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第110話 アジアの回遊魚

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 携帯端末に表示された、春菜の名前。それを目にした瞬間、驚きと嬉しさ、僅かな戸惑いが聖のなかで同時に湧き上がる。しかしそれら全てに一切見向きもせず、聖は反射的に通話ボタンを押した。

「もしもし! ハル姉ぇ!?」
「やっほー、ひっさしぶり~」
 懐かしい春菜の声。電話越しだというのに、彼女の匂いが伝わる気がした。
 日本とフランスの時差は約8時間。向こうは今頃昼過ぎだろう。

「なんか懐かしいね~。二年ぐらい経った気がする」
 実際には半年ぶりといったところだが、それには聖も同感だ。
 春の夕暮れに、駅のホームで別れたあの時から、半年。
 あっという間のようで、やけに長く感じる半年だった。

「そうだね、ハル姉は元気? 変わりない?」
 月並みなセリフしか出てこない自分に、聖は少しばかり辟易とする。ただ、話したいことは色々あっても、何から話せば良いかはまるでまとまらない。結局、順序良く距離を詰めるようにしながらでないと、気持ちが前につんのめってしまいそうだった。

「もちろん! マイアミではご活躍だったじゃ~ん」
「え、知ってるんだ」
「当然でしょ~。ていうか、もうあの大会出場したなんて、凄いよ~」
「あぁ、ははは、そうかな」
 曖昧に笑って誤魔化す聖。決して自分も努力していないわけではないが、かといって胸を張れるかというとそうでもない。全てが自分の実力で成し得たことなら、もっと素直になれただろう。

「それにしても、どうしたの急に? なにかあった?」
「別に~? だってセイ、ちっとも連絡くれないから」
 てっきり、何か問題が起きたのかと思った聖だったが、そうでもなさそうだ。マイアミでの大会が終わり、落ち着いた頃合いを見計らって電話をしてきてくれたのかもしれない。

「いや、なんか、ちゃんと迎えにいけるまでは……その」
「真面目だなぁ。ま、そんな事だろうな~って思ってたけど」
 連絡手段はあったので、その気になればいつでも聖は春菜へ連絡を取ることができた。しかし、やはり「プロになって迎えに行く」と宣言した手前、自分から彼女へ連絡するのは少しルール違反な気がしたのだ。しかし、相手から掛かってきたのであれば話は別だ。ちょうど春菜の身を案じているタイミングだったこともあり、なんとなく、聖は自分と春菜が見えない何かで繋がっているような気がしてしまう。二人はしばらく、他愛のない近況報告で話に花を咲かせた。

「オールカマーズか。なるほどね、そっかぁ、そんなに早く私の側にきたいか~」
「いやっ、ほら、じゃないとハル姉ぇがグランドスラム獲っちゃうかもだし」
「おぉ~? 超期待してくれるじゃん。そんな簡単じゃないんだぞ~」
「まぁ、それは、そうかもしれないけど」

 話が聖の今後のスケジュールに及ぶ。春菜なら、オールカマーズについて何かよく知ってるかと思ったが、春菜は出場経験が無いらしい。単純にその必要が無かったのだ。聖が思っていた以上に、彼女はトントン拍子でプロの世界を駆け上がっている。

「でもまぁ、お金の問題はシビアだしね。ご両親が納得してくれたなら、良いんじゃない? ただ無理はして欲しくないかな。もちろん、私のせいで聖がアジアの回遊魚・・・・・・・みたいになるよりはマシだろうけど」
「アジアの、回遊魚?」
 耳慣れない言葉だ。慣用句のようなものだろうかと聖は思う。

