰もが仮面をつけている』『さだめの星が紡ぐ糸』があります。

Endless Summer Night ~終わらない夏~
樹木緑
BL
ボーイズラブ・オメガバース "愛し合ったあの日々は、終わりのない夏の夜の様だった”
長谷川陽向は “お見合い大学” と呼ばれる大学費用を稼ぐために、
ひと夏の契約でリゾートにやってきた。
最初は反りが合わず、すれ違いが多かったはずなのに、
気が付けば同じように東京から来ていた同じ年の矢野光に恋をしていた。
そして彼は自分の事を “ポンコツのα” と呼んだ。
***前作品とは完全に切り離したお話ですが、
世界が被っていますので、所々に前作品の登場人物の名前が出てきます。***

両片思いのI LOVE YOU
大波小波
BL
相沢 瑠衣(あいざわ るい)は、18歳のオメガ少年だ。
両親に家を追い出され、バイトを掛け持ちしながら毎日を何とか暮らしている。
そんなある日、大学生のアルファ青年・楠 寿士(くすのき ひさし)と出会う。
洋菓子店でミニスカサンタのコスプレで頑張っていた瑠衣から、売れ残りのクリスマスケーキを全部買ってくれた寿士。
お礼に彼のマンションまでケーキを運ぶ瑠衣だが、そのまま寿士と関係を持ってしまった。
富豪の御曹司である寿士は、一ヶ月100万円で愛人にならないか、と瑠衣に持ち掛ける。
少々性格に難ありの寿士なのだが、金銭に苦労している瑠衣は、ついつい応じてしまった……。
オメガバース 悲しい運命なら僕はいらない
潮 雨花
BL
魂の番に捨てられたオメガの氷見華月は、魂の番と死別した幼馴染でアルファの如月帝一と共に暮らしている。
いずれはこの人の番になるのだろう……華月はそう思っていた。
そんなある日、帝一の弟であり華月を捨てたアルファ・如月皇司の婚約が知らされる。
一度は想い合っていた皇司の婚約に、華月は――。
たとえ想い合っていても、魂の番であったとしても、それは悲しい運命の始まりかもしれない。
アルファで茶道の家元の次期当主と、オメガで華道の家元で蔑まれてきた青年の、切ないブルジョア・ラブ・ストーリー

獣人王と番の寵妃
沖田弥子
BL
オメガの天は舞手として、獣人王の後宮に参内する。だがそれは妃になるためではなく、幼い頃に翡翠の欠片を授けてくれた獣人を捜すためだった。宴で粗相をした天を、エドと名乗るアルファの獣人が庇ってくれた。彼に不埒な真似をされて戸惑うが、後日川辺でふたりは再会を果たす。以来、王以外の獣人と会うことは罪と知りながらも逢瀬を重ねる。エドに灯籠流しの夜に会おうと告げられ、それを最後にしようと決めるが、逢引きが告発されてしまう。天は懲罰として刑務庭送りになり――
金曜日の少年~「仕方ないよね。僕は、オメガなんだもの」虐げられた駿は、わがまま御曹司アルファの伊織に振り回されるうちに変わってゆく~
大波小波
BL
貧しい家庭に育ち、さらに第二性がオメガである御影 駿(みかげ しゅん)は、スクールカーストの底辺にいた。
そんな駿は、思いきって憧れの生徒会書記・篠崎(しのざき)にラブレターを書く。
だが、ちょっとした行き違いで、その手紙は生徒会長・天宮司 伊織(てんぐうじ いおり)の手に渡ってしまった。
駿に興味を持った伊織は、彼を新しい玩具にしようと、従者『金曜日の少年』に任命するが、そのことによってお互いは少しずつ変わってゆく。
さよならの向こう側
よんど
BL
''Ωのまま死ぬくらいなら自由に生きようと思った''
僕の人生が変わったのは高校生の時。
たまたまαと密室で二人きりになり、自分の予期せぬ発情に当てられた相手がうなじを噛んだのが事の始まりだった。相手はクラスメイトで特に話した事もない顔の整った寡黙な青年だった。
時は流れて大学生になったが、僕達は相も変わらず一緒にいた。番になった際に特に解消する理由がなかった為放置していたが、ある日自身が病に掛かってしまい事は一変する。
死のカウントダウンを知らされ、どうせ死ぬならΩである事に縛られず自由に生きたいと思うようになり、ようやくこのタイミングで番の解消を提案するが...
運命で結ばれた訳じゃない二人が、不器用ながらに関係を重ねて少しずつ寄り添っていく溺愛ラブストーリー。
(※) 過激表現のある章に付けています。
*** 攻め視点
※当作品がフィクションである事を理解して頂いた上で何でもOKな方のみ拝読お願いします。
※2026年春庭にて本編の書き下ろし番外編を無配で配る予定です。BOOTHで販売(予定)の際にも付けます。
扉絵
YOHJI@yohji_fanart様
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる