44 / 77
act3 Mephistopheles
3-15 Unwanted Place
しおりを挟む
澪の家から駅まで歩く間に、既に足下はびしょ濡れになっていた。靴下が雨を吸って、ローファーの中で音を立てるほどの降り方だった。
NR線を使っても、途中で私鉄かモノレールに乗り換えることになる。改札を通った後で、流雫は乗換アプリを開く。
運行情報には私鉄は本数を半分以下に削減している一方で、モノレールは平常通りと表示されていた。やはり、脱線の心配が無いだけ、この点では強いのか。
多少遠回りになるが、そして少し高くつくが、2人はモノレールに乗り換えることにした。
本数を大幅に減らしながらも運転している、臨海副都心へ直通する東京臨海ラインの列車はすぐに来た。それに乗った2人は、天王洲アイルで降りる。
乗換には一度地上へ出なければならず、やはり足下は濡れる。ただ、モノレールにさえ乗れば後は空港を発つまで、濡れなくて済む。
学校の制服に似つかわしくないショルダーバッグとトートバッグは、何か有った時の機動性を重視したものだった。それの底には、それぞれ銃が入っている。
……もしトーキョーアタックが起きていなければ、流雫と澪が知り合うことは無かったが、同時に銃を持たなくて済んでいた。そして、その全てが大きく変わるきっかけだった追悼式典には、銃を持って行っている。
何かが起きると思っているから、それ以前に、銃が無ければ何だか落ち着かない。その心理こそが、今の日本を端的に表していると、2人は思った。
空港へのアクセスに特化したモノレールに乗っている人は、流石に疎らだった。2人は先頭車両の左側、1人掛けの席に前後に座るが、何も話さなかった。流雫も澪も、ただじっと外を眺めている。
……流雫にとっては、今日と云う日、空港と云う場所がものすごく重い意味を持つ。図書館でニュース速報を見て戦慄していただけの自分には、何も言えない。
澪はそう思いながら、ふと2ヶ月前を思い出す。
……生まれて初めて行った空港は雨だった。ダウンバーストと呼ばれる自然現象に見舞われる中、目の前でビジネスジェット機が爆発した。
咄嗟に、流雫が後ろから手で顔を覆ったから、その瞬間を見ることは無かった。しかし、ジェット燃料の臭いと、耳に入れられた指では防げなかった轟音は、今でも簡単に思い出せる。
そして、単なる航空機事故ではなく、ドローンの衝突で墜落に至らしめた事件だと、後に明らかになる。全ては、あの1年前からの延長……。
澪は唇を噛む。無意識に、眉間に皺を寄せていた。……今日ばかりは、何も起きてほしくない。
競馬場や車両基地を通り過ぎるモノレールが地下に潜る。いよいよ空港だ。
終点の1つ前、中央空港ターミナル1駅で降りる。改札前に設置された発着案内モニターに目を向けると、国内線は軒並み欠航となっていた。夕方以降運航を再開する可能性も有るが、北陸から北へ向かう便は、どの航空会社も終日欠航との表示が流れている。
国際線も、夕方以降は運航する可能性が有るが、それも全て出発時刻未定で、一部の便では搭乗手続きを中断していた。
国際線ターミナルの出発フロアでは、足止めを食らった旅行客が屯していた。一方、その地階……モノレールの改札の近くでは、追悼式典の設営が始まっていた。数時間後には簡易的ながらも立派な壇上で首相などが演説をするのだ。その背後に、あの金時計が有る。
正直、流雫にとっては演説などどうでもよく、ただ黙祷さえできればよかった。尤も、それは渋谷でしたかったことだが。
ただ、これが終われば少しは風雨が弱くなっているだろう。その時点で渋谷に行くことは決めていた。
……式典までは未だ時間が有る。流雫と澪は、コンビニでミントのタブレットと深めに挽かれたアイスコーヒーのカップを手に入れ、ターミナルを回る。
……あくまでも今日は遊びじゃない、そしてこれはデートじゃない。式典の時間までの、単なる暇潰し。そう言い聞かせることにしたが、自然と微笑みが零れる。少しだけ緊張感が解けた感覚がした。
出発フロアと到着フロアは、バックパックやスーツケースを手にした外国人で椅子がほぼ埋まっていた。その様子は、1年前と変わらない。
到着フロアのエスカレーター乗り場の隣から、式典会場を見下ろす流雫。この場所で足を止めるのは、完全に無意識だった。……あの時、あのままエスカレーターに乗っていれば、今頃……。
「……今日だけは、何も起きないといいけど」
と流雫は言う。何度そう思ったか、呟いたか。ただ、その度に裏切られてきた。
「そう願うしかないわね……」
澪は答える。彼女も、何度も裏切られてきた。だから今日ぐらい、今日だけは叶ってほしかった。
階下では、警備員と警察官が集まってきた。一国の首脳や政治家が登壇するのだから、当然だ。遺族の代表らしき人も端のパイプ椅子に案内されたが、この天気だからか、はたまた平日の昼間だからか、追悼に集まった人は少ない。
報道陣は、惨劇から1年の節目と、また政権交代を成し遂げた新たな首相の初仕事の日でもあったことで、パーティションで仕切られた報道エリアに群がっていた。
国会議事堂での所信表明演説を手短に済ませ、公用車で空港へ向かっていた首相が、漸く空港に着いたらしい。この時点で、当初の式典開始予定時刻を5分過ぎていた。
警察官がエスカレーターへの動線を開けるように声を上げながら2人の目の前を通り過ぎると、少し遅れて数人の護衛に囲まれた首相が胸を張って下りていく。
2年前に還暦を迎えた、薄めの白髪が目立つこの政治家は、野党一筋。今回ついに、国の政治のトップに立った。些か場違いだが口角を上げるのは、致し方ないことではあった。
流雫は、エスカレーターの隣のガラス張りの柵に背を預け、アイスコーヒーを飲む。その隣で澪は、カップを両手で握ったまま階下に目を落としていた。
真上のアトリウムの天井は明かり取り目的でガラス張りになっている。シャワーと形容するに相応しいほどの豪雨、その雨粒が絶えず流れていく。
空港と各地を結ぶリムジンバスは高速道路の通行止を受け、運休や一般道を経由すると云う案内がLEDパネルに表示されていた。飛行機の発着案内でも、台風を理由とした欠航や遅延の放送が絶え間なく流れていたが、追悼式典の最中だけはは放送を止めてディスプレイ表示のみになる、との予告が有った。
そして、ついに放送が止まった。コーヒーを飲み終えた流雫は、既に空になっていた澪のカップも引き取って近くのゴミ箱に捨てる。
いよいよ始まるのだ、と思った流雫は、軽く溜め息をついて頷くと恋人の隣に戻り、階下に目を向けた。
予定より15分遅れて、眼鏡を掛けた司会進行役の国営放送のアナウンサーが、東京同時多発テロ事件の追悼式典開会を宣言した。スピーカーからの声がアトリウム構造のターミナルに響く。そして早速、総理大臣が壇上に上がった。
海外メディアも集まる中、極東の島国の政治の頂点に立つ初老の男は、事前にタブレットに用意されていた原稿を読み上げる。テロに対する非難に終始したそれは、しかしガラス張りの柵から階下を見下ろす流雫にとって、耳障りでしかなかった。
……感情論でテロは悪いことだと叫ぶのは簡単だし、言われなくても判っていた。具体的なテロ対策として、特殊武装隊の再編成と強化が続けられているのも、ニュースで報じられている程度には判っている。
ただ、どれもステレオタイプにしか聞こえないのは、僕がトーキョーアタックの或る意味当事者だからなのか。いや、今はどうでもいい。
「……流雫」
と、澪は隣の少年の名を呼ぶ。一瞬我に返った流雫は
「……ん?」
と振り向くが、澪は
「……何でもない」
と呟くように言った。
流雫が悲壮感を滲ませた表情を浮かべていたことに、澪は少しの不安を抱いていた。
3月、初対面のミオ……澪の目の前で、生き延びるために、殺されないために、と銃を手にしたルナ……流雫が見せた表情は、今の彼が浮かべているそれと同じだった。
ただ、澪は今の彼には何も言えない。
……所詮、あたしはトーキョーアタックそのものとは無関係だった身。どんなに流雫の恋人であっても、1年前のあの日、自分自身が生き延びた天国と恋人を失った地獄を、同時に見た流雫に、何か言える立場じゃない。澪はそう思っていた。
ただ隣にいること。それが恋人としての特権なのだが、しかしこう云う時に無力なのは、澪のプライドの問題だった。……自分の弱さに、泣きそうになる。
エスカレーター付近には、式典の様子を見守る人が他に50人ほどいた。先刻首相が下りた直後、エスカレーターが止められ、階下と階上でそれぞれ警察官が睨みを利かせていた。
演説を終えた首相が、用意された椅子に座ると、遺族を代表した20代の青年が紹介される。空港の警備員だった父が到着フロアで犯人の銃弾を浴び死亡、ほぼ即死だったと云う。スーツを着た青年が壇上に行こうと、椅子から立ち上がる。
ふと、到着フロアのエスカレーター付近の人集りに混ざった、白いシャツの男が黒いボトル型タンブラーを柵の上から落とした。それに気付いた警察官が
「おい!」
と叫ぶ。全員がその声に注目すると同時に、プラスチックのタンブラーが角から床に叩き付けられ、割れると同時に爆音と大きな炎を上げた。
「きゃぁっ!」
と声を上げた澪は、ガラス柵に背を向けてしゃがむ。
流雫は咄嗟に、その上から被さる。しかし、爆発は強化ガラスにダメージを与えるほどではないのが幸いだった。
消火器が持ち出されると同時に火災報知器のベルと警報が館内に響く。周囲の人が逃げようと四散するより早く立ち去ろうとした男に向かって、
「待て!!」
と声を上げたのは、ジムで鍛えたような体格の男だった。
痩せ型の犯人を羽交い締めにしようと追うが、大きめの銃声3発の後で前のめりに倒れ、スーツを赤黒く染める。
「ぎゃぁぁぁぁ!!」
声を限界まで張り上げたような悲鳴が幾重にも聞こえ、到着フロアはパニックに陥った。
地階では消火器で消火活動が始まっていた。護衛が首相を警護しながら避難させようとする。その他の来賓も警備員や警察官に保護されるが、同時に新たな爆発音も響いた。地階の全員が目の前の……流雫の隣のエスカレーターを目指した結果、渋滞を起こし始め、ついには怒号まで聞こえてくる。
1分足らずの間に周囲が混沌に陥る中、流雫は澪の肩と頭に手を置きながら、今自分がいるフロアの動きに注目し、しかし耳は地階の動きに集中させた。
1人を射殺した男は、オートマチック銃を左右に振って威嚇していた。流雫は黒いショルダーバッグに手を入れると、何時でも銃を取れるようにした。
ディープレッドのショルダーバッグよりはこう云う場に向いている、それが今回このバッグを選んだ理由だが、銃を気付かれないように取り出すのには、あっちの方が好都合だった。
チョイスを間違えたかと思いながら、流雫は周囲を見回す。
「流雫……?」
と声を震わせる澪から離れた流雫は、しかし
「……死なない。澪も僕も」
と言うだけで精一杯だった。
銃を持つのは、計算上日本国民の2人に1人だ。そうシンプルなものではないが、この場にいる半分が持っていても不思議ではない。
ただ、階下では発砲音は聞こえないし、このフロアでも他に銃を手にした人は見えない。
テロへの抑止力のためと云えどタダで入手できるものではなく、それによくよく思い返せば、此処は国際線用のターミナルだ。今日海外へ出発する人、帰国した人が居合わせたとするなら、それは全員丸腰を意味する。銃を海外へ持ち出すことは法律上禁止だからだ。
だが、最初からこの追悼式典だけを目的に訪れていた人の中には、持っている人もいる。しかし、或る言葉が流雫の頭を過った。
2月のホールセールストアで、流雫の額に銃口を突き付けた男は
「お前が殺していれば!!」
と叫んだ。
流雫が銃を持っていることを、男は恐らく知らなかった。しかし、流雫が人質になっている間に一瞬の隙を突いて犯人を撃てば、自分が撃たなくて済んだと思っていた……そう捉えるのが自然だった。
流雫が銃を持っていることを知っていれば、持っているのに撃たなかったことに、知らなければ銃を持っていないことに、つまりはどっちにしろ流雫が「汚れ役」にならなかったことに憤怒していた。
誰もが護身のためと頭では判っていても、人を銃で撃つ。それは、人の命は尊いと云う倫理に反することだと、誰もが思っている。それはそれで間違ってはいないし、寧ろ命は尊く在るべきだ。
だから、自分でない誰かが自分の代わりに犯人を撃ち殺せ。それが誰もが望む、事件収束の理想形ではあった。
……それからすると、流雫は危険な奴だと思われるだろう。しかし、躊躇しなかった。危険な奴でもいい、自分と……何よりも澪を護れるのなら。
1人が射殺されたのを機に、4人の男が鞄やスーツから銃を取り出した。対して白シャツの男の弾倉は、銃身より大きくはみ出し、恐らく10発近くは残っている。1人に対して2発ずつ撃っても銃弾が残るだろう。その2発でも、1人殺すには十分だ。
銃身より大きくはみ出した弾倉は、それ自体が明らかに違法だった。その銃の出処も気になるが、それは警察の仕事だし、今はそれどころではない。
逃げる男の背中に銃を向けては、護身のための銃撃の定義から外れる。そう思ったからか、初めて人に向ける恐怖からか、撃てない4人を嘲笑うかのように、男は走り去ろうとした。
何度かの小規模な爆発から逃げようと、地階からエスカレーターを駆け上がろうとする集団の流れに向かった男は何か叫び、一番前の男を蹴飛ばした。それがきっかけで将棋倒しが発生し、次々と転がり落ちていく。その上を踏み付けるかのように走る男に向かって、警察官が威嚇発砲をした。
澪は
「逃げなきゃ!」
と叫びながら立ち上がる。
幸い今は到着フロアにいる。外は豪雨だが、バス停の上に屋根は有る。流雫は澪の手を引き、外へ飛び出した。
空港のバス停は2層構造で、到着フロアに乗車場、1階上の出発フロアに降車場を設け、スロープでアクセスする。そして、出発フロアの道路の高架が、数百メートルもの直線の道路に沿って並んだ、到着フロアの十数ヶ所のバス停の庇として機能している。
其処に地階から避難してきた人たちが散っていた。
バスは1台も無く、空港と各地を結ぶ高速バスのスタッフも誰もいない。
流雫は、目の前の横断歩道の向かい側の小さい駐車場に黒いワンボックスが3台、縦に並んで停まっているのに気付いた。貸切バス専用の乗降エリアだったが、その3台の他に車両は無い。
一見、予約制の乗合タクシーのように思えた。最近は、スマートフォンでの配車予約を中心とした、デマンド交通と呼ばれるモビリティサービスが増えていて、このテの車がよく使われているらしい。
ただ、流雫はその3台に見覚えが有る気がした。……昨日、新宿へ向かう高速バスを黒いワンボックスが3台、連続で追い越していった。ナンバープレートはすぐに雨に煙って判らなかったが、6月にOFA山梨支部の家宅捜索を覗いた時、建物の前に同じ色と似た形の車が2台停まっていた。
もし、その車に別の1台が合流してバスを追い越し……そしてあの場所に停まっているのなら、今起きているのもOFA絡みになる。
ただ、そもそも黒いワンボックスなど東京だけでも何台走り回っているのか。それは流石に……と流雫は思いたかったが、現実は彼に対して甘くない。
ワンボックスのスライドドア、その窓の真ん中に長方形の開閉窓が有る。それが少しだけ開く。
「澪!」
と流雫は咄嗟に叫び、澪の手を引く。それと同時に、リズミカルな銃声が雨に掻き消されることなく響いた。バス停の標識や信号機の柱に当たって金属音を立て、同時に窓ガラスが割れ、そして何人かが撃たれた。
「くっそ……!」
北側に向かって走りながら、流雫は怒りと苛立ちを露わにする。何が目的なのか。
その隣を走る澪は何が起きたか、頭が追い付いていない。
「何なの!?」
そう流雫に叫ぶのが精一杯だった。
「あの車……昨日高速バスから見たやつだ……!」
その苛立ち混じりの流雫の声に、澪は目を見開く。
「それって……!」
少女の声に被せるように、流雫は途切れ途切れに言った。
「河月のOFAから……でなきゃ、あんな……!」
……あんな銃撃など有り得ない。それより、何処に逃げるべきなのか。
背後ではクラクションが相次ぐ。銃撃に驚き、急ブレーキを踏んだ車の影響で危うく玉突き事故に発展するところだった。
その直後、全員が車から降りて逃げ出した。車のボディに銃弾が刺さる音が、何度も聞こえる。
何処が安全なのか……。この陸続きと思われがちの空港島は、台風接近の影響も重なり、半ば孤島状態だった。しかも、ターミナルからの移動手段は車か鉄道しか無い。
その車……バスやタクシーは周囲に1台も無い上に、この騒ぎで目の前の道路は事実上封鎖状態だ。そして鉄道は……全て地階から乗る。
それでも、反対のターミナル2まで回ればどうにかなる。ただ、唯一の歩道は、あのワンボックスが停まる区画を通っている。流石に撃たれる。機銃相手だとすれば、敵うワケがない。
……傘はエスカレーターの所に置き去りだったが、仕方ない。雨に濡れながら、車道を走ってターミナル2かターミナル3を目指すしか、方法は無い。
しかし、流雫はこのターミナルから脱出するより、やりたいことが有った。そうしなければ、気が済まないどころの話ではない。澪まで更に危険に晒す……それは避けたいが、それと相反する。
3分前の平和が一瞬で崩れた。流雫にとって節目となる日に、またしても。雨音に警察車両のサイレンが重なる。
「どうして……」
ターミナルの端まで走った流雫は、肩で息をしながら呟く。
……あの日から1年の節目で、またテロが起きた。……恐らく、あの政治家もいる。階上から見下ろした式典会場にはいなかったが、ここぞとばかりに現れるだろう。