「プロ選手は大きな大会に出る為に、ランキングを上げなきゃいけないでしょう? そのためには大会で勝ってポイントを手に入れる必要がある。でも大会に出るにはお金が要る。テニスの大会自体は世界中あちこちでやってるから、当然日本の選手は旅費が低くて済むアジア中心にツアーを周る。ヨーロッパに比べて僻地だから、強い選手も集まり難い。言うなればポイントの稼ぎ場なんだよね。だけど、下部から上部への壁は厚い。ポイントを稼ぐために適度な相手とばかり試合してると、いざ大会グレードを上げたときに勝ち抜けない。いつまで経っても、アジアのなかをグルグルと回り続ける選手のことを揶揄して、アジアの回遊魚って呼ぶの」
 説明を聞いて、聖は思い当たることがあった。幾島と空港のカフェで話した時、今まさに春菜が話したような事を口にしていた気がする。そうならない為に、オールカマーズへの参戦を軸にするべきだ、と。主戦場をどこにしようが勝てなければ意味が無い以上、負けを前提として計画を立てるのではなく、勝つことを前提とすべきだとも言われている。それがすなわち無理をすることだ、と言われれば、否定はできないのだが。

「そういう意味では、オールカマーズはハードルこそ高いけど、理には適ってるかもね。ただかといって、やっぱり無理はして欲しくないかなぁ。ちなみに、最初からオールカマーズ一本に絞るの?」
「ううん、まずは二月にある大会に出場するつもり。そこでどの程度できるのか見極めてからってことになったんだ。結果によってはオールカマーズじゃなくて、再来年のプロテスト路線に切り替えることも視野に入れてる。父さんがそうしようって」
 聖がオールカマーズへ参加することの条件として、父親が提示したものだ。
 幾島もそれが賢明ですねと言っていたが、やや声のトーンが下がったように思う。

「現実的だね。おっとゴメン、お昼休み終わっちゃう。そだ、徹磨さん知ってるよね? もう暫くしたら、徹磨さんがオールカマーズの前年度覇者として出場するよ。オーストラリアだったかな? ネット中継があるから、どんな大会なのか参考になるかも。といっても、規模としては一番大きいやつだけど。また連絡するね」
「うん、忙しいのにありがと。ぼ、オレもまた連絡する」
「寂しくなったらいつでもど~ぞ」

 通話を終えると、聖は大きく息を吐く。両親との交渉とはまた違った緊張感、というよりは、安堵感が身体を包んでいる気がした。すると、携帯端末がメッセージの受信を報せる。

<オカズの供給たァ、気の利くお姉様だな>

 ヘソ出しベアミドリフウェア姿でウインクしている春菜の自撮りセルフィーが、送られてきたのだった。

          ★

 面談を終えた篝烈花かがりれっかは、ソファにもたれかかるとそのまま大きく背伸びをした。時刻は既に20時を回っているが、今日中に処理しなければならない仕事はまだ山積している。ひと口にテニスコーチといっても、ATCという日本で最大のテニスアカデミーでヘッドコーチに就いている彼女には、任されている仕事は存外に多い。テニスコーチという職業は彼女が思い描いていたよりも遥かに過酷な仕事で、かつて自分を指導してくれていた恩師たるコーチたちの苦労が今になってよくわかった。

(さて、残りを片付けないと)
 立ち上がり、テーブルの上を片付ける。仕事の合間にこなした面談は三件。来客ではなく生徒を相手にした面談だったため、用意したのは個包装の茶菓子とペットボトルの飲み物だけ。だが誰一人手を付けようとせず、準備したものはほぼそのままだった。篝はチョコの入った袋をあけて口に放り込む。そういえば、選手時代はこういう菓子類をコーチから禁じられていたなと思い出した。

(……少し太ったか?)
 ふと目をやった窓の外は暗く、部屋の明かりのせいで自分の姿がハッキリ映っていた。選手時代ほどではないにせよ、トレーニングは欠かしていない。しかし、どことなく自分の外見がイメージとズレている気がする。昔の自分はもっと、シャープだったように思う。選手をやめ、少なからず大人になった。年を取るということは身体だけでなく、魂までも丸くなるのだろうか、などと篝は考える。

(コーチとして選手にしてやれることなんて、たかが知れているな)
 テーブルを片付け、念のため用意していたファイルを棚に戻そうと手に取る。今日実施した面談は、三件が三件とも内容的には同じものだった。篝が直接指導担当を行っている強化育成クラス所属の生徒三名が、ATCからの退会を申し出たのだ。

