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第67話 ミックスの信頼

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――イタリア人なんかと、関わらなきゃよかった

 そう吐き捨て、彼女はウナーゾの元を去った。侮蔑よりも悲しみに濡れた瞳は、その言葉が彼女の本心でないことを雄弁に物語っていたが、そんな言葉を彼女に言わせてしまったという事実が、ウナーゾの心をより深く傷つけた。

 世界で活躍していたトップ選手による八百長事件が発覚し、イタリア人のテニス関係者は軒並み批判の対象に晒されることとなった。燃え盛る油に水をかければ炎が飛び散るのと同じように、人間の悪意は大義という水を得ることでその凶悪さを増す。

「悪いのは八百長した本人たちだ」という同情を見せびらかしながら「でも誰がどこまで関わってるか、分かったもんじゃない」というもっともらしい屁理屈をこじ付け、選手・コーチ・その家族、果ては企業スポンサーへと攻撃の対象は拡大されていった。そして遂に、イタリア人とペアを組んでいるというだけの理由で、ウナーゾのペアも標的となってしまう。イタリア人ですらないスイス人の、まだ年端もゆかぬジュニア選手であるというのに。

(でも、理由はきっとそれだけじゃない)
 痛みに耐えるように、ウナーゾは唇を噛む。

 ウナーゾのペアが標的にされた背景に、イタリアの八百長事件が関係していることは明らかだ。しかしそれとは別に、ウナーゾは彼女自身のそれまでの試合中の態度が、悪意の矛先をペアへ向けられてしまった最大の要因であると考えている。

 時おり抑え難く感情を剥き出しにする自分の振る舞いが、自分にとってマイナスであると周囲からも指摘されていたし、ウナーゾ自身も治したいと考えていた。とはいえ、試合に集中し、自分自身を鼓舞しなければレベルの高い相手と渡り合うことは難しい。集中の維持の仕方は人それぞれだが、彼女は溜め込むよりも吐き出すことで高いプレースメントを発揮した。

 それに、彼女が常識から逸脱するほどの悪態をついていたのかというと、そういうわけでもない。他人よりも感情的なリアクションがオーバーなだけで、ラケットを破壊したり審判や相手に暴言を吐くといった粗暴な振る舞いには至らなかった。激しい怒りの発露は、あくまで不甲斐ない自分自身に向けてのもの。そんな彼女の振る舞いは、マナーを重んじる人々からは眉をひそめられる一方、世界の頂点を目指すのに相応しい獰猛な闘争心であると賞賛されることもあった。

(他人の評価なんざどうでもいい、そう思っていた私が間違っていたんだ)

 ペアに別れを告げられ、イタリアでテニスを続けるのが困難となり、途方に暮れていた彼女の前に今のリーダーであるティッキーが現れる。同国人で年も近いゆえに名前も顔も知っていたが、対戦の経験はなく自分とは縁がないと思っていただけに意外だった。

 一方的に押しかけてきたティッキーは、気の乗らないウナーゾを煽ってコートに立たせると、一方的に叩きのめし、そして一方的に告げた。

――立て。オマエの心の火が必要だ

 消えかけていた火に風を送る、などという生易しいものではなかった。まるで焚火を思い切り蹴飛ばして、灰を撒き散らしながら消し炭を踏み砕き、なかで燻っていた残り火を取り出すように。堂々と傲岸ごうがんに振る舞うティッキーの姿は、ウナーゾの目に絶対者のように映った。

           ★

 ひじりは不思議な感覚を味わっていた。
 これまで撹拌事象を使ったのは全てシングルスで、預かり受けた選手たちの力には軸となる武器があったように思う。アガシならライジング、ヒューイットならカウンター、サントロならスライス、といった風に。だが今回新たに宿したブーパティという選手は、いってしまえばこれといった・・・・・・武器が無い・・・・・

<オマエね、そりゃ失礼ってモンだぜ?>
 アドがまるで初心者を上から目線で小馬鹿にするようにいう。

<ま、確かにこれまでのシングルス勢みたいに突出した武器はねェよ? だが、それはダブルスっていう競技の特性ゆえだ。ダブルスは当然二人で戦う。二対二でシングルスやるワケじゃねェ。二組ペア二組ペアなのさ。得意技があるに越したことはねェだろうが、個が突出しすぎるワケにゃいかンのよ。特にミックスは、女に合わせるのが鍵だ>

 最初に試合した男子ダブルスのように、おのおのが偏った能力を持ちながらもペア同士で役割分担を決めるスタイルが実現できるのは、同性だからに他ならない。個々の運動能力値には当然差があるものの、平均化すれば誤差の範囲で収まることが多いからだ。だが、性差による運動能力値の差はそうもいかない。根本的に男と女では身体の作りが違う以上、必ず大きな差が生じる。筋力、瞬発力、持久力、柔軟性、反射神経、どれをとっても男性が優位となるのは避けられず、バランスを欠いてしまう。

<ま、ゴリラみてェな例外オンナもたまにいるが、それはレアだ。ともかく、重要なのはいかに女に合わせて戦い、女が戦いやすいように立ち回るか。それがミックスにおける男の役割だ。その辺、スズパイはよく理解してたな>

 突出した武器が無いとはいえ、撹拌事象なだけあって能力の上限は解放されている。したがって本来の聖の実力以上のプレーが発揮されていることは間違いない。初めはハッキリと分からなかったが、プレーを重ねるうち、聖は徐々にブーパティの能力が安定性能力ステーブルに寄っていることを感じ始めた。

(このプレーの安定感があるからこそ、ペアのことを気に掛ける余裕が生まれるのか。無理せず、しかし受けに回らず。堅実に形を作って要所で攻撃。揺さぶり、崩し、もう一度崩して、それから攻める。しかも、自分が攻めるよりもペアである女性に攻撃を任せてる。ひたすら良いパスを出し続けて味方に決めさせてるんだ。黒子くろこのように)

 聖がゲームメイクし、鈴奈がポイントを決める。ポイントを決めるごとに、目に見えて鈴奈のテンションが上がっていく。危うく崩れかけていた彼女だったがすっかり持ち直し、普段以上に絶好調でチャンスをモノにしてくれた。連続でゲームを奪い、ファイナルセットは日本の3-0まで進行する。

「いっよーしゃ! ナイスだぞひじリン!」
 先ほどまでとは打って変わり、彼女本来の天真爛漫さを全開にする鈴奈。

「さすがスズ。見ろ、君が決めると会場も大盛り上がりだ」
 元気よく両手でハイタッチする二人。聖の意志とはほぼ無関係に、普段なら口にしないようなセリフが勝手に出てくるが、全くそう思っていないわけではないのがなんともむず痒い。思ったことを本来の発想を上回る語彙でラッピングして喋ってしまう感じだ。これもまた、能力の一つなのだろう。

(このままいける、かな。いや)

 優勢に進行しひとまず危機は脱した日本ペアだが、聖は油断しない。撹拌事象がいつ終わるか分からないし、なにより、撹拌事象の目的・・・・・・・を考えればすんなり終わるとも思えない。

(もうひと波ある)
 気を引き締める聖。
 そんな聖の表情を見て、鈴奈が不思議そうに尋ねた。

「どったん?」
「スズ、僕らは今絶好調だが、こういう時ほど油断は禁物だ。今夜良い気分でディナーを楽しむためには、しっかりここで相手の息の根を止めなければならない。君の力を貸してくれるね?」

 ハイタッチした手を握り、決然という聖。言いたいことは間違っていないが、どうしてこういちいちセリフがキザったらしくなるのか。歯が浮くようなとはまさにこのことで、聖は奥歯のあたりがムズムズしてしまう。アドはアドでゲラゲラ笑っている。

「と、当然。店はあたしが、選ぶからね」
「お手柔らかに」

 二人は改めて手を重ね、ポジションにつく。イタリアのペアに視線を向けると、二人とも追い詰められたように表情は暗い。だが、その瞳からまだ光は消えてはいないようだ。聖にはその僅かな輝きが、美しくも脅威に見える。

