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第96話 敗色が翳るとき

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 壁に設置された大型スクリーンに映し出された試合の様子を、メグ・アーヴィングは注意深く観察する。同時に、リアルタイムで習得される選手の生体情報バイタル・データを手元のPCで随時チェックし、異変の兆候が無いか慎始敬終しんしけいしゅうに努めた。

(今のところ異常は認められず。問題無く起動したか)
 準決勝のイタリア戦で発生したジェノ・アーキアの動作不良は、弖虎のときと同じく原因不明。あの一例だけであればまだ偶然で片付けることもできたが、ダブルスの選手二人が同時となれば到底看過できるものではない。片方は完全に動作不良を起こし、もう片方は明らかな異常数値が検出されていた。実運用後はこれまで、一度として起こらなかったジェノ・アーキアのトラブル。しかも原因が特定できないとあっては、アーヴィング自ら調査せねばならない深刻な問題といえた。

(まったく、次から次へと)
 スクリーンとPCを注視しながら、アーヴィングは考えを巡らせる。アーキアの動作不良だけではない。イタリアを標的にしていたはずのロシアンマフィアが、このタイミングでアメリカに対して敵対行動を起こした。以前からその機を窺っていただろうことは承知していたし、隙を作ったのはアーヴィングではあるが、よもやあのような形で日本を巻き込んでくるとは想定外だった。

(IMGの買収失敗から、不愉快な流れが続いているな)
 元テニスコーチであるニック・ボロテリーが設立した、世界屈指のスポーツアカデミー、IMG。アスリート養成機関として名高いその組織を、リアル・ブルームはジェノ・アーキアを始めとした『人体機能拡張技術』の完全実用化の為に利用しようとしていた。しかし交渉は決裂し、アーヴィングらリアル・ブルームは代替策として日本のATCをその標的に変更。アーヴィングの所感としては、予定通りにことが運ばなくなったのは、この時からのような気がしてならなかった。

(トラブルが母国アメリカで起きたのは不幸中の幸いだ。弖虎の時は冷や汗をかいたが)
 言うまでもなく、リアル・ブルームが開発運用、実用化を目指す『人体機能拡張技術』には非合法・非人道的な技術や実験を伴う。もし仮に無関係の人間が選手の身体を調べれば、その異常な状態にすぐ気が付くだろう。もっとも、気付いた所で原因の特定には至れないだろうが、そういう事例が表に出ることそれ自体がリスクだ。現在は目指すべき機能の開発が優先されており、隠ぺい技術マスキングは完全ではない。

 アメリカ政府の一部と深い繋がりのあるリアル・ブルームとしては、全てを自国内で完結させられる方が望ましい。IMGとの結託が実現していれば、万が一のことが起きても揉み消すことが容易となる。ただそれも完璧とはいえず、場合によっては政府側から手の平を返される危険性は常にある。その点、日本のATCを内部的に乗っ取ることができれば、スケープゴートに利用可能だ。さらに、上手くいけばGAKSOガクソ本体を取り込める公算も高い。隠ぺい技術マスキングの確立が整えば、むしろその方が都合が良いのだ。しかし誤算だったのは、ATCの最高責任者である沙粧アキラが、思いのほか食わせ者だったということ。

黄色人種の猿イエロー・モンキーにしては有能かと思ったけど、とんだ見込み違いね。新星あらほし教授がいなければ何もできない小娘のクセに)
 沙粧の顔が脳裏に浮かぶ。初めこそ、アーヴィングにしては珍しく好感を抱いていたが、関係性を深めていくに連れてある種の同族嫌悪らしきものを感じるようになった。アーヴィングは自身の性質が常人とは異なり、一般的に見ればそれが邪悪なものであると自覚している。しかしその邪悪さは、力を持たぬ者が力を持つ者に対して抱く理不尽さへの感想と同じだろう。気配を消し、背後から忍び寄り獲物を狩る蛇は、それが出来るからそうするのだ。備わっている力を行使することそれ自体に、善良も邪悪も無い。恐らくは沙粧もそういう価値観の持ち主だろう。それゆえに、アーヴィングが沙粧に持つ嫌悪感は、自分が他者にしていることを自分がされて苛立つといった類の、極めて自己中心的なものだ。背後から忍び寄って狩ろうとしたら、いつの間にか見えない糸の罠が張り巡らされている。その罠に嵌まらず気付けたことを、アーヴィングは喜ぶべきかもしれない。

(何にせよ、今のところは予定通り)
 PCに映るデータ、試合に臨んでいる選手の様子。それらから、ジェノ・アーキアが問題無く動作し、安定していることが分かる。既に1stセット終盤。本格的にジェノ・アーキアの機能を発揮すれば、残り1時間もせず片がつくだろう。いくら沙粧の選りすぐりの精鋭たちであろうと、アメリカのメンバーはそれに匹敵する人材にジェノ・アーキアを搭載している。ただの人間・・・・・が勝てる道理は、カケラも無い。