(若槻はまぁ、あの様子なら大丈夫だろう)
 若槻聖。今年の春に急きょ入会した16歳だ。沙粧代表の権限で臨時の選抜試験セレクションが行われ、黒鉄徹磨を相手に勝利し合格した。もっとも、最初から試合の勝敗は合否に関係無く、実力を見る為のものだったのだが、そのことは公表されていない。素襖春菜の幼馴染だという彼は、これまでどこの大会にも出場歴がなく、全くの無名だった。そんな彼が、今や世界ランキング二桁となった日本のエースを相手に勝ってみせた。性格はいたって真面目かつ温厚で、はしゃぎたがりの年頃とは思えない謙虚さがある。夏には小規模ではあったがフューチャーズで優勝し、マイアミで行われた試合ではミックス、シングルスともに無敗。実績は申し分なく、選手としての可能性は充分秘めていると言えるだろう。

 だが、篝はどうにも若槻聖の実力を見極め切れずにいる。直近の実績は申し分ない。普段の練習態度も至って真面目だ。同世代の選手たちとも上手くやっているし、性格に裏表があるような感じもせず、極めて模範的な優等生という印象を篝は持っている。しかしそれでも、言うなればテニスコーチとしての篝の勘が、彼に特別なものを見出せないのだ。有り体に言えば、才能を感じない・・・・・・・。それにも関わらず、彼は他のどの選手よりも順調に結果を出し続けている。そしてそんな彼が、まるでプロになるのを急いでいるかのように、年明け以降からATCを離れてオールカマーズを中心に活動を始めると言い出した。今日の面談はその事に関する最終的な意思確認をし、篝はこれを了承した。とはいえ、判断を下したのはATC代表の沙粧であり、篝はあくまでヘッドコーチとして窓口に立ったに過ぎない。

(よく分からん。若槻の選択も、沙粧代表の判断も)
 春先にわざわざ臨時の選抜試験セレクションを手配したのは、他ならぬ沙粧だ。例外的なことだったため、篝は沙粧に理由を尋ねたが、ハッキリしたことは答えてもらえなかった。しかしそもそも、選手の入会どうこうに代表である沙粧が介入してくること自体が異例だったのだ。つまり何かしらの意図があって、沙粧は若槻聖の入会に関して手配を行ったことになる。そうまでして彼の力を試し、入会を許可したにも関わらず、辞めるとなったらあっさりとこれを承諾してみせた。まるで、もう用は済んだ、とでも言わんばかりだ。あるいは、沙粧の思惑とは違った、か。

(いずれにせよ彼は、海外そとへ向かうのか)
 聖がメインで戦う予定のオールカマーズ大会は、日本では開催されていない。大会の主催がITF(世界テニス連盟)であり、ITFと繋がっている海外企業がメインスポンサーであるためだ。設立当初はいくつかの日本企業も名乗りをあげたそうだが、大会の主目的がギャンブルである・・・・・・・・ことが問題視された。日本テニス協会も、選手がトラブルに巻き込まれやすい可能性が高いことを理由に協賛を見送った。しかし出場を希望する選手は多く、現在でも日本での開催を望む声は少なからず存在し、交渉が続いている。

(若槻の方はアテがありそうだから良いが、あの二人・・・・はどうするんだ)
 篝の脳裏に、二人の選手の顔が浮かぶ。一人の方は、まぁある意味では仕方がないかもしれない。言ってしまえば、時間の問題だったと割り切ることもできる。だが問題はもう一人の方だ。その選手がATCを離れる理由など、本来なにも無いはずなのだが。

――放っておけないんです。それに、ずっと温室にはいられないなって

 温室。確かに、見ようによっては、この優れた環境は温室と言えなくもない。

――ここ・・は私にとって大事な場所です。だから、

 彼女は篝がコーチとして就任する前から、ここで生活している。
 言うなれば、この場所は彼女にとってもう一つの実家なのだ。

――ATCここが世界に胸を張れる、自慢の場所だって証明したい

 そんな必要がどこにあるのか、篝には分からない。彼女がわざわざ証明せずとも、ここは日本屈指のテニスアカデミー、いや、アスリートアカデミーだ。彼女の口ぶりはまるで、ここがそうではないと誰かに言われたかのようだった。その辺りを尋ねても、彼女は言葉を濁すばかりでハッキリしたことは喋らなかった。