(逆転はさせない。このままいく)

 その光に負けじと、迎えうつように聖は構えた。

           ★

 自らの失言で完全にウナーゾの機嫌を損ねたと思ったピストーラだったが、ウナーゾはギリギリのところで集中を持ち堪えてくれた。てっきりメンタルと一緒にプレーも崩れ落ちるかと思っていただけに、彼女が徐々にではあるが自身の感情をコントロールする術を身に付けつつあるのだと感心する。

(けどよお、それじゃかえって声がかけられねえ)

 自分自身の意志でウナーゾが感情を制御できているとはいえ、恐らくそれは目一杯に気を張って踏みとどまっているからだ。精神的に独りになって集中することで、抑え難い怒りの感情をどうにか集中力へと転化しているのだろう。しかしそれも恐らく長くは続くまい。そこが決壊したとき、いよいよ打つ手が無くなる。そうなる前に、どうにか手段を考えなければならない。

(だがどうする。何て言えば良い? どう言えばアイツの手綱を握れる?)

 ウナーゾは感情のコントロールが苦手ゆえに、本来ならもっと外に向けて吐き出すタイプだ。しかし、紆余曲折を経て彼女はそれを自制している。今更それを止めろといっても聞く耳は持つまい。かといって、今の彼女にどんな言葉をかけても、せっかく維持している集中を崩す未来しか見えてこない。

(ただでさえ相手が持ち直しちまって昇り調子だってのに、ペアのモチベまで面倒みなきゃあならねえとはな。ま、機嫌悪くさせちまったのはオレもワリィけどよお。クソ、マズイぜこりゃあ。早いとこウナーゾをコントロールしねえと・・・・・・・・・・

 そしてふと、自身の思考の違和感に気付く。

(コントロール?)

 相手の前衛である鈴奈が、俊敏な動きでボールを捉えピストーラの隙を突く。完全に集中力を取り戻し、苦手なはずのボディ気味のショットを上手く捌いてポイントを得る。普段のピストーラであれば、ギリギリ返球できたかもしれない。彼の様子を、ウナーゾがチラリと見てすぐに視線を外した。背を向けた彼女が、溜め息をついたように見える。

 今のポイントでゲームカウントはイタリアから見て1-4となった。

(コントロール? なにを? だれが?)

 ピストーラの頭のなかで、先に答えが形をなす。そしてそれを追いかけるようにして、その答えに繋がる様々な考えが押し寄せる。答えと思考が繋がったとき、自分がやるべきことと、持つべき意志の方向性が決まった。

           ★

時間ですTime

 主審が短い休憩時間の終わりを告げる。良い雰囲気を保ったままコートへ向かう日本ペア。ウナーゾは無言のまま、不機嫌そうなオーラを出しながら一人でコートへ向かおうとする。その彼女の手を、ピストーラが力強く掴んだ。

「なん……っ」
 振り向きざまに悪態をつきかけたウナーゾは、思わず言葉を飲み込む。力強く手を掴んでいるピストーラは、始めは彼女に目を合わせようとせず、握った手を真剣な表情で見つめていた。あまりにも真剣な視線を送るので、ウナーゾは手に何かあるのかといぶかしんだが、そういうわけでもない。黙ったまま手を離そうとしないピストーラに、改めてウナーゾは抗議した。

「オイ、なんなんだよ。手を離せ」
 するとピストーラはようやくウナーゾに視線を向ける。彼の瞳には怒りであるとか、申し訳なく思う気持ちであるとか、そういう分かり易い感情は読み取れない。ただひたすら、ひどく真剣で、強いなんらかの意志が込められているように見える。

「時間です、コートへ入って下さい」
 なかなかコートへ移動しないイタリアペアの様子に、審判が警告を発する。さすがにマズイと思ったウナーゾが審判にすぐ向かうと答え、ピストーラの手を引っ張ってコートへ向かおうと促す。だが、ピストーラは頑なに動かない。

