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第44話 勝負の摂理
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「聖くん、団体戦のシングルスにどうしても出たいって、本気で思ってる?」
柔らかな茜色の夕陽が照らす真夏のプールサイド。白い水着姿のミヤビが、申し訳なさそうにしながらも意を決したように尋ねた。その言葉は思いのほか鋭く聖の胸に突き刺さり、金縛りにでもかかったような錯覚を覚え、身を固くしてしまう。
「責めてるつもりは無いの。そう感じたらごめんね」
聖の様子を見て、ミヤビがなだめるように声をかけて優しく続ける。
「聖くんが本気でプロを目指してるっていうのは分かってるんだ。そこは全然疑ってない。誰より一生懸命に練習してると思うし、時々怖いぐらいの気迫を感じることがあるから。私も、聖くんのそういうところは見習わないといけないなって思ってるんだ。でもそれとは別に、たまに聖くんがすごく遠慮してるように見える時があるの」
ミヤビの瞳には、聖に対する批難の色はまったくない。それどころか、少しでも聖の心に寄り添って顧慮するような色を浮かべている。聖とミヤビは普段それほど言葉を交わさないが、それでもミヤビは聖が気付かぬうちに彼を気に留めてくれていたようだ。彼女は普段から、大体いつも人の輪の中心にいる。同世代の女子や男子、コーチやスタッフ、一般クラスの大人たち、誰かしらがいつも彼女の周りにいて、ミヤビはその一人一人と丁寧に向き合っている。そんな彼女の姿を聖は遠目から見て、まるで物語に出てくる聖女かなにかのようだと思ったことがある。
そんな彼女の様子と、彼女のあまり幸福とは言い難い生い立ちを併せて考えれば、彼女がいかに他人を大切にしようとしているのかは嫌でも分かる。彼女にとってATCで関わる多くの人たちは家族も同然で、かけがえのない存在なのだろう。そして出会ってまだ間もない聖についても、彼女は当然のように受け入れ大切にしようとしてくれている。だからこそ、ミヤビは聖が何かを踏み切れないことを察したのかもしれない。
「今度の国際ジュニアが、昔あったジュニアデビス杯とジュニアフェド杯を複合する形で出来た新しい大会なのは知ってるよね。海外のトップジュニアと戦えること以上に、私たちATCの選手にとっては世界に向けて名前を売る重要な機会でもある。テニスは個人種目だけど、世の中の流れ的にジュニアの団体戦が注目を集めてるから。それにね、日本はまだこの大会で優勝できてない。最高成績はベスト4。私たちが結果を出すことは、私たちやATCは勿論、あとに続く若い世代にとってすごく意味のあることなの」
大会の立ち位置やそこで結果を出すことの意義については、聖も把握している。だがミヤビが言いたいのは、恐らくそういう建前の話ではないだろう。もっと感情的な話、いうなれば団体戦に対する気構えのようなことだと聖は察した。
「さっきはつい変なこと言っちゃったけど、私は聖くんがシングルスをすることに反対なんかじゃないよ。実力的に十分その資格があると思ってるの。ただその、なんて言ったらいいかな……私には聖くんが何かに悩んでるというか、迷っているように見えることがあって」
言葉を選んでくれているが、つまりミヤビは聖が団体戦のシングルスを任されるという事に対する熱意や情熱のようなものを感じ取れずにいる、ということなのだろう。そしてその指摘が的を射ているからこそ、聖は隠しごとを見抜かれたような気がしたのかもしれない。
誠実に自分と向き合おうとしてくれるミヤビに対し、聖はなるべく嘘や誤魔化しなどは言わずに話をしたいと思った。しかし、ありのままを全て打ち明けるわけにはいかない。
「ミヤビさんは」
自然と、聖の口が開く。
何を言い出すのか自分でも分からないまま、勝手に言葉が続いた。
「自分が勝つことで、相手の人生を大きく変えてしまうことについて、どう思いますか」
口にした言葉を自分で聞いて、聖は随分と大袈裟な表現だと思いながらも、胸につかえていた何かがころりと落ちるような気がした。そして無意識に口から出たその言葉こそ、聖が能力を使用することをためらう大きな要因であると自覚できた。
単純に能力を使うだけならば、恐らくここまで聖も迷ったりしないだろう。だが、プロスポーツの世界に入っていく以上、勝敗という結末は必ずついて回る。そして勝利と敗北には、明確な差が存在する。片方には栄光、片方には挫折。逃れようのない、勝負の摂理。
自分だけが能力を使う事への罪悪感。そして、それによって発生する相手にネガティブな結末を押し付けるという事実。前者については、自分の目的を叶えるために覚悟を固めることが出来ていると聖は自己分析している。だが、後者については明確な答えが出せずにいた。そのことを、今ようやく自覚できたのだ。聖の脳裏にふと、先日戦った海外の選手の、悔しさを押し隠し相手を称える顔が浮かんだ。そして、そのイメージから逃れるように、ミヤビに視線を向ける。
「なんとも、思わない」
予想外に冷たい声色で、ミヤビがそう言った。一瞬だけ雲が太陽を遮り、周囲が暗くなる。気温には何一つ変化などないはずなのに、不思議と何かが冷めていくような錯覚を覚えた。
ミヤビの言葉を耳にして初めて、聖は自分が彼女に優しい言葉を求めていたことに気付く。同時に、冷たい声色の先に確固たる覚悟が見えた気がして、聖は自分に足りないものがなんなのか、その正体を理解する。果たして自分に、その種の覚悟を持つことができるだろうか。それらは正々堂々と、自他ともに胸を張れる努力と研鑚を積んでいる者だけが持ち得る類のものだ。ゆえに、自分からは遠く離れたところにある気がして、聖の心に薄っすらと影が差した。
「ようにしてる」
そう続け、ミヤビが優しく微笑む。雲がゆっくりと、夕陽の前を通り過ぎる。いっそう濃くなった茜色の陽射しが、世界を照らす。
「言いたいこと、わかるよ。でも、勝負の世界だからね。もっとも、私もまだプロじゃないから、あまりエラそうなことは言えないけど」
ミヤビはアイスティを一口飲んで、妙に大人びた表情を浮かべて言葉を紡いだ。
「私もね、考えたことある。中二のときだった。相手は一つ上で、その大会で優勝することに、それこそ命賭けてるぐらいの気迫でさ。詳しくは知らないけど、優勝することが何かの条件になってたんじゃないかな。私が先にマッチポイントを握ったときの相手の表情は、今でも覚えてる」
ミヤビはその時のことを思い出すように、大きな目を細めた。聖もそれにつられるようにして、その時のことをイメージしてみる。
対戦相手の、大切な何かが賭かっているであろう試合
優勢で進行し、いよいよ決着を迎えようという直前のポイント
ふと視線を向けた先にあった、相手の表情
矢を射られ、血を流しながら逃げる子鹿が、遂に追い詰められた時ような
戦意と哀願と諦観が複雑に入り混じった、その顔
打ち込んだショットが、ポイントと共に彼女から栄光を奪う
「でもね、そのことについて私が胸を痛めるのは、きっと優しさじゃないと思う」
ミヤビの物言いは、まるで自分に言い聞かせるようでもあった。勝負の場で起こること、それに伴って引き起こされる結果。それらに対する正しい認識を持つことは、勝負の世界に身を置く者にとって欠かせない価値観だ。彼女は既に、それを持っている。
「逆に、私が敗ける側だったとしたら、勝った方がそんなことを気にしてたらヤダな。そんなこと思うぐらいなら、じゃあ負けてよって思っちゃう。私に勝ったなら、どうだ! 自分の方が強いんだ! 参ったか! って堂々としてて欲しい。そうじゃない?」
細い腰に手をあて顎をしゃくり、胸を張って大げさに演技するように言って、照れ笑いするミヤビ。胸元で白い水着のフリルが揺れる。その振る舞いがなんだかATCの他のメンバーと似ていて、聖はつい吹き出してしまう。それを見てミヤビも、おかしそうに笑った。
★
