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第90話 敗者の脚本
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神近姫子は、母親の早産により極低出生体重児として産まれた。出生時の体重は1500グラムを下回り、即座にNICUへと入れられ、幼くして生死の狭間を彷徨うこととなる。医師の尽力と幸運に恵まれ危機を脱した彼女は、同世代の子供と比較すると身体はかなり小さく、また虚弱体質で病気がちだった為、幼少期は自宅よりも病院にいる方が長いほどであった。
ようやく人並みの子供と同程度に動き回れるようになったのは小学校に進学した頃。少しでも身体が丈夫になるように、そしてなによりも友達ができるようにと、両親は姫子をATCのキッズクラスへ入会させる。それが、姫子とテニスの最初の出会いであり、聖やハルナとの出会いでもあった。
――キミはほんとうのお姫サマなの?
姫子にとって初めてできた同い年の友だち、それが聖だった。家族以外の人間と関わった経験が少ない姫子だったが、聖の穏やかな性格と優しさに安心感を覚え、すぐ仲良しになれた。彼の幼馴染である素襖春菜の存在も、姫子が人見知りせずに済んだ大きな要因だったことだろう。
――ヒメちゃん、フォームすごくキレイ! セイくんは教えてもできないのに
ひとつ年上のハルナは、このとき既にその才能の片鱗を見せていた。テニスのことなど何も知らない姫子から見ても、彼女が特別な存在であることが充分に分かった。ラケットの扱い方、ボールのさばき方、身体の使い方。それら全てが洗練され踊りのようで、姫子は美しいとすら感じた。そんなハルナに自分のフォームを褒められたのが嬉しくて、気付けば姫子もテニスが大好きになっていった。
姫子はテニスを通じて、聖やハルナとともにかけがえのない時間をともに過ごす。姫子にとって二人は家族同然で、ずっと一緒にいられるものだと信じていた。しかし、その時間も長くは続かず、3人はそれぞれ別の道を歩み出すこととなる。
才能を開花させ、徐々に遠い存在になっていくハルナ
ハルナについていけず、やがてテニスから離れてしまう聖
どうすれば良いか分からぬまま、何もできず戸惑うだけの姫子
漠然とした寂しさを抱えながら、姫子はテニスを続ける。そこに明確な意志があったかどうかは、姫子にも分からない。自分がテニスをやめなければ、もしかしたら二人が戻ってくるかもしれない。そんな風に、彼女は期待していた。
――神近さん、フォームがすごく綺麗だね
ハルナと同じ言葉を口にしたのは、彼女と同い年であとから入会してきた雪咲雅だった。ハルナほどでは無いにせよ、ミヤビもまた優れた才能を持ち、何よりも自信に満ち溢れた振る舞いは姫子の目に頼もしく映った。何事にも物怖じせず、常に明るく堂々としていながらも可憐なミヤビ。試合で苦境に立たされても決して折れないその姿は、姫子が憧れと尊敬を抱くのに充分だった。
――大丈夫、姫子がテニスを続けてれば、きっと叶うよ
初めてミヤビとペアを組んで大会に出たとき、会話の流れで姫子は聖とハルナのことを話したことがある。自分のミスが原因で優勝を逃したあとのことだったので、愚痴に近いニュアンスだったように記憶している。そう思うと、ある種の慰めとも思えるミヤビの言葉だったが、彼女のいつもの振る舞いのせいか不思議な説得力があり、姫子はその言葉を素直に信じることができた。新たな決意を胸に、姫子は出来うる限りテニスを続けると決めた。
またもう一度、聖やハルナとテニスができる日を夢見ながら。
★
「その場に留まってッ!」
