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第56話 光を奪い去る光

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 高鬼亮たかぎりょう、16歳。祖父は昭和最後の横綱として活躍した大国だいこくという四股名の相撲取りであり、父親も大関として平成初期に台頭してきた外国人力士と互角に渡り合った人気の力士だった。リョウは祖父が引退後に開いた大国だいこく部屋を幼少期の遊び場として育ち、祖父や父に並ぶ立派な力士になることを期待されていた。ところが、身体は力士として育つのに申し分のない素養を充分に兼ね備えていたリョウは、性格は非常に穏やかで争いごとを好まない性分だった。言うなれば、リョウには力士としての闘争心が決定的に欠けていたのである。

――この子には、この子にあう道があるかもしれない。

「闘争心など激しい稽古を続けていれば嫌でも育つ」という祖父の主張に逆らい、リョウの父親は彼を無理に相撲という世界に閉じ込めることはしなかった。身体の大きさに反して気が小さく、しかし心優しい少年は、聡明な両親の手ほどきによって大切に育てられ、友人に誘われて始めたテニスという球技に夢中となる。

 リョウの大きな体と運動センスは、テニスを始めた当初とても大きなアドバンテージとなった。しかし、一緒にテニスを始めた沼沖文学ぬまおきぶんがくはテニスにおける戦略的な思考を、君塚政基きみづかまさきは非情に優れたタッチセンスを見せ、パワーだけでは勝つことのできないテニスの奥深さを、リョウはそれぞれから学んだ。

 やがて、マサキと組むダブルスが自分にとって一番テニスを楽しめると感じ始めると、2人は世界一のペアを目指そうという夢を共有する。小学生最後の正月、親族一同が集まる宴会の場で「相撲で日本一を目指すより、テニスで世界一を目指すんだ」と宣言したとき、へそを曲げていた祖父はようやく、素直に孫を応援するようになった。

           ★

(サーブを攻略されたことなんて、今まで何度もあったじゃあないか)
 リョウが胸を張って最大の武器だといえるのがサーブだ。あまり大口を叩くのは好きじゃないリョウは言葉にこそ出さないが、ことサーブに関してだけは絶対的自信をもっている。それは尊敬する先輩の黒鉄徹磨くろがねてつまでさえ上回ると密かに思うほどで、虚勢ではく事実周りもその実力を高く評価していた。

 しかしそのサーブが、見事に攻略されてしまった。無論、初めてではない。だが、こうまで真正面から打ち破られた経験はそう何度も無い。彼のサーブを攻略するのは、常に年上で格上の連中ばかりであったし、彼らとてあれこれ工夫を凝らしてようやくという印象を持っている。同世代のジュニア選手に突破されたことなど数えるほどしかなく、ここ最近では記憶にないぐらいだった。

「すまねぇ、デカリョウ。オレがあいつらを見くびった」
 ペアのマサキが、大げさに申し訳なさそうな表情を浮かべて謝る。基本的に試合の戦略を組み立てるのはマサキに任せており、リョウはその方針に従い最大限のパフォーマンスを発揮するべく全力を賭す。司令塔はマサキ、自分はその実行係。それが2人のスタイルだ。

 1stセット、ブレイクを許してしまった日本ペアは、すぐさま相手のサーブをブレイクすべく奮戦した。しかし対戦相手のイタリアペアは、極めてクセの強いサーブで2人を翻弄し、3度のデュースを経てキープされてしまう。内容的には惜しくも、結局1stセットを落としてしまった。自分がブレイクされなければタイブレークにまで持ち込めたかもしれないと考えると、リョウはマサキに対して申し訳なさでいっぱいになる。考えることを任せている以上、自らの役割を果たせないでどうするのか、と。

「しょげんなよ、心配すんな。いったん仕切り直しだ。相手はつえーよ。デカリョウのパワーは頼りにしてっけど、それ頼みで挑むにゃ相手が悪い。こっちも腰を据えて相手をしなきゃな。2ndセットはきっちり作っていこう・・・・・・。コース重視できっちりカタにハメてく。おめぇも、なんか思いついたら言ってくれよ」

 マサキはそういうが、デカリョウは試合で相手を分析したり先を読むのが得意ではない。彼には、テニスというものはそう易々と頭のなかで描いた展開になるとは思えないのだ。しかし、ATC所属のダブルスのスペシャリストである桐澤姉妹などは「ダブルスは盤上ゲームと一緒。ほぼパターンで決まる」と豪語する。確かに女子であれば、そういう面もあるだろう。それに異存はない。だが、男子ダブルスはそうもいかない。ハイレベルな領域に行くほど、セオリーもへったくれもないスピードとパワーの世界になるとデカリョウは感じるし、事実世界のトップジュニアたちはそういうテニスをする。

(でも、本当は違うんだよな。セオリーを身体にしみ込ませたうえで、それを高速化しているのが現代テニスなんだ。ただシンプルにスピードとパワーでゴリ押すわけじゃない。オレはつい、考えたり先を読んだりするのを嫌がっちゃうなあ。でもなあ)

 対人スポーツであるテニスには、自分の意図、相手の意図が存在する。いかに自分の戦略通りに相手を崩し、必勝パターンに持ち込むかが勝利の鍵を握っているわけだが、ここにもう一つ『不測の事態』が介在してくるのだ。高速でボールを打ち合う以上、いくら意図があってもその通りになるとは限らない。

 将棋やチェスの駒なら、自分が間違えなければ意図した場所に駒を必ず設置できるだろう。だがテニスの場合、打ったボールが必ずしも自分の意図通りになる保証はない。ストレートに打つつもりがセンターに、ワイドに打ったつもりがアウトに、相手の上を通すつもりが正面に向かってしまうなど、それは例えプロであっても頻繁に起こり得る事態だ。

『私は常に完璧に打っているわけではない。しばしばスイートスポットを外す。大切なのは、いかに上手く打ち損なうかだ』とは、アンドレ・アガシの言葉だ。つまりプロとて常に思い通りに打てているわけではないし、そしてそれが不測の事態としてセオリーに歪みを生じさせる。

(セオリーだけ意識すると、とっさに反応できないんだよなあ)
 リョウの反射神経に難がある、というわけではない。単純にこれは苦手意識の有無が問題だ。リョウは『セオリーを軸にプレイしながら、臨機応変に動く』という心理的な身軽さが足らず、そこが不得意だ。言い換えれば、彼は目の前の1球1球に集中する方が性に合っている。思考的瞬発力の乏しい彼は、反面、瞬間的集中力の高さとその持続力に長けているのだ。

(でもマサキのいうとおり、しょげてばかりもいらんねえや。せめて相手の弱点が何かないか、注意してよく見よう。とっかかりに気付ければめっけものぐらいで、いつも通りいくさ)

 相手を観察して分析するのは苦手だが、ブレイクされた責任を感じるのであればウジウジしていても仕方がない。そう思ったリョウはひと足早くベンチから立ち上がり、コートの脇で呼吸を整える。そしておもむろにシューズと靴下を脱ぎ、大きく足を開いて低く腰を落とし、ゆっくり、しかし力強く四股しこを踏んだ。

「よいしょお!」
 比較的柔らかい素材であるレイコールドだが、アスファルトの一種であることに変わりはない。だがリョウはそれをものともせず裸足のまま遠慮なく足を振り下ろし、どすん、どすんとコートを踏み鳴らす。その様子をみた観客席から、囃すような口笛や笑いが起こった。

 リョウはそれを無視して、今の自分にできることを精一杯全力でやるという彼のいつも通りのモットーに則り、崩れかけた心にくさびを打ち込むつもりで四股を踏む。叩きつけた足の裏からの振動が、リョウの身体全体に響き渡る。じんじんとした痺れとは正反対に、リョウは精神的な揺らぎが静まっていくのを実感していく。

「いいぜ、その調子でいこう」
 マサキが嬉しそうに歯を見せて親指を立てた。まだ、開幕が終わったばかり。次をしっかり押し切って、千秋楽ファイナルセットに持ち込んでやろう。白星を掴むのは自分たちだと自らに言い聞かせ、リョウは仕上げとばかりに大きなお腹を景気よく引っ叩いた。

           ★

 コートの上で繰り広げられる一進一退の攻防を、至極どうでも良さそうに眺める男の姿が観客席にあった。いかにもテニスファンといった風体をしているが、目の前の試合にはまるで興味を示していない。それどころか、視線は観客席通路と、その出入り口に何度も向けられる。

(いつ指示・・が来る? 逃げ切れる余裕がねぇと困るぜ)
 最初に聞いていたよりも、大会のセキュリティレベルが上がっていたのは正直気に入らなかったが、提示された金額はリスクに見合うと思えた。やることはさして難しくない。GOサインが出たらよく狙いを定めてスイッチを押すだけ。それをしたらさっさとケツをまくれば良い。自分のやることを頭の中で反すうしながら、ひたすら待つ。男は初めからテニスなどに興味はなく、仕事をこなすために仕方なくここにいるのだ。

