Head or Tail ~Akashic Tennis Players~

志々尾美里

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第134話 期待と限界の狭間で

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 ATP250 バレンシアオープン、第1シード、ルヴェン・プエルタ、24歳。アルゼンチン出身で、現在の世界ランキングは51位。南米に多いクレーコート育ちで、18歳でプロに転向し、順調にキャリアを積み上げてきている。彼を知るファンたちは、彼の特徴的なプレイスタイルを根拠に、彼をこう呼んだ。

 アルゼンチンのラファエル・ナダル。

 かつて、レッド・クレーで無類の強さを誇った、偉大なるBIG4の一人。ナダルは19歳という若さで、グランドスラムの全仏オープン『ローラン・ギャロス』を制した。それ以降、芝の王者ロジャー・フェデラーを終生のライバルとし、数々の名勝負を繰り広げ、テニス史に一つの時代を築き上げた英雄のなかの英雄として今なお親しまれている。その偉大なる功績と、スポーツマンシップ溢れる振る舞いは、まさに赤土の王者レッド・クレーキングと呼ばれるに相応しい選手だった。

 ただ、ルヴェンはナダルにちなんだ自分のあだ名を、好んではいなかった。確かに彼は左利きで、クレーコートを最も得意としている。プレイスタイルも、ヘヴィスピンをかけたストロークが武器だ。守りながらも相手に攻撃させない攻め方は、球足の遅いレッド・クレーでは特に有効で、事実クレーコートでの勝率が各段に良い。そのせいもあって、いつの頃からか、テニス史にその名を刻んだ往年の名選手、ラファエル・ナダルにちなんで彼のプレーは赤土の王道ラファ・スタイルと言われるようになり、やがてはルヴェンを指して『アルゼンチンのラファエル・ナダル』とまで呼ばれるようになってしまった。

(英雄の代替品なんて、冗談じゃない)
 初めこそ、そのあだ名は恥ずかしさを感じる一方で誇らしくもあった。幼少期のルヴェンも、ナダルに憧れを抱いていたし、今でも尊敬している。かの英雄たるラファエル・ナダルの後を継ぐ可能性を秘めた選手として扱われて、嫌な気分になる者はまずいないだろう。ルヴェンはスペイン人ではない為、正式な後継者とは呼ばれず、枕詞にアルゼンチンの、がつく。呼ばれ始めた頃、それぐらいならまぁいいかと思っていたが、それが間違いだった。

 スポーツは、テニスは、常に進化し続ける。アスリートは文字通り人生を懸け、その時々の最頂点を競い合う。もっと速く、もっと高く、もっと強く。人類が到達し得る遥かな高みを目指し、連綿と続く研究と研鑽を継承し、それらを磨き重ね続け、トップアスリートは最前線に立つ。肉体が、技術が、道具が、戦術が、練習方法が。ありとあらゆる要素が最新のものへとアップデートされ、後退を許すことなく前へ前へと突き進む。

 それ故、偉大なるBIG4の一角、ラファエル・ナダルを生んだスペインテニスも、彼が現役を退いた後、さらに進化を続けた。そうなれば当然、後進の選手たちが彼を継ぐというよりも、彼を超える存在を目指すようになるのは必定だ。己こそが時代の最頂点に立つのだと、上を目指す者たちならばそう考えるのが当然で、過去の偉人は目標から徐々に通過すべき指標へと格下げされていく。

 しかし、愛好家ファンたちは違う。

 彼らにとって、トップアスリートは憧れであり、羨望の的で、時には崇拝の対象にさえなる。それがひとつの時代を築いた英雄ともなれば、ファンはアスリートを神格化し、永遠の存在に祭り上げようとしてしまう。自分たちでは到達出来なかった場所、成し得なかったこと、想像すらできなかった領域を切り拓くトップアスリートという存在に対し、憧憬の念を抱くことはごく自然なことだ。だが時に、彼らのその願いや希望が、それらを向けられるアスリートにとって、呪いとなってしまうことがある。

(オレには無理だ。ナダルになるなんて)
 過去の英雄を希求するファンの期待は、ルヴェンに重く圧し掛かった。応援してくれるファンの期待に応えようという態度を今さら変えることもできず、実績を上げるにつれてその呪いはますます強くなっていく。そしてタチの悪いことに、世界ランキングが50位に差し掛かった辺りで、ルヴェンは自分の選手としての限界を感じ始めていた。

「いけるぞ、ルヴェン。お前なら絶対に頂点に立てる」
赤土の王者レッド・クレーキング二世には、お前がなるんだ!」

 周囲の期待はもちろん、力にもなった。急き立てられるように戦い続けたことで、ルヴェン自身でも思わぬ力を発揮できた場面は数知れない。だがそれも、そろそろ限界が近い。思い込みと勢いだけで勝ち上がれるほど、トップ50の壁は低くない。そこから先へ進めるのは、文字通り人外の領域だ。

(けど、オレが簡単に諦めるわけにはいかない。家族のためにも)
 ルヴェンはアルゼンチンの貧民街育ちで、9人兄妹の次男として産まれた。父親はボクシングの元世界チャンピオンだったが、素行の悪さから大きな借金を抱え、現役時代に稼いだ賞金は欠片も残っていなかった。過去の栄光が忘れられない父親は、長男を一流のボクサーに仕立てようと我流の育成を施したが上手くいかず、続いて目をつけられたのがルヴェンだった。住んでいる場所の近くで開催されたテニスのトーナメントで、その賞金額の高さを知った父親はルヴェンにテニス選手となるよう強要し、幼かったルヴェンにそこから逃れる術はなかった。幸運だったのは、ルヴェンには確かに大きな才能があり、それを見抜いてくれる指導者とすぐに出会えたこと。そして折からのスポーツバブルの影響が、南米の貧民街にまで届きつつあったことだった。今や、ルヴェンの活躍には、家族全員の生活が懸かっているといっても過言ではない。


「よし、良いだろう。今日はこれぐらいにして、明日に備えよう」
 ツアー帯同のコーチがそういって、練習を切り上げた。ルヴェンはトレーナーと共にクールダウンとストレッチを行い、シャワーを浴びてチームメンバーと夕食に向かう。道すがら、数名のスポーツの記者グループが第1シードのルヴェンにインタビューをしようと寄ってくる。断ろうとするマネージャーを制し、ルヴェンは少しだけだよと断ってから質問に応じた。

「明日は日本の若手、若槻選手ですね。自信のほどは?」
 トーナメント表が出てから、対戦の可能性がある選手についてある程度はマネージャーから特徴を聞いている。しかし、明日戦う予定の日本人選手は、恐らくすぐ敗退するだろうという予想をしていたらしく、ほぼ情報が無い。一回戦も二回戦もフルセットの辛勝だったそうなので、粘り強さはあるのだろう。だが年齢はまだ16歳。その若さでATP250の本戦に出てきたことは賞賛に値するが、恐れるほどのことはない、というのがマネージャーやコーチの見解だった。ただルヴェン自身は、そういう相手だからこそ、別の不安が彼の心に影を落とすのを感じていた。いや、それは不安というより、暗い誘惑と表現した方が正しいかもしれない。

(もし、オレが彼に負けたら、オレに集まる期待は軽くなるだろうか)
 およそ最前線で戦うアスリートらしくない思考が、ルヴェンの中で形になる。少し前から、ルヴェンのなかで薄い煙みたいな何かが燻っていた。順当に試合で結果を残す度に、その色は濃くなってゆき、気付けば雲のようにもくもくと膨れて、遂には形を成していた。

(傲慢で贅沢な悩みだっていうのは、分かってる。けど)
 ファンや周囲が彼に寄せる期待は、確かに力になっていた。しかし、前に行けば行くほど、進めば進むほど、どんどん終わりに近づいているような、そんな気がしてならなかった。自分の実力では、恐らく頂点には立てない。ルヴェンがそう思うようになったのは、ある一人の少年との出会いが原因だった。

 少年名は、フェアラル・パレラ。

 ナダルと同じ、スペインに住む14歳の少年。スペインのツアーに参加していたある時、ルヴェンはこのパレラを是非ヒッティング・パートナーにと推薦され、一緒に練習した。数度ボールを打ち合ってみて、すぐに分かった。彼こそが、正真正銘のナダルの後継者である、と。成長途中でまだ身体が出来上がっていないパレラだが、彼の打つボールの全てに、ルヴェンは尋常ならざる才能を感じずにはいられなかった。左利きだとか、プレイスタイルが似てるとか、レッド・クレーが得意だとか、そういう次元ではない。ナダルの力を礎に、ナダルを凌駕し得る可能性を秘めたパレラの存在は、ただ練習をしただけのルヴェンに、己の限界を突きつけた。

――応援しています。僕も貴方のようになってみせる

 あどけなさの残る顔つきのパレラが、尊敬の念を瞳に移して言う。しかしルヴェンの目には、彼がまるで、自分がドラゴンやリヴァイアサンであることを自覚せず、さも人間であるかのように振る舞う途轍もなく恐ろしい存在に見えた。人外の才能を持つ圧倒的存在から、応援してます、などと言われても、まったく素直に喜べなかった。

「初対戦だからね。なんとも言えない。でもベストは尽くすよ」
 パレラの存在を知ってから、ルヴェンはますます自分の置かれている状況に焦りを感じるようになった。自分の力を信じ、応援してくれる人たちからの期待。ボーダーラインであるトップ50突破を前に、ますます強くなっていくライバルたちからのプレッシャー。日に日に痛感しつつある自分の才能の限界。そして、自分を応援するなどと無邪気に口にする未来の化け物の存在。まだ何も成し遂げていないくせに、そういう精神的ストレスだけは一丁前に感じる自分への自己嫌悪。インタビューに対する回答とは裏腹に、ルヴェンは今すぐ全てを投げ出して逃げてしまいたかった。

「じゃ、ゆっくり休めよルヴェン。ここで勝って、全仏に弾みをつけよう」
「あぁそうだな。お休み。また明日」

 ホテルへ戻り、就寝前のルーティーンを済ませてベッドへ入る。自分の感じている不安とは裏腹に、今のところ順調にスケジュールをこなせているのが不気味で仕方がない。眠気はまったく訪れず、どうすれば自分は安心を覚えられるのか、そればかり考えてしまう。

(何が、アルゼンチンのラファエル・ナダルだ。自惚れるなよ)
 きっと本物のナダルなら、自分のような不安を覚えたりはしないだろう。常に自信に満ち、アグレッシブに困難へ挑み、例え恐れを覚えようとも、勇気を振り絞って立ち向かい、不可能を可能に変えてしまうことだろう。本物の英雄というものは、そういう存在に違いないのだ。

 薄暗がりのなか、ルヴェンは右腕の内側に彫ったタトゥーを見る。

「私を倒すことができるのは、私だけだ」

 赤土の王者レッド・クレーキングの金言を、祈りのように呟いて目を閉じる。
 朝など来なければ良いのにと、夜に未練を残しながら。

           ★

 ルヴェンの思い空しく、世の理の必然として、朝は訪れた。どれほど思い悩んでいようとも、身体はプロのアスリートとして機能し、気付けば毎朝のルーティーンを済ませ、しっかり準備を整えて部屋を出ていた。

「おはようルヴェン、よく眠れたか?」
「おはようコーチ、あぁ、バッチリだよ」
「今日勝ったらベスト4だ。準決勝の相手も日本人なのは、神の思し召しかもな」
「どうしてそう思う?」
「アルゼンチンのラファエル・ナダルが、日本人なんぞに負けるものかよ」
「差別発言じゃないか、それ」
「勝負の世界に差別もへったくれもあるか。自分が勝つと信じろ」

 コーチなりに発破をかけてくれているのだ、ということは分かる。指摘はしてこないが、ここ最近のルヴェンを見て、何かしら感じ入るものがあるのだろう。それがまだ顕在化していないから、とにかくモチベーションを上げさせて不安を払拭させようと、恐らくはそういう意図だとルヴェンは察する。気持ちはありがたいが、今のルヴェンにとってはあまり好ましくないやり方に思えた。

 午前は最終調整に軽い練習をし、入念なウォーミングアップを済ませ、会場へ向かう。

「若槻です。今日はよろしくお願いします」
 対戦相手は、精悍な顔つきにどこか覚悟を決めた表情を浮かべて、そう言った。アジア人は年齢よりも若く見えるというが、例に漏れず若槻もかなり若く見える。むしろ、幼いとすら思えてしまう。しかしそう見えるのは外見だけで、ルヴェンには、若槻がそれなりに場数を踏んだ選手のオーラをまとっているように思えた。もしかするとこの選手なら、と、ルヴェンの胸に密かな期待が宿る。

 ルヴェンのサービスから試合が始まる。天気は良いが、少し風がある。ルヴェンの立ち位置は風上。トスアップに影響はなさそうだが、場合によっては相手のボールが押し戻されて、アウトのボールがうっかり入る、なんてことが起きそうな風速だ。

(まずはお手並み拝見、同時に風の具合も確かめよう)
 そんなことを考えながら、ルヴェンがサーブを放つ。
 フラットにスライス回転を僅かにかけたサーブは、追い風を受け鋭く走る。

「15-0」
 ファーストポイントをサービスエースで奪うルヴェン。続く第2ポイントも、ルヴェンのサーブがセンターのTマークへピンポイントで突き刺さり、辛うじて反応した若槻のリターンを難なく打ち込んで連続ポイント。第3ポイント目でラリー戦になったが、どうやら相手はルヴェンの打つクセのあるヘヴィスピンにタイミングが合っていないのか、ラケットにボールを引っかけてミス。ゲームポイントも危なげなく奪い、ラブゲームで最初のサービスゲームをキープした。

「いいぞ、ルヴェン!」
「ナダルばりのヘヴィスピンだ!」
 ポイントの合間に、ファンの声援が飛ぶ。
 ルヴェンは反応せず、声援を聞き流して淡々とコートチェンジする。

 第2ゲーム。相手の若槻もルヴェンと同じように、風上の優位性を活かす配球でサービスゲームを展開してきた。とはいえ、若槻は身長はあるがまだ体の線は細く、サーブに圧力が足らない。ここがハードコートなら今のクオリティでも通用するだろうが、生憎とここは球足の遅いレッド・クレー。勝ち上がってはこれたものの、苦戦を強いられたのは恐らくこのサーブに欠点があるためだろうとルヴェンは分析する。

(となれば、やることは一つ)
 ルヴェンは若槻のサーブを、ファーストから攻め込んだ。得意のヘヴィスピンを充分にかけたうえ、今度は風下である優位性を活かしてアウトを恐れずリターンからフルスイング。本人としては悪くないサーブを打っているつもりであろう若槻は、初っ端から攻勢を見せるルヴェンに面食らったらしい。あっさりサーブのアドバンテージを手放し、ラリー戦で対応する構えを見せた。そうなると、風上よりも風下であるルヴェンは、易々と自分が得意とするプレーに移行できる。

 赤土の王道ラファ・スタイル

 強烈なスピン回転の掛かったボールは、柔らかいクレーのコートを蹴って高く跳ね上がる。ベースラインから3m近く内側でバウンドするにも関わらず、バウンドに高さがあるせいで若槻はコートの中へ入って打ち込めない。それどころか、ルヴェンは向かい風を利用し、いつもよりリスクを負って深くボールを打ち込んでいく。そのため、常に高く跳ね上がるボールは、ジリジリと若槻を後方へと押しやり、彼の守るべきスペースが広がってしまう。

「Game,Puerta.2-0」

 歓声が会場を包む。最序盤とはいえ、のっけからブレイクされた若槻が苦々しい表情を見せている。ルヴェンは最初のリードを手にしたことに、まずまずの手応えを感じると同時に、ふと、自分が小さな失意を覚えていることに気付く。

(油断するな。まだ始まったばかりだ)
 タオルで汗を拭うと、ボールパーソンに渡してポジションにつく。

(ナダルなら、試合の最中に、相手に失望なんかしない)

 そう自分にそう言い聞かせ、ルヴェンは集中の手綱を握り直した。

           ★

 変化は、第2セットを迎えて最初のゲームが終わった頃に訪れた。

 第1セットは、ルヴェンが6-2で奪った。ルヴェンの得意とする攻守一体のプレイスタイルに対し、若槻がどうにか突破口を開こうとリスクを負うが、球足の遅いクレーコートでは有効打が続かず、単発でポイントは奪えてもゲーム獲得に繋がらない、そんな流れだった。

「いいぞルヴェン! ラファ・スタイルの真骨頂だ!」
「このまま一気に仕留めるんだ!」

 ルヴェンのプレーを見て、観客は大いに盛り上がっている。ある意味では期待に応えられていると感じるが、そういう声を聞けば聞くほど、ルヴェンは空しい気分になっていく。

(確かに、オレのスタイルはクレーでそこそこの戦績を出せる。相手次第ならハードコートでも通用するさ。しかし、この先、トップ50にいる連中を相手にするには、これじゃダメなんだ)
 ランキング上位勢と戦うには、今のままでは勝てない。そうコーチに相談し、あれこれ戦略や攻撃パターンを取り入れてみても、今一つ結果に繋がっていない。自分のスタイルが通用する相手にだけ勝ち、通用しない相手には勝ち星をあげられない、そんな状況が続いている。

(だからつまり、ここがオレの限界なんだろう)
 優勢で試合を進めているにも関わらず、どうしてもルヴェンはいい気分になれない。トーナメント表の反対側にいる第2シードの選手が、ルヴェンがこの大会で超えなければならない最も厄介な相手だ。その選手相手に、ルヴェンは一度も勝てていない。ルヴェンが第1シードなのは、単に前年度の戦績と現状のポイントがたまたま上だったというだけ。このまま順調に勝ち進んでも、どうせ結果は見えている。まるで、結末を知っている映画を何度も見せられているような、そんな気分でルヴェンはこの大会に参加していた。

「30-40」
 ルヴェンがブレイクポイントを握る。まだ第2セット序盤だが、第1セットと同じように、ここをブレイクしてしまえばほぼ勝ちは確定する。相手の若槻は悪い選手ではなかったが、ルヴェンが密かに期待していたような事は何も起こらず、恐らくこのまま終わるだろう。

 そう思っていた。

「ッォオアァ!」
 若槻の渾身のサーブが突き刺さる。ここが勝負所であることを感じているのだろう、いつの間にか瞳に力強い光が宿っているように思える。ルヴェンとしても、勝利を確実なものにするため、より集中力を高める。互いの気迫がぶつかるように、この試合最も長いラリー戦が展開されていく。

(死力を尽くしてきたか。いいプレッシャーだ)
 ルヴェンのヘヴィスピンに対し、若槻はミスを恐れずライジングでボールを捉える。安全に返球しようと下がってしまえばルヴェンの思うつぼ。勇気をもってボールを前で叩き、簡単にイニシアチブを握らせてはならない。しかし、ここはレッド・クレー。選手が望む望まないに関わらず、ふとした瞬間に不測の事態イレギュラーバウンドが起こり、ミスに繋がることもある。

「!」
 若槻がボールを打とうとした瞬間、ボールが予測とまるで違う跳ね方をした。ラケットを振り始めていた若槻が咄嗟にスイング軌道を変え、不格好な形での返球となる。クリーンヒットしていないボールは力なくルヴェン側のコートへ落ち、チャンスと見たルヴェンが一気呵成に攻め立てた。

(これで、終わりだ)
 若槻から最も離れた方向へ向け、ルヴェンがボールを打つ。ここで完全に決め切れていれば、結末は変わっていたかもしれない。ルヴェンは試合後の記者会見で、このポイントについてそう振り返った。

(追いつく!?)
 打った直後、若槻が全力でボールに向けて走るのが目に入る。決まると思い、角度が甘くなったか、それとも叩き過ぎてボールが高く跳ね過ぎたか。それともフェイントを怠ったがゆえにコースを読まれたか。いずれにせよ、猛然と走る若槻はボールに追いつき、コートの大外から、2バウンドするギリギリの低い位置でボールを持ち上げ、ルヴェンには届かない角度での返球に成功した。

 日本の若い選手が魅せたファインプレーに、会場が沸く。さすがのルヴェンも、今のプレーには素直に賞賛を送った。ただ内心では、まだ自分の優位が続いていると落ち着き払っている。ルヴェンが試合の流れの変化、というよりも、相手の変化を感じたのはこのポイント以降だった。

(なんだ、どうしたんだ?)
 ファインプレー以降、若槻のプレーは別人のように変わった。これまでルヴェンのヘヴィスピンに手を焼いていたのに、先ほどのポイント以降、全く苦慮することなく攻撃的な返球を続けてくる。それどころか、ルヴェンのどんな攻撃にも食らい付き、例え追いつけないと分かり切っているボールであろうと必死に追いかけ、ときにそれが功を奏してポイントを重ね、遂にはゲームを奪うまでになった。

(対応された? いや、これは……)
 ショットの質を鑑みるに、若槻はルヴェンのショットに慣れはしたものの、完全には対応し切れていないように見える。しかし、それでもなお、悪足掻きのようにラケットへボールを引っかけながら、どうにかしてボールをコートへねじ込んでくる。人が変わったような若槻をルヴェンが観察すると、若槻の身体から、まるで赤土よりも紅い、燃え盛る闘志が立ち昇っているように見えた。そこに、ルヴェンは微かな既視感を覚える。

(あれは、まるで)

 テニス大国スペインには、ラファエル・ナダルの他にもう一人、彼に匹敵するファイティングスピリッツを持つ選手がいた。BIG4全盛の時代、小柄ながらその素晴らしいフットワークと、何よりも卓越したスタミナを武器に闘い続けた男。BIG4が規格外で人外の選手だとするならば、彼こそが人類最強だと、尊敬と揶揄がない交ぜとなった呼び方をされながら愛された。その選手の名は。

 Davidダビド Ferrerフェレール Ernエルン

 人外に挑むは、人の誉れ。
 諦めを踏破して、ひたすらに挑み続ける。

                            続く
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