零れる

午後野つばな

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 小雪がちらつきそうな寒い夜だった。ゴミ溜めのような路地裏には、アオと男のほかには誰もいない。
「アァッ……! アッ!」
 男の身体からは何日も風呂に入っていないような、えた臭いがした。アオはこみ上げる吐き気を必死に堪えながら、男の赤黒い醜悪なソレを口で愛撫する。
「おお……っ! たまらねえ……! ああぁ……ッ!」
 ふいに髪をきつく引っ張られ、目尻に涙が滲んだ。
 くそっ。早くイキやがれ!
 アオが心の中で毒づいた瞬間、生臭いものが口腔内に放たれた。アオはごほごほっと噎せた。発情期だったら別だろうが、いまの時期、嫌悪しか感じられない他人の体液を飲み込んでしまい、吐きそうになる。男は、そんなアオを見てにやにや笑った。
「うまいだろ。全部飲み干せよ」
 くそったれ! アオは心の中で罵声を浴びせると、考えていることを相手に悟らせないよう視線を伏せ、口元を拭った。
 アオの肌はどこか異国の血が混じっているようにわずかに浅黒く、ダークブロンドの髪はくるんと丸まって天使のようだ。その顔立ちは黙っていれば整っている部類に入り、そうしていると長い睫毛が澄んだ緑色の瞳を隠し、男の劣情をますます刺激することにも気づいてはいない。
「なあ、これからどこかいかないか?」
「は? 何言ってんだよ」
 馴れ馴れしく腕を撫でられ、思わせぶりな口調で耳元に囁かれる。男の吐いた臭い息が頬に触れた瞬間、ぞわりと嫌悪感が走った。
「離せよ!」
 思わずアオは男の腕を振り払っていた。男の目が据わる。
 あ、やば……っ。
 アオが内心で焦ったとき、男は笑っていない目でアオを見ると、嫌らしい笑みを浮かべた。
「たかがオメガの分際で何すかしてやがる。この売女もどきが!」
 男は身支度を整えると、そのまま背を向けて立ち去ろうとした。慌てたのはアオのほうだ。
「ま、待てよっ! 金! 金をまだもらってない!」
 アオの弟、リコは幼いころから身体が弱い。昨夜から熱を出しているリコのために、アオはなんとしても薬と、何か栄養がつくスープを作るための材料を買って帰りたかった。そのためには金がいる。
 男の腕に縋りついたアオの手を、男は汚らしいものでも触れたように、乱暴に振り払った。
「あ……っ!」
 アオはバランスを崩し、店の裏に置かれていたゴミ箱もろとも倒れた。空き瓶がガラゴロ……と路地を転がってゆく。
「金! 金を寄越せよ! あんたのクソまずいソレを散々しゃぶってやっただろう!」
 アオが声を張り上げると、男は忌々しそうに舌打ちした。財布から札を一枚抜き出すと、アオに向かって投げ捨てた。札は風に舞い上がり、何か異臭を放つゴミの上に落ちた。アオは慌ててそれを拾った。その正体を知りたくもない汚れに顔をしかめてから、小石で汚れを擦り落とす。そうしている間にも男の姿は路地から出ていった。
「あっ! おいっ! 金! 金が足りないぞ! いかせたらこの倍はくれるって言ったじゃないか! おいっ!」
 アオの大声に、通りを歩いていた人が何事かと視線を寄越す。けれどいくらアオが声を張り上げても、肝心の男は戻ってくるはずもなかった。
「くっそ……」
 アオはきつく唇を噛みしめると、肩を落とした。男が寄越した金額では、リコに薬とたっぷり栄養がつく食材の両方は買ってやれない。
 アオはみじめだった。なぜオメガだというだけで、こんな気持ちを味わわされなければいけないのか。
 この世界は、3種類の人間の性に分かれている。上から、アルファ、ベータ、オメガの順で、完全なるヒエラルキーの世界だ。社会のほとんどはアルファが仕切っているといっても過言ではなく、オメガに生まれついた瞬間から、アオの運命はすでに決まっていたのだろう。
 アルファは行為中にオメガの首の後ろを噛むことによって、”つがい”になる。基本的につがいは絶対で、その絆は相手が死ぬまで続く。唯一例外があるとすれば、アルファの側からはつがいを解消することができるということだ。ただし、一方的につがいを解消されたオメガは悲惨だ。ごく稀に別の相手と関係を結ぶこともあるが、ほとんどはその精神的苦痛により、死ぬまで苦しみ続ける。
 「運命のつがい」ともなると、その確率はほとんど奇跡に近い。たいていのアルファとオメガは、自分の本当の相手に巡り会うことができずに、その生涯を終える。
 かつて、アオが何も知らない子どもでいられたとき、「運命のつがい」に憧れていたことがあった。ふたりは幸せになりました、で終わるおとぎ話みたいに思っていた。そして、いつか自分にもそんな相手が現れるのだと夢見ていた。
 アオは首をすくめた。
 万が一の事故が起こらないよう、首を隠すために巻いたショールは、アオがオメガであるという証しだ。
 ビルの隙間から、星が瞬いているのが見えた。白い息をほうっと吐き出し、寒さにかじかむ指先を温める。生地が薄くなったジャンパーはその用途をなしてなく、新しい服を買うだけの余裕はアオにはない。もしも金が少しでもあったなら、アオはそれをリコのために使いたかった。身体の弱いリコを、一度ちゃんとした病院の医者に診てもらいたかったし、たくさん栄養のあるものを食べさせてあげたかった。それにリコは、アオとは頭の出来が違う。学校にいきたいとこれまで一度も口にしたことのない弟が、けれど心のどこかで進学を望んでいることをアオは知っていた。世の中、すべては金だ。金、金、金……。
