上 下
20 / 77
act2 Gretchen

2-4 Suicide Superstar

しおりを挟む
 連休が終わると、流雫も澪も結奈も彩花も、それぞれ普通の日常に戻る。あれからの数日間、流雫と澪は相変わらずだったが、あの連休最後の騒動を互いに話題に出すことは無かった。
 メッセンジャーアプリで文字を交わすと、また会いたいと思う。距離が距離だけに仕方ないが、それでも会いたい、一緒に同じ場所にいたい。流雫には澪が、澪には流雫が、それぞれの中心にいた。
 2人は、互いに依存することで成り立っていた。それは、元々知り合うきっかけがきっかけだったし、初対面も普通ではなかっただけに、互いに生きていること、それ自体が支えになっていた。
 誤解を怖れず言えばテロが、トーキョーアタックが、2人を引き寄せた。しかし、それは流雫のかつての恋人、欅平美桜が渋谷で犠牲になったと云う、悲しい現実を突き付けてもいた。
 美桜の死の上に、2人の今が在る。そして、彼女が生きていたかった今を、2人は生きていた。
 だから澪は、美桜の分まで生きたいと思ったし、流雫はやがて美桜と「再会した」時に、8月のあの日からのことを何もかも話そうと思った。それが、2人が彼女に対して正面から向き合うために決めたことだった。……向き合えているかは別として。

 澪は東京、流雫は山梨。どっちに行くにも距離が有り、だからとその中間地点あたりは特にデートスポットになりそうなものが見当たらない。流雫の地元河月も、観光資源としての山と湖が好きな人にとっては楽しいが、めぼしい商業施設はほぼ無い。澪が殊の外楽しめていたことは幸いだったが。
 流雫は、次も東京に行こうと思っていた。その矢先のことだった。
 
 「ゲームフェス?」
「うん、今月最後の日曜。無料の入場チケットが手に入って、1枚余ってるからどうかな」
澪は流雫の問いに打ち返す。結奈と彩花に、流雫も誘ってダブルデートしようと言われていた、今月末のゲームフェスに彼を誘ったのだ。
 正式名称は東京スマートゲームフェスタ。スマートデバイス……スマートフォンやタブレット……向けとして配信されているゲームに特化した新たなイベントで、今年で2年目となる。去年の第1回は、日曜日のワンデイながら8万人を集めた。そして、去年が大混雑を招いたために今年は土日で分散することにした。
 結奈の父親が、そのスポンサーを務めるゲーム関連企業に勤めている都合で、日曜日分の招待券を4人分入手してきたらしい。そして澪の手元には2枚。これが有れば、エントランスの行列に並ぶこと無く、招待客用の入場口から入れる。
「それって、2人だけ?」
「あたしの同級生が2人。ただ多い方がいいよねってだけだから」
澪は答える。
 流雫は大人数を好まない節が有る。それは澪も同じだが、結奈と彩花は女子にしか興味が無いし、澪は流雫しか見ていないし、流雫も流雫で澪しか見ていない。
 アニメなどではよく見るらしいダブルデート。まさか自分が体験することになるとは。ただ、それでも全部で4人だし、一度ぐらいなら悪くないか、と流雫は思っていた。
「ところで、何処で?」
「東京ジャンボメッセ。臨海副都心の東側。……待ち合わせ、ルナは10時だと流石にきついかな?朝早いでしょ?」
澪は問う。
「10時でいいよ。列車の都合で少し遅れたりするかもだけど、ミオと長くいられるならそっちの方が好都合だし」
流雫は答える。
 彼はそう云う性格で、言い方もストレートだ。日本人に多く見られがちな「匂わせ」が無いだけ、相手にとって別の意味でタチが悪い。
「じゃあ、10時にジャンボメッセ前駅で」
「うん。楽しみだね」
流雫は答えた。

 流雫自身、スマートフォン用のゲームは時々するが、特に何かハマっているようなタイトルは無い。それも、海外ではそれなりに人気だが国内ではまず話題に出ないマイナーなゲームだ。
 だから正直な話、流雫がネットでイベントについて調べてみた限りでは、ゲームフェスで特に気になる出展は無い。ただ、澪と久々に会える場がゲームフェスと云うだけの話だ。
 とは云え、実際行ってみれば何か気になるものが出てくるだろうし、何より澪といることができる。それはそれで、楽しい1日になるだろう。だから直前の中間試験も乗り切れる。

 快晴で少し暑さも感じられる、5月最後の日曜日。
 朝から列車に揺られ、今年3度目の臨海副都心へ向かう流雫。降りる駅は何時もより1駅先だが。乗り換えた列車は満員状態で、車内は暑苦しく感じた。
 リクエストしてきた澪とその同級生のために、この前のようにガレットを焼いた。またも特別な包み方をし、玉子も固く焼いた。澪は好みらしいが、他の2人が好むかは口に入れなければ判らない。
 地下のジャンボメッセ駅に着くと、乗っていた人が一斉に降りてエスカレーターで地上を目指す。流雫はその列を避けて最後に改札を出た。ダークブラウンのセミロングヘアの少女が、流雫に手を振る。
「流雫!」
「ちょっと遅くなった」
最後に着いた流雫は言うが、河月からの列車が遅れて、乗換の列車を逃して1本後に乗ることになったからだった。無論、それは澪にメッセージを打っていた。
「遠くから来てるんだから、気にすることないわよ」
澪が言うと、結奈と彩花が流雫に近寄る。パンツルックにシャツの結奈、ワンピースの彩花。服装もほぼ正反対だ。
「ボクは結奈。流雫くん……でいいのかな?」
「オッドアイ、初めて見た。綺麗な目をしてる……。あ、私は彩花です……」
「……流雫と、言います……」
流雫は言葉少なだった。……やはり、緊張していた。
「じゃあ、早速行こっか」
結奈は言った。

 東京ジャンボメッセ。日本最大の複合展示場で、展示会用施設は東西と南に合計3棟。その一部は、3年前の東京オリンピックではプレスセンターとして宛がわれた。尤も、渡航制限の影響で国内のメディアとスポーツジャーナリストぐらいしかいなかったと、ネットのスポーツニュースで配信されていた。そして、今回のゲームフェスでは、西棟で行われる。
 招待券で入るには、ペデストリアンデッキを直進したエントランスを使わず、その手前から一度1Fの外へ下りる必要が有る。広場のようになったペデストリアンデッキの真下には小さなバスターミナルが有り、その奥に招待券用の入口が有る。4人は招待券に印刷されたQRコードを入口の機械に読ませ、中に入っていく。
 広いアトリウムを中心に展示ホールが2部屋有るが、4Fまでの長いエスカレーターを使えば別に2部屋のホールと屋上広場に行ける。
 1Fの大きなホールのブースは基本的に大手クラスの企業が集まっていた。コスプレイヤーがキャラクターの衣装を着飾り、イベントコンパニオンとしてショッパーやノベルティを配布していたし、別のブースではゲームの開発陣や声優陣を集めたトークショーを開き、動画配信サイトで生中継されていた。それらは、一言で言えば華やかで賑やかだった。グッズ販売にも列ができている。
 一方、4Fは新興メーカーを中心とした比較的コンパクトなブースが集中している。それでも、中にはこれから人気が出そうなものも有り、イノベーター理論で云うところのイノベーターやアーリーアダプターと呼ばれる、所謂初期段階から注目したい連中が集まっていた。
 4人は一通りブースを見て回り、午後は各々が気になったブースを攻めると云うことにした。特に流雫は、こう云うイベントに行くこと自体初めてで、まためぼしいブースも結局は見当たらず、何だか落ち着かないままだった。
 しかし、澪が普段この同級生……結奈と彩花の2人と遊んでいるのかが、図らずも垣間見えるのは何か嬉しかった。また少し、澪の新たな一面を知るようで。

 正午を回ると、4人は屋上広場に出た。宅配業者が使っていたようなワゴン車を改造したようなキッチンカーが何台も乗り付け、ケータリングをしていた。値段はやや高めだが、屋台とは得てしてそう云うものだ。
 澪の頼みでガレットは全員分焼いてきたが、当然それだけでは物足りない。ジュースと目に付いた鉄板焼きやフライドポテトを調達し、ちょうど空いていたプラスチックの丸テーブルを4人で囲む。
 ガレットは結奈と彩花にも好評だった。今日の或る意味最大の懸案事項をクリアしたことで、流雫は安堵の溜め息をついた。
「流雫は何処を回るの?」
「……もう一度、色々見て回りたいかな」
「じゃあ、あのパズルRPGのところに寄ってほしいな」
「いいよ」
その遣り取りに、結奈はフライドポテトをつまみながら
「うちのパパのところ?今回新作相当期待していいらしいよ!」
と言った。
 パズルを使ったリアルタイムRPGで、タイトルはロスト・スターライト。6月初旬にサービス開始が発表されたが、結奈の父が務める会社が配信を手掛ける。当然ボーイッシュな娘も注目しているし、彩花も気になるらしい。そして澪は、とあるキャラクターに一目惚れしていた。
 そのブースは1Fの一角に構えている。
「私は、その近くのトークショーに行きたいな」
彩花は言う。結奈もそれは気になっていたらしく、このランチタイムが終われば、一度二手に分かれ、後々エントランスかアトリウムで合流することに決まった。
 澪と仲がよい同級生だから、流雫は2人を初対面ながら或る程度は信頼している。ただ、やはり澪と2人きりの方がよい。結奈と彩花が厄介者とは微塵も思っていないが、或る程度は公平に接する必要が有り、その意味で変に気を遣わなくて済む。
 何より、正直言って何を話せばよいのか判らない。如何せん初対面の上に、澪のように直接何らかの接点が有るワケでもない。距離感を探るのに手間取っている。尤も、澪でさえ最初は接点など無かったが。
 「でもこんなにカッコよくて料理もできて、澪には勿体ないね」
彩花は流雫を見ながら言う。
 才女の悪態は何時ものことだが、仲がよくない相手には決して言わないし、澪が笑って済む程度を見極める頭がよい。その証拠に
「だからそれってどう云う……!」
と反応した澪の目は、怒るような口調にとは正反対に笑っていた。それが流雫には微笑ましく思えた。
 紙コップやパックが空になった。これで午後に向けてのエネルギーチャージは完了だ。
 その時、流雫の背後から急に、低く太い男の声がした。
「こんな場所で会うとは、奇遇だな」

 女子3人は瞬間的に表情から微笑みを消し、代わりに半ば睨むような目を向ける。特に澪は、流雫に一度も向けたことが無い表情をしていた。
 白い薄手のシャツを着た男、その手には1Fのブースで配布されていたFPSゲームのノベルティを入れたショッパーを持っている。
 「お前らもゲームフェスに来てるとはな」
と言った3人の同級生……と思うのは避けたいが……に対し、結奈が
「今度は何だよ?」
と真っ先に噛み付く。それに男は答えた。
「ただお前らが見えたから寄っただけだよ。女ばかりで星が無いからな、午後から俺も回ってやろうか」
 流雫は中性的な顔立ちだが、今のは明らかに悪意しか感じない。男は見下すような目で流雫を見る。
「お?新しい女と思ったが、これが例のハーフか。弱々しそうだな。何よりピュアな日本男児らしくないのはマイナス100点だな」
「……法も正義も無ければ、絶対処刑してるところだわ……」
澪は一言だけ言うと、オッドアイの目を曇らせる恋人に
「変なのに会わせちゃったね……」
と言った。しかし、同級生は
「室堂!変なのは撤回しろ!こっちは真っ当な日本人だぞ!」
と更に澪に近付き挑発する。その遣り取りを聞いていた流雫は
「はぁ……」
と溜め息をつく。
 ……此処まで、愛国心を痛々しく振り翳すのも珍しい。伊万里雅治のような、危ないものを見た感覚がする。
「あたしたちのデートを潰したいなら、何をやっても無駄よ」
澪は言い放つ。一言で片付けたいが、絶望的だ。
「デートだと?こんな外国人ハーフの何処が……」
自分にヘイトを向ける男の声をシャットアウトする流雫。聞くに堪えないのも有るが、それ以上に引っ掛かる。
 ……男の背後に見える、ウォークスルーバンを改造した灰色のキッチンカー。その前には美味そうな串焼きの写真付看板が出ているが、既に閉店している。そこには
「調理器具故障のため閉店」
との貼り紙をしていた。
 それから出てくる2人の男は、顔をタオルで隠し、車のドアを閉めると一目散に走る。……まさか。
「逃げろ!」
流雫は声を上げた。

 「逃げろ!」
澪に向けられる、流雫へのヘイトを遮って彼は声を上げる。その口調と表情から、不穏な臭いがする。
「逃げよう!」
澪は結奈と彩花に言い、ゴミを捨てる間も無くテーブルから離れる。その様子は、4人以外には一瞬異様に見えた。
 4人、特に澪と流雫を揶揄っていた男は1人取り残された形だが、奴らは気でも狂ったのか、と思った。それと同時に、その背後から爆音と熱風が襲う。
 あのキッチンカーが爆発した。鉄製のシャシーとボディが歪み、弾け、炎が周囲に飛散する。
 「うわぁぁぁ!!」
瞬く間に悲鳴が大合唱のように、憎らしいほどに晴れた東京の空に響く。爆風に飛ばされた人や、炎を浴びた人もいる。更に、それに火災警報器が鳴る。昔ながらの目覚まし時計以上に高速且つ大音量で鐘を打つ音が耳に押し寄せる。
 「何なんだよ!」
と流雫は叫んだ。
 ……またか。またデートの最中に起きた。……本当、呪われているのか。
「流雫!」
澪は叫び、流雫の元に駆け寄る。
「澪!」
流雫は安心しながらも、しかし爆発が起きたケータリングエリアを見た。
「何なの!?」
「僕が知りたいよ!今は逃げないと!」
澪の問いに答えた流雫は、しかし珍しく冷静さを欠いていた。
 ……逃げる?何処へ?

 東京ジャンボメッセは、この屋上が有る4階のホールへの搬入出のために、屋上と柵で区切った上で、東棟と西棟の間の道路から屋上まで一気に駆け上がる長いスロープが設置されている。
 その柵を乗り越えて避難しようとする者が、柵へ押し寄せ、そして後ろの人に尻を持ち上げられる形でどうにか乗り越えていく。
 そして、展示ホールへの動線へも流れようとする集団がいるが、その先は1階のアトリウムへ続く長いエスカレーターだ。運転は止められていて、階段として下りることはできるが、2基しか無いため、駆け下りても時間が掛かる。
 1フロアずつ下りるエスカレーターも奥に有ったが、工事中で駆動部を格納した上下踊り場のフロアパネルが剥がされていて使えない。タイミングが悪過ぎる。
 
 残りはエントランス付近まで行ける屋外階段しか無い。それも混雑している上に、誰もが我先にと駆け下りる。
 「うわああああっ!!」
その階段で、更に悲鳴が重なる。それと同時に
「何してるんだ!」
「逃げられないじゃないか!」
と怒号が飛び交う。
 端にいた誰かが足を踏み外したか、後ろから押されたかで転倒し、それが引き金となって将棋倒しが起きた。行き止まりで最後は絵が出てくるドミノ倒しのギミックのように階段全体を塞ぎ、避難の流れが止まる。
 「アクションスターなら、飛び降りても無事なのに……」
ガラスの柵を跳び越えて2フロア分真下に行ければ、と流雫は一瞬思うが、映画に影響され過ぎなのか。
 澪は隣にいる。あの同級生2人とは逸れたが、恐らく外の非常階段側だ。とにかく、ただ無事であってほしい。

 遠くからサイレンが聞こえ、それが大きくなっていく。何台もの消防車と救急車が、東京ジャンボメッセに駆けつけていた。
 屋上では、駆けつけたスタッフと警備員が消火栓からホースを出して消火活動を始めていたが、左右のワゴンにも延焼していて、消防車が着くまでの時間稼ぎでしかなかった。
 消火器も薬剤を使い果たすが、鎮火には至っていない。しかし、もうすぐ消防車が着く。
 その周囲では、爆発の直撃を受けた被害者が端に運ばれていた。
 ……あの8月の渋谷も、これと似た様子だったのだろうか。ニュースでは何度でも見たが、現場はこんな感じの混沌に支配されていたのだろうか。
 どれぐらい時間が経っただろうか、ほんの数分でさえ1時間に感じる。ケータリングエリアの真ん中……つまりは屋上の真ん中にいたことで、避難の群れに乗り遅れた流雫と澪は、最後尾ながらエスカレーターを使うアトリウムへのルートに流れた。未だ火災警報器は鳴り続けている。
 エスカレーターまで後少し。
「後は下まで行ければ……」
そう安堵した瞬間、澪より後ろにいた流雫の背骨に棒で突かれた感覚が走る。
「走るな、歩け」
2人にアトリウム方面へ行くよう指示した警備員が、片手で流雫に銃を突き付けている。
「な……」
……また、読みが当たった。何故何時も外れないのか。
 「流雫!?」
澪が振り向く。
「お前も早く歩け!」
警備員……に扮した男が、もう片方の手に持った別の銃を澪に向け、苛立ちをぶつけるように言い放つ。
 流雫が危ないが、しかし、今は言われるがままにしなければ。澪はそう思い、唇を噛む。ただ、階上からは結奈と彩花は見えない。この場にいないことだけは判るが、それが彼女にとっての救いだった。
 その時、階下から銃声が聞こえた。天井に穴が幾つも開く。
「進め!」
別の警備員風の男も、戻ろうとする人に銃を突き付ける。
「全員撃つぞ」
その声に、全員が諦めて止められたエスカレーターを歩く。それはまさに、集団処刑の連行のようだった。

 迫り出したデッキからは1階のアトリウムが見える。ホールへの防火シャッターは閉鎖されていて、数百人が取り残されている。朝通った招待客用の通用口にも警備員……風の男が数人いて、どれも銃を構えている。……どれだけグルがいるのか。
 その中心付近に固まっている3人は、1Fのホールのブースで大々的に紹介されていた、FPSゲームのコスプレのミリタリーウェアを全身に纏っている。先刻あの男子生徒が持っていたショッパーに描かれていた絵と同じだ。露出しているのは口元ぐらいか。
 しかし、銃は間違いなく本物だ。そうでなければ、天井に穴など開かない。
 2人が最後の1段を下りると、アトリウムの中心に集められる。其処でようやく、2人は男の銃から解放された。
 「何故こんなことを?」
澪は問う。その声には、普段の可憐さは完全に失われ、怒りと鋭さだけが現れている。
「折角の休日を台無しにされて。それも、よりによってこんなゲームフェスで。一体何を企んでるの!?」
澪は続け、男はそれに答えた。
「お前たちが知る必要も無い。我々の理念は深い処に在る」
その言葉に、流雫が反応する。
「理念……」
シルバーの外ハネショート、アンバーとライトブルーのオッドアイと云う、この人質となった数百人の中でも目立つ少年の頭に浮かぶものは1つだけだった。

 思えば、件のFPSは何度か、ゲームとは無関係のアプリの広告で見たことが有る。確か2月にリリースされ、舞台は近未来で勃発した第三次世界大戦の世界だった。
 冷戦崩壊後に台頭した超大国同士の、核と情報の戦争。そこに宗教由来の過激派も混ざった、血で血を洗う混沌とした世界観。
 だが、このゲームでは日本は、初出の時点で既に敵国の脅威の下に瓦解が始まっている設定だった。この国を救うか見殺しにするかで、後の展開に大きな影響を与える。
 SNSのトレンドに時々ランクインしているし、アライアンスと呼ばれるグループを組んでの共闘も可能で、そのメンバーの募集も見られる。
 また、ゲームの実況動画の題材としても人気だと云うことぐらいは知っている。尤も、流雫はプレイしたことは無いし、その動画も見たことは無いが。
 「ワールドウォースリー……共産圏大国の手に落ちた日本を救う……。日本が共産主義に屈することなど有り得ない……」
流雫は呟くように言う。澪は思わず流雫を見る。
「偉大なる日本が、蛮族の国に屈することは有り得ない。だから作中の設定は出鱈目にも程が有る」
「……それが、理念なのか……?イヤ、それは流石に……」
そう続ける流雫の額を、銃口が捉える。
「黙れ」
流雫はその命令に背き、声を上げた。
 「日本は偉大なる国。だからあんな蛮族国家なんかに負けるワケがない、瓦解するワケがない」
それが引き金だった。
 「そうだ!どの連中も、日本を小国だと言って貶める。日本は高度に発達した大国、世界の模範となる優れた国。日本が蛮族などに屈するなど有ってはならんのだ!」
流雫の言葉に、連中は声を張り上げた。……呆れるしかないような理由だが、この連中の理念は所詮そんなものか。
 図星かよ……、そう思った流雫は思わず苦笑を浮かべる。
「でも、どうしてこんなテロを……!」
澪は問う。
「これはテロではない、聖戦なのだ」
「聖戦……」
 流雫は呟く。……何度も聞いたことは有るが、それとは別物か……?
「日本を貶める連中、我々の正義の声に無関心な連中に、真の正義と真実を突き付ける!全ては偉大なる国、日本のために!日本人の日本人による日本人のための日本!これはそのための聖戦であり、お前たちに対する基礎教育なのだ!」
と男は声を張り上げる。
 ……動画配信サイトでやればよいのに。流雫はそう思いながら、しかし引っ掛かるものを感じた。それは澪も同じだった。
「……何処かで聞いた……」
澪は呟く。2人して判っていた。
 しかし、単なる伊万里雅治の信者なのか、或いは……その或いは、なのか……?
 確かに日本には
「事実は小説より奇なり」
と云う言事が有る。……だからと云って、それは流石に無いと思いたかった。

 澪と流雫、2人と逸れた結奈と彩花は、屋外階段を使ってエントランス前までようやく下りることができた。途中で将棋倒しが起きて進めなくなったが、最も端をゆっくり下る形でどうにかなった。
 屋上を見ると、依然として黒い煙が上がっている。
 駆けつけた警察官は、エントランス側から離れているようにと指示する。既に1万人単位でスカイトレインのメッセエントランス駅からペデストリアンデッキにかけて密集している。
 しかし、2人はエントランス前、警察官と警備員がバリケードを組んでいるところまでやってきた。
「澪……!」
結奈は唇を噛む。そして彩花も、2人の安否が……そもそも一緒にいるのかも判らないが……気になっていた。

 4Fから、通報を受けた警察官が数人乗り込んでくる。やがて特殊武装隊も駆け付けた。しかし、男はまたも天井に向けて数発撃つ。
「ひぃっ!」
階下から悲鳴が聞こえる中、止まらない火災警報器と銃声がアトリウムに反響する。
「こいつを見ろ!」
そう言って、顔を濃いスモークのサングラスで隠した男はミリタリーウェアのフロントを開ける。そこには、ベルトの外側に手榴弾が並んでいた。
「う、うわぁぁぁぁぁっ!!」
その場にいた連中が逃げようとするも、警備員と別のミリタリーウェアの男が銃を向け、足下に発砲して動きを止める。
「そいつらも我々の仲間でな、警備員に扮して紛れさせたに過ぎない」
用意周到な計画的犯行。そして、その手榴弾もだ。
 「下手に動くと、これが爆発する。お前らも道連れだ」
そう言って男は腰の手榴弾を指差すと、更に迷彩色のバックパックを下ろして言った。
「これには、大量の油脂が詰まっている。俺が爆発すれば、火の玉が飛び散ることになる」
……自爆テロ。最初からその気でいたのか?しかし、見れば同じようなバックパックを持っているのは他にいない。……だからと油断はできないが。
 ……詰んだ。その場にいた誰もがそう思った。警察が駆け付けたとは云え、自爆の用意まで完璧なのを見せられると、希望を見出すことはできない。
 澪は流雫の隣で、彼を誘わなければよかったと思い始めていた。それでも、このゲームフェスに行くことは変わりなく、一緒に行動していた結奈や彩花がとばっちりを受けていた。
 どっちにしろ、誰かがとばっちりを受けるのは避けられない。ただ、それでも3人は
「澪は悪くない」
と言うだろう。しかし……。
 そして唇を噛む少女の隣には、唯一詰んだと思っていない少年がいた。特徴的なオッドアイの瞳で、エスカレーターの上側を見つめていた。
 とんでもなくリスキーで、後から澪に何度も平手打ちされることは目に見えている。ただ、それでも1つだけ、方法は残されている。問題は、澪が逃げられるのか。
 これも全て、飛行機で観た映画の真似でしかない。アクション映画のスーパースターだからできる芸当を、普通の人間がやって、平気ではないことは目に見えている。狂気の沙汰だと自覚している。それでも、だ。……やるしかない。そう覚悟を決めた少年は、小さな溜め息をついて目付きを変えた。

 「……そうさ、我々のユートピア、それが偉大なる日本なのだ」
少し声色を変えて言った流雫は、ディープレッドのショルダーバッグから銃を取り出す。まさかのことに周囲が騒然とする。
「流雫!?正気なの!?」
澪は目を見開き、流雫に問う。まさかの展開に、彼女の脳も処理が追い付いていない。
 流雫は澪を無視してすれ違う……その瞬間に、囁くような小声で、何時もの声色で言った。
「……正気だよ?」
しかし、その声には何処か悲壮感が滲んでいた。恐怖を押し殺すような声。……一芝居打つ気だ。何をする気なのか。
 しかし流雫は、何度も死にそうな目に遭いながら、生き延びてきた。そう、語弊を恐れず言えば「死に損ない」だった。
 流雫はあたしを絶対裏切らない、見捨てない。だから、あたしは流雫を信じる。……そう決めた澪は誰にも気付かれないように、微かに頷いた。

 「このゲームをやりながら、前々から信念が燻っていたんだ!今日この日こそ最大のチャンスだ!」
流雫は叫ぶ。突然の奇行に
「何考えてるんだ!」
「狂ったか!」
とヤジが飛ぶ。人質がヒートアップしているのが判る。
「黙れ!目的のためなら、どんな手段も辞さない!」
と流雫が言うと、人質の怒りは更に流雫に向けられる。すると、手榴弾に囲まれた男は大声を上げる。まさかの寝返りに、気をよくしたらしい。
「この同志のような気概に満ちた男はいないのか!日本人らしくないが、心は日本男児ではないか!」
 日本人らしくない……その言葉に一瞬流雫は表情を曇らせたことに、澪だけが気付く。
 その少女がふと階上を見上げると、特殊武装隊の後ろに父、室堂常願と目が合った。朝家を出る前に、行き先は告げていた。だから多分、娘が階下にいることは気付いているだろう。
「……」
澪は父に背を向けると、ネイビーのデニムジャケットに覆われた背中を背景にサムアップをした。……問題無いわ、そう伝えたかった。
 「そんな護身用の銃だと、誰も倒せまい」
と男が言うと流雫は
「囮には十分さ」
と言い返し、少し口角を上げてみせると
長いエスカレーターに足を踏み出す。
「援護してやれ!」
バックパックを背負った男のその命令に、ミリタリーウェアを着た2人が後ろからやってくる。
 「革命の臭いがする……気分が昂ぶるよ」
流雫は言い、ふと後ろを振り向く。
 ヒートアップしたまま聞くに堪えない怒号を放つ集団が遠離る。そして、未だ警戒しているのか、2段下から機銃を流雫の背中に突き付けたままの、サングラスで目を隠した男の口元は緩んでいた。恐らく、その後ろも同じだろう。
 ……此処までは予想通り。後は、運に任せるしかない。
 ただ、やはり後で澪に泣かれながら、平手打ちされるんだろうな……と思いながら、警察に向けて愛用の銃を見せびらかせ、エスカレーターを歩いていく。
 ふと、背中から機銃が離れた気がした。エスカレーターから大きな窓ガラスに目を向けると、機銃は警察の方に向いているのが判った。
 あと10段ほどで4階の踊り場……今しかない。
 流雫は、左手に持っていた銃をショルダーバッグに背面から突っ込み、その流れでジッパーを閉じた。そして、1段上がって右手で手摺りを掴むと、曲がった肘と膝をバネに、手摺りを突いて……後ろに仰け反り、ステップから足が離れる。
 咄嗟に利き足の左足で、ステップの角を力一杯踏み付け、肉体の行方を重力に委ねた。

 流雫の体が、シルバーヘアの頭から後ろに倒れていく。
「えっ……!?」
澪は目を見開く。何が……起きてるの……?
「お、おい!!」
階上で彼女の父が声を上げる。誰一人、何が起きたか判っていない。ただ、流雫を除いては。
 2段下の厚めの胸板に、流雫は頭頂部から飛び込む。重力に委ねた勢いは止まらず、更に後ろにいたもう1人に雪崩れるように飛び込む。
「うおぁっ!」
「おわぁぁっ!」
2人の声が響く。前にいた男が突然倒れて……否飛び込んできては、対処のしようが無い。為す術も無く後ろに倒れる。
 しかし、このままだと放り出される形で下まで転がる。大怪我で済めばよいが、しかしその前に撃たれる。
「ふっ!」
 流雫は咄嗟に、左手を伸ばした。掌が表面を捉えた手摺りを鷲掴みにする。腕が突っ張ったように伸び、指から手首、肘に掛けて激痛が走る。掌は摩擦で熱い。
 それでも放さないように必死だった流雫の体は左に振られ、ガラスの欄干に叩き付けられる。鈍い音が響いた。
「ぐっ……!!」
顔を歪める流雫は、しかし咄嗟に右手を反対側の手摺りに伸ばす。あと十数段……。

 ヒートアップし続けていた集団が、騒然とする。寝返ったハズの少年が、雪崩れるように武装した2人を倒した……!?
 直前まで隣にいた恋人ですら、全く想像できなかった展開。それに見蕩れている場合じゃない、今動けば助かる……と確信した面々が、ヒートアップした勢いのままエントランスへのエスカレーターや通用口へと一斉に走り出す。
 警備員に扮した男たちは銃を構えるが、その勢いに押され手を出せず、それどころか体当たりで倒された挙げ句、次々と踏まれていく。
 その反対側では、2人の機銃がステップを擦りながらエスカレーターを滑り落ちる。ミリタリーウェアの男は2人、縺れながらエスカレーターを転がるが、途中で止まる。しかし立つことはできない。
 澪の隣にいた男は、咄嗟に機銃を構える。流雫を撃つ気だ。
 ……自分の護身ではないのに、銃を撃つことはできない。ただ、逆に言えば、撃たなければ銃を使うのは問題無い。幸い、男は流雫しか見ていない。
「流雫ぁっ!!」
澪は叫びながらその場にしゃがみ、ミントグリーンのショルダーバッグに手を入れた。シルバーの銃を取り出す勢いのまま、その腕を思いっきり振って、冷たく硬い銃身の角を、男の膝の皿に叩き付けた。
「がぁっ!」
鈍い音がして、男は痛みに声を歪めながら銃を落とし、その場に崩れる。澪は隣の空いているエスカレーターを必死に駆け上がった。

 澪の叫び声がする。
「流雫ぁっ!!」
しかし、振り向いてはいられない。最後の1段、そして……。
 力強く踊り場を踏んだ流雫は、目の前のホールの防火シャッターに手を突いて止まる。
 助かった……それより澪は!?
 流雫がエスカレーターに近寄ると、澪は隣のエスカレーターの手摺りを掴みながら駆け上がってくる。そして男は万事休すと思ったのか、銃を床に置いたまま、
「まとめて死ね!」
と叫び、腰の手榴弾のピンを外した。
「澪っ!」
流雫は叫んだ。
 澪は最後のステップを踏むと、踊り場に飛び込もうとする。その線上、流雫は手摺りから離れた澪の手を引っ張って尻から地面に落ちる。その上に澪が被さり、胸元に彼女の顔が触れる。同時に下から爆発音が鼓膜を引き裂こうとしながら、突き上げるような揺れが襲った。
「くっ!」
流雫は澪と上下を入れ替える。そして強く抱き締め、数秒耐えた。

 目の前の建物の中から爆発音がした。
「何!?」
「どうなってるの!?」
結奈と彩花は、赤い炎と黒い煙を遠くに見る。そして、澪と流雫にはまだ会えていない。アトリウムから逃げてきた人々がエントランスに押し寄せ、2人は屋上への階段の近くまで退く。
 ……走ってくる人の中に、2人はいない。
「まさか……」
最悪のケースが頭を過る。
 結奈はメッセンジャーアプリを開き、澪のアイコンを選んで通話ボタンを押す。しかし、呼び出し音が鳴るだけで出ない。
 通話をキャンセルした結奈の背を撫でながら、彩花は言った。
「澪は、生きてるよ。流雫くんも、絶対」
ただ、それは彼女の願望でしかない。願望でしかないが、そうでなければ困る……彩花だけでなく結奈も。

 火災警報器が鳴り響き、階下に向けてスプリンクラーから水が噴射される。自分のではないスマートフォンが鳴るが、少しして切れた。澪のだろう。恐らく、安否を気にした同級生からの着信か。
 目を開けた流雫は腰を上げ、後ろを向く。バックパックに詰められた油脂は周囲に飛散しながら引火して、火の玉となって床や壁に飛散してアトリウムを火の海としていた。
 流雫は思わず目を背ける。雪崩れる形で倒した2人も自爆していたことが、エスカレーターがその真ん中付近で崩れていることで判る。
「走れ!」
刑事が叫ぶ。流雫は立ち上がると
「澪!」
と呼ぶと彼女の手を引っ張って起こす。澪はアトリウムを見ようとしたが、流雫はその視界を妨害するように
「こっちだよ」
とだけ言い、手を引っ張ったまま屋外広場と飛び出した。

 屋上の広場で燃えていたケータリングワゴンは鎮火していた。変形して焦げたボディは消火剤に塗れている。負傷者たちの搬送も、駆けつけた救急隊員によるトリアージで黒のタグが付けられた者を残すのみとなった。トリアージを実施しなければならないほど、負傷者が多いことを意味していた。
 黒はトリアージ……フランス語で文字通り選別の意味……を施した時点で既に死亡しているか、呼吸などの生命兆候が無い、処置を施しても助かる見込みが無いことを指す。あれから1時間は経っている。不謹慎な言い方をすれば、事実上の遺体搬出だった。
 消防隊員はアトリウムの消火のために1階に回ろうとするが、屋外階段から回り込んで1階へ行くしかない。その一団が通った屋上階段の海側の端を伝うよう警察官から指示され、手摺りを掴みながら階段を下りていく。
 その最下段の先に、結奈と彩花がいた。警察官が道を開け、その間を通った2人に結奈が
「澪!」
と声を上げて近付き、彩花もすぐに追い付く。
「何か、爆発音が聞こえたりして……」
「大丈夫だった?」
と続けた2人に対して澪は
「うん、流雫もあたしも、どうにか……」
と安堵の微笑みを浮かべて答える。その背後で流雫は1人、3人から目を背け、割れた窓ガラスから外に流れる煙と、雲一つ無い青空をただ見つめていた。

 ……助かった。澪も、先に逃げた澪の同級生も無事だ。エスカレーターの手摺りを掴んで伸びきった左腕と、欄干に叩き付けられた背中が少し痛むが、それだけで済んでいるのは御の字、寧ろ無傷も同然だ。
 ……寝返ったフリをし、エスカレーターに乗るまでは計算通りだった。しかし、あそこで銃を向ければ、間違いなく背後の機銃が火を吹いた。銃は使えない。それなら、肉弾戦しかないが……蹴落とすより、全身の体重を乗せた方がダメージは大きい。それは科学番組公式の3分動画で得た知識だ。
 そして、階下からの機銃に撃たれないように、と思うと、自然に……事故に見せかけるしかない。気付かれないように銃を仕舞い、後ろに倒れて雪崩れるしか無かった。
 そして男の上に乗ったまま、エスカレーターを滑り落ちるのかと思った。放り出されるとは思っていなかった。それが唯一の誤算だった。だから咄嗟に手摺りを掴んだ。それでどうにか止まれたから、これだけで済んだ。掴めなければ、今頃はアトリウムを襲う火の海に沈んでいただろう。それも、自分に近寄って撃たれただろう澪の屍と一緒に。
 ……映画のスーパースターの真似をしたに過ぎないが、今思い返しても自殺行為でしかなかった。端から見ても心臓に悪いだろうし、褒められはしない。何より、正直言って怖かった。何時撃たれても不思議ではなかったから、まさに奇跡としか云いようがなかった。
 ただ、それしか方法は思いつかなかった。自分が生き延びるためなら、そして澪が助かるためなら、形振り構っていられなかった。
 「これで、よかったんだ……よな……」
流雫は、そう何度も自分に言い聞かせる。空港で狂ったように泣き叫んだあの日を思い出させるような碧を纏った空を映す、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳は、少しだけ滲んでいた。

 「流雫……?」
2人と話していた澪は、ふと背後の少年に顔を向ける。……1人背を向け空を見つめ、その場に立ち尽くしていた。
 何を思っているのか、何となく察しはついた。
 文字通り捨て身で、殺される恐怖を押し殺して、生を掴んだ。左腕を労っているように見えるが、その痛みすらも生きている証だと思っているのだろうか。
 澪さえも嵌められた、流雫の芝居に対して沸き起こった怒号。その矛先は、あの瞬間に触発された結果エントランスへの動線を塞ぐ警備員へ向けられ、そして全員が逃げ出した。結果として人質全員を間接的に救ったことなる。尤も、そこまでは彼自身も想定していなかっただろうが。
 「……澪……」
流雫は振り向く。澪は2人が見ているのを気にせず、流雫を抱きしめる。
「バカ……!流雫が死ぬんじゃないか……怖かったんだから……!」
そう声を上げた澪の耳に、流雫の吐息が聞こえる。澪は囁くように続けた。
「……生きてる……、あたしも、流雫も……」

 澪の細い腕は、流雫の背中を狂おしく撫でる。囁くような声と、ほのかに伝わる熱。周囲の声も、音も聞こえない。ただ、澪の声だけがクリアに聞こえる。
「澪……、……澪……っ……」
流雫は彼女の肩に顔を埋め、ダークブラウンのセミロングヘアを纏う後頭部に手を回す。ただ狂ったように、最愛の少女の名を呼ぶだけだった。
 緊張の糸が切れたのか、流雫は泣いていた。澪の頭に触れる手が震えていた。澪は滲む視界を目蓋で遮り、頬を濡らしながら囁いた。
「流雫……ありがと……」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

設計士 建山

如月 睦月
ミステリー
一級建築士 建山斗偉志(たてやま といし)小さいながらも事務所を構える彼のもとに、今日も変な依頼が迷い込む。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜アソコ編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとエッチなショートショートつめあわせ♡

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

処理中です...