恋の実、たべた?

午後野つばな

文字の大きさ
上 下
3 / 37

しおりを挟む
「僕は子どもじゃない。自分の面倒くらい自分で見られる。そんなことよりも、前から言っていることだが、いい加減この家を出たらどうだ。通学のために片道一時間以上もかけるなんてばからしいだろう」
 徹は日本でもトップの名門大学に通っている。しかもその法学部とくれば学業の厳しさは明白で、いくら時間があっても充分すぎるということはない。日下にしてみれば、通学によけいな時間をかけるなど、ひどく無駄なことだ。
「もし初めての一人暮らしが不安なら、僕が一緒に物件を探してもいい……」
「――大丈夫だよ」
 徹は日下を見つめると、にっこり微笑んだ。その目が笑っていないことに気がつき、日下はようやく徹が何かに怒っているらしいことを悟る。
「衛さんが子どもじゃないことぐらいわかっている。家事は俺が好きでやっていることだ。通学時間も、一秒だって無駄にはしていないから問題ない。それよりも……」
 テーブル越しに伸びた徹の手が日下の襟元に触れる。その感触に、思わずどきりとした。
「数日前からついているこの痣、わざわざ人の目に触れる場所につけるってどんな相手なんだ。衛さんが本気で好きなら構わない。だけどそうじゃないなら、もっと相手を選んだほうがいい」
 普段は穏やかで冷静な瞳が冷ややかな怒りを帯びている。日下が本気なら構わないというのは、建前ではなく徹の本心だろう。徹は何よりも日下が自分を粗末に扱うことを嫌がる。しかし、日下からしてみたら余計なお世話だ。徹に言われることではない。
「お前には関係のないことだ」
 必要以上にきつい口調になってしまったのは、徹の言葉に日下自身思い当たる節があるからだ。日下は自分がどうなっても構わない。はっきりと言えば、他人を信じていないのだ。永続的な関係があるとは信じていないし、仮にあったとしても自分には関係がないものだと思っている。人は簡単に他人を裏切る。そのことを、日下は身を持って知っている。
「衛さんが誰とつき合おうと俺には何も言う資格はない。でも、頼むからもっと自分のことを大事にしてほしい」
 躊躇いもなくまっすぐに差し出される言葉に、日下は居たたまれないような気持ちになった。
 徹は人に迎合しない。自分の意見をしっかりと持っている。そのくせ、自分とは違う意見を持つ人間を拒絶もしない。自分は自分、他人は他人だという考え方を持っている。日下の場合、それはただ他人に興味がないだけだが、徹は違う。こいつは、根っこの部分がやさしいんだと思う。
「……約束はできないけど、なるべく努力はする」
「ありがとう」
 その場を取り繕うだけの言葉に、徹はようやく納得したような笑顔を浮かべた。日下は顔を背ける。
「そうだ、午後から雨が降るみたいだよ。傘を持っていったほうがいい」
「嘘だろ、こんなに晴れているのに」
 グラスの中で氷が溶けるカランという音が響いた。窓の向こうは、真夏のような青空がのぞいている。甘みのある冷たい緑茶を飲みながら、日下は眩しそうに目を細めた。
しおりを挟む

処理中です...