(クソ、なげぇな)
 だらだらと続く球の打ち合いに、段々と眠気を覚えてくる。よくもまぁ飽きもせず同じ作業を繰り返しできると感心してしまう。しかし、スポーツバブルによって世界的に価値が跳ね上がっているスポーツギャンブルのお陰で、こういう仕事・・・・・・が回ってきたのだ、文句はいってられない。ただあまりの競技時間の長さにうんざりしてしまうのはどうしようもなかった。

 男が眠気と戦っていると、会場がにわかに色めきだった。どうやら、日本のペアが盛り返したらしい。ということは、そろそろ・・・・かもしれない。そう思い、座席の下に置いた缶ビールをあおる。ぬるい。さっさと終わらせて行きつけのバーにでも行こうとぼんやり考える。すると、ワイヤレスイヤホンに雑音が混じり、声が聞こえた。

「聞こえているか」
「あぁ」
「間もなくだ。念のため準備と試射・・しておけ」
「試射? バレねぇか?」
「誰にも見えやしない。くれぐれもしくじるなよ」
承知したラードナ

 コートの上では日本人ペアが両手でハイタッチしている。イタリアペアは何事かを相談し合うように言葉を交わしていた。その様子を、男は嘲るような笑みを浮かべながら眺めている。

(運が良かったな、お前等。オレという味方・・がいて)

           ★

 2ndセットはタイブレークの末に、日本ペアが奪取に成功する。デカリョウのサーブをコントロール重視に変更し、ゲームメイクからの展開に切り替えたのが功を奏した。とはいえ、イタリアペアの守りは堅く、互いにブレイク無しのキープ合戦でファイナルまでもつれるというまたも息の詰まる展開であった。

(タイブレであの強面金髪のサーブをミニブレイクできたのはマジで助かったぜ)
 マサキはドリンクを飲み干し、汗を拭く。2セットを終えると、さすがに身体の奥の方から疲労がもたげてくる。練習とは違い、本番の試合は肉体よりも精神的な疲労が大きい。横を見ると、デカリョウはバナナをもりもり食べカロリーを補給中。1stセット終盤でサーブを崩され危うくそのままかに思われたが、どうにか持ち直してくれた。頼もしい相方と同調するように、マサキもバナナを取り出して口に放り込む。ほどよく熟した甘みが、ほんの少し疲れを癒してくれた。

(2ndセットでデカリョウのサーブをコントロール重視に切り替えたことで、ファイナルセットではまたスピードサーブを活かせる場面が必ず出てくるはず。それと、ブレイクを狙うなら強面金髪のサーブだ。野郎のサービスゲームに一番付け入る隙がある)
 マサキは短い休憩中でも思考を止めず、次のセットの戦略を巡らせた。

(よしよし、上出来。この調子でいくぞ。オレのサーブは世界一)
 デカリョウは高めた集中力を途切れさせないよう、余計な事は考えない。

 一方、イタリア側のベンチではペアの2人が同じようにエナジージェルを口にしている。会話はせず、お互い次に迎えるファイナルセットに向けて頭の中で戦略案を練っている様子だっ。

(奴等、次はオレのサービスゲームを狙ってくるだろう。これ以上にも増して配球と球種をシビアに選択しなきゃあならねえ。それに、デカブツのサーブでまたビッグサーブを使ってくるはずだ。タイミングは掴んでるが、まるまる1セット間があいてる。初っ端で通用しないことを分からせねえとな)
 ロシューは自ペアの隙と相手の取り得る策戦の対抗策を思案する。

(どうするかな、そろそろ奴等、オレのサーブの回転や配球に慣れてきてるよな。でも、組み合わせと使いどころを変えればまだまだやってないパターンはある。きっと次もキープがカギになるだろうから、単調になったり得意なものに頼らないように気を付けよう)
 リーチは自身の手札を確認し、カードを切る為のあらゆるパターンを想定する。

 この段階において、勝利と敗北は両ペアの間を波間に漂う木の葉のように、いずれかに寄ることなく揺蕩っていた。このときまでは。

           ★

 セットカウント1-1
 ファイナルセット ゲームカウント 3-3

 2ndセット同様、立ち上がりから一進一退の攻防が続く。日本もイタリアも、互いに手の内はほぼ出し尽くしたといっても過言ではない。残るはここまでで場に出たカードのうち、いつどのタイミングでまたそれらを切っていくのかという読み合いの勝負。

(さて、次はどうするか)
 サーブを打つ前のルーティンでボールをつくロシューは、頭の中でこれまでの展開をおさらいする。リターンのデカブツは、身体が大きい選手の例に漏れず膝より低いバウンドやボディに飛び込んで来るボールがやや不得手。無論、相手もそれを承知しており、そこは常に警戒されている。重要なのはそこでボールを打たせるにはどういう組み立てをするか。順番を誤れば、たちまちカウンターで形勢は不利になるだろう。

「?」
 ふと、顔の前を何かが過る。虫か、はたまた気のせいか。ちらり、ちらりとロシューの顔の周りで何かが不規則に動く。つい、ロシューは顔をあげてしまう。コートよりも高い位置に視線が向いた瞬間、それ・・は来た。

「ッ!」
 ロシューの左目の視界が、白く消失する。痛みは無い。だが、その異変の意味にロシューはすぐさま気付き、咄嗟にラケットとボールを手放し、両手を交差して頭を守りその場に伏せる。最悪、次の瞬間には両手もろとも頭を吹き飛ばされるだろうが、取れる手段が他になかった。

「ロシュー兄ぃ!?」
 ラケットの落ちる音で異変に気付いたリーチが振り返って叫ぶ。ロシューは来るかもしれない衝撃に備えるが、3秒、5秒経っても何も起きない。左目の視界が、今度は太陽を直接見てしまったときのように、黒い影に覆われていることに気付く。会場のざわめきが背中で感じられ、ロシューはどうやら追撃は無いと悟った。ならば、さっきのは照準を合わせるためのポインターではなく、Blinding Laser Weapon目潰しレーザーか。

(そうか、そりゃ狙撃なんて派手な真似はできねぇよな)
 瞬時に最悪を想定したロシューだったが、冷静に考えればさすがにコートのうえで直接の攻撃はしてこないだろう。だが、結果的に大袈裟な行動だったとはいえ、即座に回避行動をとったお陰でロシューは被害を最小限に抑えることができた。

「フルテット選手、どうしましたか。具合が悪いのですか?」
 主審が身を乗り出しながら声をかける。駆け寄ったリーチの手を借りて起き上がるロシュー。イタリアのベンチにまだ無事な右目の視線を向けると、険しい表情をしているティッキーと目が合う。そのまま小さく頷き、来たぞ、とアイコンタクトで報せると、普段滅多に表情を変えないティッキーの顔に驚愕の色が浮かんでいた。

「ロシュー兄ぃ、どうしたんですかい?」
「心配するな。どうってことはない。ちょっと蜂が襲ってきただけだ」
 そう言いながら、ロシューは人差し指を観客席に向ける。
「え? 向こうになにか」
 振り返ろうとするリーチの胸倉を、思い切り掴むロシュー。ぐげ、っと苦しそうな声をあげるリーチ。そして、ロシューは小声で、しかし強い緊迫感に満ちた声色でいった。

「いいか、これから先、何があっても絶対に観客席に視線を向けるな。いいか、絶対にだ。やつらはレーザーを使ってくる」
「え、え、えぇ? れ、レー」
「黙れ。捜索はティッキーたちがやる。オレ等は試合を続けるんだ」
「まさかロシュー兄ぃ、目を」
「黙れ。そんなこたあいい。やるべきことをやるぞ。いいな」

 それだけいうと、ロシューはリーチをポジションにつかせ、主審と日本ペアに時間をとらせたことをジェスチャーで謝罪する。日本のペアは突然の出来事に面食らった様子で、一体なにが起きたのか分かっていない。相手の反応を鋭く観察したロシューは、即座に日本は関係なさそうだとあたりをつける。根拠はないが、奴らは恐らくシロだろう。となれば。

(クソ野郎ども)
 ラケットとボールを拾ったロシューの心に、情熱とは異なる昏い火がともる。

(そうまでして邪魔をしてぇか。オレ等イタリアを食い物にしてぇか)

 人は、繁栄のために犠牲を必要とする生き物だ。食料しかり、資源しかり、何かを犠牲にし続けるのは人間の持つ逃れようのないさが。そしてその対象は、他ならぬ人間にも及ぶ。人が繁栄するために、人を犠牲にするというのは、何一つ矛盾することではない。

 勝つか、負けるか。食うか、食われるか。結局のところ、人の世はそれが真理なのだとロシューは思う。ティッキーに言わせれば、そんなものは勝者に都合の良い詭弁だとのことだが、知ったことか。現に今、自分たちを取り巻くこの状況は、まさしくやるかやられるかなのだ。

(引かねぇぞ。もう、一歩たりとも引かねぇ。引いてたまるか)

 ラケットを握るロシューの左手に力がこもる。コートの中の戦いも油断できないが、外で起こっている事態も看過できるものではない。奴等の狙いを挫くには、中と外、両方に気を払う必要がある。顔を伝う汗の雫が地面に落ちたとき、もう一つの戦いの幕が、静かに上がった。

                                続く
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