「さっさと屈服しろ、下等人種ジャップどもめ」

 冷たく暗い金瞳きんどうに、侮蔑の色が深く満ちていた。

           ★

 ミヤビは確かに見た。相手選手の双子が、同時にほんの一瞬だけ豹変したのを。身体中の血管や神経が、皮ふの下から浮き上がるかのようになったかと思えば、すぐに消えた。初めて目にしたのであれば見間違えかと思うだろうが、彼女は既に一度日本で目撃している。自分を執拗に目の敵と見做して絡んでくる、ピンクの髪をした粗暴な少女、バンビ。

 出国前、久しぶりにテニスで対決を挑んできた彼女が、今と同じような変貌を試合中に見せた。ミヤビはそれをよく覚えている。あれが一体なんだったのか、分からず仕舞いだが、彼女の本能が最大限の警戒音アラートを鳴らしていた。

(なんだろう……すごく嫌な感じがする)
 男女でありながら見た目がそっくりの一卵性双生児。ロックフォート兄妹。兄、アルフレッド、妹、アレクシア。二人とも背が高く、アスリートの身体つきとしてはほぼ完成しているといっても過言ではない。小さめの頭蓋骨に、白色人種特有の透き通った白い肌と青い瞳。筋肉や骨格、姿勢の美しさから、バレエダンサーのような優雅さがあった。

「ミヤ、何を気を付けろって?」
 蓮司が怪訝そうに尋ねてくるが、ミヤビは上手く答えられない。気を付けた方が良いと言ったのはミヤビ自身だが、何をどうすれば良いのかなど、ミヤビにも分かっていないのだ。ただ直感が告げている。この二人は危険である、と。

(あの白いやつに似てる?)
 ミヤビの脳裏に、誘拐の夜のことが浮かんだ。人間離れした挙動で襲撃してきた、正体不明の白い人型の追跡者。ミヤビの目には人間に見えたが、どうもそうではないらしい。それが本当か嘘か確かめる術を、ミヤビは持たない。唯一確かなのは、対戦ペアに覚える得体の知れない忌避感、それがあの夜に感じたものと匹敵するということだけだ。

「蓮司、とにかく」
 言い知れぬ胸騒ぎから逃れたくて、ミヤビは蓮司に話しかけるが、言葉が続かない。感覚派のミヤビと違って、蓮司はどちらかというと理論派だ。根拠の無いアドバイスや指示は、却って混乱させるかもしれない。そう思うと余計に考えがまとまらず、ミヤビは言い淀んでしまう。

「分かったよ。気をつけりゃ良いんだな?」
 珍しく歯切れの悪い様子のミヤビを見た蓮司が、やけに物分かりよく言う。いつもは自己中で理屈っぽく、そのくせ自分の中にあれこれ溜め込むせいで、なにかとこっちから世話を焼いてやらねばならない蓮司だが、時おり彼はこういう察しの良さを見せる。普段からそれぐらい気が回れば良いのにと思いながらも、ミヤビには彼が頼もしく思えた。

「うん、そう。大事な場面だからね」
 ひとまずそんな言葉でミヤビがお茶を濁すと、二人はポジションにつく。

(相手のサーブで始まる第8ゲーム。ブレイクできれば一気に優勢、できなくても形勢互角に並ぶだけ。仕掛けたいのは向こうも同じ。変な感じがするのは、相手が集中力を高めたから? なんにせよ、油断なんかしない、してられない)
 胸中で自分に言い聞かせるミヤビ。対戦相手のアルフレッドが、悠然とした振る舞いでボールキッズからボールを受け取る。そのどこか大袈裟で芝居染みた動きが、まるでこちらを侮っているように感じられ、ミヤビの心に微かな苛立ちを産む。それを見透かしているのか、アルフレッドがこちらにボールを見せ、待たせたことを詫びる仕草をした。

 会場が静まり返る。今から始まるゲームが1stセットの勝敗を、ひいては試合の趨勢を左右すると大半の観客が察しているかのようだ。第一、第二試合と異なり、実力が拮抗しているかにみえる展開は、再び会場に期待と緊張感をもたらしていた。

(来る!)
 ボールがふわりと宙に浮く。アルフレッドの舞うように優雅なフォームから、一転してラケットが獰猛な加速を見せる。打ち抜かれたサーブは試合中に見せたなかで最も速く、ミヤビが反応できたのは偶然だった。軌道を先読みしたのではなく、反射的に手を出したに過ぎない。

(狙い損なった、けど深く返っ)
 打った感触からボールの行方を予測する。ミヤビの狙い通りではないが、攻撃し辛いリターンに成功したかに見えた。しかしアルフレッドはそれを予測し、既に打撃準ヒッティング・備動作モーションに入っている。ボールを落とさず、高く飛び上がると空中でそのままダイレクトに攻撃を実行。標的は、前衛である蓮司の顔面。

 瞬間、ミヤビは戦慄を覚える。自分の返球でペアが危険になったせいか?違う。対戦相手であるアルフレッドの浮かべていた表情が、およそテニスをしている者とは思えなかったからだ。アルフレッドだけではない。妹のアレクシアにしてもそうだ。そこにあったのは、羽根を捥いだトンボでも観察する子供のような、無邪気で加減の無い残忍さ。悪意を孕んだ嗜虐的な笑み。

(なんなの、この二人)

 さきほども感じた、正体不明の追跡者と似通ったなにか。
 今度はそれを、ハッキリと感じ取った。

           ★

注意してケアっ!」
 思わず叫んだミヤビの声が、打球音に掻き消される。

「っと!」
 相手が飛び掛かり様の一撃を放つ直前、蓮司は咄嗟にラケットと顔の間に左腕を入れてクロスさせた。そうしなければ、ラケットごとボールが蓮司の眉間を打ち抜いていただろう。ボールが食い込み、ストリングスが変形し、文字通り鼻先寸前のところで蓮司はそれを防いだ。

(あっぶねぇ、マジできやがった)
 事前にミヤビが促してくれていたお陰で、蓮司は辛うじて反応できた。具体的に何をどう注意すれば良いかは全く分からなかったし、彼女がなにを懸念しているのかも予想できなかった。しかしそれでも、蓮司は彼女の勘の良さに助けられた。

(ボールはギリ浮いてねぇ、が、これで終らねぇだろ!)
 顔面への直撃を避け、辛うじて返球には成功。カウンターにはならなかったが、距離と立ち位置を考えれば攻撃に転じるのは難しい状況だ。蓮司に対して下手に連撃を加えれば、今度こそカウンターになる可能性が高い。普通ならば・・・・・

「クス」
 蓮司はコートで鈴が鳴ったのかと思った。短く澄んだ音色の主は、相手前衛のアレクシア。彼女が漏らした小さな嗤い声を耳にすると、蓮司は反射的に体勢を低く下げた。ネットを塹壕のように遮蔽物としながら、腕を伸ばしてラケットだけは掲げておく。相手の強引な連撃を予測し、先んじて手を打った。しつこく顔を狙ってくる、蓮司はそう読んだ。案の定、アレクシアはボールがネットより低くなる前にスイングを開始する。

(そうはいくかよ!)
 相手は間を置かずに、自分の身体を狙ってくる。蓮司の予想は概ね正しかった。褒められたやり方とは言い難いが、状況的にそういうパターンで攻撃するのは、ダブルスにおけるセオリーでもある。テニスはルール上、ラケット以外の場所でボールを触ることは禁じられている。近年では悪質な場合に警告を取ることもあるが、基本的なルールに変更は無い。仮に当てた方が失点するルールにしてしまうと、わざと当たれば良いということになる。そもそも、狙ったところでそう簡単に当たるものでもない。テニスの文化的にも、紳士淑女のスポーツである以上、無闇に相手の身体を狙わないのが暗黙の了解だ。

 だがいずれにせよ、当てられた方・・・・・・が失点する・・・・・ことに、変わりはない。

「~ッ!」
 近距離で激しく打ち込まれたボールが、蓮司の肘に食い込む。ゴム製とはいえ、テニスボールは当たり所が悪ければ眼球破裂を起こし得るだけの威力と質量を持つ。筋肉の薄い腕の内側にボールが当たり、衝撃が骨に伝わって嫌な痛みが走った。

「蓮司っ!」
 駆け寄るミヤビ。蓮司は痛みに苦悶の表情を浮かべている。

「みせて」
「大したこと、ねぇよ」
 当たった場所が丸く赤みを帯びている。パッと見たところ問題なさそうだが、蓮司は過去にオーバーワークで肘を負傷しているのだ。その事を知っているミヤビは気が気ではない。すぐさま主審に申告し、治療のたメディカル・めの休息時間タイムアウトを要求した。

 大会専任の医療スタッフが診断し、プレイに支障はないことを確認する。アメリカのペアには警告が与えられたが、所詮は警告どまりで言ってしまえばデメリットはない。先ほどのポイントもルール通りアメリカが獲得し、治療が終われば普通に再開されてしまう。

「大丈夫?」
「あぁ、平気だよ」

 念のため大き目のサポーターを装着した蓮司は、動きを確認するとさっさと治療を終える。心配するミヤビにも憮然としたまま相槌を打つ程度で、腹に据えかねているのが良く分かった。ミヤビも当然相手に対して腹は立ったが、それ以上に彼らの得体の知れない不気味さの方が気になり、この先の展開に大きな不安を覚えてしまう。いっそ強い敵愾心を持つことができれば違っただろう。しかし最初から抱いていた不安に、蓮司の古傷へボールを当てられたことが重なり、戦意を挫かれてしまった。

 相手に向けた過剰な敵意と、拭いきれない得体の知れぬ不安。それぞれが心の中に余計なものを抱えたことで、試合の流れは一気にアメリカへ傾いていく。先に仕掛けたかった相手のサーブをキープされ、続く日本のサービスゲームをブレイクされてしまう。ゲームカウント4-5で相手のサーヴィンフォーザセットを迎え、流れを変えられず日本ペアは1stセットを失った。

 1stセットが終わると同時に、厚い雲が太陽を覆い、会場には影が差した。

                                   続く
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