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第29話 勝者と敗者

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 試合終盤に差し掛かり、西野のプレーは粘り強さを増した。
 痙攣を起こした左足に多少のぎこちなさは残っているものの、それを気迫と集中力で補い、これまで以上に俊敏なフットワークをみせる。聖が容易にネットを取れないよう高さとコントロールを工夫し、スピードに緩急をつけ徹底的に粘った。それでも、聖は僅かな隙を見逃さず距離を詰めて仕留めに掛かる。だが、勝負手を放ったのは西野が先だった。

(ここだッ!)

 西野は目敏めざとく聖のポジションを見切り、打つタイミングを早めて順回転スピンのかかったロブを打つ。放物線を描きながら高く打ち上がるそれは、高身長の選手が腕を伸ばしても届くことの無い高さで、ただ見送るより他ない。空に浮かぶ月を彷彿とさせることから、月見の一打ムーンボールとも呼ばれる。

 ネットプレーをするときに警戒しなければならないのは、左右や足元以上に上方向だ。前に詰めすぎれば容易に頭上を抜かれてしまい、相手に優勢を奪われ最悪ポイントを失う。ただ、捕まえてしまえばポイントを決めるチャンスでもある。この試合中、何度か打たれたロブを、聖は全てスマッシュやハイボレーを決めてポイントを奪っていた。
(だからこそ、ここだ。やつは今、頭上への警戒が薄いはず)

 そう考えた西野は、聖がネットに詰めて一旦止まる直前に合わせてロブを打った。体重移動が終わる前、すなわち聖の虚を突くように。西野の目論見は見事に当たり、ほんの僅かに機先を制したことで形勢が逆転する。

(タイミングが早いし高い、届かないッ!)

 仮に手を伸ばしたところで返球はおろか触ることさえ出来ないと瞬時に判断した聖は、西野へ背を向けるように体勢を変え、ボールを追い全力でダッシュする。ボールはベースライン手前で一度バウンドすると、与えられていた順回転スピンが機能し地面を蹴るように高く跳ねた。

(くっそッ!)

 速度的には追いつけた。しかし、身体はボールを打ち返すべき方向とは完全に逆を向いている。さらに、そのまま走ればコートを囲うフェンスに激突してしまう恐れがあったため、止む無く聖は返球を断念した。

 続く第2ポイントでは、繋いでミスを抑えるのが信条の専守防衛型ステイヤーである西野が、前へ詰めた聖に対し猛烈な強打ハードヒット脇を駆け抜ける一打パッシングショットを放ちエースを奪った。

(自分のスタイルを変えてまで、ポイントを獲りに来るのか……ッ!)
(ソイツは違うな。守りしかねェ、と相手に思わせておいてそれを逆手に取る、これも専守防衛型ステイヤーさ)

 アドが聖の認識の甘さを鋭く指摘する。

(なるほどね……)

 ポイントを連取した西野は波に乗り、続く第3ポイントを今日一番の快速サーブでエースを奪う。中年の愛好家アマチュアが見せる必死の猛攻。試合を観戦している参加者たちのテンションも高まり、ポイントごとに声援が飛ぶようになっていた。

(3連続ポイント。ここは獲るぞ。絶対獲る)

 普段以上のパフォーマンスを発揮しているため、疲労が急速に西野の身体へ蓄積されていく。だが西野はさらに集中力を高め、身体中の細胞からかき集めるようにエネルギーを搾り出す。

(ちッ、コートチェンジの時に栄養補給しておくんだったな)

 自身の体力が残り僅かであることを自覚しながら、西野は構える。一呼吸おいてからサーブを放ち、リターンに備える。一打一打、声を発しながら懸命に打ち返す。全力で動き回りながらも、決して単調にならぬよう意識の手綱を握り締め、休みたがる身体に鞭を打って奮い立たせる。ポイントを連取されていた聖も様子を見るべくラリーを選択し、しばしの間打ち合いが続く。

 そして、角度が甘くなったボールに乗じて聖が前へ出た。西野はなるべく聖の身体から遠い場所へ返球し、ボレーに備える。普通なら強く打ち辛い非利き手バック側にボールを運んだが、それを予測していた聖は余裕をもってボールを捉えた。

鋭角アングルがくる!)