「くそっ」
 ジャンパーのポケットに男が投げ捨てた札を捻り込み、路地を出る。いまの時間ならまだ薬局は開いている。とりあえずリコの薬を買わなければ。
 アオは財布を取り出すと、手持ちの金と合わせていくらになるかを確かめた。家賃は遅れているが、後数日で給料が入るからそれで何とかなるだろう。薬局で薬を買い、近くのスーパーへ入った。リコの好きなリンゴを一個だけ選び、鶏ガラとショウガ、それから迷ってタマネギを買った。
 夜のスーパーはアオのほかにほとんど人がいなかった。いるのはレジを打つ中年の店員と、生活に疲れた顔をしている何人かの人だけだ。明るい店内、ガラスウィンドウに反射して、表情をなくした自分と目が合った。
 いったいいつまでこの生活が続くのだろう。オメガである自分には、学歴も、金もない。リコ以外の家族はいない。頼れる者など誰もいなかった。ただ、きょうを生き残るだけの、明日をも見えない生活ーー。
 胸を刺すような痛みに襲われる。
 自分はいい。夢を抱くことなど、とっくに諦めた。でもリコは、弟のリコはまだ十五歳なのだ。アオと同じオメガだが、幸いなことにまだ発情期は迎えていない。けれどそれがいつまで持つのだろうか。
 アオは、リコにだけは自分と同じような目に遭わせたくなかった。せめてリコだけは……。そのためには何がなんでも金がいる。それも大量の金だ。
 レジで金を払い、買った食材を買い物袋につめて、アオが店を出ようとしたそのときだった。下を向き、ぼんやりと考えごとをしていたアオは、目の前に人影があることにも気づかなかった。
 ドンッという衝撃とともに、アオは道路に転んでいた。通りを歩いていた誰かにぶつかったのだとアオが気づいたのは、買い物袋からこぼれたリンゴが地面を転がっていくのを目にしたときだ。
 リンゴはそのまま車道までコロコロと転がってゆく。
「あっ!」
 リコのリンゴが……!
 地面に這いつくばるようにして、アオがリンゴに手を伸ばしたのと、車が通り過ぎたのは同時だった。リンゴはアオの目の前で、ぐしゃりと潰れた。
「あぁ……っ!」
 アオは呆然と地面に潰れたリンゴを見た。財布の中にはわずかな小銭が残っているだけだ。新しいリンゴは買えない。
「くそ!」
 そのとき、ふわりと花の匂いがした。
 こんな季節に花など咲いているはずがない。不思議に思ってアオが何気なく顔を上げたとき、車の往来が激しい通りの向こうに、ひとりの男が立っているのが見えた。
 美しい男だった。男に美しいなんて表現はおかしいが、ほかにぴったり合う言葉が見つからない。
 男もアオに気がついた。その瞳が訝しむようにアオを見て、驚いたように見開かれる。
 目が合った瞬間、アオはぽかんと口を開けた。そのときの感覚をなんて表現したらいいのだろう。初めて会ったはずなのに、まるで自分の半身に会ったような懐かしい感じ。
 男の青い瞳にも、深い驚愕の色が見えた。なぜだろう、いったいアオを見て、何を驚いているのか。
 このとき、アオはなぜか海を連想していた。まるで、宝石を溶かしたような、深い海の底を。その海がすっと細くなり、睨むように冷たくアオを見た。
 珍しいプラチナブロンドの髪は、おそらくは染めてない天然のものだろう。仕立てのよいスーツは、きっとアオが寝る間を惜しんで働いても一生手にすることはできない高級品だ。
 アルファだ。アオとは住む世界が違う、ほんの一握りのエリート。
 正確には男はひとりではなかった。けれど、まるで世界からアオと男だけが切り離されたように、そのときのアオには男以外のものは目に入ってはこなかった。
 男の瞳にはアオへの拒絶があった。まるでアオの存在すべてを否定するかのような、冷たい氷のような瞳。
 ずきん、と胸が痛んだ。
 どうしてそんな目で見るのだろう。俺がいった何をしたというのか。
 ああ、そうか。俺がオメガだからか。
 その答えがすとんと胸に落ちてきたとき、アオは顔を歪めた。
 ひとから蔑むような目で見られるのは慣れているはずなのに、どうしてだろう、胸が激しく痛む。まるで、迷子になった子どものように、アオは途方に暮れた、泣きたいような気持ちになる。
 ふいに男はアオから視線をそらすと、すっと目の前に止まった高級車に乗り込んだ。
 地面に座り込んでいたアオに、誰かの足がぶつかる。
「ばかやろう! そんなところでぼけっとしてんな!」
 罵声を浴びせられて、アオは急いで立ち上がった。潰れたリンゴは諦めるよりほかなかった。
 冷たい地面に膝をついていたので、身体はすっかり冷え切っていた。
「……帰らなきゃ」
 リコがアオの帰りを待っている。それに、こんなことぐらいで傷ついていたら、世の中生きてなんかいけない。
 名残を惜しむように、アオはさっき男がいた場所に、無意識のうちに視線を投げかけていた。
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