ニューヨーク州フラッシング地区、現地時間深夜0時過ぎ。
窓の大きな部屋だった。ニューヨークの夜景が存分に楽しめることが売りの一つらしく、眼下に広がる光景は、マンハッタン地区のそれに勝るとも劣らない眺めと言えた。だが、いかに美しく彩られた夜景といえども、男の陰鬱とした気分はちっとも晴れなかった。
グランドスラム、全米オープン予選敗退。
本戦出場まで本当にあと少しだった。マッチポイントを2つ握り、勝利を確信できたと思ったら、相手の開き直りともいえる予想外のプレーでチャンスを逃し、あっという間に形勢は逆転した。若手の選手が相手ならまだしも、自分よりも年上の選手に敗北を喫したことが、渡久地菊臣の気分をより一層暗いものにした。
「返事くらいしろよ」
不意に声をかけられ振り向くと、短く髪を刈り上げた屈強な男が不機嫌そうな表情を浮かべて立っていた。渡久地よりも背は低いが、身体の厚みは相手の方が遥かに上だ。こちらの気分などお構いなしに、今にも怒鳴り散らしかねない威圧的な態度を隠そうともしない。男はソファに腰掛けると、下から渡久地を睨み付けるようにして言った。
「で? 準備はできてんだよな?」
その雰囲気は同じアスリートとは思えないほど恫喝的で、表情には陰がある。彼の本性を知るまで、そういう態度は一種のストイックさの表れだと思っていたし、他人に一切媚びようとしない振る舞いは、渡久地に憧れの念を抱かせた。我が道をゆき、自分こそが最強に相応しいと信じて疑わない。その強い信念に基づいた王者の貫禄さえ感じさせる彼の言動に惹かれ、教えを乞うた。
「えぇ、交渉は成立してますよ、金俣さん」
男の名は、金俣剛毅。渡久地と同じ、元ATC出身の男子プロテニスプレイヤーだ。年齢は今年で34歳。渡久地の先輩にあたり、ATC出身の選手で一番初めに日本ランキング1位になった男でもある。今でこそ、期待の若手である黒鉄徹磨の後塵を拝しているが、実力的に劣っているというわけではない。
「そうか、さすがだな」
わざとらしく嬉しそうな声色で大げさに喜んでみせる金俣。口角をあげて笑みを浮かべるが、その瞳は全く笑っていない。思い返せば、渡久地はこの金俣が心から笑っているところを見たことが無い。同じ人間であるはずなのに、彼の瞳はまるで爬虫類か何かのように無機質で常に相手を観察しているような雰囲気がある。
「じゃあこれで、オレの全米1回戦突破は決まったようなものだな。キク、オマエのお陰だ。オマエがこうしてオレに貢献してくれるからだ。心から感謝してるぜ」
金俣は立ち上がると、渡久地の肩に手を回してポンポンと称える素振りを見せる。目は笑っていないが、実際のところ喜んでいるのは確かだ。喜ばないはずがない。予選を見事突破した選手に対し、渡久地がある提案を持ち掛け、相手がそれに乗ったのだから。
「ところで、だ」
金俣の声のトーンが落ちる。肩に回された腕が、かすかに力を帯びた。
「オレは確か、オマエに今日ストレートで負けるよう言わなかったか?」
渡久地の顔を覗き込むように、金俣が顔を近づける。目を合わせない渡久地。
「接戦だったからなぁ? 集中してついうっかり、ってことも有り得るか。しかしなぁ、試合中に相手が『もしかして騙されてるのでは』なぁんて考えたらどうするつもりだったんだ? せっかくの約束を反故にされちまう恐れがあったんじゃないか? デリケートな話だからなぁ。ちょっとした心変わりで台無しになることは充分あるよなぁ? なァ?!」
金俣は渡久地の胸倉を引っ掴み、そのまま窓に押し付ける。渡久地の後頭部が窓に当たって、鈍い音が鳴る。金俣は渡久地の心の中に土足で入り込むように、さらに顔を近づけ、低い声で囁いた。
「地元のお客さんは予選からもお楽しみなんだよ。年内最後のグランドスラム、一大イベントだからな。前座のレースとはいえ大勢の客が参加してるんだ。なのに、馬が勝手なことしちゃダメだよなぁ? オレの立場はどうなるんだ? オマエがこんなホテルを拠点にできているのは、誰のお陰だ?」