ミヤビが鋭い声で指示を飛ばす。コート外へ追い出されたミヤビのフォローをしようと、咄嗟にポジションを内側へ詰めかけた姫子は足を止める。しかし僅かに反応が遅れ、相手が打ったショットはボール1つ分、ラケットから離れた場所を通過してコートにおさまった。
「Game Russia. Russia lead 5 games to 2」
主審のアナウンスが、歓声と拍手のなか響き渡る。サービスゲームをブレイクされ、一気に劣勢となった姫子とミヤビ。次の相手サーブをブレイクできなければ、最初のセットを失うことになる。胃の辺りを鷲掴みにされたような感覚、そして「私のせいだ」という内なる声が聞こえた気がして、姫子は手に持ったラケットを強く握る。
「切り替えよ、姫子。まだ大丈夫」
ミヤビが姫子の手に、自分の手のひらを重ねる。その手は焼けるように熱い。ミヤビが今まさに、自身の持ち得る力を燃やして挑んでいることが伝わってくる。一方で、姫子はそれに応えられるだけのプレーが出来ていないという自己評価に、心が冷えるのを感じてしまう。足を引っ張りたくない。なのに自分が狙われ、上手く対処できず形勢は相手に傾いていく。気持ちが急いて、情熱とは正反対の焦燥感に心が焼けていく。
「ミヤビさん、その……ごみゅっ!?」
謝罪を口にしようとした姫子の頬を、ミヤビがいきなり両の手のひらで挟む。言葉は遮られ、驚いて変な声をあげる姫子。美しく整った顔がひしゃげるように歪み、なんともおもしろおかしい顔になってしまう。
「アッチョンブリケ~。あはっ、姫子かわいっ」
イタズラを成功させた悪童のような笑みを浮かべるミヤビ。だが、表情に反して目は笑っていない。突然のミヤビの行動と、その目つきの意味するところを察せないほど、姫子は愚鈍ではない。ミヤビは自分の意図に姫子が気付いたと分かると、そこでようやく手を離す。解放されほっとした様子の姫子は、頬をさすって気を落ち着ける。そして薄い唇をひき結んで、すぐ口を開いた。
「ブレイクしましょう。チャンスはあります」
それを聞いたミヤビが満足そうに微笑んで、二人は再び手を重ねる。
互いの手には、同じ熱が宿っていた。
★
ロシアのペア、ブレジネフとヴァローナは年齢こそ同じだが正式なペアではない。生まれた国が同じというだけで、育った都市もテニスを学んだ環境も全く異なっている。たまたま二人ともテニスという競技に巡り会い、たまたま同じ時期にその才能を開花させたに過ぎない。互いに名前は知っていたが、友人というわけでも、ましてやライバル意識を持ったことすらない。今大会に出場するための選抜試験で初めて対面し、結果的に偶然ダブルスとして抜擢されただけ。しかし共通していたのは、女子テニス選手として確かな才能を持ち、それを生業とするプロを目指すのに相応しい価値観を、二人が既に兼ね備えていたということだ。
1stセット、第8ゲームを5-2リードで迎えたロシアペア。ここまでブレジネフもヴァローナもブレイクされず、順調にキープを成功させている。二人は試合前に相手と対峙した直後から、日本ペアの弱点は背の小さい姫子の方だと見抜く。打ち合わせすらしないままにそれを共通認識とした彼女たちは、目論み通り姫子のサービスを2つブレイクした。最初のセットの奪取まで、残り1ゲーム。最短で4ポイント。
(さて、次できっちり仕留めるか)
浅黒い肌に浮かぶ額の汗を、ブレジネフはリストバンドで拭う。選手としての才覚を見出されてからは、スペインが生活の中心地となっている彼女にとって、湿度の高いマイアミの暑さは慣れたものとは異なる。知識として知ってはいたが、実際に経験してみると体力への影響は侮れない。余計な消耗を防ぐ為にも、ここは押し切った方が良いだろうとブレジネフは考えていた。