そして、内心ほくそ笑みながら自身を囲むマスメディアに言うに違いない、だから難民と有害な外国人を排除せよ、と。
「流雫……」
「……僕は、……」
澪が名を呼ぶ声に被せるように、そう言い掛けて止めた流雫の言葉の続きを、恋人は察した。思わず言葉を被せる。
「ダメ……!」
「……もしアレがいるなら、一発殴らないと……」
と苛立ちを露わにしながら言う流雫に、澪は被せた。
「殴るのは止めないけど、でも今は危険過ぎる……!」
澪がそう言うのも尤もだったし、流雫自身、危険を冒してでもあの政治家を殴ると云う、常軌を逸していることを言っているのは判っていた。
……しかし、流雫はこの1年、悲しみや苦しみや悩みを抱えて生きてきた。流雫が過激なことを言うのは珍しい、しかしそう言いたいのも、あたしは判ってるし、殴りたいのも判ってる。……澪はそう思いたかった。
だけど、そのために戦火に飛び入るのは、やはり……正気の沙汰じゃない。
「……流雫が行くなら、あたしも行く」
と澪は言った。流雫を1人にさせはしない。
その時、一番前に停まっていたワンボックスが走り出した。車道を斜めに走り、バス停が終わったところで歩道に乗り上げ、傾きながら更にスピードを上げる。
「澪!」
流雫は澪の手を強く引く。開くのが遅いターミナルの自動ドアが少し開くと先に澪を通し、流雫はそれに続く。
……図らずも戦場に戻ってきた。
目の前の階段室に飛び込む2人は、互いの靴音が響く中、息を切らす。……そう言えば、火災警報器も鳴っていない。もう鎮火したのか……しかし何も判らない。
ただ、目の前の澪だけが心配だった。
「澪……」
「流雫……あたし怖い……!」
澪は壁に背を預け、俯いて声を震わせる。やはり……露骨に轢き殺す気だったか。
「やっぱり、狙われてるのかな……」
流雫は呟く。
澪の父が河月で言った通り、流雫は連中の敵に回っている。しかし、あまりにもアクション映画のように露骨過ぎる。……目を背けたいが、これが唯一の現実だ。
「……やだよ?流雫は殺されないんだから……」
そう言って、澪は顔を上げた。数秒後には泣き出しそうなほどの悲壮感に、その顔は支配されている。
「……僕は死なない。澪も殺されない」
と流雫は言いながら、残っている恐怖を押し殺して、ショルダーバッグから銃を取り出す。
「これが、最後になるといいけど……」
流雫は呟いた。
今、この弾倉に収まる銃弾の数は最大数の6。これからも銃を持ち続けることになるとしても、人生で撃つ最後の6発にしたい。……1発も撃たないのは、残念なことに最早避けられそうにないから、せめてこの6発が。
「これが、最後になるといいけど……」
そう呟いた流雫の隣で、澪も銃を取り出す。流雫がいるからこそ、引き金を引かなくて済んでいるが、それに甘んじるワケにもいかない。
澪は、掌の体温を奪いそうなグリップを包むように強く握る。心臓の鼓動が少し早くなる感覚に、やはり戸惑いを覚えた。
「はぁ……っ……」
澪は溜め息をつく。悲壮感の上に緊張が被さってくる。
「流雫……死なないよね……?殺されないよね……?」
と細い声を絞り出す澪に、流雫は囁くように答えた。
「……僕も澪も……死なない、殺されない……」
この数分で、何度この遣り取りをしただろう?ただ、何度も澪は問いたかったし、流雫も答えたかった。それが2人、生き延びるための原動力になるなら、何度でも。
銃を握ったまま
「流雫……」
と愛しい人の名を呼ぶ澪の手に、流雫は自分の手を重ねる。
「澪……愛してる」
「……あたしも。愛してる……流雫……」
愛してる……、好きよりも強い言葉を返した澪の目に、迷いは無かった。
苦しみや悲しみも全て抱きしめる、その覚悟ができなければ言う資格は無い。澪はそう思っていたし、そして流雫も同じだった。
階段室の外から聞こえてくる複数の靴音が、大きくなる。此処にいるワケにはいかない。
「……行くよ」
流雫は言った。
到着フロアより安全そうだ、と云うだけの理由で出発フロアに駆け上がった2人が階段室のドアを開けると、遠くでは何やら声がする。それも怒号のような。
何が起きているのか判らないが、後ろからはテロリストが追ってきている。とにかく、今は前に走るしか無い。
……東京中央国際空港はかつて、事実上の国内線専用空港だった。千葉の内陸に、国際線に特化した空港が建設されたことでそうなった。しかしその過程で、激しい暴動が闘争と云う名で繰り広げられた。
そして、この国際線専用ターミナルも、元は国内線ターミナルとして建設された。それ故、他の主要な国際空港と異なり、航空会社のカウンターの配置は長方形の島型ではなく、壁に沿う形になっている。
そのためか、数百メートル先の反対側が、何の障害物も無く見通せる。しかしそれは、逃げるどころか避ける場すら無いことを意味する。
2人は、後ろを何度も見ながら走る。しかし、何処に逃げれば?
ターミナルの中央部には、更に上階へ行けるエスカレーターや階段が有る。しかし、そっちはレストランやショップが数軒だけで1フロアそのものが狭く、挟み撃ちされれば終わる。それならこのまま走るしかない。
階下のエスカレーターは、将棋倒しの救助で混乱しているが、もう銃声も聞こえない、煙も見えない。
「どうする……」
流雫は呟きながら、しかし迷っていた。ミリタリージャケットの男が4人、機銃らしきものを持って2人を追っている。頻りに後ろを見ながら走る流雫は、4回目でその人数と武器を把握した。
……連中の武器なら、この距離でも殺そうとすれば、できないことは無いだろうが、撃ってこないのは些か不思議ではあった。
そして、ふと思った。
……10発以上入る違法な弾倉、機銃、そしてタンブラーを使った火炎瓶の類。これがもし、全て今日のために用意されたとするのなら……拠点は秋葉原の本部か。しかも、この1日や2日で準備なんて難しいハズだ。だとすれば……。
「言語道断だ!」
騒然とした空港に、太めの声が響く。
「追悼式典を狙うテロなど以ての外!どうせ今の日本では、こうなると思っていた!」
……やはり、いたか。流雫はそう思った。
ターミナルの中央部、センタープレイスの前に報道陣が数人いる。それが囲むのは、つい2週間ほど前に国会議員の座を失った政治家だった。
「日本をこよなく愛する身として顔を出してみたが、案の定このザマだ!私を消し去った政治家はこの様子を見て、無様だと思わないのか!」
とヒートアップした伊万里雅治に、リポーターが
「このテロも難民の仕業だと?」
と問いながらマイクを向ける。
「難民と反日の仕業だ!今すぐ警察は奴らを始末しろ!また人を殺すぞ!」
と終始憤怒した口調で捲し立てる伊万里に対して、失笑も散見される。伊万里は更に捲し立てた。
「笑いどころじゃない!そもそも私が有らぬ疑いを掛けられているが、それも全て陰謀だ!お前らも見ただろう、これが愛国者に対する社会的暴力だ!これが日本の真実だ!」
その声に、流雫は呆れの表情を浮かべながら、伊万里の元に向かうことにした。
流雫は呟いた。
「黒幕に向かっては撃てない……」
……黒幕。伊万里サイドがその2文字を聞けば、陰謀だの名誉毀損だのと罵られるのは間違いない。ただ、それが全て正しければ、背後から追ってくる連中も、ボスに流れ弾を当てるような真似はしないだろう。……恐らくは。
「流雫……!?」
澪は隣を走る彼の名を呼ぶ。何を企んでいるのか。
「……賭ける……」
流雫は言う。澪は頷く。……彼を信じる、それが澪の唯一の答えだった。
「このテロも1年前のテロも、全ては日本転覆を狙う難民の仕業だ!……」
そう言った伊万里の目に、シルバーヘアの少年が映る。……飛んで火に入る……何とやらだ。
「あれが河月で私を殺そうとしたのだ!」
伊万里は少年を指差して、意気揚々と声を上げた。
しかし、あのショッピングモールでの一件は動画が左派集団名義で投稿され、強制削除を繰り返しながら拡散され、しかもニュースでも流された。結果、自爆テロ犯は伊万里を狙ったものではないことは明らかになった。
最早、あのシルバーヘアの少年……宇奈月流雫が伊万里を殺そうとした、と云う声を真に受ける者は、この場に限ってはテロ犯を除いていなかった。
報道陣は一瞬流雫に振り向くが、すぐに目線を伊万里に戻す。
流雫は息を切らし、伊万里を囲む報道陣より2メートルだけ行き過ぎて止まる。澪も少し遅れて続くと、機銃を持って追っていた男たちが銃身を上に上げる。
「撃つ気が無い……?」
澪は呟いた。
今なら、流雫も澪も簡単に殺せる。報道陣の目の前でも気にしなければ、だが。
ただ、その流れ弾に伊万里が当たった場合……そして何より、これでこの4人と伊万里とグルで、黒幕が伊万里だとバレた場合……そのリスクはあまりに大き過ぎる。やはり、流雫の読み通りなのか……?
「殺人鬼が何の真似だ!?」
伊万里は流雫に向かって怒鳴る。その眼鏡越しの目を、少年のシンボルでもあるアンバーとライトブルーのオッドアイの瞳で睨み付ける流雫は、下ろしていた左手に銃を握ったまま、吐き出すように言った。
「トーキョーアタックも……河月の自爆テロも……秋葉原の青酸ガスも……全てお前の仕業か……」
その言葉に、澪の脳は雷が落ちたように痺れ、背筋が震える。
まるで、今まで眠り続けていた別の人格が目を覚ましたかのような、或いは何かが憑依したかのような口調だった。何しろ、他人を「お前」呼ばわりしたのは、澪が聞く限り初めてだった。彼女自身、流雫からは澪かミオと呼ばれた記憶しか無い。
流雫の声を引き金に、報道陣は一斉に突然現れた2人の高校生にカメラを向ける。トーキョーアタックに始まる一連のテロ事件の黒幕が、目の前の元国会議員だと云うのは、警察が捜査中の疑惑でしかなかった。
ただ、まさか学生服を纏った少年が、政治家を「お前」呼ばわりで真正面から睨み付け、そう言い放っているとは。それは単に、ネットの情報の洪水に溺れた挙げ句、義憤に駆られた政治オタクの高校生、と云う類とは、完全に一線を画している。
シルバーのショートヘアに、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳と云う、日本人らしくない……目の前の男にとっていけ好かない外見の少年からは、それが見て取れた。
突然カメラを向けられた2人は、しかしそれに怯むことは無い。……此処が自分の死に場所だとは、微塵も思っていなかった。
「全てはマッチポンプ……。保護した不法難民を実行犯に仕立て上げ、使い捨ての駒としてテロを起こさせ、後から出てきて叫ぶんだ。だから難民は危険だ、排除せよ。外国人も制限せよ。偉大なる日本のために、と」
流雫は言う。一瞬、伊万里の目蓋が動いた気がした。
「……何処にその証拠が有ると言うのか!」
と伊万里は更に大声で捲し立て、人差し指を少年の心臓の上に突き立てる。しかし、流雫は目を逸らさなかった。
「……1年前、僕はこの空港でテロに遭った。そして渋谷で彼女を殺された。その追悼式典まで台無しにする……。そこまでして、己の政策や信条を通したい……私利私欲のために……」
そして少年は、叫んだ。トーキョーアタックで殺された欅平美桜、河月のショッピングモールで殺された大町誠児、2人の突然過ぎた死への怒りを乗せて。
「お前こそテロリストじゃないか!」
流雫の一言は、日本最大の空港の館内に反響し、周囲を凍り付かせた。澪は、その恋人の殺意すら帯びていそうな目付きに、息が止まる。
「名誉毀損だぞ!」
と伊万里が叫んだ。流雫は先刻思ったことを言葉にした。
「秋葉原のデモは、青酸ガスの直後に起きた……それも全て警察の目を逸らすため……。今日の式典を狙ったテロの準備に、警察が邪魔だったんだ!」
その言葉に、澪は目を見開く。
……OFAに変な目が向けられ、更なる強制捜査が入らないように、テロの準備がバレないように。だから警察をOFA本部前から引き離し、秋葉原駅前に留めさせる必要が有った。そのためにはやり過ぎだが、伊万里と今のOFAなら有り得ない話だとは思えない。
「あれは支持者が暴走しただけだ!全てのテロと無関係だ!妄想も大概にしろ!お前、法廷に立て!!」
伊万里は流雫の心臓の上に指を突き立てたまま、捲し立てる。そして叫んだ。
「何故こうも売国奴は頭が悪い!そんなに私が憎いのか!」
「……憎い」
流雫は踵を返して、センタープレイスの奥へと消えようとする。澪もその背中を追うように走っていく。
センタープレイスの最上階には貸ホールが有り、その前から左右に通路が分かれる。その両端の自動ドアの奥が、滑走路を見渡せる展望デッキだった。2人は左側に折れ、自動ドアの奥へ進んだ。
飛行機の発着はこの天気で途絶え、厚い雲で薄暗い分、滑走路の誘導灯の光が目立つ。
デッキ入口の隣、臨時休業のカフェの前で止まった高校生2人。膝に手を突いた流雫は肩で息をしながら、顔を下に向ける。強い風が涼しく感じる。
「はぁっ……はぁっ……」
「るっ……流雫……っ……!」
澪はその隣に立ち止まると、同じように顔を下に向けて彼の名を呼ぶ。百数十段もの階段を一気に駆け上がり、体力には多少なり自信が有る澪とて、流石に息苦しい。
「……来る……」
と、流雫は呼吸を整えながら一言だけ言った。澪は彼の顔を見つめながら、
「え……?」
と問う。……ただ、追ってくるのは判っていた。
「僕と澪を殺す気だ……。狂気の沙汰、我に返り、その罪悪感からの自殺……」
と言った流雫に、澪は目を見開き
「……それ……」
と声を上げ、流雫を見つめた。
……連中が描いているだろう、ベストエンドのシナリオ。単なる流雫の想像でしかないが、自殺に見せ掛けることができれば、伊万里にとってこれほど好都合なことは無い。労せずして、改めて自分たちが正義だと言えるからだ。
「今更改心したとて、遅いかな……」
流雫は言う。尤も、その気は微塵も無いが。
ただ、此処でどう立ち向かうか……。それだけが問題だった。
展望デッキは上下に2フロア分有り、階段も左右に有る。上下には動ける。しかし展望デッキ自体が意外と狭く、障害物も無い。相手は弾数にモノを言わせてくるだろうし、仮に集結されると逃げ切れない。
それに、元々これは流雫と伊万里の問題であって、澪は自分についてきたばかりに、こんな目に遭っているだけだ。
……流雫の黒いネクタイと、澪の黒基調のセーラー服が強風になびく。スカートがまくれそうでも、綺麗に切り揃えられたダークブラウンのセミロングヘアが暴れても、澪は気にしなかった。……それどころではない。
「遅い……?殺されるってこと……?」
そう言った澪の声は、少しだけ震えていた。
その瞬間、流雫は1つだけ勝機が浮かんだ。あまりにもラディカルだが、澪を危険な目に遭わせず、そして乗り切る、たった一つの勝機。
ショルダーバッグをその場に置いた流雫は、呟くように言った。
「……澪がね」
NR線を使っても、途中で私鉄かモノレールに乗り換えることになる。改札を通った後で、流雫は乗換アプリを開く。
運行情報には私鉄は本数を半分以下に削減している一方で、モノレールは平常通りと表示されていた。やはり、脱線の心配が無いだけ、この点では強いのか。
多少遠回りになるが、そして少し高くつくが、2人はモノレールに乗り換えることにした。
本数を大幅に減らしながらも運転している、臨海副都心へ直通する東京臨海ラインの列車はすぐに来た。それに乗った2人は、天王洲アイルで降りる。
乗換には一度地上へ出なければならず、やはり足下は濡れる。ただ、モノレールにさえ乗れば後は空港を発つまで、濡れなくて済む。
学校の制服に似つかわしくないショルダーバッグとトートバッグは、何か有った時の機動性を重視したものだった。それの底には、それぞれ銃が入っている。
……もしトーキョーアタックが起きていなければ、流雫と澪が知り合うことは無かったが、同時に銃を持たなくて済んでいた。そして、その全てが大きく変わるきっかけだった追悼式典には、銃を持って行っている。
何かが起きると思っているから、それ以前に、銃が無ければ何だか落ち着かない。その心理こそが、今の日本を端的に表していると、2人は思った。
空港へのアクセスに特化したモノレールに乗っている人は、流石に疎らだった。2人は先頭車両の左側、1人掛けの席に前後に座るが、何も話さなかった。流雫も澪も、ただじっと外を眺めている。
……流雫にとっては、今日と云う日、空港と云う場所がものすごく重い意味を持つ。図書館でニュース速報を見て戦慄していただけの自分には、何も言えない。
澪はそう思いながら、ふと2ヶ月前を思い出す。
……生まれて初めて行った空港は雨だった。ダウンバーストと呼ばれる自然現象に見舞われる中、目の前でビジネスジェット機が爆発した。
咄嗟に、流雫が後ろから手で顔を覆ったから、その瞬間を見ることは無かった。しかし、ジェット燃料の臭いと、耳に入れられた指では防げなかった轟音は、今でも簡単に思い出せる。
そして、単なる航空機事故ではなく、ドローンの衝突で墜落に至らしめた事件だと、後に明らかになる。全ては、あの1年前からの延長……。
澪は唇を噛む。無意識に、眉間に皺を寄せていた。……今日ばかりは、何も起きてほしくない。
競馬場や車両基地を通り過ぎるモノレールが地下に潜る。いよいよ空港だ。
終点の1つ前、中央空港ターミナル1駅で降りる。改札前に設置された発着案内モニターに目を向けると、国内線は軒並み欠航となっていた。夕方以降運航を再開する可能性も有るが、北陸から北へ向かう便は、どの航空会社も終日欠航との表示が流れている。
国際線も、夕方以降は運航する可能性が有るが、それも全て出発時刻未定で、一部の便では搭乗手続きを中断していた。
国際線ターミナルの出発フロアでは、足止めを食らった旅行客が屯していた。一方、その地階……モノレールの改札の近くでは、追悼式典の設営が始まっていた。数時間後には簡易的ながらも立派な壇上で首相などが演説をするのだ。その背後に、あの金時計が有る。
正直、流雫にとっては演説などどうでもよく、ただ黙祷さえできればよかった。尤も、それは渋谷でしたかったことだが。
ただ、これが終われば少しは風雨が弱くなっているだろう。その時点で渋谷に行くことは決めていた。
……式典までは未だ時間が有る。流雫と澪は、コンビニでミントのタブレットと深めに挽かれたアイスコーヒーのカップを手に入れ、ターミナルを回る。
……あくまでも今日は遊びじゃない、そしてこれはデートじゃない。式典の時間までの、単なる暇潰し。そう言い聞かせることにしたが、自然と微笑みが零れる。少しだけ緊張感が解けた感覚がした。
出発フロアと到着フロアは、バックパックやスーツケースを手にした外国人で椅子がほぼ埋まっていた。その様子は、1年前と変わらない。
到着フロアのエスカレーター乗り場の隣から、式典会場を見下ろす流雫。この場所で足を止めるのは、完全に無意識だった。……あの時、あのままエスカレーターに乗っていれば、今頃……。
「……今日だけは、何も起きないといいけど」
と流雫は言う。何度そう思ったか、呟いたか。ただ、その度に裏切られてきた。
「そう願うしかないわね……」
澪は答える。彼女も、何度も裏切られてきた。だから今日ぐらい、今日だけは叶ってほしかった。
階下では、警備員と警察官が集まってきた。一国の首脳や政治家が登壇するのだから、当然だ。遺族の代表らしき人も端のパイプ椅子に案内されたが、この天気だからか、はたまた平日の昼間だからか、追悼に集まった人は少ない。
報道陣は、惨劇から1年の節目と、また政権交代を成し遂げた新たな首相の初仕事の日でもあったことで、パーティションで仕切られた報道エリアに群がっていた。
国会議事堂での所信表明演説を手短に済ませ、公用車で空港へ向かっていた首相が、漸く空港に着いたらしい。この時点で、当初の式典開始予定時刻を5分過ぎていた。
警察官がエスカレーターへの動線を開けるように声を上げながら2人の目の前を通り過ぎると、少し遅れて数人の護衛に囲まれた首相が胸を張って下りていく。
2年前に還暦を迎えた、薄めの白髪が目立つこの政治家は、野党一筋。今回ついに、国の政治のトップに立った。些か場違いだが口角を上げるのは、致し方ないことではあった。
流雫は、エスカレーターの隣のガラス張りの柵に背を預け、アイスコーヒーを飲む。その隣で澪は、カップを両手で握ったまま階下に目を落としていた。
真上のアトリウムの天井は明かり取り目的でガラス張りになっている。シャワーと形容するに相応しいほどの豪雨、その雨粒が絶えず流れていく。
空港と各地を結ぶリムジンバスは高速道路の通行止を受け、運休や一般道を経由すると云う案内がLEDパネルに表示されていた。飛行機の発着案内でも、台風を理由とした欠航や遅延の放送が絶え間なく流れていたが、追悼式典の最中だけはは放送を止めてディスプレイ表示のみになる、との予告が有った。
そして、ついに放送が止まった。コーヒーを飲み終えた流雫は、既に空になっていた澪のカップも引き取って近くのゴミ箱に捨てる。
いよいよ始まるのだ、と思った流雫は、軽く溜め息をついて頷くと恋人の隣に戻り、階下に目を向けた。
予定より15分遅れて、眼鏡を掛けた司会進行役の国営放送のアナウンサーが、東京同時多発テロ事件の追悼式典開会を宣言した。スピーカーからの声がアトリウム構造のターミナルに響く。そして早速、総理大臣が壇上に上がった。
海外メディアも集まる中、極東の島国の政治の頂点に立つ初老の男は、事前にタブレットに用意されていた原稿を読み上げる。テロに対する非難に終始したそれは、しかしガラス張りの柵から階下を見下ろす流雫にとって、耳障りでしかなかった。
……感情論でテロは悪いことだと叫ぶのは簡単だし、言われなくても判っていた。具体的なテロ対策として、特殊武装隊の再編成と強化が続けられているのも、ニュースで報じられている程度には判っている。
ただ、どれもステレオタイプにしか聞こえないのは、僕がトーキョーアタックの或る意味当事者だからなのか。いや、今はどうでもいい。
「……流雫」
と、澪は隣の少年の名を呼ぶ。一瞬我に返った流雫は
「……ん?」
と振り向くが、澪は
「……何でもない」
と呟くように言った。
流雫が悲壮感を滲ませた表情を浮かべていたことに、澪は少しの不安を抱いていた。
3月、初対面のミオ……澪の目の前で、生き延びるために、殺されないために、と銃を手にしたルナ……流雫が見せた表情は、今の彼が浮かべているそれと同じだった。
ただ、澪は今の彼には何も言えない。
……所詮、あたしはトーキョーアタックそのものとは無関係だった身。どんなに流雫の恋人であっても、1年前のあの日、自分自身が生き延びた天国と恋人を失った地獄を、同時に見た流雫に、何か言える立場じゃない。澪はそう思っていた。
ただ隣にいること。それが恋人としての特権なのだが、しかしこう云う時に無力なのは、澪のプライドの問題だった。……自分の弱さに、泣きそうになる。
エスカレーター付近には、式典の様子を見守る人が他に50人ほどいた。先刻首相が下りた直後、エスカレーターが止められ、階下と階上でそれぞれ警察官が睨みを利かせていた。
演説を終えた首相が、用意された椅子に座ると、遺族を代表した20代の青年が紹介される。空港の警備員だった父が到着フロアで犯人の銃弾を浴び死亡、ほぼ即死だったと云う。スーツを着た青年が壇上に行こうと、椅子から立ち上がる。
ふと、到着フロアのエスカレーター付近の人集りに混ざった、白いシャツの男が黒いボトル型タンブラーを柵の上から落とした。それに気付いた警察官が
「おい!」
と叫ぶ。全員がその声に注目すると同時に、プラスチックのタンブラーが角から床に叩き付けられ、割れると同時に爆音と大きな炎を上げた。
「きゃぁっ!」
と声を上げた澪は、ガラス柵に背を向けてしゃがむ。
流雫は咄嗟に、その上から被さる。しかし、爆発は強化ガラスにダメージを与えるほどではないのが幸いだった。
消火器が持ち出されると同時に火災報知器のベルと警報が館内に響く。周囲の人が逃げようと四散するより早く立ち去ろうとした男に向かって、
「待て!!」
と声を上げたのは、ジムで鍛えたような体格の男だった。
痩せ型の犯人を羽交い締めにしようと追うが、大きめの銃声3発の後で前のめりに倒れ、スーツを赤黒く染める。
「ぎゃぁぁぁぁ!!」
声を限界まで張り上げたような悲鳴が幾重にも聞こえ、到着フロアはパニックに陥った。
地階では消火器で消火活動が始まっていた。護衛が首相を警護しながら避難させようとする。その他の来賓も警備員や警察官に保護されるが、同時に新たな爆発音も響いた。地階の全員が目の前の……流雫の隣のエスカレーターを目指した結果、渋滞を起こし始め、ついには怒号まで聞こえてくる。
1分足らずの間に周囲が混沌に陥る中、流雫は澪の肩と頭に手を置きながら、今自分がいるフロアの動きに注目し、しかし耳は地階の動きに集中させた。