金俣が何を言わんとしているか、渡久地には充分すぎるほど分かっている。
「申し訳ありません……金俣さんのお陰です。つい、勝ち気が出てしまって」
ふり絞る様にそう口にする渡久地。金俣は渡久地の真意を確かめるように、しばらくじっと目を見つめてくる。嘘や隠し事、あるいは反抗心さえも彼は許さない。相手が自分に対してすべき態度は、絶対服従以外ありえないと教え込むように無言の圧力をかける。
「まぁ、いい。今回だけは不問にしてやる」
そう言って、金俣は手を離す。そしてまたソファに座り、足を組んだ。拘束から逃れた渡久地は、短い呼吸を繰り返す。気付くと、両ひざが小刻みに震えていた。今しがたまで向けられた感情がどういうものだったのか、渡久地はよく知っている。
「来年だ」
金俣がそうつぶやいて、渡久地に視線を向ける。
「オマエがグランドスラム本戦出場が当たり前になるのは、早くて来年からだ。今の実力を維持できれば、新星の助力がなくたってやっていける。全仏の予選突破は他ならぬオマエの実力だったんだからな。だが、今はオレの駒に徹しろ。余計なことしてRBの連中が絡んでくると面倒なんだ」
今しがた渡久地に行った行為の言い訳でもするように、金俣は言う。
「それに、ITF、ATP、WTA、各種競技団体の統合話や、ポイントシステムの抜本的見直し、IOC関連の話もどう転ぶかわからねぇ。舞台があちこちぐらついてる最中に飛び出すのは間抜けのすることだ。ただでさえ今のランキング上位陣を崩すのもままならねぇんだから、慌てるんじゃねぇよ」
それ以外にも、テニスに留まらずスポーツそのものの在り方が世界規模で変わろうとしている最中であることを、渡久地は知っている。正直なところ、話のスケールが大き過ぎていち選手でしかない渡久地にはなんら実感のわかないことではあるが、金俣が言うように世界は今大きく動いている。そのことが、今現在自分のしていることとどう関わってくるのか今一つ判然としないものの、上手く立ち回ることが重要だと金俣はいつも言っている。
「面倒に思うかもしれないがな、オレ達がいるのは勝負の世界だ。勝つためにこの世界に身を置いている。もっと先を見ろ、渡久地。オレたちみたいな凡人が世界の頂点を目指すなら、やれることは全てやるべきだ。自分たちが勝つためにな。そしてそれはつまり、相手を負かすってことだ。オレたちは敗北の押し付け合いをするために生きている。それとも、中途半端な才能を持て余して、出ない結果を追い求めた挙句に、人知れず引退して、誰の記憶にも残らぬままくたばるのがオマエの望みか?」
その言葉が耳に入るや、渡久地は激しく首を横に振る。冗談じゃない。そんなことは有り得ない。それを回避するためなら、自分はどんなことだってする。そういう覚悟を決めて戦いに挑んでいる。渡久地は拳を握りしめ、自分の甘さを握り潰す。
(それでいい)
渡久地の様子を見て、金俣はほくそ笑む。
そして満足した金俣は立ち上がり、渡久地に背を向けた。
「そうだ、オマエ、ATCのジュニアについて情報をまとめとけ」
金俣は部屋から出ようとして立ち止まり、そう言った。
「ジュニア? なんでまた?」
「沙粧に面倒事を頼まれた。あのアマ、まだ篝を追い出してねぇ」
「面倒事って?」
ケッ、と吐き捨てるように金俣が嗤う。
「ガキのお守りだ。国際ジュニア団体戦、オレに監督をやれときた」
続く
柔らかな茜色の夕陽が照らす真夏のプールサイド。白い水着姿のミヤビが、申し訳なさそうにしながらも意を決したように尋ねた。その言葉は思いのほか鋭く聖の胸に突き刺さり、金縛りにでもかかったような錯覚を覚え、身を固くしてしまう。
「責めてるつもりは無いの。そう感じたらごめんね」
聖の様子を見て、ミヤビがなだめるように声をかけて優しく続ける。
「聖くんが本気でプロを目指してるっていうのは分かってるんだ。そこは全然疑ってない。誰より一生懸命に練習してると思うし、時々怖いぐらいの気迫を感じることがあるから。私も、聖くんのそういうところは見習わないといけないなって思ってるんだ。でもそれとは別に、たまに聖くんがすごく遠慮してるように見える時があるの」
ミヤビの瞳には、聖に対する批難の色はまったくない。それどころか、少しでも聖の心に寄り添って顧慮するような色を浮かべている。聖とミヤビは普段それほど言葉を交わさないが、それでもミヤビは聖が気付かぬうちに彼を気に留めてくれていたようだ。彼女は普段から、大体いつも人の輪の中心にいる。同世代の女子や男子、コーチやスタッフ、一般クラスの大人たち、誰かしらがいつも彼女の周りにいて、ミヤビはその一人一人と丁寧に向き合っている。そんな彼女の姿を聖は遠目から見て、まるで物語に出てくる聖女かなにかのようだと思ったことがある。
そんな彼女の様子と、彼女のあまり幸福とは言い難い生い立ちを併せて考えれば、彼女がいかに他人を大切にしようとしているのかは嫌でも分かる。彼女にとってATCで関わる多くの人たちは家族も同然で、かけがえのない存在なのだろう。そして出会ってまだ間もない聖についても、彼女は当然のように受け入れ大切にしようとしてくれている。だからこそ、ミヤビは聖が何かを踏み切れないことを察したのかもしれない。
「今度の国際ジュニアが、昔あったジュニアデビス杯とジュニアフェド杯を複合する形で出来た新しい大会なのは知ってるよね。海外のトップジュニアと戦えること以上に、私たちATCの選手にとっては世界に向けて名前を売る重要な機会でもある。テニスは個人種目だけど、世の中の流れ的にジュニアの団体戦が注目を集めてるから。それにね、日本はまだこの大会で優勝できてない。最高成績はベスト4。私たちが結果を出すことは、私たちやATCは勿論、あとに続く若い世代にとってすごく意味のあることなの」
大会の立ち位置やそこで結果を出すことの意義については、聖も把握している。だがミヤビが言いたいのは、恐らくそういう建前の話ではないだろう。もっと感情的な話、いうなれば団体戦に対する気構えのようなことだと聖は察した。
「さっきはつい変なこと言っちゃったけど、私は聖くんがシングルスをすることに反対なんかじゃないよ。実力的に十分その資格があると思ってるの。ただその、なんて言ったらいいかな……私には聖くんが何かに悩んでるというか、迷っているように見えることがあって」
言葉を選んでくれているが、つまりミヤビは聖が団体戦のシングルスを任されるという事に対する熱意や情熱のようなものを感じ取れずにいる、ということなのだろう。そしてその指摘が的を射ているからこそ、聖は隠しごとを見抜かれたような気がしたのかもしれない。
誠実に自分と向き合おうとしてくれるミヤビに対し、聖はなるべく嘘や誤魔化しなどは言わずに話をしたいと思った。しかし、ありのままを全て打ち明けるわけにはいかない。
「ミヤビさんは」
自然と、聖の口が開く。
何を言い出すのか自分でも分からないまま、勝手に言葉が続いた。
「自分が勝つことで、相手の人生を大きく変えてしまうことについて、どう思いますか」
口にした言葉を自分で聞いて、聖は随分と大袈裟な表現だと思いながらも、胸につかえていた何かがころりと落ちるような気がした。そして無意識に口から出たその言葉こそ、聖が能力を使用することをためらう大きな要因であると自覚できた。
単純に能力を使うだけならば、恐らくここまで聖も迷ったりしないだろう。だが、プロスポーツの世界に入っていく以上、勝敗という結末は必ずついて回る。そして勝利と敗北には、明確な差が存在する。片方には栄光、片方には挫折。逃れようのない、勝負の摂理。
自分だけが能力を使う事への罪悪感。そして、それによって発生する相手にネガティブな結末を押し付けるという事実。前者については、自分の目的を叶えるために覚悟を固めることが出来ていると聖は自己分析している。だが、後者については明確な答えが出せずにいた。そのことを、今ようやく自覚できたのだ。聖の脳裏にふと、先日戦った海外の選手の、悔しさを押し隠し相手を称える顔が浮かんだ。そして、そのイメージから逃れるように、ミヤビに視線を向ける。
「なんとも、思わない」
予想外に冷たい声色で、ミヤビがそう言った。一瞬だけ雲が太陽を遮り、周囲が暗くなる。気温には何一つ変化などないはずなのに、不思議と何かが冷めていくような錯覚を覚えた。
ミヤビの言葉を耳にして初めて、聖は自分が彼女に優しい言葉を求めていたことに気付く。同時に、冷たい声色の先に確固たる覚悟が見えた気がして、聖は自分に足りないものがなんなのか、その正体を理解する。果たして自分に、その種の覚悟を持つことができるだろうか。それらは正々堂々と、自他ともに胸を張れる努力と研鑚を積んでいる者だけが持ち得る類のものだ。ゆえに、自分からは遠く離れたところにある気がして、聖の心に薄っすらと影が差した。
「ようにしてる」
そう続け、ミヤビが優しく微笑む。雲がゆっくりと、夕陽の前を通り過ぎる。いっそう濃くなった茜色の陽射しが、世界を照らす。
「言いたいこと、わかるよ。でも、勝負の世界だからね。もっとも、私もまだプロじゃないから、あまりエラそうなことは言えないけど」
ミヤビはアイスティを一口飲んで、妙に大人びた表情を浮かべて言葉を紡いだ。
「私もね、考えたことある。中二のときだった。相手は一つ上で、その大会で優勝することに、それこそ命賭けてるぐらいの気迫でさ。詳しくは知らないけど、優勝することが何かの条件になってたんじゃないかな。私が先にマッチポイントを握ったときの相手の表情は、今でも覚えてる」
ミヤビはその時のことを思い出すように、大きな目を細めた。聖もそれにつられるようにして、その時のことをイメージしてみる。
対戦相手の、大切な何かが賭かっているであろう試合
優勢で進行し、いよいよ決着を迎えようという直前のポイント
ふと視線を向けた先にあった、相手の表情
矢を射られ、血を流しながら逃げる子鹿が、遂に追い詰められた時ような
戦意と哀願と諦観が複雑に入り混じった、その顔
打ち込んだショットが、ポイントと共に彼女から栄光を奪う
「でもね、そのことについて私が胸を痛めるのは、きっと優しさじゃないと思う」
ミヤビの物言いは、まるで自分に言い聞かせるようでもあった。勝負の場で起こること、それに伴って引き起こされる結果。それらに対する正しい認識を持つことは、勝負の世界に身を置く者にとって欠かせない価値観だ。彼女は既に、それを持っている。
「逆に、私が敗ける側だったとしたら、勝った方がそんなことを気にしてたらヤダな。そんなこと思うぐらいなら、じゃあ負けてよって思っちゃう。私に勝ったなら、どうだ! 自分の方が強いんだ! 参ったか! って堂々としてて欲しい。そうじゃない?」
細い腰に手をあて顎をしゃくり、胸を張って大げさに演技するように言って、照れ笑いするミヤビ。胸元で白い水着のフリルが揺れる。その振る舞いがなんだかATCの他のメンバーと似ていて、聖はつい吹き出してしまう。それを見てミヤビも、おかしそうに笑った。
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ニューヨーク州フラッシング地区、現地時間深夜0時過ぎ。
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「返事くらいしろよ」
不意に声をかけられ振り向くと、短く髪を刈り上げた屈強な男が不機嫌そうな表情を浮かべて立っていた。渡久地よりも背は低いが、身体の厚みは相手の方が遥かに上だ。こちらの気分などお構いなしに、今にも怒鳴り散らしかねない威圧的な態度を隠そうともしない。男はソファに腰掛けると、下から渡久地を睨み付けるようにして言った。
「で? 準備はできてんだよな?」
その雰囲気は同じアスリートとは思えないほど恫喝的で、表情には陰がある。彼の本性を知るまで、そういう態度は一種のストイックさの表れだと思っていたし、他人に一切媚びようとしない振る舞いは、渡久地に憧れの念を抱かせた。我が道をゆき、自分こそが最強に相応しいと信じて疑わない。その強い信念に基づいた王者の貫禄さえ感じさせる彼の言動に惹かれ、教えを乞うた。
「えぇ、交渉は成立してますよ、金俣さん」
男の名は、金俣剛毅。渡久地と同じ、元ATC出身の男子プロテニスプレイヤーだ。年齢は今年で34歳。渡久地の先輩にあたり、ATC出身の選手で一番初めに日本ランキング1位になった男でもある。今でこそ、期待の若手である黒鉄徹磨の後塵を拝しているが、実力的に劣っているというわけではない。
「そうか、さすがだな」
わざとらしく嬉しそうな声色で大げさに喜んでみせる金俣。口角をあげて笑みを浮かべるが、その瞳は全く笑っていない。思い返せば、渡久地はこの金俣が心から笑っているところを見たことが無い。同じ人間であるはずなのに、彼の瞳はまるで爬虫類か何かのように無機質で常に相手を観察しているような雰囲気がある。
「じゃあこれで、オレの全米1回戦突破は決まったようなものだな。キク、オマエのお陰だ。オマエがこうしてオレに貢献してくれるからだ。心から感謝してるぜ」
金俣は立ち上がると、渡久地の肩に手を回してポンポンと称える素振りを見せる。目は笑っていないが、実際のところ喜んでいるのは確かだ。喜ばないはずがない。予選を見事突破した選手に対し、渡久地がある提案を持ち掛け、相手がそれに乗ったのだから。
「ところで、だ」
金俣の声のトーンが落ちる。肩に回された腕が、かすかに力を帯びた。
「オレは確か、オマエに今日ストレートで負けるよう言わなかったか?」
渡久地の顔を覗き込むように、金俣が顔を近づける。目を合わせない渡久地。
「接戦だったからなぁ? 集中してついうっかり、ってことも有り得るか。しかしなぁ、試合中に相手が『もしかして騙されてるのでは』なぁんて考えたらどうするつもりだったんだ? せっかくの約束を反故にされちまう恐れがあったんじゃないか? デリケートな話だからなぁ。ちょっとした心変わりで台無しになることは充分あるよなぁ? なァ?!」
金俣は渡久地の胸倉を引っ掴み、そのまま窓に押し付ける。渡久地の後頭部が窓に当たって、鈍い音が鳴る。金俣は渡久地の心の中に土足で入り込むように、さらに顔を近づけ、低い声で囁いた。
「地元のお客さんは予選からもお楽しみなんだよ。年内最後のグランドスラム、一大イベントだからな。前座のレースとはいえ大勢の客が参加してるんだ。なのに、馬が勝手なことしちゃダメだよなぁ? オレの立場はどうなるんだ? オマエがこんなホテルを拠点にできているのは、誰のお陰だ?」
金俣が何を言わんとしているか、渡久地には充分すぎるほど分かっている。
「申し訳ありません……金俣さんのお陰です。つい、勝ち気が出てしまって」
ふり絞る様にそう口にする渡久地。金俣は渡久地の真意を確かめるように、しばらくじっと目を見つめてくる。嘘や隠し事、あるいは反抗心さえも彼は許さない。相手が自分に対してすべき態度は、絶対服従以外ありえないと教え込むように無言の圧力をかける。
「まぁ、いい。今回だけは不問にしてやる」
そう言って、金俣は手を離す。そしてまたソファに座り、足を組んだ。拘束から逃れた渡久地は、短い呼吸を繰り返す。気付くと、両ひざが小刻みに震えていた。今しがたまで向けられた感情がどういうものだったのか、渡久地はよく知っている。
「来年だ」
金俣がそうつぶやいて、渡久地に視線を向ける。
「オマエがグランドスラム本戦出場が当たり前になるのは、早くて来年からだ。今の実力を維持できれば、新星の助力がなくたってやっていける。全仏の予選突破は他ならぬオマエの実力だったんだからな。だが、今はオレの駒に徹しろ。余計なことしてRBの連中が絡んでくると面倒なんだ」
今しがた渡久地に行った行為の言い訳でもするように、金俣は言う。
「それに、ITF、ATP、WTA、各種競技団体の統合話や、ポイントシステムの抜本的見直し、IOC関連の話もどう転ぶかわからねぇ。舞台があちこちぐらついてる最中に飛び出すのは間抜けのすることだ。ただでさえ今のランキング上位陣を崩すのもままならねぇんだから、慌てるんじゃねぇよ」
