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醜悪⑨
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「本日15時半より石橋様とお約束いただいている、ハギワラと申します。はい。はい……」
エレベーターを降りると、すぐにオフィスへの入り口が俺たちを出迎えた。
俺は目の前に設置された電話を手に取り、成立しているかどうかも怪しい、辿々しいビジネス敬語で用件を告げる。
『しばらくお待ち下さい』と機械的な案内を聞いた後、俺たちは少しの間手持ち無沙汰となった。
電話口からは15時の閉店直後ということもあって、慌ただしい雰囲気が伝わってきた。
別に銀行業に詳しいわけでもないが、照合作業やら送金作業やらで、今が一番忙しい時間帯だということは、何となく想像はできる。
しかし、だ。
実際に来てみると、改めて大企業なのだと実感する。
相銀の本店は、20階を超える高層棟と4階建ての低層棟で構成された、自社所有の超高層ビルの中にある。
その全長は150mを超え、銀行建築としては日本一の高さを誇るらしい。
また低層棟の1階部分には、自前のコンサートホールなども併設されていて、本社機能だけでなく、一種の商業施設としての役割も果たしているようだ。
こうして目の前の事実だけを羅列すると、確かに業界最大手に恥じない貫禄だ。
そんな環境の中でさえ、石橋が手に出来なかったもの。
いや……。
正確に言えば、石橋はその環境から弾き出され、共同体の一員とすらみなされなかった。
もはや石橋には、『持つ者ゆえの苦悩』などと言った前提は通用しないのだ。
「おっ。キミたちは……。萩原くんと古川さん、かな?」
突如、背後から聞き慣れない声が鳴り響く。
振り向くと、50代くらいの高身長で痩せ方の男が居た。
素人目からみても高級だと推察できる、光沢のあるベージュのスーツ。
左腕には数十万は下らないと思える、クラシカルな時計が添えられていた。
そのスタイリッシュで重厚な出で立ちは、まさに俺たちが想像するところの『VIP』といったところか。
まだ何を話したわけでもないが、自然と納得はいった。
数年前の石橋の写真とは、似ても似つかない。
それだけで石橋の言う不幸の証明になるだろう。
いよいよだ。
石橋の不幸の元凶の一人と対峙する。
そんなプレッシャーもあってか、警戒心が外に滲み出ていてしまったらしい。
石橋の父親は俺たちを見るなり、困ったようにニコリと頬を緩めた。
「そう緊張しなくても大丈夫だよ。さ! 中へ」
彼は思いの外ソフトな物腰で、オフィスの中へと案内してくる。
その声つきは、低くしゃがれているものの、微かに包容力のようなものも感じ取れる。
同じことを思ったのか、新井は眉尻を下げ、困惑したような表情で俺を見てくる。
「……んなモンだろ。大人なんて」
俺はそれだけ言うと、彼に促されるまま、オフィスの中へ入った。
「改めまして。本日はお忙しい中、当行へお越しいただき……、なんて感じでもないかな? 面接でも何でもないんだし、キミたちもどうか気楽にしてよ」
「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「キミたちは今2年生かな? 感心だねー。今からもう就活のことを考えてるなんてね! しかもウチでインターンを考えてくれているなんて、私としても嬉しい限りだよ」
オフィスの中へ入ると、俺たちは会議室へ通された。
石橋の父親は、楕円形のテーブルに向かい合って座るなり、白々しいほどのリップサービスを展開してくる。
「そうですね。何かと厳しい時代ですので、準備するなら早いに越したことはないと思いまして……。こちらこそ、急な話にも関わらずお受け下さり、ありがとうございます」
「いや。いいんだいいんだ! 取締役なんて、責任取るのが仕事みたいなもんだからね! 逆に言っちゃえばそれ以外は現場に任せっきりだから、実質名誉職みたいなモンで暇なんだよ。……なんて言ったら、他の役員に怒られちゃうか! はは!」