隣に座るヴァローナは、同じように汗こそかいているものの、随分と涼しい顔をしている。出会って間もないが、彼女が喜怒哀楽を見せているところなど殆ど目にしない。大会への出場が決まってから共にした厳しいトレーニングのときでさえ、淡々と業務をこなすように済ませてしまう。他人からあれこれ指示されたり、馴れ合いのような関係を嫌う自分にとっては相性の良い性格だと、ブレジネフは思う。
「サモナ」
だからこそ、ヴァローナの方から声をかけてくるのは意外だった。
「おぉ? なんだ?」
珍しいこともあるものだと思いながら、ブレジネフはヴァローナの顔を見る。
「次のゲーム、少しギアを下げよう」
続いたヴァローナの言葉も、ブレジネフにとってはかなり意外に思えた。戦術論的に考えれば、間違っているとは思わない。女子ダブルスは男子と違いサービスゲームで番狂わせが起こりやすいといわれている。男子ほどサーブが決め手になり辛い点や、劣勢で不利なリターン側が、開き直って大胆な攻撃を仕掛けてくる場合が総じて多いためだ。サーブに自信のあるブレジネフだが、相手の日本ペアはともにリターンが堅実だ。それを考えれば、キープすればセットを取れるという次のサーヴィングフォーザセットをより確実に取るため、一旦腰を据える方針も正道であると言えるだろう。
「そりゃ、構わないけど」
心情的には、このまま押し切った方が良いとブレジネフは考えている。カウントもリードしているし、対戦相手には分かり易く攻めるべき弱点があるのだ。より確実に勝つ為、ブレジネフは果敢な攻撃を、ヴァローナは慎重な攻撃を方針として導き出した。どちらが正しい、間違っているという話ではなく、ただの見解の相違に過ぎないとブレジネフは解釈している。そのため、珍しく希望を口にしたペアの意図を尊重するのも悪くないとも感じていた。
「一応、根拠は聞いておきたいね。なぜだ?」
ただ、念のため理由は知っておきたかった。ペアを信じていない、という話ではない。ブレジネフが気付いていない相手の特性や傾向を、ペアであるヴァローナが見つけたのならば、それはそれで警戒すべきことだからだ。彼女とは今はペアを組んでいるが、正規ペアではない。あくまで目的を共有する協力相手のようなものであり、大会が終われば商売敵となる。今後のことも考え、ヴァローナの観察眼がどれほどのものかを把握しておきたかった。
そんなブレジネフの思惑を知ってか知らずか、ヴァローナは人差し指を唇に当てながら小首を傾げてみせる。整った顔立ちの彼女がそうしていると、男性なら庇護欲をそそられることだろう。だが、ヴァローナが口を開いた時に浮かべた表情は、極寒のラプテフ海すら凍てつきそうなほどの、冷笑だった。
「その方が、自滅を誘える」
★
チームベンチで試合を見守る日本メンバーのなかで、ただ一人奏芽だけが女子ダブルスの試合を見ず、タブレット端末に視線を落としていた。
「アンタさ、このあと出番だよ? 呑気に読書してる場合?」
奏芽と急遽ペアを組むことになった桐澤雪菜が、呆れたように指摘する。奏芽は集中していたのか、雪菜に突っつかれてようやく顔をあげる。その様子に、雪菜はますます呆れかえる。
「幼馴染が頑張ってんだからさぁ、ちっとは応援しなよ」
「ワリィ、ちょっと気になる論文みつけちまって」
「そのワリィ、は1ミリもワリィと思ってないやつ!」
「わかった、わかった」
がるる、と威嚇する雪菜を、奏芽は雑な態度でなだめようとする。昨晩から、あれやこれやと心理学や行動科学に関する論文を読み漁っていて、ついつい続きが気になってしまったのだ。
「いけ!」
試合を見ていたデカリョウが、思わず声を出す。つられてコートに視線を向ける奏芽。ロシアペアが辛うじて上げた高く弧を描く一打を姫子が捉え、スマッシュの体勢に入る。だが、姫子の打った一撃は、相手ペアのいない場所を狙い過ぎたせいか、コートの枠に収まらずアウトとなった。
「っだぁ! 惜しい!」
「ん~、今のは決めたいねぇ」
自分のことのように悔しがる日本メンバー。奏芽と同じようにそれを見ていた雪菜が、はぁ、と露骨な溜息をついて不満げに独りごちた。
「ったく、スマッシュは相手を直で狙えって、何度も教えてるのにぃ」
「キャッチされたらどーすんだよ」
「狙ってくる、って思わせりゃ良いの。それで次は動けない」
「さすが、冷徹かつ合理的」
雪菜のぼやきに茶々を入れつつも、奏芽も彼女の考え方には同感だ。趣味ではなく競技としてテニスをするなら、情け容赦なく確実にポイントを奪う最善を尽くすべきだろう。何も相手が憎くて狙うのではない。そうしなければ逆にやられる可能性があるからこそ、甘さを捨てて一番弱い場所を狙うのだ。
「あの子さ、別にスマッシュ下手じゃないんだよ? ていうか、姫子は技術だけならプロ目指したって良いぐらい上手なんだけどなー。なんていうか、持ってないんだよねぇ」
負けず嫌いな性格ゆえか、雪菜は口惜しそうに続ける。日々ともに切磋琢磨している仲間が、ここぞという場面で力を発揮できないのが堪らなく腹立たしいようだ。同い年ということもあり、桐澤姉妹が姫子と一緒に練習しているのを奏芽は知っている。
「持ってない、か」
奏芽はつぶやきながら、手元のタブレット端末に視線を落とす。
「だから、応援しろっての」
奏芽の頭にチョップを入れながら注意する雪菜。
「うるせぇなぁもう、懐くな」
「いいじゃん臨時とはいえペアなんだし。つか、なに一生懸命読んでんの?」
そう言って、馴れ馴れしく画面をのぞき込む雪菜。
「達成動機と目標志向性が運動行動に及ぼす影響ぉ?」
タイトルを読み上げるが、内容が想像できない雪菜。日常で聞きなれない、何やらアカデミックな感じのする文字の羅列に、嫌いな野菜の味でも思い出したような顔で文句を言う。
「アンタってホント、見た目の割りにインテリだよねぇ。そのV系ファッションみたいなウェアはギャップ萌え狙いなワケ? たまに眼鏡かけるし。で? 結局それは何なの?」
「話題を混ぜるな。スポンサーからの提供品を着てるだけだっつーの」
「とかいって好きなクセにぃ。論文の方は何が書いてあんの~?」
やれやれと思いながら、奏芽は頭のなかで概略をまとめる。論文の内容は、誰もが持ち得るある欲求について興味深い指摘が述べられていた。そういえば以前、大成したベンチャー企業の社長が出している書籍でも似たようなことが書かれていたなと、奏芽は思い出す。
人間は精神的ストレスに脆い生き物だ。強いストレスを与え続けると、身体に異常をきたし、最悪死に至る場合さえある。怒り、恐怖、悲しみ、そうしたネガティブな感情を刺激する出来事は、容易に人間の心身を破壊してしまう。人間の脳は、そういう強い刺激に耐えられない性質がある。
そしてそれは、ポジティブな感情も例外ではない。
例えば、難しい挑戦を、今まさに成功させようとする瞬間
例えば、結婚生活を前に、言いようのない不安に襲われる夜
例えば、宝くじが当選し、大金を持って家へ向かう帰り道
ヒトは、自分にとって都合の良い場面で、急に思い通りに動けなくなってしまうことがある。それはまるで、自ら失敗を望むかのように。目標、幸福、成功を自分の手で台無しにする行動を取ろうとする。失敗することが予め決まっている台本が、存在しているかのように。成功と失敗の狭間に棲まう魔物が、意地悪く静かに問いかける。
――オマエなんかが成功して、本当に良いのか?
成功回避欲求。またの名を、敗者の脚本、と呼ぶ。
続く
ようやく人並みの子供と同程度に動き回れるようになったのは小学校に進学した頃。少しでも身体が丈夫になるように、そしてなによりも友達ができるようにと、両親は姫子をATCのキッズクラスへ入会させる。それが、姫子とテニスの最初の出会いであり、聖やハルナとの出会いでもあった。
――キミはほんとうのお姫サマなの?
姫子にとって初めてできた同い年の友だち、それが聖だった。家族以外の人間と関わった経験が少ない姫子だったが、聖の穏やかな性格と優しさに安心感を覚え、すぐ仲良しになれた。彼の幼馴染である素襖春菜の存在も、姫子が人見知りせずに済んだ大きな要因だったことだろう。
――ヒメちゃん、フォームすごくキレイ! セイくんは教えてもできないのに
ひとつ年上のハルナは、このとき既にその才能の片鱗を見せていた。テニスのことなど何も知らない姫子から見ても、彼女が特別な存在であることが充分に分かった。ラケットの扱い方、ボールのさばき方、身体の使い方。それら全てが洗練され踊りのようで、姫子は美しいとすら感じた。そんなハルナに自分のフォームを褒められたのが嬉しくて、気付けば姫子もテニスが大好きになっていった。
姫子はテニスを通じて、聖やハルナとともにかけがえのない時間をともに過ごす。姫子にとって二人は家族同然で、ずっと一緒にいられるものだと信じていた。しかし、その時間も長くは続かず、3人はそれぞれ別の道を歩み出すこととなる。
才能を開花させ、徐々に遠い存在になっていくハルナ
ハルナについていけず、やがてテニスから離れてしまう聖
どうすれば良いか分からぬまま、何もできず戸惑うだけの姫子
漠然とした寂しさを抱えながら、姫子はテニスを続ける。そこに明確な意志があったかどうかは、姫子にも分からない。自分がテニスをやめなければ、もしかしたら二人が戻ってくるかもしれない。そんな風に、彼女は期待していた。
――神近さん、フォームがすごく綺麗だね
ハルナと同じ言葉を口にしたのは、彼女と同い年であとから入会してきた雪咲雅だった。ハルナほどでは無いにせよ、ミヤビもまた優れた才能を持ち、何よりも自信に満ち溢れた振る舞いは姫子の目に頼もしく映った。何事にも物怖じせず、常に明るく堂々としていながらも可憐なミヤビ。試合で苦境に立たされても決して折れないその姿は、姫子が憧れと尊敬を抱くのに充分だった。
――大丈夫、姫子がテニスを続けてれば、きっと叶うよ
初めてミヤビとペアを組んで大会に出たとき、会話の流れで姫子は聖とハルナのことを話したことがある。自分のミスが原因で優勝を逃したあとのことだったので、愚痴に近いニュアンスだったように記憶している。そう思うと、ある種の慰めとも思えるミヤビの言葉だったが、彼女のいつもの振る舞いのせいか不思議な説得力があり、姫子はその言葉を素直に信じることができた。新たな決意を胸に、姫子は出来うる限りテニスを続けると決めた。
またもう一度、聖やハルナとテニスができる日を夢見ながら。
★
「その場に留まってッ!」
ミヤビが鋭い声で指示を飛ばす。コート外へ追い出されたミヤビのフォローをしようと、咄嗟にポジションを内側へ詰めかけた姫子は足を止める。しかし僅かに反応が遅れ、相手が打ったショットはボール1つ分、ラケットから離れた場所を通過してコートにおさまった。
「Game Russia. Russia lead 5 games to 2」
主審のアナウンスが、歓声と拍手のなか響き渡る。サービスゲームをブレイクされ、一気に劣勢となった姫子とミヤビ。次の相手サーブをブレイクできなければ、最初のセットを失うことになる。胃の辺りを鷲掴みにされたような感覚、そして「私のせいだ」という内なる声が聞こえた気がして、姫子は手に持ったラケットを強く握る。
「切り替えよ、姫子。まだ大丈夫」
ミヤビが姫子の手に、自分の手のひらを重ねる。その手は焼けるように熱い。ミヤビが今まさに、自身の持ち得る力を燃やして挑んでいることが伝わってくる。一方で、姫子はそれに応えられるだけのプレーが出来ていないという自己評価に、心が冷えるのを感じてしまう。足を引っ張りたくない。なのに自分が狙われ、上手く対処できず形勢は相手に傾いていく。気持ちが急いて、情熱とは正反対の焦燥感に心が焼けていく。
「ミヤビさん、その……ごみゅっ!?」
謝罪を口にしようとした姫子の頬を、ミヤビがいきなり両の手のひらで挟む。言葉は遮られ、驚いて変な声をあげる姫子。美しく整った顔がひしゃげるように歪み、なんともおもしろおかしい顔になってしまう。
「アッチョンブリケ~。あはっ、姫子かわいっ」
イタズラを成功させた悪童のような笑みを浮かべるミヤビ。だが、表情に反して目は笑っていない。突然のミヤビの行動と、その目つきの意味するところを察せないほど、姫子は愚鈍ではない。ミヤビは自分の意図に姫子が気付いたと分かると、そこでようやく手を離す。解放されほっとした様子の姫子は、頬をさすって気を落ち着ける。そして薄い唇をひき結んで、すぐ口を開いた。
「ブレイクしましょう。チャンスはあります」
それを聞いたミヤビが満足そうに微笑んで、二人は再び手を重ねる。
互いの手には、同じ熱が宿っていた。
★
ロシアのペア、ブレジネフとヴァローナは年齢こそ同じだが正式なペアではない。生まれた国が同じというだけで、育った都市もテニスを学んだ環境も全く異なっている。たまたま二人ともテニスという競技に巡り会い、たまたま同じ時期にその才能を開花させたに過ぎない。互いに名前は知っていたが、友人というわけでも、ましてやライバル意識を持ったことすらない。今大会に出場するための選抜試験で初めて対面し、結果的に偶然ダブルスとして抜擢されただけ。しかし共通していたのは、女子テニス選手として確かな才能を持ち、それを生業とするプロを目指すのに相応しい価値観を、二人が既に兼ね備えていたということだ。
1stセット、第8ゲームを5-2リードで迎えたロシアペア。ここまでブレジネフもヴァローナもブレイクされず、順調にキープを成功させている。二人は試合前に相手と対峙した直後から、日本ペアの弱点は背の小さい姫子の方だと見抜く。打ち合わせすらしないままにそれを共通認識とした彼女たちは、目論み通り姫子のサービスを2つブレイクした。最初のセットの奪取まで、残り1ゲーム。最短で4ポイント。
(さて、次できっちり仕留めるか)
浅黒い肌に浮かぶ額の汗を、ブレジネフはリストバンドで拭う。選手としての才覚を見出されてからは、スペインが生活の中心地となっている彼女にとって、湿度の高いマイアミの暑さは慣れたものとは異なる。知識として知ってはいたが、実際に経験してみると体力への影響は侮れない。余計な消耗を防ぐ為にも、ここは押し切った方が良いだろうとブレジネフは考えていた。
隣に座るヴァローナは、同じように汗こそかいているものの、随分と涼しい顔をしている。出会って間もないが、彼女が喜怒哀楽を見せているところなど殆ど目にしない。大会への出場が決まってから共にした厳しいトレーニングのときでさえ、淡々と業務をこなすように済ませてしまう。他人からあれこれ指示されたり、馴れ合いのような関係を嫌う自分にとっては相性の良い性格だと、ブレジネフは思う。
「サモナ」
だからこそ、ヴァローナの方から声をかけてくるのは意外だった。
「おぉ? なんだ?」
珍しいこともあるものだと思いながら、ブレジネフはヴァローナの顔を見る。
「次のゲーム、少しギアを下げよう」
続いたヴァローナの言葉も、ブレジネフにとってはかなり意外に思えた。戦術論的に考えれば、間違っているとは思わない。女子ダブルスは男子と違いサービスゲームで番狂わせが起こりやすいといわれている。男子ほどサーブが決め手になり辛い点や、劣勢で不利なリターン側が、開き直って大胆な攻撃を仕掛けてくる場合が総じて多いためだ。サーブに自信のあるブレジネフだが、相手の日本ペアはともにリターンが堅実だ。それを考えれば、キープすればセットを取れるという次のサーヴィングフォーザセットをより確実に取るため、一旦腰を据える方針も正道であると言えるだろう。
「そりゃ、構わないけど」
心情的には、このまま押し切った方が良いとブレジネフは考えている。カウントもリードしているし、対戦相手には分かり易く攻めるべき弱点があるのだ。より確実に勝つ為、ブレジネフは果敢な攻撃を、ヴァローナは慎重な攻撃を方針として導き出した。どちらが正しい、間違っているという話ではなく、ただの見解の相違に過ぎないとブレジネフは解釈している。そのため、珍しく希望を口にしたペアの意図を尊重するのも悪くないとも感じていた。
「一応、根拠は聞いておきたいね。なぜだ?」
ただ、念のため理由は知っておきたかった。ペアを信じていない、という話ではない。ブレジネフが気付いていない相手の特性や傾向を、ペアであるヴァローナが見つけたのならば、それはそれで警戒すべきことだからだ。彼女とは今はペアを組んでいるが、正規ペアではない。あくまで目的を共有する協力相手のようなものであり、大会が終われば商売敵となる。今後のことも考え、ヴァローナの観察眼がどれほどのものかを把握しておきたかった。
そんなブレジネフの思惑を知ってか知らずか、ヴァローナは人差し指を唇に当てながら小首を傾げてみせる。整った顔立ちの彼女がそうしていると、男性なら庇護欲をそそられることだろう。だが、ヴァローナが口を開いた時に浮かべた表情は、極寒のラプテフ海すら凍てつきそうなほどの、冷笑だった。
「その方が、自滅を誘える」
★
チームベンチで試合を見守る日本メンバーのなかで、ただ一人奏芽だけが女子ダブルスの試合を見ず、タブレット端末に視線を落としていた。
「アンタさ、このあと出番だよ? 呑気に読書してる場合?」
奏芽と急遽ペアを組むことになった桐澤雪菜が、呆れたように指摘する。奏芽は集中していたのか、雪菜に突っつかれてようやく顔をあげる。その様子に、雪菜はますます呆れかえる。
「幼馴染が頑張ってんだからさぁ、ちっとは応援しなよ」
「ワリィ、ちょっと気になる論文みつけちまって」
「そのワリィ、は1ミリもワリィと思ってないやつ!」
「わかった、わかった」
がるる、と威嚇する雪菜を、奏芽は雑な態度でなだめようとする。昨晩から、あれやこれやと心理学や行動科学に関する論文を読み漁っていて、ついつい続きが気になってしまったのだ。
「いけ!」
試合を見ていたデカリョウが、思わず声を出す。つられてコートに視線を向ける奏芽。ロシアペアが辛うじて上げた高く弧を描く一打を姫子が捉え、スマッシュの体勢に入る。だが、姫子の打った一撃は、相手ペアのいない場所を狙い過ぎたせいか、コートの枠に収まらずアウトとなった。
「っだぁ! 惜しい!」
「ん~、今のは決めたいねぇ」
自分のことのように悔しがる日本メンバー。奏芽と同じようにそれを見ていた雪菜が、はぁ、と露骨な溜息をついて不満げに独りごちた。
「ったく、スマッシュは相手を直で狙えって、何度も教えてるのにぃ」
「キャッチされたらどーすんだよ」
「狙ってくる、って思わせりゃ良いの。それで次は動けない」
「さすが、冷徹かつ合理的」
雪菜のぼやきに茶々を入れつつも、奏芽も彼女の考え方には同感だ。趣味ではなく競技としてテニスをするなら、情け容赦なく確実にポイントを奪う最善を尽くすべきだろう。何も相手が憎くて狙うのではない。そうしなければ逆にやられる可能性があるからこそ、甘さを捨てて一番弱い場所を狙うのだ。
「あの子さ、別にスマッシュ下手じゃないんだよ? ていうか、姫子は技術だけならプロ目指したって良いぐらい上手なんだけどなー。なんていうか、持ってないんだよねぇ」
負けず嫌いな性格ゆえか、雪菜は口惜しそうに続ける。日々ともに切磋琢磨している仲間が、ここぞという場面で力を発揮できないのが堪らなく腹立たしいようだ。同い年ということもあり、桐澤姉妹が姫子と一緒に練習しているのを奏芽は知っている。
「持ってない、か」
奏芽はつぶやきながら、手元のタブレット端末に視線を落とす。
「だから、応援しろっての」
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「うるせぇなぁもう、懐くな」
「いいじゃん臨時とはいえペアなんだし。つか、なに一生懸命読んでんの?」
そう言って、馴れ馴れしく画面をのぞき込む雪菜。
「達成動機と目標志向性が運動行動に及ぼす影響ぉ?」
タイトルを読み上げるが、内容が想像できない雪菜。日常で聞きなれない、何やらアカデミックな感じのする文字の羅列に、嫌いな野菜の味でも思い出したような顔で文句を言う。
「アンタってホント、見た目の割りにインテリだよねぇ。そのV系ファッションみたいなウェアはギャップ萌え狙いなワケ? たまに眼鏡かけるし。で? 結局それは何なの?」
「話題を混ぜるな。スポンサーからの提供品を着てるだけだっつーの」
「とかいって好きなクセにぃ。論文の方は何が書いてあんの~?」
やれやれと思いながら、奏芽は頭のなかで概略をまとめる。論文の内容は、誰もが持ち得るある欲求について興味深い指摘が述べられていた。そういえば以前、大成したベンチャー企業の社長が出している書籍でも似たようなことが書かれていたなと、奏芽は思い出す。
人間は精神的ストレスに脆い生き物だ。強いストレスを与え続けると、身体に異常をきたし、最悪死に至る場合さえある。怒り、恐怖、悲しみ、そうしたネガティブな感情を刺激する出来事は、容易に人間の心身を破壊してしまう。人間の脳は、そういう強い刺激に耐えられない性質がある。
そしてそれは、ポジティブな感情も例外ではない。
例えば、難しい挑戦を、今まさに成功させようとする瞬間
例えば、結婚生活を前に、言いようのない不安に襲われる夜
例えば、宝くじが当選し、大金を持って家へ向かう帰り道
ヒトは、自分にとって都合の良い場面で、急に思い通りに動けなくなってしまうことがある。それはまるで、自ら失敗を望むかのように。目標、幸福、成功を自分の手で台無しにする行動を取ろうとする。失敗することが予め決まっている台本が、存在しているかのように。成功と失敗の狭間に棲まう魔物が、意地悪く静かに問いかける。
――オマエなんかが成功して、本当に良いのか?
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続く
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主人公のマティアス・マッカーサーは、かつては裕福な家庭で育ったが、戦争に巻き込まれて両親と弟を失い、その後傭兵となって生きてきた。
旅の途中、人間離れした強さを持つ大柄な軍人ハンニバル・クルーガーにスカウトされ、マティアスは軍人として活動することになる。
ハンニバルと共に任務をこなしていくうちに、冷徹で利己主義だったマティアスは利害を超えた友情を覚えていく。
世紀末の荒廃したアメリカを舞台にしたバトルファンタジー。
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