それ以外にも、テニスに留まらずスポーツそのものの在り方が世界規模で変わろうとしている最中であることを、渡久地は知っている。正直なところ、話のスケールが大き過ぎていち選手でしかない渡久地にはなんら実感のわかないことではあるが、金俣が言うように世界は今大きく動いている。そのことが、今現在自分のしていることとどう関わってくるのか今一つ判然としないものの、上手く立ち回ることが重要だと金俣はいつも言っている。
「面倒に思うかもしれないがな、オレ達がいるのは勝負の世界だ。勝つためにこの世界に身を置いている。もっと先を見ろ、渡久地。オレたちみたいな凡人が世界の頂点を目指すなら、やれることは全てやるべきだ。自分たちが勝つためにな。そしてそれはつまり、相手を負かすってことだ。オレたちは敗北の押し付け合いをするために生きている。それとも、中途半端な才能を持て余して、出ない結果を追い求めた挙句に、人知れず引退して、誰の記憶にも残らぬままくたばるのがオマエの望みか?」
その言葉が耳に入るや、渡久地は激しく首を横に振る。冗談じゃない。そんなことは有り得ない。それを回避するためなら、自分はどんなことだってする。そういう覚悟を決めて戦いに挑んでいる。渡久地は拳を握りしめ、自分の甘さを握り潰す。
(それでいい)
渡久地の様子を見て、金俣はほくそ笑む。
そして満足した金俣は立ち上がり、渡久地に背を向けた。
「そうだ、オマエ、ATCのジュニアについて情報をまとめとけ」
金俣は部屋から出ようとして立ち止まり、そう言った。
「ジュニア? なんでまた?」
「沙粧に面倒事を頼まれた。あのアマ、まだ篝を追い出してねぇ」
「面倒事って?」
ケッ、と吐き捨てるように金俣が嗤う。
「ガキのお守りだ。国際ジュニア団体戦、オレに監督をやれときた」
続く
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太平洋を横断する日本機動部隊。この日本があるのは、大東亜(太平洋)戦争に勝利したことである。そんな日本が勝った理由は、ある機動部隊が来たことであるらしい。人呼んで「神の機動部隊」である。
この世界では、太平洋戦争で日本が勝った世界戦で書いています。(毎回、太平洋戦争系が日本ばかり勝っ世界線ですいません)逆ファイナルカウントダウンと考えてもらえればいいかと思います。只今、続編も同時並行で書いています!お楽しみに!
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シーフードミックス
黒はんぺん
SF
ある日あたしはロブスターそっくりの宇宙人と出会いました。出会ったその日にハンバーガーショップで話し込んでしまいました。
以前からあたしに憑依する何者かがいたけれど、それは宇宙人さんとは無関係らしい。でも、その何者かさんはあたしに警告するために、とうとうあたしの内宇宙に乗り込んできたの。
ちょっとびっくりだけど、あたしの内宇宙には天の川銀河やアンドロメダ銀河があります。よかったら見物してってね。
内なる宇宙にもあたしの住むご町内にも、未知の生命体があふれてる。遭遇の日々ですね。
天使の隣
鉄紺忍者
大衆娯楽
人間の意思に反応する『フットギア』という特殊なシューズで走る新世代・駅伝SFストーリー!レース前、主人公・栗原楓は憧れの神宮寺エリカから突然声をかけられた。慌てふためく楓だったが、実は2人にはとある共通点があって……?
みなとみらいと八景島を結ぶ絶景のコースを、7人の女子大生ランナーが駆け抜ける!
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
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