1人を射殺した男は、オートマチック銃を左右に振って威嚇していた。流雫は黒いショルダーバッグに手を入れると、何時でも銃を取れるようにした。
ディープレッドのショルダーバッグよりはこう云う場に向いている、それが今回このバッグを選んだ理由だが、銃を気付かれないように取り出すのには、あっちの方が好都合だった。
チョイスを間違えたかと思いながら、流雫は周囲を見回す。
「流雫……?」
と声を震わせる澪から離れた流雫は、しかし
「……死なない。澪も僕も」
と言うだけで精一杯だった。
銃を持つのは、計算上日本国民の2人に1人だ。そうシンプルなものではないが、この場にいる半分が持っていても不思議ではない。
ただ、階下では発砲音は聞こえないし、このフロアでも他に銃を手にした人は見えない。
テロへの抑止力のためと云えどタダで入手できるものではなく、それによくよく思い返せば、此処は国際線用のターミナルだ。今日海外へ出発する人、帰国した人が居合わせたとするなら、それは全員丸腰を意味する。銃を海外へ持ち出すことは法律上禁止だからだ。
だが、最初からこの追悼式典だけを目的に訪れていた人の中には、持っている人もいる。しかし、或る言葉が流雫の頭を過った。
2月のホールセールストアで、流雫の額に銃口を突き付けた男は
「お前が殺していれば!!」
と叫んだ。
流雫が銃を持っていることを、男は恐らく知らなかった。しかし、流雫が人質になっている間に一瞬の隙を突いて犯人を撃てば、自分が撃たなくて済んだと思っていた……そう捉えるのが自然だった。
流雫が銃を持っていることを知っていれば、持っているのに撃たなかったことに、知らなければ銃を持っていないことに、つまりはどっちにしろ流雫が「汚れ役」にならなかったことに憤怒していた。
誰もが護身のためと頭では判っていても、人を銃で撃つ。それは、人の命は尊いと云う倫理に反することだと、誰もが思っている。それはそれで間違ってはいないし、寧ろ命は尊く在るべきだ。
だから、自分でない誰かが自分の代わりに犯人を撃ち殺せ。それが誰もが望む、事件収束の理想形ではあった。
……それからすると、流雫は危険な奴だと思われるだろう。しかし、躊躇しなかった。危険な奴でもいい、自分と……何よりも澪を護れるのなら。
1人が射殺されたのを機に、4人の男が鞄やスーツから銃を取り出した。対して白シャツの男の弾倉は、銃身より大きくはみ出し、恐らく10発近くは残っている。1人に対して2発ずつ撃っても銃弾が残るだろう。その2発でも、1人殺すには十分だ。
銃身より大きくはみ出した弾倉は、それ自体が明らかに違法だった。その銃の出処も気になるが、それは警察の仕事だし、今はそれどころではない。
逃げる男の背中に銃を向けては、護身のための銃撃の定義から外れる。そう思ったからか、初めて人に向ける恐怖からか、撃てない4人を嘲笑うかのように、男は走り去ろうとした。
何度かの小規模な爆発から逃げようと、地階からエスカレーターを駆け上がろうとする集団の流れに向かった男は何か叫び、一番前の男を蹴飛ばした。それがきっかけで将棋倒しが発生し、次々と転がり落ちていく。その上を踏み付けるかのように走る男に向かって、警察官が威嚇発砲をした。
澪は
「逃げなきゃ!」
と叫びながら立ち上がる。
幸い今は到着フロアにいる。外は豪雨だが、バス停の上に屋根は有る。流雫は澪の手を引き、外へ飛び出した。
空港のバス停は2層構造で、到着フロアに乗車場、1階上の出発フロアに降車場を設け、スロープでアクセスする。そして、出発フロアの道路の高架が、数百メートルもの直線の道路に沿って並んだ、到着フロアの十数ヶ所のバス停の庇として機能している。
其処に地階から避難してきた人たちが散っていた。
バスは1台も無く、空港と各地を結ぶ高速バスのスタッフも誰もいない。
流雫は、目の前の横断歩道の向かい側の小さい駐車場に黒いワンボックスが3台、縦に並んで停まっているのに気付いた。貸切バス専用の乗降エリアだったが、その3台の他に車両は無い。
一見、予約制の乗合タクシーのように思えた。最近は、スマートフォンでの配車予約を中心とした、デマンド交通と呼ばれるモビリティサービスが増えていて、このテの車がよく使われているらしい。
ただ、流雫はその3台に見覚えが有る気がした。……昨日、新宿へ向かう高速バスを黒いワンボックスが3台、連続で追い越していった。ナンバープレートはすぐに雨に煙って判らなかったが、6月にOFA山梨支部の家宅捜索を覗いた時、建物の前に同じ色と似た形の車が2台停まっていた。
もし、その車に別の1台が合流してバスを追い越し……そしてあの場所に停まっているのなら、今起きているのもOFA絡みになる。
ただ、そもそも黒いワンボックスなど東京だけでも何台走り回っているのか。それは流石に……と流雫は思いたかったが、現実は彼に対して甘くない。
ワンボックスのスライドドア、その窓の真ん中に長方形の開閉窓が有る。それが少しだけ開く。
「澪!」
と流雫は咄嗟に叫び、澪の手を引く。それと同時に、リズミカルな銃声が雨に掻き消されることなく響いた。バス停の標識や信号機の柱に当たって金属音を立て、同時に窓ガラスが割れ、そして何人かが撃たれた。
「くっそ……!」
北側に向かって走りながら、流雫は怒りと苛立ちを露わにする。何が目的なのか。
その隣を走る澪は何が起きたか、頭が追い付いていない。
「何なの!?」
そう流雫に叫ぶのが精一杯だった。
「あの車……昨日高速バスから見たやつだ……!」
その苛立ち混じりの流雫の声に、澪は目を見開く。
「それって……!」
少女の声に被せるように、流雫は途切れ途切れに言った。
「河月のOFAから……でなきゃ、あんな……!」
……あんな銃撃など有り得ない。それより、何処に逃げるべきなのか。
背後ではクラクションが相次ぐ。銃撃に驚き、急ブレーキを踏んだ車の影響で危うく玉突き事故に発展するところだった。
その直後、全員が車から降りて逃げ出した。車のボディに銃弾が刺さる音が、何度も聞こえる。
何処が安全なのか……。この陸続きと思われがちの空港島は、台風接近の影響も重なり、半ば孤島状態だった。しかも、ターミナルからの移動手段は車か鉄道しか無い。
その車……バスやタクシーは周囲に1台も無い上に、この騒ぎで目の前の道路は事実上封鎖状態だ。そして鉄道は……全て地階から乗る。
それでも、反対のターミナル2まで回ればどうにかなる。ただ、唯一の歩道は、あのワンボックスが停まる区画を通っている。流石に撃たれる。機銃相手だとすれば、敵うワケがない。
……傘はエスカレーターの所に置き去りだったが、仕方ない。雨に濡れながら、車道を走ってターミナル2かターミナル3を目指すしか、方法は無い。
しかし、流雫はこのターミナルから脱出するより、やりたいことが有った。そうしなければ、気が済まないどころの話ではない。澪まで更に危険に晒す……それは避けたいが、それと相反する。
3分前の平和が一瞬で崩れた。流雫にとって節目となる日に、またしても。雨音に警察車両のサイレンが重なる。
「どうして……」
ターミナルの端まで走った流雫は、肩で息をしながら呟く。
……あの日から1年の節目で、またテロが起きた。……恐らく、あの政治家もいる。階上から見下ろした式典会場にはいなかったが、ここぞとばかりに現れるだろう。
そして、内心ほくそ笑みながら自身を囲むマスメディアに言うに違いない、だから難民と有害な外国人を排除せよ、と。
「流雫……」
「……僕は、……」
澪が名を呼ぶ声に被せるように、そう言い掛けて止めた流雫の言葉の続きを、恋人は察した。思わず言葉を被せる。
「ダメ……!」
「……もしアレがいるなら、一発殴らないと……」
と苛立ちを露わにしながら言う流雫に、澪は被せた。
「殴るのは止めないけど、でも今は危険過ぎる……!」
澪がそう言うのも尤もだったし、流雫自身、危険を冒してでもあの政治家を殴ると云う、常軌を逸していることを言っているのは判っていた。
