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第33話 最前線の景色

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 日本男子プロテニス選手、渡久地菊臣とぐちきくおみが挑んだ全仏第1回戦の幕切れは、相手選手の途中棄権リタイアという結末で思いのほかあっけなく訪れた。

赤土レッドクレーには魔物が棲む』と言われるほど、全仏オープンはグランドスラムの中で最も大番狂わせが起きやすいことで有名だ。それは赤土レッドクレーというコートサーフェスの特性に起因している。球足が遅く1ポイントにかかる労力が大きいこと、そして常に不測の跳球イレギュラーバウンドが発生する恐れがあり、速いテンポで攻撃する難易度が高いこと。それらがプレーを乱し、世界ランキングに関係なく選手たちを苦しめる。史上最強と呼ばれたピート・サンプラスでさえ、全仏のタイトルをついぞ手にすることは適わなかった。

(辛勝だな。クリンチで凌いでゴングに救われて医療判定ドクターストップ、ってトコか)
 アドが言うように渡久地選手は終始防戦一方で、スコアは3-6,5-7,1-3と敗色濃厚の展開だった。終始優勢で試合を進めていた相手だったが、コートの性質上どうしても簡単にポイントが獲れず、歯を食いしばってポイントを奪い切ってもその代償が大き過ぎたのだ。

 テニスは前後左右にコートを駆け回りながら、高速で飛び回るボールを正確に打ち返し続けなければならない競技である。身体に掛かる負担は甚大で、プレイ時間の増大はそのまま肉体の消耗に直結する。結局、先に音を上げたのは相手選手の肉体の方で、渡久地選手は敗北を目前にしながらも勝利を手にした。

「スカッとしない勝ち方だけど、こればっかりはなぁ」
「つーか怪我? 別に故障してる感じしなかったけど」
「体調不良じゃない? 臨時治メディカル・療休憩タイムアウト取らなかったし」
「現地、かなり暑そうだしな」
「でもまぁ、勝ちは勝ちでしょ」
「まぁね。相手はウインブルドンのこと考えての棄権かもね」
「こういうの観ちゃうとさ、基礎トレやんねーとなってなるよな」
「2セットアップで途中棄権するの、トラウマになるわ」
「もうちょい頑張れてりゃ、800万だったのにな」
「つーか、トグさん初のGS初戦突破じゃん。ニュースになるかな」

 観戦していた者たちは口々に感想を述べる。勝利を手にしたものの画面に映る渡久地選手の顔に喜びの表情は無く、むしろどこか不満げでさえあった。試合後の握手の際に相手を気遣う素振りをみせたあと、観客へ簡単に手を振るだけですぐコートを去った。テレビの解説は、渡久地選手が怪我の間に取り組んだ肉体トレーニングが功を奏したと勝因を語り、彼のキャリア初のグランドスラム初戦突破を称えた。しかし結末が結末なだけに、どこか微妙な空気を漂わせていた。

「さ、次はガネさんだね」
 そんな空気を払うように、明るくミヤビが言った。
「聖くん、2階行こう」
「あ、オレも行く」
「ヘッドセット持ってきたぜ」
「あたしらはここでいいや~。あれ酔うし」
 何名かが料理の残りが乗った皿を手に席を立ち2階へ向かう。
「え? 何があるんです?」
 2階席になにかあるようだが、聖には何のことかわからない。そんな様子の聖を見て、ミヤビは少し悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「最前線の景色、だよ」



 2階席の奥には、応接間のような席があった。少し高そうなソファ席の前にローテーブルが置かれ、それを囲うようにひじ掛けの無い四角いソファがいくつか並んでいる。ひと足早くやってきていたブンが、パソコンと何かしらのチューナーをケーブルで繋ぐ作業をしていて、ほどなくすると準備が整った。
「ほら、聖」
「これは、3Dゴーグル?」
「見れば分かるぜ。マサキ、照明落としてくれ」

 言われたマサキが照明を落とすと周囲が暗くなり、手渡された3Dゴーグルがブルーの光を淡く放つ。聖がそれを装着すると、画面には全仏オープンの会場が映し出された。

「すごい……!」
 聖の視界は、完全に現地と繋がった。次の試合の準備をしているスタッフ、会場に訪れた観客たち、忙しない様子で撮影に勤しむカメラマン、赤土に降り注ぐ陽射し、日本とは異なるフランスの青空。カメラは360度ビューになっており、聖が首を動かすと視界も自然な形で周囲を捉える。まるで自分が現地にいるような錯覚を覚えるほどの臨場感を味わうことができた。
「驚くのはこれからだぜ~?」
 ヘッドセットのマイク越しに、ブンが不敵に言う。
「聖、慣れねぇうちは中心のポインタに焦点を当てとけよ。酔うからな」
 奏芽かなめに言われ目を凝らすと、視界の中心に小さな点があるのが分かった。しかし、初めて体験する仮想空間の会場にワクワクしてしまい、聖は無駄にキョロキョロと首を動かしてしまう。

 するとほどなくして、視界の端にダイアログと共に数字が表示された。30から始まった数字は、カウントダウンするように1ずつ減っていき、やがて0になる。それと同時に、聖の視界が会場から別のところへジャンプした。突然、目の前に厳つい顔をした外国人の太った男が現れ、何やらこちらへ向かって話しかけている。だが、音声はミュートされていて何も聞こえない。

「なに? だれ?」
 カメラの視界も、先ほどはどこかに固定されていたようだったが、今度は誰かが手で持っているかのように常に動いている。時おり上下に揺れたりして非常に不安定だ。まるで、誰かの視界を・・・・・覗いているようだ・・・・・・・・

 聖が戸惑っていると、急に音声が聞こえてくる。ワザワザという会場の空気と一緒に、聞き慣れない言語があちこちから飛び込んできた。するとそれに混じって日本語が聞こえた。
『よしテツ、楽しんで来い』
『あぁ、暴れてやるさ』
 聞き覚えのある声が、聖の耳に届く。
「これって、まさか……!」
「あー、分かっちゃった? そ、ガネさんの視点・・・・・・・で試合観れんだよ」

 声色に期待をにじませながら、得意げにブンが言った。



 ブンが使い方を簡単に説明してくれたお陰で、聖はゴーグルに映し出されている景色がいくつか切り替えられることを知った。1つは、これから試合を行う選手である黒鉄徹磨くろがねてつまの一人称視点。もう1つは、コートサイドに設置されている定点カメラ数か所。そして最後に、テレビで観るのと同じ観客席からの視点。あれこれ試してみたが、結局しばらくは徹磨の視点で試合を見ることにした。背の高い徹磨の視点で見る景色は、幼い頃に父親が肩車してくれた時のようだった。

 他の視点に切り替えた際、徹磨が聖と試合をした時と同じような黒いウェアに身を包んでいるのが見えた。以前と違うのは、頭に黒いヘッドバンドを付けていて、どうやらそこにこの視界を映すカメラが搭載されているようだ。眉毛を隠すよう目深まぶかにヘッドバンドをつけているせいで、徹磨の見た目は初めて見たときより厳めしい。

 ノースリーブの袖ぐりから鍛え上げられた徹磨の二の腕が伸び、胸板はこの前より厚くなっているように感じる。無駄の削ぎ落された徹磨の身体はまさしく鋼のようで、聖は自分がこの人物を相手に試合をしたというのが信じられない気分になった。

 徹磨の視点を通じ、試合前のコイントスやフォトセッションで相手選手の姿を間近で見たが、徹磨に負けず劣らずの大男で迫力に満ちている。世界ランキングは相手の方が上で、徹磨は以前この相手に負けているとサブ音声の解説が口にしていた。

 
 試合は開始直後から、激しいラリー戦となった。
 徹磨も対戦相手も、通常よりベースポジションを後方に陣取り互いに力強いストロークで打ち合う。選手とほぼ同じ視点で見ることに最初は違和感があったものの、見慣れてくると文字通り自分がプレーをしているような錯覚を覚えるほどの臨場感だった。その感覚は、聖が初めて叡智の結晶リザスを使用してアンドレ・アガシの力を得て徹磨と対戦した時のものに似ていて、聖は少し不思議な気分になった。

 徹磨が最初に相手のサービスゲームをブレイクし、先行。カメラ越しに伝わる徹磨の動作から、彼の気迫や集中力まで肌で感じられるような気がする。徹磨のプレーをまるで体験するかのような感覚で観戦している聖は、ふと、初めて徹磨と試合をした時のことを思い出した。

(僕はあの時、最初から叡智の結晶リザスを発動させてた。撹拌事象が終わったあとも、そのまま、自分の意志で叡智の結晶リザスを継続させた)

 第2セットは一進一退の攻防が続き、徹磨と相手選手の意地と意地がぶつかり合う。

(さっき見た渡久地選手も、その前の三縞みしま選手もそうだけど……)

 徹磨の強烈なショットを、相手選手が絶妙なタッチで勢いを殺す。ネット前に落とされたボールに素早く反応した徹磨が、赤土を蹴り上げながら猛烈な勢いで追い駆ける。

(この人たちは、ここで戦っているプロたちは)

 辛うじて間に合った徹磨は見事なラケットワークで相手選手のいない場所にボールを運ぶ。だが、そこは相手が意図的に隙を作った場所。コート後方からボールを追いかけてきた徹磨を嘲笑うかのように、今度は緩く高いロブを放つ。しかし、徹磨はそこまで予測していた。ドロップショットを処理してすぐさま体勢を立て直すと、相手に背を見せるようにしながら跳躍。その巨躯を高く飛び上がらせ、ボールが最頂点に打ち上がるよりも早く捉えると、空を引っ掻くようにしてスイングした。

 空を掴む鉤打スカイ・フック

(どれだけの研鑽を積んで、グランドスラム本戦この場所に立ってるんだ……!)

 歓声が湧き上がる中、徹磨が吠える。



「いやぁ、マジ初戦から超アツかった」
「ガネさん強くなったよなー?」
「ガネさんは前から強いっての」
「それはそうだけどさ、プレーがこう、派手になったっつーか」
「ここぞって時に集中力上げるようになったよね~」
「ホントそう、カッケーわ、マジでカッケー」

 全仏初出場の黒鉄徹磨は、第一回戦を6-4、5-7、6-4、6-4のセットカウント3-1で快勝で飾った。

「緊張とかはあまりなかったですね。最近、なんていうか……語弊はありますけど、勝敗を気にしてないっていうか。もちろん意識はしてるんですけど、なんつーのかな。あぁ、そうです、悪い意味で執着しなくなりました。目先の勝敗は大事だけど重要じゃなくて、あくまで優勝するのが目標なんで。相手が誰だろうと、結局全員倒さないといけないわけですから、初出場だとかランキングがどうとか過去の戦績とか気にならなくなりました。どちらかといえば、今日のオレのテニスで観てる人がおもしれぇって思ってくれたかどうかの方が、勝ち負けより気になります」
 試合後のインタビューで、徹磨はそう語った。

(はー? 言うねェコイツ! 内心大はしゃぎして裸で踊りてェンじゃねェの!?)
 初めてグランドスラム本戦に出場して快勝したのだから、アドが言うようにそれぐらい嬉しく思っても不思議ではない。だが、インタビューを受ける徹磨からは、勝利の喜びよりも早く次の試合をやりたいというような気迫が漲っているように思われた。

 勝利を祝福する観客たちに手を振って応える徹磨の姿は、実に堂に入ったものだった。



「それじゃ、もう遅いから気を付けてね。おやすみ」
 店の外でミヤビに見送られ、聖は帰路についた。試合の中継はこのあと深夜まで何試合かある。ATCアリテニのメンバーは大半がまだ観戦していくようだったが、聖は明日学校があるため退散することにした。

(ンだよ、浮かねェツラだな?)
 帰る道すがらアドに話しかけられるが、聖は答えない。
(おーいシカトはやめろよ寂しいだろ~~~。か~ま~え~よ~)
 信号が赤になり、聖は自転車を止める。クルマが交差点を通過して、湿った夜風が頬を撫でる。先ほどまで人の多いところにいたせいか、夜の街の静けさはどこか侘しさを帯びているようだ。

「当たり前だけどさ」
 ポツリと、こぼすように聖がいう。
「徹磨さんも、三縞さんも、渡久地さんも、特殊な力なんか使わずに、自力であそこまで辿り着いたんだよね」
 そうつぶやく聖の声色には、どこか感情がこもっていないようだった。

(あァ、そうさ。どいつもこいつも、ガキの時分からテニス漬けだろうな。特に、その道を歩むと決めた時点で、連中は覚悟を決めて脇目も振らずにひたすら突き進んできたンだろうぜ。でなきゃ、とても人類の上位128人の中にゃ入れねェさ)
 茶化す様子もなく、アドが言う。
(気に病むか? 自分だけが一足飛びであの場所・・・・を目指すことを)

 聖は押し黙る。脳裏に、徹磨を始めとした最前線で戦う者たちの姿が浮かぶ。ATCアリテニで本格的なトレーニングや練習を始めたことで、自分にはまだまだ足りないことが多くあると自覚できた。それを補うため、聖なりに可能な限りスケジュールを詰め込んで努力しているつもりだ。だが今日プロ達が戦っている姿を見て、自分にはまだ全く覚悟が足りていないということを痛感してしまった。

「能力を使うことに、負い目が無いわけじゃない。でも、それは最初から分かってたことだ。僕はハルナを1人にしたくない。彼女のために、彼女に認められたい自分のために、利用できるものは全部利用して、目的を達したい」

 反対側の信号機が、点滅する。

「ただ僕は、自分の目的を達するのに必要な力を持つ覚悟・・・・・・が足りてなかった。能力を使って上に行くなら、それは絶対必要だ。『力を持つものは、それに相応しい振る舞いをしなきゃならない』んだ」

 いつか、姉に言われた言葉を口にする聖。自分がやろうとしていることは、もしかすると誰かの夢を潰すことになるかもしれない。だがそれは、聖が能力を持つ持たないに関わらず、同じ世界でしのぎを削り合って戦う以上、誰にでも言えることだ。誰かが勝てば、誰かは負ける。そして勝つ力を持つ者は、それに相応しい振る舞いをしなければならない。

「僕は虚空のアカシック・記憶レコードの力を借りられる代わりに、与えられた役目を果たさなきゃいけない。アドは初めの頃、それは自分たちの都合だから気にするなって言ってくれたけど、そうじゃない。きっかけはともかく、僕は巻き込まれたわけじゃない。少なくとも、力を使うと選んだのは自分の意志だ。なら、僕はもう当事者だ。だから僕は」

 信号が、青に変わる。

「僕の意志で、あの場所・・・・を目指す」



「オイ聖、帰りラーメンどうよ」
「ゴメン、僕もう少しやりたいことがあるから、また次誘って」
 練習のあと、ブンの誘いを申し訳なさそうに手を拝ませて断ると、聖はトレーニングルームへ向かった。

 全仏オープンを見た日以降、聖は自身で作ったスケジュールを見直し、可能な限り練習量やトレーニング量を増やした。練習後でヘトヘトに疲れていても、最後のもう一押しとしてATCアリテニ施設内のトレーニングルームへ1人向かい、更に自分を追い込んだ。

 プロを目指すべく、自分の意志で能力を使うと決めた以上、ATCアリテニに所属する誰よりも努力しなければならないと考えたからだ。そういう思いは当初からあったものの、聖は自分にできる範囲で・・・・・・・・・という上限を設けていたことに気付いた。そうではなく、他人が聖を見て実力に見合うだけの努力をしているかどうか。そして何より、自分が能力を使うに相応しい努力をしているかどうか、そういう視点で自分の振る舞いを顧みた。

(とはいえ、やれることに限りはあるぜ~? ま、精々ぶっ壊れねェようにナ)
 アドが言うように、時間も体力も有限である以上、結局のところ限界はある。だが、これまでのように出来ることを少しずつ、ではなく、今できることは全てやる、という考えにシフトし、能力を使うことに対して自分自身で胸を張れることを目指した。

 アドはそんな聖の様子を見ながら、結局は罪悪感があるからこういう考えになるンだろうが、今はいいか、と余計なことは言わずにとどめた。


「聖、少しいいか」
 自主的な追い込みトレーニングを終え一息ついていると、珍しくかがりコーチがトレーニングルームにやってきて声をかけてきた。最近ではもう、聖は大半の人から下の名前で呼ばれるようになっていた。

「大丈夫か? 少し、オーバーワークにみえるが」
 どうやら、篝の目から見ても聖はかなり無理をしているように映ったらしい。
「いえ、キツイはキツイですけど、無理はしてないつもりです」
「私のメニューの後で自主トレするとは、物足りないなら強度を上げるが?」
 思わず、うっと吐き気に似たなにかを堪える聖。確かにその方が効率的といえばそうだが、それはそれでちょっと御免被りたい気持ちがある。
「冗談だ。それだと周りも同じ目に遭ってひんしゅくを買うからな」
(コイツ冗談ヘタクソだよな)
 アドが合間に言うが、正直それには聖も同意見だ。

「まぁ、ある程度までなら選手の自主性に任せるが、今日はそのことじゃない。その素晴らしい自主性と気合いに報いる良い話を持ってきた」
「いい話?」
(ぜってーーーロクでもねェわ)
 篝は凄みのある笑みを浮かべる。あぁ、これは確かにロクでもなさそうだと聖も感じた。

「『修造チャレンジ』って、知ってるよな?」

 その名前は、日本テニス界において、太陽と同じ意味の言葉だった。

続く
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