「オイ、なんなんだ。警告取られるぞ。どういうつもりだ」
 焦りを感じるウナーゾ。しかしその一方で、ピストーラの真剣な眼差しを受けて彼が何をやりたいのか薄々と感じ始める。彼はどうにかして、自分の機嫌を取ろうとしているに違いなかった。いつもはヘラヘラしながら、うすら寒いジョーク混じりにウナーゾが暴走しないようにと気を遣っている。そのことに、彼女も前々から気付いてはいた。しかしそれについて、彼女は良いとも悪いとも思っていない。上手く行くこともあれば、気に入らないと感じることもあるからだ。強いて言うなら、あまり良い印象はない。なんだかんだ、コイツは自分を子供扱いしている。

 今回の試合は、イタリアチームにとって非常に重要な試合だ。リーダーであるティッキーの掲げているイタリアテニスの世界的地位復権。そのためにはまずジュニアの自分たちが活躍し、もう一度世界に認めさせる必要がある。足を引っ張ろうとするロクでもない連中については、ジオという新入りのツテを使ってどうにかする策があるらしい。詳細は安全のためにという理由でウナーゾも聞かされていないが、おおよその見当はついている。

 だがとにもかくにも、勝って実績を出さなければ始まらない。予選リーグは必ず突破し、決勝トーナメントで最低でもベスト4以上には入っておきたい。イタリアが入ったDリーグにはスペインやオーストラリアという強豪がいる。勝ちを拾いやすそうな日本との試合は絶対に落とせない。そして進行は1勝1敗。シングルスを任せる二人は実力者だが、勝負に絶対はないし、またぞろ妨害が入る可能性もある。

(そうだ。ここで負けるわけにはいかないんだ)

 改めて考えるまでもなく、それは分かり切っている。だが、思いのほか相手の日本は強い。身長差や、身体的特徴から女性の方が狙い目だと思って展開したが、途中から一気に形勢逆転を食らってしまった。原因は日本ペアが女性である自分ではなく、ピストーラにボールを集め始めたせいだ。本来、ポイントの要所でもない限り、ミックスは女性を狙うのが王道中の王道。だが連中はその逆をやり、集中的にピストーラへボールを集めた。

(そのせいで、どうなった?)

 ボールを集められ、ピストーラはゲームメイクのハードルが上がった。相手の攻撃を凌ぎながら、こちらがチャンスになるよう配球を組み立て、なおかつ、万が一ウナーゾが攻められたときを想定してカバーに備える。彼は、それらを全て一人でやることになった。

(あたしは何をしてた?)

 通常なら、自分に集められたボールをウナーゾが凌ぎ、ピストーラがサポートしながら配球を工夫して形を作り、チャンスができたところをウナーゾが決める。ピストーラはウナーゾのフォローとチャンスメイクの2つ。ウナーゾはディフェンスとオフェンスの2つ。しかし、相手の狙いが変わったことでそれはどうなったか?その変化に対し、自分はどう対応したのか。

――てめえがマヌケだからってことになるな

「15秒経過。イタリア、時間超タイム・過罰則バイオレーション

 審判が告げた警告に会場がざわめく。だが、イタリアの二人は動かない。

(マヌケは、どっちだ)
 自身の失態に遅まきながら気付いたウナーゾは、激しい自己嫌悪に襲われた。だが、彼女の目を見つめるピストーラの瞳に宿る光が、波立ちそうになった彼女の心を不思議と鎮めてくれる。まるで彼女がその思考に辿り着くのが分かっていたと言わんばかりに、落ち着き、寛大さに満ちていた。そしてその目は告げている。重要なのはそこではない、と。

よく分かったよヴァ・ベーネ

 ウナーゾが呟きと共に、ピストーラの手を強く握り返す。互いの視線がぶつかって、言葉を交わさずとも意思を確かめ合う。審判が二度目の警告を発するより前に、二人は駆け足でコートへ向かった。

                                 続く
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