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act5 Melancholie

5-7 Conflict Like Alien

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 次第に空は暗くなり、イルミネーションが東京の街を彩り始めようとしている。
 渋谷の屋上で紡がれる、2人の高校生の細やかなロマンスを嘲笑うように、突然周囲から悲鳴が聞こえた。一瞬で現実に引き戻された2人が、同時にその方向を見ると、ヘリパッドの中心にクラフトナイフを手にした若めの男が立っていた。
 ダークグレーのフード付きパーカーを纏った男の目は、据わっているのが判る。幸い、未だ誰も刺されたりはしていないようだ。しかし、刃渡りは短いと云え、刃物に変わりは無い。
「くっ……」
流雫はその男に目を向ける。何故こうも遭遇するのか。それよりも、今は……。
 澪は、スマートフォンをコートのポケットに入れたまま、ホーム画面に浮かぶ流雫のアイコンに触れた。その直後に、彼のスマートフォンを鳴らす。それに流雫が反応し、デニムのポケットに入れたままの端末に触れた。
 展望台はイヤフォンさえも持込禁止で、スピーカーフォンモードにする2人。流雫は、展望デッキで伊万里との会話を澪に聞かせた、8月の空港を思い出した。
 「流雫……」
澪は通話が始まると同時に、隣にいる彼の名を呼ぶ。その声色は、肉声もスピーカー越しも、不安に満ちている。……丸腰で、どうやって戦うのか。
 「隠し持ってたのか……」
と1歩だけ前に出た流雫は言ったが、その瞬間に男と流雫の目が合った。その目付きが険しくなるのが判る。
「澪……走れっ!!」
流雫が言うと同時に、男は流雫に向かって飛び込んできた。
 「流雫っ!!」
と反応した澪は、10段ばかりの小さな階段を下りながら、目の前の階下への階段を目指す。それと入れ替わるように警備員が上がってきて、来場客の誘導を始めた。
 ただ、警備員の目的はあくまでも避難誘導と安全確保であって、犯人の身柄確保ではない。そして、何故かは判らないが犯人は流雫を狙っている。それは、つまり流雫だけは自力で逃げなければならないことを、意味していた。
 正体不明の男に刺される、殺される……その恐怖を抱えていた。必死で逃げ切るしかないが、澪にもとばっちりが及ぶ……となると、やはり戦うしかない。
 しかし、最終手段ながらも幾度となく流雫と澪を助けてきた銃は、階下のコインロッカーに眠っている。確かに、この2日間で使わなくて済むことを願った。使わなくて済みそうだが、こう云う形を望んだワケじゃない……。
 流雫は10段ほどの階段を駆け下りると、外周に回った。ガラスに向かってローテーブルやソファが設置され、座って眺められるようになっているが、それと万が一の落下物対策か張られたメッシュの屋根を支える、支柱との隙間を走る。
 狭いが、スピードを落とすワケにはいかない。しかし、それでも男との距離は少ししか開かない。
 ……地上230メートル、少し強くなった風に晒される中で、しかも何故通り魔とクリスマスイブにチェイスタグ紛いのことをしなければならないのか。流雫は思わず
「ツイてない」
とだけ呟いた。しかし、それどころの話ではない。
 丸腰でナイフに立ち向かう。それだけの強さは流雫は持ち合わせていないし、スピードもビハインドが有る。今この瞬間、流雫にアドバンテージは無い。
 ……ただ、1つだけ勝機は有る。澪が無事ならそれでいい。……警備員には大目玉を食らうだろうが、形振り構っていられない。
 一瞬だけ階段に目を向ける流雫は、澪が見当たらないことが判ると、少しだけ安堵の表情を浮かべ、すぐに男に向き直ると険しい目で睨んだ。