「誰に対して、何を証明しようというんだ?」
 そう呟きながらも、篝は心のどこかで彼女、雪咲雅の言葉に共感を覚えている自分に、このときはまだ、気付いていなかった。

           ★

 篝からのメールを確認した沙粧は、その大きな瞳を微かに細めた。逡巡したのち、応接ソファに座る大柄な男へと視線を移す。その先には、現役選手でありマイアミの大会では監督役を担った金俣剛毅かねまたごうきが、腕を組んで憮然とした表情のまま携帯端末をいじっている。

「若槻、能条のほかに、ミヤビまで退会を申請してきた。思い当たる節は?」
 問わずとも返答は分かっているが、沙粧はそう口にせずにはいられない。
 案の定、金俣は視線を合わせることもなく、さぁなとだけ答えた。

「チビが心配なだけだろう。ただの恋愛ごっこ、どうでもよくないか」
「あの子がここを離れること自体は、問題じゃない。問題なのは、理由の方」
「だから、チビがここを辞めるから、だろう。それ以外は分からん」
 金俣は一貫して、自分の関知するところではないという態度だ。雪咲雅が能条蓮司と、特に親しい仲であることは沙粧も把握している。しかし能条がATCを離れるからといって、彼女がそれに付き合うというのは行き過ぎていると沙粧には思える。彼女にとってここは自宅に等しい。性格的にも、そんな軽率な判断を下すようなタイプでもないはずだ。

「そんなに気になるなら、能条の退会を取り下げれば良いだろう」
「違う。能条の方から退会を願い出たの。こちらからは何も言っていない」
「実力は無いくせにプライドが高いからな。本人なりにケジメのつもりか」
 バカバカしいとは口にせず、代わりに沙粧は小さく鼻を鳴らす。

 思うような実績が残せず、プロ選手としての展望が見えない選手は、強化育成クラスの所属継続が打ち切られてしまう。能条は過去に一度、その打診を受けたことがある。それを救ったのが雪咲雅だ。今回も、本来なら決勝戦でのミックス勝利が実績対象の為、能条は退会の必要が無い。しかし、そう何度も女子選手に助けられたのでは、自身のキャリアの展望が見えないと悟ったのだろう。そこまでは良い。ATCで開発を進めているアーキアの被検体として有力な候補だが、あの程度なら他にもいる。問題はミヤビだ。彼女の方は、可能な限り自分の手の届く範囲に置いておきたいと沙粧は考えている。

「しばらく放っておけばいいだろう。ここで変に動けばそれこそ勘付かれる恐れがある。なに、男の行動に釣られてのことなら、いざとなったらそっちからアプローチすれば良い。頃合いを見て再度勧誘を持ち掛ければ、結局は出戻りするだろうよ。なんなら、そうなるように手配してやろうか」

 それしかないか、と沙粧は一旦考えをまとめる。

「確かヤツは、年明けのプロテストを受験するはずだったな。合格するよう・・・・・・手を回しておく。そうすれば、ヤツの実力なら否が応でもドツボにハマるだろう。やるだけやって、アジアの回遊魚になった頃にでも救いの手を差し伸べれば、ホイホイと出戻りするだろう。そのついでに女も引っ張れば良い」

 金俣は立ち上がり、辞去しようとして足を止めた。

「あぁそうだ。徹磨の方はどうする? もう良い・・・・んだったか?」
 沙粧は言われて思い出したらしく、少し考えてから言った。

「ええ、いいわ。結局、こっちに協力する気は無いみたい」
「初めに言った通りだったろ。所詮、あいつは根っからのテニスバカ・・・・・さ」

 金俣が執務室を去ると、沙粧はPCから黒鉄徹磨に関するファイルを削除した。

                                    続く
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