 根拠なく咄嗟に西野はそう感じ、先んじて駆け出す。聖は西野が走り出したのを視界の端で捉えていたが、構わず角度をつけ鋭角浮球打アングルボレーを放った。

 ボールはすぐにバウンドし、ネットと平行する軌道でコートの外に向かって飛んでいく。最短距離でボールに突っ込んでいく西野だが、距離が半歩足らない。このまま走っていても届かないと悟った西野は、考えるよりも先に力強く地面を蹴りあげ、ボールへ向かって飛び込んだ。

 飛込み様の浮球打ダイビングボレー

 今日のコートサーフェスはハードコート。つまりコンクリートだ。土のクレーコートや芝のグラスコートのように柔らかくはない。西野はそれをものともせず、なんのためらいも無く飛込み、見事にボールをとらえ返球した。当たり損ねたお世辞にもキレイとはいえない当たりだったが、それゆえ聖を避けるようにボールがコートにおさまった。

(オイオイ、ボレーヤーの見せ場を取られてンじゃあねェか!)

 文句をいうアドだが、その声は驚きと西野への称賛に溢れ嬉しそうだ。聖もまさか今のをダイビングボレーで取られるとは思いもしなかった。ポイントどころかゲームを獲られることになったが、西野の奇跡的な巧手ファインプレーに思わずラケットを手で叩き称賛を送る。コートの外からも歓声があがっていた。

 ゆっくり立ち上がった西野は、両膝を擦り剝いて血が流れ、ウェアも酷く汚れてしまっている。息を切らし、まさしく満身創痍だ。それでもなお、瞳には揺るがぬ闘志が燃えている。

「これで4-5だ。まだ終わっちゃないぞ」

 目に見えるような不屈の闘志を漲らせる愛好家アマチュアテニスプレイヤーは、何人なんぴとにも冒せぬ矜持をみせながら、力強く笑う。

 聖は特に何も言わず、サーブのポジションにつく。撹拌事象はまだ終わっていない。静かに腹の底からふー、と息を吐き切る。身体の奥底から無限とも思える力が湧いてくるのを感じながらも、聖はそれがあふれぬ様に自我を強く保つ。全力で戦う。だが、能力チカラの乱用はしない。主体になるのはあくまで自分自身。試合というやり取りの中で、互いの力がぶつかり合い、それによって生まれ得るなにかを育てるようなイメージを浮かべる。虚空のアカシック・記憶レコードの貸し与える叡智と、自らの強い意志がるのを感じた瞬間、聖はサーブを打った。

 そして、決着の時は訪れた。



「もう、西野さん無理し過ぎです」
 月詠夜明つくよみよあけは、試合を終えてフラフラのままぐったり座った西野の膝を消毒しながら口を尖らせた。だがその表情はどこか、やんちゃな子供を呆れながら叱る母親のような、慈しみを浮かべている。自分の父親より年上のおじさんが、まるで学生選手やプロもかくやといわんばかりのプレーで奮戦したのだ。結果は敗北だったが、その勇姿を見せられたチームの面々は全員が西野の健闘を称えていた。
「凄かったっす!マジであとちょっとでしたよ!」
「やっぱ僕も専守防衛型ステイヤーになろうかな~」
「オマエそれ前も言ってたじゃん」
 親子ほど年の離れたチームメイトからの労いの言葉に、苦笑いを浮かべる西野。スコアは4-6。結局、あのあと対戦相手の聖がサーブをキープして試合は終わり、チームは準優勝となった。見事なサーブ&ボレーを披露する聖は、往年のプロ選手のような貫禄があり、あんなプレーをされたのでは敵わんと西野は敗北を素直に受け入れた。その一方で、頭の中では次の休日に質の高いサーブ&ボレーヤー対策をコーチである榎歌えのうたに授かろうと、次戦に向けた心の準備と練習計画の段取りを既に始めていた。

「西野さん」
 陽も傾き始め、惜春の涼やかな空気を火照った身体で感じていると、凛とした青年の声が西野の耳に届いた。試合で燃え尽きるように精根尽き果てぼんやりしていた意識が、その声で明瞭さを取り戻す。
「今日はありがとうございました。怪我、平気ですか」
 ひと目見たときから西野は感じていたが、この青年は随分と、いやこれまで見てきた誰よりも礼儀正しく清々しい。捻くれた性格をしている自覚のある西野からすれば、正直いうと不自然さを感じるほどだ。かといって彼が他人への体裁を取り繕うためにこういう振る舞いをしているようにはちっとも感じない。幼い頃からずっと、神様に見守られていることを意識して育ったなら、人間はこういう誠実さを獲得するのだろうか。
「かすり傷だ。つった足も痛みはない。良いゲームだった」
 大人としての見栄か、何事もないように立ち上がる西野。本音をいえばと、全身が軋むようだし、擦った傷はさっきからずっとヒリヒリと痛む。しかしそんなことは臆面も出さず、西野は聖に向かって手を差し出した。聖は少し恥ずかしそうにしながら西野の手を取り、固く握手を交わす。

「君はもっと悪くなった方がいいぞ」
 西野は手を離すと、そんなことを口にした。言われた聖は頭に「?」を浮かべている。
「老婆心で済めばいいがな。君は少し優し過ぎる。プロになるなら、もっとエゴイストになることだ。プロの世界は、君が想像している以上に厳しい世界だぞ」
 プロの世界、という言葉を聞いて、聖の表情が引き締まる。西野が言いたいことをどの程度汲み取ったかは分からないが、彼なりにその言葉を真摯に受け止めたようで、歯切れよくはい、と答えた。自分が逆の立場であれば、今日が初対面の中年男が口にする偉そうな言葉なぞ鬱陶しく思っただろう。願わくば、聖のこの素直さが、実力本位のプロの世界で歪まないようにと、西野は胸中で祈った。



「桐澤さん、写真いいですか?」
 彩葉さいははおずおずとしながら、談笑していた桐澤姉妹に話しかける。彩葉も鏡花きょうかも、試合が終わったあとに桐澤姉妹と話をしたかったのだが、自チームの応援があったうえ、リーダーの西野の思わぬ奮戦に気が向いてしまいすっかり機を逸してしまった。試合直後は勝手に仲良くなれそうだと思っていたが、冷静に考えると2人は日本の上位ランカーだ。自分たちのようなただの中学生が気軽に話しかけていいものかと気後れしていたが、なんとか気持ちを奮い立たせると意を決して話しかけた。

「もっちろ~ん! ていうか、今日の試合って動画サイトに上げて良い?」
「聞いたよ~? 2人の名前それぞれとって彩鏡さいきょうって? 良いセンスしてるね!」
 改めていわれ、彩葉と鏡花は恥ずかしさで熟れた林檎のように赤面する。その様子をみるなり、悪戯っぽい笑みを浮かべた桐澤姉妹が心底嬉しそうにおちょくってみせ、かしましくも華やかな雰囲気で乙女4人はしゃぎあった。

 そんな女性陣とは対照的に、少し離れた場所で今日まさかの大金星をあげたスゲとヤベが、油断していたとはいえ見事に勝ちを奪われたATCアリテニ最強のマサキとデカリョウを前にして縮こまっていた。
「おめェら、理解わかってんのか?」
 眉間に皺を寄せ、ギョロリとした目をいつも以上にギラつかせながら、低い声で凄んでみせるマサキ。その横でむっつりとした表情のまま、不自然に大きめのタオルを羽織り腕を組んでいる巨漢のデカリョウ。

 スゲとヤベはやらかした直後に勢いよく謝罪し、なんとなく許して貰えた雰囲気はあったのだが、直接的な被害者であるデカリョウへの謝罪は済んでいない。股間にボールが直撃したショックで昏倒した後、デカリョウは会場にある事務所のベンチで横になっていた。気を失ったのは事実だが、どうやらそのまま昼寝に突入したらしい。棄権したのは事実だし、起こしたところで誰構わずウザがらみしてくるのは明白だったため、寝た子を起こすなという理由から放置されていた。余談だが、2位リーグへ進んだもう一つのATCアリテニチームの男子ダブルスはマサキが透流と組んで難なく制している。

「おめェらがやらかしてくれたお陰でなぁ、デカリョウは……デカリョウが……!」
 込み上げる怒りと悲しみで、わなわなと震えながらマサキは怨みがましく言う。ちなみに中学生2人にはデカリョウの受けたダメージの詳細は知らされておらず、なにか良くない結果――例えば、片方がお亡くなりになったとか――になったのではと勝手に悪い想像を膨らませていた。

「デカリョウが、女の子になっちまった・・・・・・・・・・じゃあねえかあ!」
 マサキは絶叫と共にデカリョウのタオルを剥ぎ取る。するとデカリョウは頬を赤らめ、しなを作りながらくねくねと妙なポーズを取る。タオルの下ではどこで手に入れたのかレディース用のテニスウェアを着込んでおり、キャミソールタイプの上着は今にもはち切れんばかりにパツンパツンで、スコートからは太ましくも逞しい巨木のような太ももが露わになっている。
「さよなら、男のアタシ、こんにちは、女のアタシ」
 裏声でそうつぶやくデカリョウは、よく見ると気色悪いことに化粧をしている。唇には血のように紅いルージュを引き、顔全体は不自然にファンデーションが塗られチークまで入り、つけまつ毛をばっちりキメてウインクしていた。

「いや、さっきまですっぴん……」
 だったような、と言いかけたヤベだが、デカリョウの瞳の奥に獣のような獰猛さを感じとると、さながら蛇に睨まれた蛙のごとく身体が硬直する。捕食者と化したデカリョウは音もなくヤベに近付き、その太ましい腕でガッチリ捕らえる。完全にまな板の上の鯉となったヤベをしばし見つめたのち、デカリョウはまるで魂を吸い取るような濃厚な口づけを見舞った。ずきゅうううんッ!と、衝撃的な光景がスゲの前で広がる。
「ひ、ひえェ!」
 あまりに絶望的な絵面を目の当たりにして腰を抜かすスゲ。解放されたヤベが力無くグッタリと崩れ落ちる。デカリョウはジュルリと口元を拭いながら、漆黒の森の中でその双眸を不気味に輝かせる肉食獣のごとく鋭い視線でスゲを射抜く。奥歯をガチガチと鳴らし、逃げたいのに身体が上手く動かずパニックになるスゲ。ゆっくりとにじり寄るデカリョウ。飢えたケモノよろしく舌なめずりしながら、スゲの両肩を優しく、しかし絶対に振り解けない強さで掴んだ。

「イタダキマァス」
 そう言って、頭からかぶりつくようにスゲのファーストキスはじめてを無残に奪い去った。



 奏芽かなめは、コートから少し離れた場所にある壁打ちゾーンで1人練習しているブンを見つけて声を掛けた。
「オイ、ブン。このあとATCアリテニ寄るだろ?」
 ブンはボールを打つのをやめると、少し考えるようにしてから「あぁ」と短く答えた。奏芽はその様子を見て、今日はまだ下手に付き合わせない方がいいだろうかと考える。

 試合の最中、相手のちょっとした一言で大きく心を乱したブン。自分で自覚していた以上に、抱えていた劣等感コンプレックスは大きかったようだ。試合ではどうにか意地で自分を取り戻したようではあったものの、消え切らなかった自己嫌悪の火は未だ燻っているように見える。帰り支度をするブンに、奏芽は余計な声を掛けない。この問題を解決するには、まず何よりもブン自身が自分の望み、理想を正確に自覚しなければならないからだ。
(言葉一つや、その場しのぎのパフォーマンスでどうにかなるこっちゃねぇしな)

 奏芽自身もプロを目指してテニスはしていない。立場としてはブンと同じだし、才能を発揮してプロを目指す連中に嫉妬を覚える気持ちも分かる。だがブンにとってマサキやデカリョウは子供の頃からの親友で、そんな2人から置いてきぼりを食らう気分までは想像できない。

(聖がテニスを続けていたら、オレもブンのように感じてたのかもしれねぇな)

 ラケットバックを背負い前を歩く友人の背中は、どこか寂しげだった。



「蓮司さん、次は絶っっっ対シングル頼みます!」
 身体こそ大きいが、挑夢はその瞳に純粋な先輩への敬意を浮かべてそう言った。なんなら、今からコートを取って試合しようと言えば大喜びで受けそうな勢いだ。尻尾をブンブン振りながら忙しなく動き回る大型犬みたいな挑夢に辟易しながら、蓮司はぞんざいに応対する。

「ハイハイ、今度な。つーかテニスやめて無かったのな」
「あったり前っすよ! ATCアリテニじゃなくてもプロは目指せるんで! 次はどこの試合に出るんすか? オレも同じ大会にエントリーします!」
「オマエまだ13歳だろ。規定でオレの出る試合にゃ出れないっての」
「年齢とか関係ねーのになー! 絶対もう勝てるのに!」
「調子のんなよ」

 まるで柴犬とシェパードがじゃれ合うような2人の様子を、少し離れた位置から飼い主目線で眺めているミヤビと夜明。夜明は試合中の非礼を詫びたが、ミヤビはちっとも気にしていなかった。
「あれってオオカミ仕込みなの?」
「オオカミ? あぁいえ、あれは……その、私の案で」
 気恥ずかしそうに答える夜明。コートの上ではなかなかの気迫を見せていた彼女だったが、今ではすっかり普通の女子中学生だ。とはいえ、彼女はミヤビの知らない囲碁という世界で活躍するプロなわけで、ある意味では人生の先輩だ。種目は違えど、最前線という戦場に身を置いているからこそ、生き馬の目を抜くような精神性が身に付いたのだろう。恐らくは彼女のそういう部分を見抜いた上で、榎歌えのうたが指導しているに違いないとミヤビは見ていた。

「今日は楽しかったよ。また機会があったらリベンジ受けてね」
「いえあのっ、次やったらもう、相手にならないかとっ」
「勝ち逃げはダメ~! テニス3セットが基本だよ。囲碁だって何番勝負とかでしょ?」
「えぇ~……、わ、わかりましたぁ~……」
 こっちはこっちでイジりがいのある子猫みたいだなと思うが、ミヤビは彼女がただの子猫でないことを既に知っている。プロ棋士という生活を送りながらテニスの腕を磨くのは難しいだろうが、ミヤビは夜明から技術ではなく『戦い方』を学べると思った。もうじきプロテストを受けるつもりでいるミヤビは、今日の試合でテニス以外の世界からでも、テニスに必要なことを学べるのだと知ることができた。

「あ、そういえば榎歌えのうたさんは?」
 ふと存在が気になり、そういえば挨拶してないなと辺りを見回すミヤビ。すると、ちょうど、男子組がいつものようにはしゃいでいるのを一歩引いた場所で眺めていた聖に、榎歌が声を掛けているところが見えた。なんとなく興味をそそられたミヤビは、ちょっと行ってくるねと夜明に告げて、2人のもとへ向かった。



「初めまして、若槻くん。榎歌えのうたと言います。副業でテニスコーチをしている者です。今日の決勝戦で戦ったチームのメンバーは、全員私の教え子なんです」

 そう言って話しかけてきた眼鏡をかけたスーツの男は、柔らかい笑みを浮かべた。服装のせいかテニスコーチと言われてもピンと来ない。しかしどことなく感じられるそのピリっとした雰囲気は、中学の頃の担任教師に似ている。剣道部の顧問だったその教師は、普段の人当たりの良さとは想像がつかないほど激しい稽古をつけることで有名だった。聖も一度だけその片鱗を見たことがあり、人生で初めて「殺気って本当にあるんだ」と感じたのをよく覚えている。榎歌えのうたの持つ空気は、その教師を彷彿とさせた。

「君は、サーブ&ボレーが得意なんですか?実に見事でした」
「あ、いや、得意というか、なんというか」
 自分のミスを徹底的に減らして相手のミスを待つ専守防衛型ステイヤーに対し、ベースラインから打ち合っていても歩が悪いと感じた聖は、試しにサーブ&ボレーを仕掛けてみようと思うところまではいった。だが、結局そのタイミングで撹拌事象が発生し、奇しくもサーブ&ボレーの名手であるパトリック・ラフターの力を得て実行に移した。専守防衛型ステイヤーへの対抗策としては正解の1つと言えるのだが、聖自身が得意であるなどということは無い。そもそもやったことすら無かったのだ。
「まぁ、その、嫌い、じゃないですね。はは……」
 無論、本当のことなど言えない。誤魔化そうと曖昧な返答をする聖だが、榎歌えのうたの表情はなんとも読みづらい。彼の目に浮かんでいる色は、好奇心のようでもあり、猜疑心のようでもある。その瞳の色から受ける印象は、種類こそ異なるものの、なんとなくあのGAKSOガクソ新星あらほし教授のように聖の真意を推し量ろうとしている感じがする。テニスコーチの目から見て、聖の試合はどのように映ったのか?

「うぉ~い、そろそろバス来るよ~」
 遠くから、招集をかける鈴奈の声がした。榎歌はそれ以上なにかを追求するでもなく、対戦してくれたことへの礼と優勝への賛辞を口にして立ち去った。テニス特戦隊のメンバーは、車でやってきていたらしく、まとまって駐車場へ向かっていった。

(妙なヤローだな)

 アドの榎歌への印象に、聖は黙って頷く。気になるといえば気になるのだが、自分でも何が気になるのかよく分からない。まとまらない思考はやがて押し寄せる疲労の波に流されてしまい、考えるのが億劫になってしまった。そして、何とか無事に今日の団体戦を乗り切れたことの安堵感に包まれながら、バスに揺られて帰路に着くのだった。

続く
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