……しかし、流雫はこの1年、悲しみや苦しみや悩みを抱えて生きてきた。流雫が過激なことを言うのは珍しい、しかしそう言いたいのも、あたしは判ってるし、殴りたいのも判ってる。……澪はそう思いたかった。
だけど、そのために戦火に飛び入るのは、やはり……正気の沙汰じゃない。
「……流雫が行くなら、あたしも行く」
と澪は言った。流雫を1人にさせはしない。
その時、一番前に停まっていたワンボックスが走り出した。車道を斜めに走り、バス停が終わったところで歩道に乗り上げ、傾きながら更にスピードを上げる。
「澪!」
流雫は澪の手を強く引く。開くのが遅いターミナルの自動ドアが少し開くと先に澪を通し、流雫はそれに続く。
……図らずも戦場に戻ってきた。
目の前の階段室に飛び込む2人は、互いの靴音が響く中、息を切らす。……そう言えば、火災警報器も鳴っていない。もう鎮火したのか……しかし何も判らない。
ただ、目の前の澪だけが心配だった。
「澪……」
「流雫……あたし怖い……!」
澪は壁に背を預け、俯いて声を震わせる。やはり……露骨に轢き殺す気だったか。
「やっぱり、狙われてるのかな……」
流雫は呟く。
澪の父が河月で言った通り、流雫は連中の敵に回っている。しかし、あまりにもアクション映画のように露骨過ぎる。……目を背けたいが、これが唯一の現実だ。
「……やだよ?流雫は殺されないんだから……」
そう言って、澪は顔を上げた。数秒後には泣き出しそうなほどの悲壮感に、その顔は支配されている。
「……僕は死なない。澪も殺されない」
と流雫は言いながら、残っている恐怖を押し殺して、ショルダーバッグから銃を取り出す。
「これが、最後になるといいけど……」
流雫は呟いた。
今、この弾倉に収まる銃弾の数は最大数の6。これからも銃を持ち続けることになるとしても、人生で撃つ最後の6発にしたい。……1発も撃たないのは、残念なことに最早避けられそうにないから、せめてこの6発が。
「これが、最後になるといいけど……」
そう呟いた流雫の隣で、澪も銃を取り出す。流雫がいるからこそ、引き金を引かなくて済んでいるが、それに甘んじるワケにもいかない。
澪は、掌の体温を奪いそうなグリップを包むように強く握る。心臓の鼓動が少し早くなる感覚に、やはり戸惑いを覚えた。
「はぁ……っ……」
澪は溜め息をつく。悲壮感の上に緊張が被さってくる。
「流雫……死なないよね……?殺されないよね……?」
と細い声を絞り出す澪に、流雫は囁くように答えた。
「……僕も澪も……死なない、殺されない……」
この数分で、何度この遣り取りをしただろう?ただ、何度も澪は問いたかったし、流雫も答えたかった。それが2人、生き延びるための原動力になるなら、何度でも。
銃を握ったまま
「流雫……」
と愛しい人の名を呼ぶ澪の手に、流雫は自分の手を重ねる。
「澪……愛してる」
「……あたしも。愛してる……流雫……」
愛してる……、好きよりも強い言葉を返した澪の目に、迷いは無かった。
苦しみや悲しみも全て抱きしめる、その覚悟ができなければ言う資格は無い。澪はそう思っていたし、そして流雫も同じだった。
階段室の外から聞こえてくる複数の靴音が、大きくなる。此処にいるワケにはいかない。
「……行くよ」
流雫は言った。
到着フロアより安全そうだ、と云うだけの理由で出発フロアに駆け上がった2人が階段室のドアを開けると、遠くでは何やら声がする。それも怒号のような。
何が起きているのか判らないが、後ろからはテロリストが追ってきている。とにかく、今は前に走るしか無い。
……東京中央国際空港はかつて、事実上の国内線専用空港だった。千葉の内陸に、国際線に特化した空港が建設されたことでそうなった。しかしその過程で、激しい暴動が闘争と云う名で繰り広げられた。
そして、この国際線専用ターミナルも、元は国内線ターミナルとして建設された。それ故、他の主要な国際空港と異なり、航空会社のカウンターの配置は長方形の島型ではなく、壁に沿う形になっている。
そのためか、数百メートル先の反対側が、何の障害物も無く見通せる。しかしそれは、逃げるどころか避ける場すら無いことを意味する。
2人は、後ろを何度も見ながら走る。しかし、何処に逃げれば?
ターミナルの中央部には、更に上階へ行けるエスカレーターや階段が有る。しかし、そっちはレストランやショップが数軒だけで1フロアそのものが狭く、挟み撃ちされれば終わる。それならこのまま走るしかない。
階下のエスカレーターは、将棋倒しの救助で混乱しているが、もう銃声も聞こえない、煙も見えない。
「どうする……」
流雫は呟きながら、しかし迷っていた。ミリタリージャケットの男が4人、機銃らしきものを持って2人を追っている。頻りに後ろを見ながら走る流雫は、4回目でその人数と武器を把握した。
……連中の武器なら、この距離でも殺そうとすれば、できないことは無いだろうが、撃ってこないのは些か不思議ではあった。
そして、ふと思った。
……10発以上入る違法な弾倉、機銃、そしてタンブラーを使った火炎瓶の類。これがもし、全て今日のために用意されたとするのなら……拠点は秋葉原の本部か。しかも、この1日や2日で準備なんて難しいハズだ。だとすれば……。
「言語道断だ!」
騒然とした空港に、太めの声が響く。
「追悼式典を狙うテロなど以ての外!どうせ今の日本では、こうなると思っていた!」
……やはり、いたか。流雫はそう思った。
ターミナルの中央部、センタープレイスの前に報道陣が数人いる。それが囲むのは、つい2週間ほど前に国会議員の座を失った政治家だった。
「日本をこよなく愛する身として顔を出してみたが、案の定このザマだ!私を消し去った政治家はこの様子を見て、無様だと思わないのか!」
とヒートアップした伊万里雅治に、リポーターが
「このテロも難民の仕業だと?」
と問いながらマイクを向ける。
「難民と反日の仕業だ!今すぐ警察は奴らを始末しろ!また人を殺すぞ!」
と終始憤怒した口調で捲し立てる伊万里に対して、失笑も散見される。伊万里は更に捲し立てた。
「笑いどころじゃない!そもそも私が有らぬ疑いを掛けられているが、それも全て陰謀だ!お前らも見ただろう、これが愛国者に対する社会的暴力だ!これが日本の真実だ!」
その声に、流雫は呆れの表情を浮かべながら、伊万里の元に向かうことにした。
流雫は呟いた。
「黒幕に向かっては撃てない……」
……黒幕。伊万里サイドがその2文字を聞けば、陰謀だの名誉毀損だのと罵られるのは間違いない。ただ、それが全て正しければ、背後から追ってくる連中も、ボスに流れ弾を当てるような真似はしないだろう。……恐らくは。
「流雫……!?」
澪は隣を走る彼の名を呼ぶ。何を企んでいるのか。
「……賭ける……」
流雫は言う。澪は頷く。……彼を信じる、それが澪の唯一の答えだった。
「このテロも1年前のテロも、全ては日本転覆を狙う難民の仕業だ!……」
そう言った伊万里の目に、シルバーヘアの少年が映る。……飛んで火に入る……何とやらだ。
「あれが河月で私を殺そうとしたのだ!」
伊万里は少年を指差して、意気揚々と声を上げた。
しかし、あのショッピングモールでの一件は動画が左派集団名義で投稿され、強制削除を繰り返しながら拡散され、しかもニュースでも流された。結果、自爆テロ犯は伊万里を狙ったものではないことは明らかになった。
最早、あのシルバーヘアの少年……宇奈月流雫が伊万里を殺そうとした、と云う声を真に受ける者は、この場に限ってはテロ犯を除いていなかった。
報道陣は一瞬流雫に振り向くが、すぐに目線を伊万里に戻す。
流雫は息を切らし、伊万里を囲む報道陣より2メートルだけ行き過ぎて止まる。澪も少し遅れて続くと、機銃を持って追っていた男たちが銃身を上に上げる。
「撃つ気が無い……?」
澪は呟いた。
今なら、流雫も澪も簡単に殺せる。報道陣の目の前でも気にしなければ、だが。
ただ、その流れ弾に伊万里が当たった場合……そして何より、これでこの4人と伊万里とグルで、黒幕が伊万里だとバレた場合……そのリスクはあまりに大き過ぎる。やはり、流雫の読み通りなのか……?