 「流雫っ!!」
と恋人の名を呼びながら、澪は小さなステップの階段を駆け下りると、目の前の階段を目指し、手摺りを掴み駆け下りる。
 しかし下からの警備員の指示を無視して、澪は20段だけ下りた階段の踊り場で階下に背を向けた。
「こっちに来るんだ!」
と警備員が近寄りながら言った。澪はその中年の男には目を向けず言った。
「あたしの彼が……上に取り残されてるんです。助けなきゃ」
 澪は、階段の上に顔を向けると、風にコートのケープと、シンボルのダークブラウンのセミロングヘアをはためかせて駆け上がった。
 風がケープとスカートの内側に入ってきて少し冷える。しかし彼が置かれている今この瞬間に比べれば、何事も無いのも同然だった。
「流雫……」
そう呟く澪。
 流雫が、最悪殺される……。そう思うと、身体は自然に反応する。
 ラディカルでも勝機を見つけ、手繰り寄せる彼を信じていないワケじゃない。ただこの目で、彼が無事だと判らなければ安心できない。
 後で誰に何を言われてもいい、流雫を見て泣き叫ぶような結末さえ避けられるなら。一瞬、3週間前の彼が頭を過った。
 
 屋外展望台の外周を走り回った流雫は、しかし決定打が無いことに迷っていた。障害物があのソファぐらいしか無く、動きを撹乱させることはできても、クラフトナイフを手放させることは難しい。
 ……ポイントは2箇所。しかし1箇所は……。
「待て!」
男は叫ぶ。しかし、止まるワケにはいかない。
 そもそも、何処かで会ったことすら無い。何処かですれ違ったような記憶も無い。狙われる理由は見当たらない。
「何なんだよ……!」
流雫は苛立ちを抱えながら、ヘリパッドへの10段を上がる。ジオコンパスの対角線上、最後のステップを駆け上がろうとした少年は、しかしその角を両足で踏んだ。
 角を蹴るタイミングは、利き足の左足の方がやや遅く、そして勢いも強い。その身体はやや左に捻れ、空中で男に正対した。
 流雫は迫ってくる男の身体が判ると、股を大きく開き、股間の前で両手を重ねて握り締める。その1秒後、その手が相手の鼻を捉え、
「がっ!」
と男が呻く。
 しかし男との衝突で勢いが殺され、雪崩れるように木の床まで落ちる……その流雫の計算に反して、その細い身体は軽く投げ出された。咄嗟に着地の体勢……は間に合わず、膝から木の床に不時着する。
 鈍い音を立て、
「ぐっ!!……くっ……!」
と声を上げ、顔を歪ませる流雫。だが、男との衝突で幾分勢いが弱まっていただけでも幸いだった。
 しかし、鼻血を零しながら後頭部と背中から地面に落ちた男は、
「くそ……!」
と呻きながら呟くも、それでもナイフを手放さない。流雫は咄嗟に立ち上がった。
 「殺す……!」
そう叫んだ男の目は、完全に殺気に満ちていた。流雫も目付きだけ殺意を露わにすると、クラフトナイフを持ち直した男は痛みを引き摺ったまま迫ってくる。……意外とタフだ。
「ほっ!」
流雫は、小細工無しで突進してきた男を避けると、再びヘリパッドへの階段を駆け上がる。
 「流雫!」
スマートフォン越しに、澪の声が響いた。
「澪!」
とだけ声を上げた流雫は、しかし2本有る階下への階段、その右側に手摺りを掴む人影を見た。少し強くなった風に、ケープ型のコートとセミロングヘアをはためかせる少女……。逃げたハズじゃ!?
 「逃げろ!!」
流雫は叫ぶ。しかし澪は
「流雫を助けなきゃ!!」
と被せる。助けるって、しかし危険過ぎる。
「危険だ!!」
「流雫だって同じじゃない!!」
流雫の声に更に被せるように、澪は叫んだ。スピーカーからの声と生の声が、耳に同時に届く。
 ……澪を信じていないワケじゃない。ただ、如何せん彼女も丸腰だ。アクション映画の見様見真似でしか戦えない流雫と一緒に、澪はどう戦う気なのか。
 ……とは云え、今は争っている場合じゃない。澪は決着がつくまで、逃げる気は無い。ならば、共闘するしかない。それも、短時間の一発勝負で。
 彼女を逃がすことを諦めた流雫は、パーカーのジッパーを半分ほど下げ、澪と遠目ながら一瞬目を合わせて頷き合った。そして直線上の角、シブヤソラ最高のフォトジェニックスポットへと走った。

 地上230メートルの屋外展望台と云う特性上、シブヤソラ外周には転落防止のために3メートルほどの高く分厚いガラスが張られている。しかし、一角だけは例外だった。
 胸元ぐらいの高さまでしかガラスが無く、風景と一体化したような写真が撮れるとして人気で、夜は順番待ちの列ができるほど。其処だけは階下より一回り小さく万が一転落しても1フロア下に落ちるだけに設計されている。
 しかし、その高さは普通の建物の3フロア分。そして幅は割と無く、飛び下りるにはあまりにも危険過ぎる。
 ……澪のセミロングヘアとケープは、彼女の右斜め後ろから前に向かってはためいていた。そう、目的のカドに対して完全なる向かい側……。ウインドシアさえ起きなければ。
 カドの行き止まりが近付く。
「ほっ!!」
色が変わった床を強く踏んで跳び上がった流雫は、足を大きく開きながら、パーカーのジッパーを下げきって裾をはためかせ、ノーハンドで胸元までの高さの、90度開いた手摺りに足を乗せる。
 ……200メートル下に落下しないためには、この前に行きそうな勢いを後ろへ向けるしかない。ただ、そのブレーキの役目は風が背負った。このブレーキを今度はブーストに……。
 流雫は力強く手摺りを蹴り、後ろへと飛び上がった。
「流雫!?」
それに目を見開いたのは澪だった。流雫には声だけで表情が判るが、次の瞬間澪は手摺りから離れた。
 少年に対しての向かい風は、彼が方向を180度転換した瞬間に追い風になった。パーカーが風を受け止め、流雫を後ろ向きのまま飛ばす。流雫は上半身を軽く捻り膝を曲げると、180度方向転換しながら男の頭上を跳び越え……。

 カドに追い込んだ、と思った男は、目の前の少年が手摺りに跳び、更に跳ねた瞬間、血迷ったと思った。
 手前に落ちても9メートルの落差は無事では済まない、階下のガラスを超えれば200メートル真っ逆さま。生きていられるワケがない。
 しかし、少年は後ろ向きのまま宙に舞い、頭上を飛び越えていった。
「何!?」
何が起きたか判らない男は、足を止めようとする。その瞬間、後ろから足を蹴飛ばされ、ガラスの柵に叩き付けられる。
「おぼあぁっ!」
と声を上げつつ、咄嗟に手摺りを掴んだが、そこでナイフを落とした。凶器は落下物防止用の網に引っ掛かり、身を乗り出しても手にできない。
「くそ……っ!!」
男の目は、完全に冷静さを欠いていた。

 パーカーのフードの真上を飛び越えた流雫は、空中で男と背中合わせになった。そして前のめりに着地し……支えとして突いた両手を軸に、膝をバネに両足を後ろに突き出した。
 ……カンガルーの動きにヒントを得た、変則的カンガルーキック。狙ったのは、膝の裏。
 果たして、肉を蹴る手応えを感じると同時に、背後から低い悲鳴が聞こえた。上手くいった証左だ。流雫が立ち上がりながら振り向くと、男の手にはナイフは無かった。
 これで互角……否、澪がいる分僅かばかりのアドバンテージが有る。ビハインドを一気にひっくり返すにはこれしかなかった……、と思いながらも、少しだけ自分の無謀ぶりに、流雫は思わず苦笑いを浮かべる。
 そして、澪は流雫が宙を舞ったことに目を見開きながらも、男の膝を蹴飛ばしたのを合図には走り出す。
 「っざけ……!!」
と声を張り上げて目障りな少年に正対した男の耳に、左から木の床を激しく踏む音が聞こえてくる。その方向に顔を向けると、シルバーヘアの少年が澪と叫んでいた少女が視界に入った。
 ……華奢に見えるが、これでも室堂澪と云う少女は何度もテロや通り魔と戦ってきた。室堂常願と云う刑事の父譲りの正義感で。
 澪はコートのベルトに手を掛け、引っ張った。1メートルほどのベルトを短く持ち、男の腕を目掛けて振り下ろす。だが、風で勢いが殺され、男に簡単にベルトを握られた。引っ張られれば、簡単に引き寄せられる。しかし。
 ……自覚は無いが、彼女の武器はパルクールを除けば流雫と遜色ない身軽さ、そして非力を逆手に取ったフェイント。男がそのことを知らないのは、この瞬間においては致命的だった。
 そして、パーカーのフードが聴覚を鈍らせ、何より澪に気を取られ気付いていなかった。目を逸らした少年が、背後に迫っていることに。
 「ほっ!」
流雫は再度手摺りにノーハンドで左足を引っ掛け、男の右後ろへ角度を瞬時に変えて跳ぶ。両手を重ねて握り締めると、その右肩に振り下ろした。
「ぐっ!!」
男は声を上げると同時に、澪のベルトを放すと肩の力を失い、左手で肩を庇う。脱臼でもしたか……?
 澪の前で反転し、彼女に背を向けた流雫に男は
「てめぇ……!」
と声を上げるが、同時に警備員と警察官が階段の最上段を踏んだ。男は抵抗しようとしたが、肩の痛みに動きが鈍り、最早為す術も無かった。
 最後まで男は、痛みに顔を歪めながらも流雫を睨み続けた。そして流雫も
「はぁ……はぁ……」
と息を切らしながら睨み返した。
 雪も降りそうな12月の下旬の冷たい風が、ネイビーのシャツの表面から熱を奪い、動きを止めた少年の火照った身体を一気に体を冷やしていく。
 「……流雫……」
と名を呼んだ澪に、流雫は呼吸を整えながら
「澪……無事……?」
と問う。
「あたしは、どうにか……」
と少女は答えた。流雫は屈んで膝を押さえる。
 「流雫……痛む?」
と澪は問いながら膝立ちして、膝に触れる。ただ、先刻打っただけだ。その後も走り、跳び、蹴飛ばし、限界まで膝を動かした。……痛みさえ我慢すれば、動く分には問題は無い。
「これぐらい、どうってこと……」
流雫は言った。これぐらい、怪我のうちに入らない。
 「しかし、何だったんだ……」
流雫は呟く。それが最大の疑問だった。ただそれ以上に、澪との思い入れが深い場所で事件が起きたことに対する、怒りが強かった。

 2人は警備員と警察官に保護され、室内のスタッフルームに通されるとそのまま事情聴取を受けた。とは云え、2人……特に流雫は被害者で、加害者とは面識は無い。突然狙われただけ。正直、流雫も澪も困惑していた。
 ただ、銃を使わなかった……正しくは使えなかった……ことで、比較的短時間で済んだ事は幸いだったし、防犯カメラでもあの戦いが正当防衛だったことは揺るぎないと言える。しかし澪は
「最悪だわ……」
とだけ呟いた。
 遭遇したことは済んだこと、とは云え、室堂一家の代表である父親は、警視庁の刑事だ。家庭に仕事はほぼ持ち込まない主義だが、その時のことを詳しく聞かせろと言ってくるに違いない。
 それは娘も構わないが、ただ12月24日と云うタイミングが最悪過ぎる。またしても、事態は大きくなかったがデートに水を差された。
 そして警備員からは、予想通り大目玉を食らった。2人で犯人を止めようとした事は一応は褒められたが、澪は警備員の指示を無視して避難しなかったこと、そして流雫はやはり、身を乗り出すなと言われていた手摺りを使って跳んだことがその理由だった。
 今回は刃物を持った男が相手、と云う事情が事情だけに、特別に大目に見るが……と言われ、辛うじて事無きを得たが、警備員は終始怒りと云うより呆れ心頭だった。ここまで無茶をする奴は見たことが無い、と。
 流雫も無茶する気は無かったが、それしか勝機を見出すことができなかった。大目玉こそ食らったものの、結果澪も自分も怪我一つしなかったことは、勝利や敗北と云う言葉を敢えて使えば、完全勝利そのものだった。
 スタッフルームから釈放された流雫と澪は、漸く現場検証と男が零した血の掃除が終わり、再び開放された屋外展望台へ上がる。……1時間前のことがリセットされれば……、と願ったが、残念ながらそれは叶わないことだった。
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