石橋の父親は、頭を掻きながら笑う。
多少は取り繕ってくると思っていたが、想像以上だった。
どの口がソレを言うのか。
自分の息子一人でさえ、責任を取る気など更々ないクセに。
目の前の大人の図太さに、怒りや呆れを通り越して、恐怖のようなものすら感じてしまう。
ふと横に座る新井を見る。
案の定、膝下で拳を握り、わなわなと身体を震わせていた。
「責任を取る、と明言されているだけ素晴らしいことだと思います。世の中には、それすらまともに出来ない上層も多いですから……」
言ってみれば、これは探りであり、揺さぶりだ。
開幕早々、不躾な気もしたが、少しばかり仕掛けさせてもらうことにする。
俺の挑発とも取れる言葉に、石橋の父親は『ほう』と小さく呟く。
「実感がこもってるね……。何か、思い当たるフシでもあるんだろ。バイトか何かかな?」
知ってか、知らずか。
石橋の父親は、俺の皮肉など意に介さないとでも言うかのような、したり顔で聞いてくる。
「はい。まぁ……、そんな感じですかね」
「そうか……。まぁ詳しくは聞かないでおくよ。ちなみにキミは何のバイトをしているのかな?」
「色々とやっていますが、居酒屋と食品工場がメインですね」
「掛け持ちか。それは大変、だね……」
「……ええ。実は私も新井も、母子家庭でして……。安定収入、なんて言ったら露骨ですが、一刻も早く親を安心させたいという想いが強くてですね……。やはり今の自分たちがいるのも親があってこそ、ですから」
「……そうか。それは立派だ。うん……、でも確かにそうだね。キミの言う通りだ! 上に立つ者として、いついかなる時も責任を取る覚悟を持つべきだね!」
言いたいことは二、三どころではない。
が、今は相手の私生活をあぶり出すことが最優先事項だ。
「……まさに経営者の鑑ですね。そこまでの意識をお持ちでしたら、従業員の皆様からも、さぞ慕われているのでしょう」
「はは! それは言い過ぎだよ! 何分、現場に顔を出す機会も限られているからね。そもそも、末端の行員のほとんどは私の顔も知らないんじゃないかな?」
そんなことは分かりきっている。
こちらも例に漏れず、リップサービスだ。
しかし、それにおずおずと乗せられない辺り、ただの『七光り』ではないのだろう。
「……石橋取締役とお約束させていただく前に、多少なりとも業界研究をしてきたつもりですが、御行ほど将来性と安定性を感じる地銀はありません。それもこれも最大手の地位に甘えず、業界の先端を開拓されてきた結果でしょう。学生の分際で大変僭越ですが」
「そうかい。嬉しいことを言ってくれるね……。『近頃の若いモンは……』なんて言う人間もいるけど、そんなことは口が裂けても言うべきじゃないね。今の子の方が、よっぽど世の中を良く見ているよ。実は、ウチにもキミたちと同じくらいの息子がいるんだけどさ……」
驚いた。
よもや、あちらから切り出してくるとは想像もしていなかった。
予定通りとは言え、こちらが動揺してしまいそうになる。
「そうなんですか……。さぞや優秀な息子さんなんでしょうね」
いや、待て。
今話しているのは、どちらの息子だ?
それ如何によって、今後の話の進め方が変わってくる。
まずはそこを明らかにする必要があるだろう。
「ありがとう。そうだね……。親の私が言うのもなんだけど、器用な子でね。学校の成績だってまぁまぁ良いし、『優等生』だとは思うんだよ。でもね。やっぱり自分の息子っていうだけあって、色眼鏡で見ちゃうんだろうね。普段見てると、色々歯痒く思って、アレコレ言いたくなっちゃうんだよ。やっぱり良くないよね! そういうのは」
聞いている限り、石橋に当てはまらなくもない話だ。
だが石橋の父親は、間違いなく『普段見てると』と言った。
石橋との親子関係は、事実上破綻している。
そもそも、石橋は彼らにとって隠したい存在だったはずだ。
そう考えれば、今彼が話している人物は、『愛人の子』で間違いないだろう。
「親というのは、そういうものではないでしょうか? もっとも、日本有数の一流企業を統括するお立場である以上、こと子育てにおいても私などでは想像もし得ないほどの苦労があるものとお察ししますが……」
「そうだね……。確かに苦労は絶えないよ。いやさ! 実はウチも実質的に父子家庭みたいなものだからさ! もちろん、キミたちとは比ぶべくもないことは分かってるよ。だから気を悪くしないで欲しいんだけどね」
父子家庭、か。物は言い様だな。
だが、話の路線としてはこれで良い。
「いえ、お気になさらず。ということは奥様とは……」
これはずっと思っていたことだ。
石橋の口ぶりから察するに、父親から認知されなかったとは言え、一連の養育費については面倒を見ていたのだろう。
もっと言えば、石橋がアレだけ家庭事情を熟知していたことを考えると、少なくともお互いを認識できる範囲内で生活していたはずだ。
たとえ、事実上の隔離状態であったとしても、だ。
それは、愛人の子も同じだろう。
であれば、歪な家族関係の中で育ったのは、何も石橋本人だけではないはずだ。
「いや、居るには居るよ。ただね……。色々複雑な感じでさ。ずっと、たまにしか会わせてやれなかったんだよ。だから、寂しい思いをさせてしまっていてね」
それは当然と言えば当然、か。
事実婚の状態とは言え、名目上の配偶者を差し置いて、愛人と同居など体裁として悪すぎる。
だが、こうして考えると石橋も石橋で不憫だが、愛人の子も負けず劣らずだ。
実の母親とも引き剥がされた上、ゆくゆくは将来の跡継ぎとしての重圧も、その肩にのしかかるのだろうから。
「そうでしたか……。不躾なことを聞いてしまい、申し訳ありません」
「いや! 全然良いんだ。そういう話の流れだったしね。むしろ、私が誘導したようなもんだし、気にしないでよ。そう言えばキミのお母さんは、元気なのかな?」
「は、はい。まぁ」
「それは良かった。何かと心細いこともあるだろうが、大切にしてあげるんだよ」
「はい。それはもちろん……」
俺がそう言うと、石橋の父親は満足そうに笑った。
「さて、と。なんだか随分と、話が脱線してしまったみたいだね。じゃあ、そろそろ本題に移ろうか? インターンシップの相談だったね?」
「え、えぇ。そうですね……」
あまり性急過ぎても怪しまれる。
『本題』をソコソコにこなしつつ、程よい頃合いでまた探りを入れるとしよう。
「あ、あのっ!」
突如、新井が立ち上がる。
その瞬間、会議室の空気の温度が急激に下がった気がした。
「おや? 古川さん。どうかしたかな?」
不意を突かれた石橋の父親は一瞬顔を強張らせるも、すぐにその落ち着き払った笑みを取り戻す。
「どうして……、どうしてシュウくんには、触れないんですか?」
思わず、天を仰いだ。
いや……。彼女の行動を計算に入れていなかった俺の落ち度、なのか?
そうだ。そう思うことにしよう。
俺は立ち上がった彼女の左腕の袖口を引っ張り、無言で睨みつける。
「だ、だって! このおっさん、ムカつくじゃん! まるでイシバシが最初からいないみたいにさっ!」
新井は、まるで開き直るかのようなセリフを並べる。
そんな彼女を前に、石橋の父親は呆け顔をする。
この地獄絵図の収拾を俺一人に委ねるとは、あまりにも酷だ。
神も仏も職務放棄中か。
「あ、あの……」
俺は恐る恐る、石橋の父親の方に顔を向ける。
「ぷっ! あははははは!」
突如、石橋の父親は盛大に吹き出す。
意表を突かれた俺と新井は、ただただその抱腹する姿を見つめることしか出来なかった。
「古川さんは、面白いね。そうだったそうだった! そう言えばキミたちと珠羽は同じ大学だったね。どうだい? 珠羽とは仲良くしてくれているかい?」
「えっ、えっと、まぁ。はい……」
「そうかそうか! それは何よりだ。あと、ね。アライさん。キミは少し勘違いしているよ」
「へ?」
「私はずっと、珠羽の話をしていたつもりだよ」
「は……」
石橋の父親の思わぬ言葉に、俺の方が間の抜けた声を出してしまう。
「あれ? ひょっとして、オギワラくんも勘違いしていたのかな?」
「あの……、どうして俺たちの名前を」
「ははは! そりゃあ知ってるよ! なんたってキミたちは有名人だからね!」
立て続けに度肝を抜かれ、俺の思考は渋滞する。
どうして俺の名前を知っている?
それに彼は、確かに石橋の話をしていると言った。
だが、もしその言う通りなら、父子家庭云々の話と繋がらない。
まさか、とは思うが……。
もしそうなら、俺は石橋から重大なことを聞き落としているのかもしれない。
「今まで知らないフリをしていたことは謝るよ。なあに。ちょっとした遊び心ってヤツさ。言っただろ? 役員なんて、暇だって」
どうやら事実は、俺の推定よりも数倍は深刻なようだ。
石橋の父親は、俺たちの拙い企みなど始めから見通した上で、今の今まで軽くあしらっていただけなのかもしれない。
「それで、だ。もう小芝居はいいだろう。正直に言いなさい。キミたちは朱羽から何か頼まれたのかね?」
そう言われた瞬間、血の気が引き、全身の温度が一気に奪われる感覚に襲われる。
脈も上がり、心なしか息苦しい。
「あはは。やっぱり図星だったかな?」
「な、何のことですかね?」
必死に取り繕うとするも、どこかぎこちない俺を前に、彼はますますその目を細める。
そして、その小皺の一つひとつを把握できる位置にまで、顔を近づけてくる。
「『他人の不幸は蜜の味』、だっけ?」
耳元で静かにそう溢した彼に対して、俺は返答することも忘れ、呆然としてしまう。
「おや? またびっくりさせてしまったかな? なんて言ったって、有名だからね。キミの会社。今日はアレかな? 大方、あの弁護士の差し金だろ?」
「な、何で神取さんのことまで……」
「言っておくけど、キミたちの行動、筒抜けだよ。何がしたいのか知らないけどさ」
筒抜け? 意味が分からない。
そもそも、彼は何処まで把握しているんだ?
「質問に戻ろうか。キミは珠羽からどんな依頼を受けた?」
「……顧客保護の観点から言えません」
俺がそう言うと、石橋の父親は『ほう』と呟き、その笑みに拍車をかける。
「なるほど……。見上げたプロ意識だね。キミがそういうスタンスなら、こちらも一つ予言しておこう」
石橋の父親はそう言って、コホンと咳払いをする。
「キミや珠羽の狙い通りには、事は進まないよ。これは別に私がどうこうするって意味じゃない。最初から決まってること、なんだ。何の意図があって潜り込んできたかは知らないけど、甘いんだよ。色々と」
「…………」
返答の術を失う俺に対して、石橋の父親は更に畳み掛けてくる。
「なぁ……。さっきは『学生の分際で』と言ったね? 本当にその通りだよ。キミは学生の分際で銀行の何が分かると言うのかな? よく居るんだよ、キミみたいなの。就活のノウハウ本を鵜呑みにして、業界研究の成果とやらを得意げに披露した挙げ句に、薄っぺらーい言葉でヨイショしてくる輩が。どうしてキミたち如きに、慰められなきゃならんのかね。全く……。大人を馬鹿にするのも、大概にしろと言いたいね」
「…………」
「まぁでも、それはキミだけじゃないからね。気に障ったのなら謝るよ。ただね……。私はそういう世の中の風潮が気に入らないんだ。生き方の形式化、とでも言うのかな? 銀行みたいにお堅い業界へ行ったら一生安泰だとか、9時17時の仕事で副業に精を出す方が時代に合ってるだとか……。もっともらしいこと言ってるようだけど、所詮はタダのモデルケースだろ? にも拘らず、皆それに合わせた人生を無意識的に送ろうとする。だから誰も主体的に考えない。自分の人生なのに、ね」
石橋の父親は、滞った淀みを吐き出すように言い募る。
「今日のところは帰りなさい。残念だが、キミたちが求めているものはココにはないよ」
「……分かりました。ですが一つ、聞かせて下さい」
「……なんだね?」
「あなた方……、いえ。あなたは、どうしてそこまで頭取の地位に執着するんですか?」
「……さぁ。どうしてだろうね。そんなものは私が一番知りたいよ」
俺の問いに、石橋の父親は今にも消え入りそうな声で応えた。
「そうですか……。では最後に俺からも一つ。生き方を形式化しようとしてるのって、あなたもですよね?」
そう投げかけると、『何?』と小さく呟くが、俺はそれに構うことなく続ける。
「でも、確かにあなたの言う通りですね。就活のノウハウ本にしろ、セミナーにしろ、誰かの『成功モデル』をマニュアル化して、一つの正解に当てはめようとする。まるで誰かの人生の後釜のような感覚で。でも残念ながらそこまでだ。誰もその先の人生の責任を負わない。その道で、そのモデルケース通りに生きることが出来なければ無能扱い。だから人はそこから外れないように足掻き続ける。そうやって、お払い箱にならないようにずっと必死だったんですよね? あなたも。そんでもってあなたの息子さんも」
「……何が言いたい?」
「あれ? 図星ですか? でもまぁ、しゃーないっちゃ、しゃーないっすよね。誰も大きな流れには逆らえませんから。そりゃあ、頭取である父親の言いなりにもなりますよ!」
「……もういいから帰りなさい。これ以上、居座るようなら警備員を呼ぶよ」
「はい、では。本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございました」
「あ、ありがとうございました!」
俺と新井は去り際に挨拶するも、石橋の父親からの返答はなかった。
エレベーターを降りると、すぐにオフィスへの入り口が俺たちを出迎えた。
俺は目の前に設置された電話を手に取り、成立しているかどうかも怪しい、辿々しいビジネス敬語で用件を告げる。
『しばらくお待ち下さい』と機械的な案内を聞いた後、俺たちは少しの間手持ち無沙汰となった。
電話口からは15時の閉店直後ということもあって、慌ただしい雰囲気が伝わってきた。
別に銀行業に詳しいわけでもないが、照合作業やら送金作業やらで、今が一番忙しい時間帯だということは、何となく想像はできる。
しかし、だ。
実際に来てみると、改めて大企業なのだと実感する。
相銀の本店は、20階を超える高層棟と4階建ての低層棟で構成された、自社所有の超高層ビルの中にある。
その全長は150mを超え、銀行建築としては日本一の高さを誇るらしい。
また低層棟の1階部分には、自前のコンサートホールなども併設されていて、本社機能だけでなく、一種の商業施設としての役割も果たしているようだ。
こうして目の前の事実だけを羅列すると、確かに業界最大手に恥じない貫禄だ。
そんな環境の中でさえ、石橋が手に出来なかったもの。
いや……。
正確に言えば、石橋はその環境から弾き出され、共同体の一員とすらみなされなかった。
もはや石橋には、『持つ者ゆえの苦悩』などと言った前提は通用しないのだ。
「おっ。キミたちは……。萩原くんと古川さん、かな?」
突如、背後から聞き慣れない声が鳴り響く。
振り向くと、50代くらいの高身長で痩せ方の男が居た。
素人目からみても高級だと推察できる、光沢のあるベージュのスーツ。
左腕には数十万は下らないと思える、クラシカルな時計が添えられていた。
そのスタイリッシュで重厚な出で立ちは、まさに俺たちが想像するところの『VIP』といったところか。
まだ何を話したわけでもないが、自然と納得はいった。
数年前の石橋の写真とは、似ても似つかない。
それだけで石橋の言う不幸の証明になるだろう。
いよいよだ。
石橋の不幸の元凶の一人と対峙する。
そんなプレッシャーもあってか、警戒心が外に滲み出ていてしまったらしい。
石橋の父親は俺たちを見るなり、困ったようにニコリと頬を緩めた。
「そう緊張しなくても大丈夫だよ。さ! 中へ」
彼は思いの外ソフトな物腰で、オフィスの中へと案内してくる。
その声つきは、低くしゃがれているものの、微かに包容力のようなものも感じ取れる。
同じことを思ったのか、新井は眉尻を下げ、困惑したような表情で俺を見てくる。
「……んなモンだろ。大人なんて」
俺はそれだけ言うと、彼に促されるまま、オフィスの中へ入った。
「改めまして。本日はお忙しい中、当行へお越しいただき……、なんて感じでもないかな? 面接でも何でもないんだし、キミたちもどうか気楽にしてよ」
「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「キミたちは今2年生かな? 感心だねー。今からもう就活のことを考えてるなんてね! しかもウチでインターンを考えてくれているなんて、私としても嬉しい限りだよ」
オフィスの中へ入ると、俺たちは会議室へ通された。
石橋の父親は、楕円形のテーブルに向かい合って座るなり、白々しいほどのリップサービスを展開してくる。
「そうですね。何かと厳しい時代ですので、準備するなら早いに越したことはないと思いまして……。こちらこそ、急な話にも関わらずお受け下さり、ありがとうございます」
「いや。いいんだいいんだ! 取締役なんて、責任取るのが仕事みたいなもんだからね! 逆に言っちゃえばそれ以外は現場に任せっきりだから、実質名誉職みたいなモンで暇なんだよ。……なんて言ったら、他の役員に怒られちゃうか! はは!」
石橋の父親は、頭を掻きながら笑う。
多少は取り繕ってくると思っていたが、想像以上だった。
どの口がソレを言うのか。
自分の息子一人でさえ、責任を取る気など更々ないクセに。
目の前の大人の図太さに、怒りや呆れを通り越して、恐怖のようなものすら感じてしまう。
ふと横に座る新井を見る。
案の定、膝下で拳を握り、わなわなと身体を震わせていた。
「責任を取る、と明言されているだけ素晴らしいことだと思います。世の中には、それすらまともに出来ない上層も多いですから……」
言ってみれば、これは探りであり、揺さぶりだ。
開幕早々、不躾な気もしたが、少しばかり仕掛けさせてもらうことにする。
俺の挑発とも取れる言葉に、石橋の父親は『ほう』と小さく呟く。
「実感がこもってるね……。何か、思い当たるフシでもあるんだろ。バイトか何かかな?」
知ってか、知らずか。
石橋の父親は、俺の皮肉など意に介さないとでも言うかのような、したり顔で聞いてくる。
「はい。まぁ……、そんな感じですかね」
「そうか……。まぁ詳しくは聞かないでおくよ。ちなみにキミは何のバイトをしているのかな?」
「色々とやっていますが、居酒屋と食品工場がメインですね」
「掛け持ちか。それは大変、だね……」
「……ええ。実は私も新井も、母子家庭でして……。安定収入、なんて言ったら露骨ですが、一刻も早く親を安心させたいという想いが強くてですね……。やはり今の自分たちがいるのも親があってこそ、ですから」
「……そうか。それは立派だ。うん……、でも確かにそうだね。キミの言う通りだ! 上に立つ者として、いついかなる時も責任を取る覚悟を持つべきだね!」
言いたいことは二、三どころではない。
が、今は相手の私生活をあぶり出すことが最優先事項だ。
「……まさに経営者の鑑ですね。そこまでの意識をお持ちでしたら、従業員の皆様からも、さぞ慕われているのでしょう」
「はは! それは言い過ぎだよ! 何分、現場に顔を出す機会も限られているからね。そもそも、末端の行員のほとんどは私の顔も知らないんじゃないかな?」
そんなことは分かりきっている。
こちらも例に漏れず、リップサービスだ。
しかし、それにおずおずと乗せられない辺り、ただの『七光り』ではないのだろう。
「……石橋取締役とお約束させていただく前に、多少なりとも業界研究をしてきたつもりですが、御行ほど将来性と安定性を感じる地銀はありません。それもこれも最大手の地位に甘えず、業界の先端を開拓されてきた結果でしょう。学生の分際で大変僭越ですが」
「そうかい。嬉しいことを言ってくれるね……。『近頃の若いモンは……』なんて言う人間もいるけど、そんなことは口が裂けても言うべきじゃないね。今の子の方が、よっぽど世の中を良く見ているよ。実は、ウチにもキミたちと同じくらいの息子がいるんだけどさ……」
驚いた。
よもや、あちらから切り出してくるとは想像もしていなかった。
予定通りとは言え、こちらが動揺してしまいそうになる。
「そうなんですか……。さぞや優秀な息子さんなんでしょうね」
いや、待て。
今話しているのは、どちらの息子だ?
それ如何によって、今後の話の進め方が変わってくる。
まずはそこを明らかにする必要があるだろう。
「ありがとう。そうだね……。親の私が言うのもなんだけど、器用な子でね。学校の成績だってまぁまぁ良いし、『優等生』だとは思うんだよ。でもね。やっぱり自分の息子っていうだけあって、色眼鏡で見ちゃうんだろうね。普段見てると、色々歯痒く思って、アレコレ言いたくなっちゃうんだよ。やっぱり良くないよね! そういうのは」
聞いている限り、石橋に当てはまらなくもない話だ。
だが石橋の父親は、間違いなく『普段見てると』と言った。
石橋との親子関係は、事実上破綻している。
そもそも、石橋は彼らにとって隠したい存在だったはずだ。
そう考えれば、今彼が話している人物は、『愛人の子』で間違いないだろう。
「親というのは、そういうものではないでしょうか? もっとも、日本有数の一流企業を統括するお立場である以上、こと子育てにおいても私などでは想像もし得ないほどの苦労があるものとお察ししますが……」
「そうだね……。確かに苦労は絶えないよ。いやさ! 実はウチも実質的に父子家庭みたいなものだからさ! もちろん、キミたちとは比ぶべくもないことは分かってるよ。だから気を悪くしないで欲しいんだけどね」
父子家庭、か。物は言い様だな。
だが、話の路線としてはこれで良い。
「いえ、お気になさらず。ということは奥様とは……」
これはずっと思っていたことだ。
石橋の口ぶりから察するに、父親から認知されなかったとは言え、一連の養育費については面倒を見ていたのだろう。
もっと言えば、石橋がアレだけ家庭事情を熟知していたことを考えると、少なくともお互いを認識できる範囲内で生活していたはずだ。
たとえ、事実上の隔離状態であったとしても、だ。
それは、愛人の子も同じだろう。
であれば、歪な家族関係の中で育ったのは、何も石橋本人だけではないはずだ。
「いや、居るには居るよ。ただね……。色々複雑な感じでさ。ずっと、たまにしか会わせてやれなかったんだよ。だから、寂しい思いをさせてしまっていてね」
それは当然と言えば当然、か。
事実婚の状態とは言え、名目上の配偶者を差し置いて、愛人と同居など体裁として悪すぎる。
だが、こうして考えると石橋も石橋で不憫だが、愛人の子も負けず劣らずだ。
実の母親とも引き剥がされた上、ゆくゆくは将来の跡継ぎとしての重圧も、その肩にのしかかるのだろうから。
「そうでしたか……。不躾なことを聞いてしまい、申し訳ありません」
「いや! 全然良いんだ。そういう話の流れだったしね。むしろ、私が誘導したようなもんだし、気にしないでよ。そう言えばキミのお母さんは、元気なのかな?」
「は、はい。まぁ」
「それは良かった。何かと心細いこともあるだろうが、大切にしてあげるんだよ」
「はい。それはもちろん……」
俺がそう言うと、石橋の父親は満足そうに笑った。
「さて、と。なんだか随分と、話が脱線してしまったみたいだね。じゃあ、そろそろ本題に移ろうか? インターンシップの相談だったね?」
「え、えぇ。そうですね……」
あまり性急過ぎても怪しまれる。
『本題』をソコソコにこなしつつ、程よい頃合いでまた探りを入れるとしよう。
「あ、あのっ!」
突如、新井が立ち上がる。
その瞬間、会議室の空気の温度が急激に下がった気がした。
「おや? 古川さん。どうかしたかな?」
不意を突かれた石橋の父親は一瞬顔を強張らせるも、すぐにその落ち着き払った笑みを取り戻す。
「どうして……、どうしてシュウくんには、触れないんですか?」
思わず、天を仰いだ。
いや……。彼女の行動を計算に入れていなかった俺の落ち度、なのか?
そうだ。そう思うことにしよう。
俺は立ち上がった彼女の左腕の袖口を引っ張り、無言で睨みつける。
「だ、だって! このおっさん、ムカつくじゃん! まるでイシバシが最初からいないみたいにさっ!」
新井は、まるで開き直るかのようなセリフを並べる。
そんな彼女を前に、石橋の父親は呆け顔をする。
この地獄絵図の収拾を俺一人に委ねるとは、あまりにも酷だ。
神も仏も職務放棄中か。
「あ、あの……」
俺は恐る恐る、石橋の父親の方に顔を向ける。
「ぷっ! あははははは!」
突如、石橋の父親は盛大に吹き出す。
意表を突かれた俺と新井は、ただただその抱腹する姿を見つめることしか出来なかった。
「古川さんは、面白いね。そうだったそうだった! そう言えばキミたちと珠羽は同じ大学だったね。どうだい? 珠羽とは仲良くしてくれているかい?」
「えっ、えっと、まぁ。はい……」
「そうかそうか! それは何よりだ。あと、ね。アライさん。キミは少し勘違いしているよ」
「へ?」
「私はずっと、珠羽の話をしていたつもりだよ」
「は……」
石橋の父親の思わぬ言葉に、俺の方が間の抜けた声を出してしまう。
「あれ? ひょっとして、オギワラくんも勘違いしていたのかな?」
「あの……、どうして俺たちの名前を」
「ははは! そりゃあ知ってるよ! なんたってキミたちは有名人だからね!」
立て続けに度肝を抜かれ、俺の思考は渋滞する。
どうして俺の名前を知っている?
それに彼は、確かに石橋の話をしていると言った。
だが、もしその言う通りなら、父子家庭云々の話と繋がらない。
まさか、とは思うが……。
もしそうなら、俺は石橋から重大なことを聞き落としているのかもしれない。
「今まで知らないフリをしていたことは謝るよ。なあに。ちょっとした遊び心ってヤツさ。言っただろ? 役員なんて、暇だって」
どうやら事実は、俺の推定よりも数倍は深刻なようだ。
石橋の父親は、俺たちの拙い企みなど始めから見通した上で、今の今まで軽くあしらっていただけなのかもしれない。
「それで、だ。もう小芝居はいいだろう。正直に言いなさい。キミたちは朱羽から何か頼まれたのかね?」
そう言われた瞬間、血の気が引き、全身の温度が一気に奪われる感覚に襲われる。
脈も上がり、心なしか息苦しい。
「あはは。やっぱり図星だったかな?」
「な、何のことですかね?」
必死に取り繕うとするも、どこかぎこちない俺を前に、彼はますますその目を細める。
そして、その小皺の一つひとつを把握できる位置にまで、顔を近づけてくる。
「『他人の不幸は蜜の味』、だっけ?」
耳元で静かにそう溢した彼に対して、俺は返答することも忘れ、呆然としてしまう。
「おや? またびっくりさせてしまったかな? なんて言ったって、有名だからね。キミの会社。今日はアレかな? 大方、あの弁護士の差し金だろ?」
「な、何で神取さんのことまで……」
「言っておくけど、キミたちの行動、筒抜けだよ。何がしたいのか知らないけどさ」
筒抜け? 意味が分からない。
そもそも、彼は何処まで把握しているんだ?
「質問に戻ろうか。キミは珠羽からどんな依頼を受けた?」
「……顧客保護の観点から言えません」
俺がそう言うと、石橋の父親は『ほう』と呟き、その笑みに拍車をかける。
「なるほど……。見上げたプロ意識だね。キミがそういうスタンスなら、こちらも一つ予言しておこう」
石橋の父親はそう言って、コホンと咳払いをする。
「キミや珠羽の狙い通りには、事は進まないよ。これは別に私がどうこうするって意味じゃない。最初から決まってること、なんだ。何の意図があって潜り込んできたかは知らないけど、甘いんだよ。色々と」
「…………」
返答の術を失う俺に対して、石橋の父親は更に畳み掛けてくる。
「なぁ……。さっきは『学生の分際で』と言ったね? 本当にその通りだよ。キミは学生の分際で銀行の何が分かると言うのかな? よく居るんだよ、キミみたいなの。就活のノウハウ本を鵜呑みにして、業界研究の成果とやらを得意げに披露した挙げ句に、薄っぺらーい言葉でヨイショしてくる輩が。どうしてキミたち如きに、慰められなきゃならんのかね。全く……。大人を馬鹿にするのも、大概にしろと言いたいね」
「…………」
「まぁでも、それはキミだけじゃないからね。気に障ったのなら謝るよ。ただね……。私はそういう世の中の風潮が気に入らないんだ。生き方の形式化、とでも言うのかな? 銀行みたいにお堅い業界へ行ったら一生安泰だとか、9時17時の仕事で副業に精を出す方が時代に合ってるだとか……。もっともらしいこと言ってるようだけど、所詮はタダのモデルケースだろ? にも拘らず、皆それに合わせた人生を無意識的に送ろうとする。だから誰も主体的に考えない。自分の人生なのに、ね」
石橋の父親は、滞った淀みを吐き出すように言い募る。
「今日のところは帰りなさい。残念だが、キミたちが求めているものはココにはないよ」
「……分かりました。ですが一つ、聞かせて下さい」
「……なんだね?」
「あなた方……、いえ。あなたは、どうしてそこまで頭取の地位に執着するんですか?」
「……さぁ。どうしてだろうね。そんなものは私が一番知りたいよ」
俺の問いに、石橋の父親は今にも消え入りそうな声で応えた。
「そうですか……。では最後に俺からも一つ。生き方を形式化しようとしてるのって、あなたもですよね?」
そう投げかけると、『何?』と小さく呟くが、俺はそれに構うことなく続ける。
「でも、確かにあなたの言う通りですね。就活のノウハウ本にしろ、セミナーにしろ、誰かの『成功モデル』をマニュアル化して、一つの正解に当てはめようとする。まるで誰かの人生の後釜のような感覚で。でも残念ながらそこまでだ。誰もその先の人生の責任を負わない。その道で、そのモデルケース通りに生きることが出来なければ無能扱い。だから人はそこから外れないように足掻き続ける。そうやって、お払い箱にならないようにずっと必死だったんですよね? あなたも。そんでもってあなたの息子さんも」
「……何が言いたい?」
「あれ? 図星ですか? でもまぁ、しゃーないっちゃ、しゃーないっすよね。誰も大きな流れには逆らえませんから。そりゃあ、頭取である父親の言いなりにもなりますよ!」
「……もういいから帰りなさい。これ以上、居座るようなら警備員を呼ぶよ」
「はい、では。本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございました」
「あ、ありがとうございました!」
俺と新井は去り際に挨拶するも、石橋の父親からの返答はなかった。
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