恋の実、たべた?

午後野つばな

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 日下が初めて徹と会ったのは、彼がまだ赤ん坊のときだ。ふくふくとした手足に、赤ん坊にしてはしっかりとした顔立ち、ふわふわの産毛。子どもが苦手でどうしていいかわからない日下を、澄んだ瞳が瞬きもせずにじっと見ていた。
「この子、きっとあなたのことが好きなのよ」
 姉の言葉に、家族が微笑む。あのころはまだ裕介さんも生きていた。誰にも言ったことはないが、日下の初恋の相手は裕介さんだった。はじめから叶わない恋だとわかっていた。幸せそうな姉夫婦の姿。穏やかな昼下がりを覚えている。
 裕介さんが亡くなったとき、日下は大学生だった。未亡人となった姉は若く、徹もまだ五歳だった。そのころ、日下はひどい恋愛を終えたばかりで、ぼろぼろの状態だった。
 相手は同じ大学の教授だった。男からの強引なアプローチで始まった恋は、始めは日下のほうは乗り気ではなかったが、いつしかほだされるように本気になっていった。日下も若かったのだと思う。相手に妻がいるなんて知らなかった。後はお決まりのコースだ。しかし、日下の場合はその後が最悪だった。
 この恋が不倫であることを知り、別れようとした日下に、男は妻との離婚を決めた。精神的に追いつめられた妻は自殺未遂を図り、男は結局妻の元へと戻った。裕介さんが亡くなったと姉から連絡があったのは、ちょうどそのころのことだ。
 葬式の日は、朝から冷たい雨が降っていた。当時実家を出て一人暮らしをしていた日下が最後に姉夫婦に会ったのは、一年か二年も前のことだ。喪主を務める姉の横で、幼い徹が母親にくっつくようにちょこんと座っていた。
 そのころ男の妻側からの訴えにより、日下は訴訟問題を抱えていた。まるで腫れ物に触るように、遠巻きにしつつも自分の噂話をする親族の目から逃れるように、日下は席を離れた。
 いつまでも止む気配のない雨をぼんやりと眺めながら、タバコをふかす。日下の胸を、理不尽さとやるせなさ、そしてやり場のない怒りが渦巻いていた。そろそろ会場へ戻らなければと日下が思ったときだ。小さな子どもの手が、日下の服の裾をきゅっと握った。
「徹! こんなところでどうした? 勝手に抜け出したらお母さんが心配するだろう」
 前に会ったときのことなど小さくて覚えていないだろうに、自分をじっと見上げる子どもに、日下は慌ててタバコを消した。内心面倒だという思いを隠して、子どもの目線の高さに合わせる。
「一緒についていってやるから、お母さんのところへ戻ろう」
 手を引いて会場へ戻ろうとする日下に、徹は俯いたままその場から動こうとしない。
「どうした? 何かあったのか?」
「おとうさん、もういたくない……? おむねくるしくない……?」
 裕介さんの死因は悪性リンパ腫だった。亡くなる前は相当苦しんだと聞く。しかし、息子が自分のことで胸を痛めることは望まないだろう。
「ああ、痛くない。苦しくないよ」
 まだ世の中の汚れも知らない澄んだ眼差し。その目が日下をじっと見つめた。
「ぼくがないたら、おかあさんがかなしむの。だから、もうなかないってきめたの。でも、ぼくおとうさんにあいたい……。おにいさんは? おにいさんも、かなしいの……?」
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