「殺人鬼が何の真似だ!?」
伊万里は流雫に向かって怒鳴る。その眼鏡越しの目を、少年のシンボルでもあるアンバーとライトブルーのオッドアイの瞳で睨み付ける流雫は、下ろしていた左手に銃を握ったまま、吐き出すように言った。
「トーキョーアタックも……河月の自爆テロも……秋葉原の青酸ガスも……全てお前の仕業か……」
その言葉に、澪の脳は雷が落ちたように痺れ、背筋が震える。
まるで、今まで眠り続けていた別の人格が目を覚ましたかのような、或いは何かが憑依したかのような口調だった。何しろ、他人を「お前」呼ばわりしたのは、澪が聞く限り初めてだった。彼女自身、流雫からは澪かミオと呼ばれた記憶しか無い。
流雫の声を引き金に、報道陣は一斉に突然現れた2人の高校生にカメラを向ける。トーキョーアタックに始まる一連のテロ事件の黒幕が、目の前の元国会議員だと云うのは、警察が捜査中の疑惑でしかなかった。
ただ、まさか学生服を纏った少年が、政治家を「お前」呼ばわりで真正面から睨み付け、そう言い放っているとは。それは単に、ネットの情報の洪水に溺れた挙げ句、義憤に駆られた政治オタクの高校生、と云う類とは、完全に一線を画している。
シルバーのショートヘアに、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳と云う、日本人らしくない……目の前の男にとっていけ好かない外見の少年からは、それが見て取れた。
突然カメラを向けられた2人は、しかしそれに怯むことは無い。……此処が自分の死に場所だとは、微塵も思っていなかった。
「全てはマッチポンプ……。保護した不法難民を実行犯に仕立て上げ、使い捨ての駒としてテロを起こさせ、後から出てきて叫ぶんだ。だから難民は危険だ、排除せよ。外国人も制限せよ。偉大なる日本のために、と」
流雫は言う。一瞬、伊万里の目蓋が動いた気がした。
「……何処にその証拠が有ると言うのか!」
と伊万里は更に大声で捲し立て、人差し指を少年の心臓の上に突き立てる。しかし、流雫は目を逸らさなかった。
「……1年前、僕はこの空港でテロに遭った。そして渋谷で彼女を殺された。その追悼式典まで台無しにする……。そこまでして、己の政策や信条を通したい……私利私欲のために……」
そして少年は、叫んだ。トーキョーアタックで殺された欅平美桜、河月のショッピングモールで殺された大町誠児、2人の突然過ぎた死への怒りを乗せて。
「お前こそテロリストじゃないか!」
流雫の一言は、日本最大の空港の館内に反響し、周囲を凍り付かせた。澪は、その恋人の殺意すら帯びていそうな目付きに、息が止まる。
「名誉毀損だぞ!」
と伊万里が叫んだ。流雫は先刻思ったことを言葉にした。
「秋葉原のデモは、青酸ガスの直後に起きた……それも全て警察の目を逸らすため……。今日の式典を狙ったテロの準備に、警察が邪魔だったんだ!」
その言葉に、澪は目を見開く。
……OFAに変な目が向けられ、更なる強制捜査が入らないように、テロの準備がバレないように。だから警察をOFA本部前から引き離し、秋葉原駅前に留めさせる必要が有った。そのためにはやり過ぎだが、伊万里と今のOFAなら有り得ない話だとは思えない。
「あれは支持者が暴走しただけだ!全てのテロと無関係だ!妄想も大概にしろ!お前、法廷に立て!!」
伊万里は流雫の心臓の上に指を突き立てたまま、捲し立てる。そして叫んだ。
「何故こうも売国奴は頭が悪い!そんなに私が憎いのか!」
「……憎い」
流雫は踵を返して、センタープレイスの奥へと消えようとする。澪もその背中を追うように走っていく。
センタープレイスの最上階には貸ホールが有り、その前から左右に通路が分かれる。その両端の自動ドアの奥が、滑走路を見渡せる展望デッキだった。2人は左側に折れ、自動ドアの奥へ進んだ。
飛行機の発着はこの天気で途絶え、厚い雲で薄暗い分、滑走路の誘導灯の光が目立つ。
デッキ入口の隣、臨時休業のカフェの前で止まった高校生2人。膝に手を突いた流雫は肩で息をしながら、顔を下に向ける。強い風が涼しく感じる。
「はぁっ……はぁっ……」
「るっ……流雫……っ……!」
澪はその隣に立ち止まると、同じように顔を下に向けて彼の名を呼ぶ。百数十段もの階段を一気に駆け上がり、体力には多少なり自信が有る澪とて、流石に息苦しい。
「……来る……」
と、流雫は呼吸を整えながら一言だけ言った。澪は彼の顔を見つめながら、
「え……?」
と問う。……ただ、追ってくるのは判っていた。
「僕と澪を殺す気だ……。狂気の沙汰、我に返り、その罪悪感からの自殺……」
と言った流雫に、澪は目を見開き
「……それ……」
と声を上げ、流雫を見つめた。
……連中が描いているだろう、ベストエンドのシナリオ。単なる流雫の想像でしかないが、自殺に見せ掛けることができれば、伊万里にとってこれほど好都合なことは無い。労せずして、改めて自分たちが正義だと言えるからだ。
「今更改心したとて、遅いかな……」
流雫は言う。尤も、その気は微塵も無いが。
ただ、此処でどう立ち向かうか……。それだけが問題だった。
展望デッキは上下に2フロア分有り、階段も左右に有る。上下には動ける。しかし展望デッキ自体が意外と狭く、障害物も無い。相手は弾数にモノを言わせてくるだろうし、仮に集結されると逃げ切れない。
それに、元々これは流雫と伊万里の問題であって、澪は自分についてきたばかりに、こんな目に遭っているだけだ。
……流雫の黒いネクタイと、澪の黒基調のセーラー服が強風になびく。スカートがまくれそうでも、綺麗に切り揃えられたダークブラウンのセミロングヘアが暴れても、澪は気にしなかった。……それどころではない。
「遅い……?殺されるってこと……?」
そう言った澪の声は、少しだけ震えていた。
その瞬間、流雫は1つだけ勝機が浮かんだ。あまりにもラディカルだが、澪を危険な目に遭わせず、そして乗り切る、たった一つの勝機。
ショルダーバッグをその場に置いた流雫は、呟くように言った。
「……澪がね」
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
保健室の秘密...
とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。
吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。
吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。
僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。
そんな吉田さんには、ある噂があった。
「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」
それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。
紙の本のカバーをめくりたい話
みぅら
ミステリー
紙の本のカバーをめくろうとしたら、見ず知らずの人に「その本、カバーをめくらない方がいいですよ」と制止されて、モヤモヤしながら本を読む話。
男性向けでも女性向けでもありません。
カテゴリにその他がなかったのでミステリーにしていますが、全然ミステリーではありません。
旧校舎のフーディーニ
澤田慎梧
ミステリー
【「死体の写った写真」から始まる、人の死なないミステリー】
時は1993年。神奈川県立「比企谷(ひきがやつ)高校」一年生の藤本は、担任教師からクラス内で起こった盗難事件の解決を命じられてしまう。
困り果てた彼が頼ったのは、知る人ぞ知る「名探偵」である、奇術部の真白部長だった。
けれども、奇術部部室を訪ねてみると、そこには美少女の死体が転がっていて――。
奇術師にして名探偵、真白部長が学校の些細な謎や心霊現象を鮮やかに解決。
「タネも仕掛けもございます」
★毎週月水金の12時くらいに更新予定
※本作品は連作短編です。出来るだけ話数通りにお読みいただけると幸いです。
※本作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。
※本作品の主な舞台は1993年(平成五年)ですが、当時の知識が無くてもお楽しみいただけます。
※本作品はカクヨム様にて連載していたものを加筆修正したものとなります。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
女豹の恩讐『死闘!兄と妹。禁断のシュートマッチ』
コバひろ
大衆娯楽
前作 “雌蛇の罠『異性異種格闘技戦』男と女、宿命のシュートマッチ”
(全20話)の続編。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/329235482/129667563/episode/6150211
男子キックボクサーを倒したNOZOMIのその後は?
そんな女子格闘家NOZOMIに敗れ命まで落とした父の仇を討つべく、兄と娘の青春、家族愛。
格闘技を通して、ジェンダーフリー、ジェンダーレスとは?を描きたいと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる