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第124話 震える拳

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 スポーツ記者の百年ももとせ、五十嵐との取材を兼ねた祝勝会を終え、聖はホテルに向けて夜道を歩いていた。

(遠回りになるけど、公園を突っ切るのはやめておこう)
 比較的治安の良いアゼルバイジャンのバクーだが、夜ともなればさすがに安心はできない。余計なトラブルを避けるため、聖は近道をせず大きな公園の外周を迂回する。三月のバクーの平均気温は、おおむね日本と同じぐらいで、この日は比較的過ごしやすい夜だった。街角にあるバルのオープン席は、赤ら顔の酔客で賑わっている。試合とトレーニングでまだ筋肉の火照りが抜けきらない聖は、身体を冷ましがてら、異国の町の喧騒を眺めるように、ゆっくりホテルへ向かった。

「おっと、これはこれは、日本期待のルーキーじゃねぇか」
 しばらく歩いていると、通りすがりに二人組の男が声をかけてきた。片方は髪を短く刈り上げている身体の大きな男、もう一人はスキンヘッドで、やや小太りの男だ。二人とも親し気な笑みを浮かべ、小太りの男の方はテニスボールの描かれたシャツを身につけている。

「あの、えーっと」
 相手の顔に見覚えがなく、聖はどう答えたら良いかわからない。
「なんだよオイ、わかんねぇのか? ツレないねぇ」
「オマエ程度じゃわからなくて当然だろ~、無名なんだしよ」
 突然話しかけてきたと思ったら、男たちは聖をおいてきぼりにして、二人でヘラヘラ笑い合う。どうしたら良いかわからず、聖が曖昧に愛想笑いを浮かべていると、思い出したように刈り上げの男が聖に言葉を向けた。

「っと、悪いな。オレはチェティだ。明日のオマエの対戦相手」
「えっ? チェティさん、でしたか。すみません、なんだか印象が違い過ぎて」
 名前を言われ、ようやく聖は相手が誰か理解できた。エジプト出身のジョシュア・チェティ。聖が翌日試合をする対戦相手、本人だ。チェティのことは既にプロフィールで顔と名前を把握していたつもりだったが、印象が違うせいで全くわからなかった。聖の記憶では、髪はもっと長く、たっぷり髭を生やした、年齢不詳の人物だったからだ。

「ホラな、やっぱり髭がある方が印象に残りやすいんだって」
「だとしても、鬱陶しくてしょうがねぇんだよ」
 またぞろ二人でじゃれ合いだし、聖は蚊帳の外の気分を味わう。
 どうやら両名とも酒を飲んでいるようだった。

<試合前日に飲酒たァ、余裕こきやがるじゃねェか>
 アドの言葉に、聖は胸中で頷く。

「っと、いやぁ悪い。今日はどうにもハッピーでよぉ。なんせ、オマエのお陰でひと儲けできたんだ。そうだ、イヴァニコフの野郎を倒してくれた礼をしなきゃだなぁ」
「あぁそれがいい、みんなコイツが賭けを外すと思ってたんだからな。聞いてくれよ、コイツ賭け事はいっつも穴狙いばっかなのさ。そりゃあ、一発当てればデカいけどな」
「男が穴狙わないでどうすんだよ。おめぇは棒でも狙うってか」
 下品なジョークでゲラゲラ笑う二人。さすがの聖でも意味は分かるが、どうにも笑えない。油断するとひそめそうになる眉を必死に堪え、どうやってこの場を立ち去ろうかと、聖は頭の中で理由を探し始める。すると、それより先に、チェティがサイフから紙幣を何枚か取り出した。

「ホラ、取っとけよ。オマエに稼がせてもらったんだから」
「え、は?」
 数枚の紙幣を聖に差し出すチェティ。
 聖の戸惑いが混乱に変わる。

「遠慮すんなって」
 チェティは聖の上着にある胸ポケットに、無理やり紙幣を押し込む。
 だが聖はすぐそれを取り出し、チェティに押し返す。

「いやいや、受け取れませんよ。何いってるんですか」
「なんだ? マジで要らねぇの? 謙虚だねェ、日本人は」
 申し出を断られたことに、ショックを受けた様子のチェティ。要らないならしょうがない、と言いつつ、なぜだか妙にゆっくりした動作で聖から紙幣を受け取る。それをサイフに仕舞ったあと、聖にはチェティの口元が僅かながら歪んだように見えた。

「さて、まだ夜はこれからだが、明日は試合だからな。そろそろお開きとすっか」
「じゃあな、ワカツキ。明日はお手柔らかに頼むぜぇ」
 スキンヘッドの男が仕切り、二人は終始ヘラヘラした態度のまま立ち去った。
 突然の出来事に、聖の理解は全く追いつかない。

「なんだったんだ……?」
 紙幣をねじ込まれた胸ポケットのあたりを、無意識にさする。
 なんだか、酷く汚されたような、そんな気がしてならなかった。

           ★

「Game set and Match. Wakatsuki. 6-4,7-5」

 翌日、聖は挑戦者決定戦チャレンジラウンド決勝を勝利し、遂にアゼルバイジャン・オールカマーズファイナルへと駒を進めた。相手だったエジプトの選手ジョシュア・チェティは、昨晩と打って変わって親し気な態度は見せず、それどころか聖とまったくコミュニケーションを取ろうとしなかった。試合後、チェティは露骨に聖を憎々し気に睨みつけ、何も言わず黙ったままコートを去っていった。

(なんだったんだろう、あの人)
 夜に街中でとつぜん話しかけてきて、親し気な態度で接してきたと思ったら、一方的に金を渡そうとしたり、かと思えば、試合では憮然とした振舞い。挙句に最後は睨みつけてくる。聖には、チェティという選手の行動がさっぱり理解できなかった。

 試合後、聖はトレーニングを済ませたあと、百年ももとせたちに連絡をとった。すると、彼女らは別の場所での取材が長引くらしく、今夜の取材は一旦無しということになった。ホテル内に併設されているレストランで食事を済ませることもできたが、分不相応なぐらい値段が張るため、聖は街中の店でのんびりしながら夕食をとることにした。

<二大会連続で決勝進出か。まァ上出来じゃねェの?>
 食事を済ませ、チャイを飲んでひと心地つける聖。
 アドのいう通り、今のところ当初立てた計画通りに進行できている。

(そうだね。とはいえ、能力リザスありきだけど)
<はン。オマエのクソ謙虚さ、筋金入りだなァ>
(仕方ないだろ。そういう性分なんだから)
<だろうな。死ンでも治らなさそうだ。安心したよ>
 聖はふと、イヴァニコフとの試合中、アドと話していたことを思い出した。あのとき、アドは重要なことを伏せたまま、聖に何かを伝えようとしている気がしてならなかった。今さらながらこれまでのことを思い返してみると、どうもこの同居人は、遠回しな言い方や意味深な言い回しをすることがある。いつもは思ったことをズバズバ言うクセに、時折そうやって、何やら思わせぶりな発言をするのだ。

(あのさ、アド。そういえばこの前)
 その事について尋ねようとしたが、それは突然の闖入者によって遮られた。

「お食事中にすみません、日本のワカツキ選手ですよねぇ?」
 恰幅の良い白人の中年男性が、聖のテーブルに近寄り尋ねてくる。ワイシャツにこげ茶のスラックス、少し禿げ上がった頭。人の好さそうな柔和な笑みを浮かべているその男は、ドイツにあるスポーツメディアの記者だと名乗った。男は取材費として食事代を出すから、インタビューさせてくれと申し出てきた。ホテルに戻るには早い時間だったので、少しなら、と、聖はこれを受けた。

「いやぁ、突然なのに快く受けて下さって、本当にありがとう!」
 取材を終え、二人は店を出る。男はインタビューの間、聖の回答にいちいちオーバーリアクションするものだから、大した質問はしてこないのに時間だけがえらくかかった。とはいえ、オーバーではあっても、ずっと褒めそやされていて悪い気はしない。有望そうな若手選手からの覚えを良くし、成長したあと優先的に取材を受けてもらいやすくする、ある種の青田買いのようなものだろうかと、聖は解釈していた。

「長々とすみません、もし良ければ、美味いチャイを出すオススメの店があるんです。ご存じですか? アゼルバイジャンはチャイが有名なんです。シルクロードの時代から、この国には周辺の国々から良い茶葉が集まっていてね。その店は、バクー市内でも特に良い店でして」
 既に陽は落ちているし、明日はいよいよファイナルだ。しかし、さほど遅い時間というわけでもない。少し考えてから、お茶くらいならまぁいいかと思い、聖はもう少し付き合うことにした。聖としても、メディア関係者の味方が多ければ、いざという時になにか助けになるかもしれない、そう考えたのだ。

「近道しましょう、公園を突っ切ればすぐです」
 そう案内され、二人は大きな公園に入っていく。街中にある公園は、周囲を囲うように植樹され、外界から切り離されるようになっている。中は広々としていて、綺麗に舗装された道が大きく広がっている。中央には噴水広場があり、ちらほらとカップルの姿があった。

「と、すみません、少しトイレに。ここでお待ちください」
 記者はひと言いって、広場の隅にある公衆トイレへと向かう。記者を待つ間、聖は噴水広場横に設置されていたベンチに腰かけた。手持ち無沙汰だったので、メッセージでも確認しようと、ポケットから携帯端末を出そうとした、その時だった。

「ニイちゃん、ちょいといいか」
 突然、背後から見知らぬ男に話しかけられた。
 フードを被った髭面の男が、胡乱な視線を聖に向けている。

「これ見てくれよ」
 驚いた様子の聖を無視し、男は携帯端末の画面を聖に見せた。
 画面に映っているのは、誰かに紙幣を返そうとしている自分の姿。
 いや、見ようによっては、聖が誰かに紙幣を渡そうとしている・・・・・・・・ように見える。
 昨日からの意味不明な出来事が、聖の頭の中で一本に繋がった。

「単刀直入に言うぜ。こっちの要件は一つだけ。ニイちゃんアンタ、明日テニスの試合に出るんだよな? その試合でさぁ、ちょっと負けてくんね? そうじゃないと、困る人が大勢いるからさぁ」
 男の発言に、聖の胃の腑が急激に沸騰する。同時に、理性が冷静さを促すよう命令を下す。落ち着け。ここで変に逆らうのはまずい。フードの男は片手で端末を差し出しつつ、もう片方はポケットに突っ込んだままだ。服のふくらみは、何やら不自然に盛り上がり、聖の方に向いている気がした。

「勿論、ニイちゃんには選ぶ権利がある。まず、イエスと答えて、約束を守る。これならみんなハッピーだ。次に、イエスと答えて約束を守らない。これはあんまりお勧めしない。試合の勝敗に関係なく、ニイちゃんは確実に損をする。最後にノーと答える。これは絶対やめておいた方が良い。今すぐ損をする・・・・・・・上に、怒らせちゃまずい連中を怒らせることになる」
 聖の敵愾心を感じ取ったのか、男の表情から感情が抜け落ちる。聖は沈黙を守りながら、必死に頭を巡らせる。何か質問して長引かせれば、記者が戻ってくるはずだ。そのことに一縷の望みを託し、聖が口を開こうとすると、考えを見透かしたように男が言う。

「あの記者は戻ってこないよ」
 やられた。最初から狙われていたのだ。咽喉が干上がって、口が乾く。
 この場を切り抜ける為、まずは従うフリをすべきかと判断しかける、その直前。

「ノーだ。決まってるだろうが」
 フードの男の背後から、のそっと巨漢の五十嵐が現れた。振り向く間もなく、五十嵐は男の両腕ごと身体を抱え込む。フードの男が「ひょ」と変な声を上げたと思ったら、まるで背面宙返りをするかのように、綺麗な弧を描いてそのまま後方へと抱え投げられた。

 背後投げバック・ドロップ

 フードの男と入れ替わるようにして、五十嵐が立ち上がる。聖があっけに取られていると、五十嵐は周囲に視線を走らせ、ある一点を睨みつけた。

「モモ、そいつだ!」
 五十嵐が鋭く叫ぶ。
 視線の先には、聖に声をかけてきた記者の男が走り去ろうとする姿。
 そして男の向かう先で、立ち塞がるように腰を落として構える百年ももとせ

「どけ!」
 百年を突き飛ばそうと、男は全速力で向かっていく。
 しかし百年は怯むことなく、滑らかな体捌きで男の腕と胸倉を掴む。

「せいやーっ!」
 男の身体が宙を舞う。
 それはさながら、投げ込まれる釣り竿のよう。

 一本背負い

 女性とは思えぬ膂力で、百年は軽々と男を投げ飛ばす。
 どすん、という鈍い音と共に、男は背中から地面に叩きつけられた。

「若槻選手、大丈夫ですかっ!?」
 流れるような動作で男の腕を極めたまま、百年が叫ぶ。男の方は足元で泡を吹いている。
 それを見て、投げ飛ばした男の方こそ無事なのか、と、聖はズレたことを思う。

「銃は持ってなかった。それを知ってりゃ、もう少し加減したんだが」
 失神しているフードの男を片手で引きずり、五十嵐がいう。その様子はさながらゴリラが捕らえた獲物を持ち帰ろうとするかのようだ。<ゴリラは狩りなんかしねェよ>などとアドが突っ込んでいたが、そういうことではない。百年は百年で、投げ飛ばした相手の衣服を素早くまさぐり、武器を隠していないかチェックしている。ややあって、二人の不審者は服の袖同士を縛って拘束され、そのまま警察に引き渡されることとなった。

           ★

「ありがとうございました。本当に助かりました」
「災難でしたねぇ、決勝戦前日に」
 バクー市内の警察署で取り調べを受けたあと、三人は聖が宿泊するホテルのラウンジで腰を落ち着けていた。タイミングよく二人が現れたのは、聖が公園に入るところを百年が見つけ、後を付けたからだという。幸運だとは思ったが、なぜもっと前に声をかけなかったのか尋ねると、百年は「女の勘」と答えた。

「なんか、ヤバそうな感じがしたんですよね」
「オレは声をかけるべきだと言ったんだがなぁ」
「いーえ、あのまま話しかけてたら、連中は若槻選手を脅迫できず、報復として一方的に写真をバラまかれたかも知れないんですよ。泳がせたお陰で、現行犯逮捕できたんです。ネタも拾えて一石二鳥じゃないですか」
 ふんす、と鼻息を荒くしてドヤる百年。確かにそれも一理あるかなと思うが、聖としては複雑なところだ。一つ間違えば、非常に危険な場面だっただろう。五十嵐の方もそういう考えらしかったが、結果的に上手くいったということで、その件は置いておかれることになった。

「それにしても、随分と手が込んでますね。お話を聞く限り、連中はもう、昨日から仕込みを始めていたってことになります。今日対戦したチェティ選手が黒幕なんでしょうか?」
 思案顔の百年が眉間にしわを寄せる。警察の事情聴取によれば、二人は容疑を否認し、黙秘を決め込んでいるという。ただ、フードの男が聖を脅迫していたとき、すぐ傍で五十嵐がレコーダーを回して会話を録音してくれていた。お陰で、脅迫は明らかであり、かつ彼らが共謀していた証拠も取れている。聖は自分の事情を警察に説明し、事後の処理はエージェントの幾島に任せることでひとまず解放された。犯人たちを撃退した二人についても、特にお咎めはなかった。

「だとすると、よく分からんな。自分が勝つ為に裏工作するなら、昨日の時点で聖くんに対してなにか仕掛けないと意味がない。負けたあとに脅迫して何になるんだ? やってることが行き当たりばったり、って印象なんだよな」
 五十嵐が至極もっともな考えを口にする。

「明日、僕が勝つと困る人が大勢いる。そう言ってました」
 聖はフードの男の言葉を思い出す。

「自分が負けたあとに、試合した選手を脅迫するメリットなんてあるかなぁ?」
「単独で考えると難しいが、複数ならあるぞ」
 百年の疑問に、五十嵐は難しい顔をしながら答えた。

「ちなみに、明日の対戦相手は誰だ?」
 熊のように太い腕を組みながら、五十嵐が尋ねる。

「ザカリア・カリル選手です。ウズベキスタンの」
 聖が携帯端末に選手プロフィールを表示させる。前大会覇者のカリルは、陽気そうな表情の、割と日本人っぽい顔つきの男だ。カリルについては、当然ながら大会に参加する時点で既に調べてある。現在では世界ランキング150位だが、キャリアハイでは47位。二十代後半で、年齢的にもまだまだ伸びてくるであろう選手だ。

「そのカリルってのと、チェティ。ひょっとすると他にも共謀してるやつがいると考えれば、自分が負けたあとであろうと、妨げになる選手を脅迫する意味が出てくるぞ。例えば、聖くんの昨日の対戦相手とチェティが、本当は八百長する予定だった。そのあと、ファイナルでも同じように八百長を計画していた。しかし、聖くんが勝ったことで予定が崩れてしまった。チェティが勝ち進めば良いが、そうじゃない場合に備えたい。だから昨日の時点で保険として脅迫用のネタを仕込んだ。そして今日チェティは負け、準備していた保険を使った、と」

 五十嵐がことのあらましを要約する。現状出ている情報を繋いでいくと、あたらずとも遠からず、といったところだろう。この仮説が正しい場合、明日対戦するカリルも黒ということになる。ドーピングの噂が立っているハサノヴァ、八百長を画策したうえに脅迫を主導していたかもしれないチェティ。それらを裏で操っている可能性のあるカリル。

「なんで、こんな真似をするんでしょう」
 聖はひどくウンザリする。マイアミでは、銃を突きつけられて誘拐された。その経験があるせいか、今回の脅迫自体はさほどショックを受けていない。それにも関わらず、あのときよりも遥かに暗澹とした気分だ。怒りと残念な気持ちがゴチャ混ぜになって、やるせなさが溢れてくる。そんな様子の聖を気遣うように、百年が口を開く。

「以前は、資金繰りに苦しむ選手の存在が不正の温床でした。でも、スポーツバブルのお陰で、そういうのは随分減ったんです。ですが、ほどなくして今度は、ラクをして稼ごうとする選手が増え始めました。そこに加えて、利権絡みや裏社会の組織がスポーツ市場に目を付け始めて、これまで以上にそういう動きが活発になってきているんです。ギャンブル絡みは特に。テニス不正監視団体ITUも動いてはいますが、金回りの良いこの状況を歓迎している勢力の方が大きくて。改善には、まだほど遠いでしょうね」

 人の欲には際限がない。どのスポーツも、一部のトップ選手以外はプロとして活動するのがやっと、という時代があった。しかしそれでも、超一流と呼ぶことはできないにせよ、一般から大きくかけ離れたプロ選手の存在は、人々の身近にあった。スポーツバブルによって、そうした層の待遇が改善されたことで、多くの問題が解決されたかに見えた。しかし、光が強くなった分、比例するように、闇も濃くなってしまった。

「スポーツに限った話じゃない。どこの業界も、似たような側面はある」
 五十嵐はポケットから煙草を出すが、禁煙エリアだと気づいて仕舞い直す。
 やや苦々しい表情を浮かべながら、言葉を続ける。

「勝負の世界である以上、敗者は常に存在する。そして行き詰った一部の敗者が悪事に手を染めるのも、まぁ当然の成り行きだ。それを根本からなくそうとしたところで、土台無理な話さ。関わってるのは、誰もかれもが不完全な人間なんだから」
「不正が起こるのは、仕方がないと?」
「まぁね。言うなれば身体の垢みたいなものだよ」
「……」
 あっさり言われて、聖は黙ってしまう。

「志を同じにしているはずの選手が、不正に手を染めていてショックなのは分かる。オレにも選手時代、目先の勝利に囚われて薬物に手を出した仲間がいた。ふざけんなと思ったね。学生の時分に遊びもせず、毎日血尿が出るまでひたすら努力して鍛錬に打ち込んでいたあの時間を、一瞬で無価値なものにしやがったんだから。でもな、ソイツの気持ちも分かるんだ。必死に積み上げてきたからこそ、いつまで経っても報われない状況に我慢ならなくなって、魔が差してしまう。許されることじゃないし、認めてやる気もサラサラないが、そこに至った心情まで批難する気にはなれない。全てのアスリートは、常にそういうプレッシャーと戦っているものだからな」
 煙草を吸えなくて落ち着かないのか、五十嵐は太い指をバキバキ鳴らす。

「けどまぁ、そういう個々の事情は置いといて。少なくとも聖くんみたいに不正に走らず、真っすぐ自分の目的に向かって進む選手がやるべきことは、ハッキリしている。それは、不正に手を染める選手のことを考えて、あれこれ悩むことじゃない」
 鋭い眼光で聖の目を見て、五十嵐はいう。

「そいつらに勝つことだ。有無を言わさず、情け容赦無く」
 静かな迫力に、聖は小さく息を飲む。

「八百長だろうが、ドーピングだろうが、裏工作をどれだけ仕掛けようが、君が勝ちさえすれば、そういう小細工は全部水の泡になる。もちろん、不正が出来ないように、ルールやシステムとして予防するための環境は整って然るべきだ。しかしそれは、選手の仕事じゃない。選手の役目は、表舞台で戦うこと。そして、システムを掻い潜り、狡猾に表舞台へ這い出てくる連中に、負けないことだ」
 断言する五十嵐に、百年が反論を挟む。

「いやいや! 簡単に言いますけど。連中は今日みたいに、選手がオフのところを狙ってきたりするんですよ? いくら試合で勝ったとしても、腹いせになにをしてくるか」
「だから、試合の外の話はまた別だ。ある程度の自衛はともかく、そっちは選手があれこれ対策を考えることじゃない。その種目を運営する母体が、あるいはスポーツを金に換えようとする連中がやるべき仕事さ。オレが言ってるのは、不正をする選手に対し、そうじゃない選手がどう向き合うべきか、ってことだ。連中に正論を説いたところで無駄だ。そんなことは百も承知なんだからな。ならば、やるべきことは一つだけ。分かるよな?」

 力強い視線を向けられ、聖は思わず目を逸らしそうになる。五十嵐の言うことは、もちろん理解できる。もし、聖が自分の実力だけで今の位置にいたとしたら、素直に頷くことができたかもしれない。しかし聖は、本当に自分がその役目を負うに相応しいかどうか、本当のところはわからない。今の聖があるのは、借り物の力があるお陰なのだから。

――力を持つ者は、それに相応しい振る舞いをしなきゃならないんだ

 才能という力を持つ春菜に、姉は言った。自身の望みとは無関係に、力は宿る先を選ばない。借り物の能力を使う自分は、どう振る舞うべきなのか。力を宿したその日から、ずっと答えはでないまま。しかしそれでも、前に進まなければならない。自らを奮い立たせるように、聖は拳を握りこむ。

「はい。僕が勝って、蹴散らします」

 テーブルの下で、拳は微かに、震えていた。

                                  続く
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