その声が聞きたい

午後野つばな

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「さとり温泉にいくの巻」

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 生まれて初めて入る大浴場はすごかった。手足を大きく伸ばしても、まだ充分余裕がある。本当にさとりひとりが泳いでもへいきそうだ。
 洗い場で髪の毛や身体を洗うのももどかしく、急いで泡を洗い流し、大浴場に飛び込んださとりを、そうすけが洗い場でゆっくりと身体を洗いながら声をかける。
「さとりー。足元濡れてるから、滑って転ぶんじゃないぞー」
「う、うん。だいじょうぶ」
 すごい。すごい。こんなにお湯がいっぱい。これだけのお湯、いったい何日分くらいあるんだろ。
 そわそわと落ち着かない気持ちでざばりと内湯から出て、露天になっている外湯へと向かう。
 ピーヒョロロロ……。
 山の緑は瑞々しく、薄い雲がかかった空は吸い込まれる美しさだ。お風呂につかったままきれいな景色を眺めることができるなんて、なんて贅沢なことだろう。
 少し熱めの湯に、ひんやりとした風が肌に心地よかった。ひとしきりばしゃばしゃと泳いだ後、さとりは岩肌に頬杖をついてぼんやりと景色を眺めた。ざあっと葉擦れの音がする。
 こんなに幸せで夢みたい……。
 うっとりと目をつむれば、まぶたの裏に映る光がキラキラと乱反射した。どこか近くの木の枝から、涼やかな鳥の鳴き声が聞こえる。
 テレビでその存在を知ってから、「温泉」はさとりの憧れだった。大きな湯船で家族みんなが仲良く一緒に入って、その中ではなんと泳ぐこともできるらしいというのだ。
 こんやもするのかな……。
 ーーさとり……。
 ふいに、低く艶やかなそうすけの声が耳元で聞こえた気がして、さとりは全身からぼんっと火を噴きそうになった。
 何も温泉にきたからといって、そうとは決まったわけじゃない。でも、昼間やっていたドラマでは、温泉にいった恋人たちはみんなめくるめく時間を過ごしていた。だとしたら、きっとそうすけも……。
 そのとき、ガラガラとガラスの引き戸が開く音が聞こえて、そうすけが露天に入ってきた。
 あ……。
「どうだ、さとり。気持ちがいいか?」
 当然のことながら、そうすけも裸だ。引き締まった肉体を惜しげもなくさらして、そうすけがさとりの隣へと入ってくる。
「ちょっと温度が熱いか……?」
「う、うん」
 さとりはドキドキした。そうすけの裸を見るのはもちろん初めてじゃないのに、なぜか恥ずかしくてそうすけのほうが見られない。
「さとり?」
『どうかしたのか?』
 伸びてきた手をとっさに振り払ってしまい、さとりはかあっと真っ赤になった。
「あ、ち、違うの……っ」
 自分がおかしな態度をとっていることはわかっているのに、どうしていいのかわからない。
 鼓動が激しく鳴っている。そうすけがわずかに目を見開き、不審そうにさとりを見ている。濡れたそうすけの上半身が眩しくて、その身体に抱きしめられたときのことを思い出したらもうだめだった。
「ひゃあ!」
 さとりはぎゅっと瞼をつむると、ざばっと勢いよく湯殿から立ち上がった。
「さとり?」
 ど、どうしよう……!? おいら変だ……!
「お、おいら、もう一回中のお風呂に入ってくるね!」
「あ、おいっ」
『……さとり?』
 そうすけが止めるのも聞かず、さとりは逃げるように内風呂へと向かう。
 どうしよう。せっかくそうすけと一緒に「温泉」にきたのに、本当はうれしくてたまらないのに、おかしな態度をとっちゃった……。
 いまからそうすけの元へ戻ろうか、それでもし万が一おかしな態度をとってしまったらどうしようとさとりが迷っていると、そうすけが露天から内風呂に入ってきた。
「あっ」
「先に出てるから、さとりはゆっくりしてていいぞ」
『のぼせるんじゃないぞ』
 そうすけは普段と変わらないようすでさとりに声をかけると、そのまま大浴場から出て行った。
「あ……っ」
 せっかくそうすけと一緒に「温泉」に入れるのを楽しみにしていたのに、自分がおかしな態度をとってしまったせいで台無しにしてしまった。
 さとりはしょんぼり肩を落とすと、ぶくぶくと鼻の下まで沈んでいった。
 しばらくしてさとりが部屋に戻ると、そうすけは窓際のスペースで涼みながら、旅館の案内を眺めているところだった。
「風呂、気持ちよかったか?」
「う、うん」
 見慣れないそうすけの浴衣姿が格好よくて、さとりはどぎまぎする。さとりを見つめるそうすけの目がふっとゆるんで、おいでおいでと手招きされた。
 ……?
 素直に近づいたさとりはそうすけに浴衣の帯を解かれる。
 す、するのっ……?
「合わせ方が反対。それじゃ死んだ人だよ」
 期待にドキドキと胸を高鳴らせるさとりの前で、そうすけはさとりの帯をいったん解くと、右襟を下に持ってきて、再び結び直してくれた。
「ほら、これでいい」
 ぽん、と胸の前を叩かれる。
「あ、ありがと」
 ひとりで勘違いしたことに、さとりはかあっと赤くなった。さとりの頭をそうすけはくしゃりと撫でた。
「すぐ側に川があるみたいだ。夕食前にいってみるか?」
「う、うん」
 あれ? なんだかおかしい。
 木のキーホルダーがついた部屋の鍵を手にするそうすけの後を追いかけながら、さとりは内心首をかしげていた。温泉旅行とは「そういうこと」をいっぱいするための旅行のはずなのに、そうすけの態度はいつもと変わらないままで、そんな気配は微塵も感じられないのだ。
 やっぱりおいらが変な態度をとったから怒っているの?
 けれど、そうすけの背中からはこれっぽっちも怒っている気配は感じられず、それどころかうきうきした感情が伝わってくる。
 そうすけ……?
「さとり」
 立ち止まったそうすけが振り返り、さとりに向かって手を伸ばす。その手をとりながら、さとりはぐるぐるとわけのわからない不安にとらわれていた。
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