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『崩れ』
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一
「明日死ぬのだから、なるようになる。」そう思うと、私はいてもたっても居られなくなり布団から起き上がる。
別に自殺志願者だとか不治の病だとかそうではない。
聞き覚えのないほど自然と、その言葉が私の記憶を支配しているような感覚に陥ったのは、いつ頃だろう。
日の出が窓から少し、虚ろな私を眺め、少し慣れない手つきでしわくちゃの背広に着替えると、テルテル坊主が落っこちた。
電車に揺られながら脚を組み、興味の無い朝刊を読むふりをする。
そんなちっぽけなことで自尊心が保たれる私は、まだ人間なのだろう。
一月前に何となく今の職に就いたが、ありきたりな繋がりと同じような業務を繰り返すよくあるつまらない日常も、私にとっては充分に生きる理由にはなる。
しかし、ただなんとなくぼさっと仕事をするのも虚しいもので、このまま職場に行くのもいいが心の誰かが駄々をこねるせいで、最寄り駅には降りれなかった。
そしていつの間にかぼやけていた視界は突如として息を吹き替えし、眩しすぎる森に一人。そっと風が吹いた。
二
地平線まで続く草原に、突然現れたかのような見上げるほどの大きな木々が無数に整列し、神秘的で、孤独な場所。
新聞紙に傘と掲げ鞄を持って、喧騒の中にあった日常は、静寂な非日常に姿を変え、得体の知れない高揚と顔見知りの不安が私を襲った。
そして私は、よくわからない確信を持って歩き始めた。
あれからどれほど歩いただろうか、そんなことさえ忘れさせてくれるぐらい今だこの森は眩しいままだ。
だがやはり、とうとう疲れ果てた私は大の字になりながら、ただどうしようもなく瞼を落とした。
三
小学二年生頃のある日、父が大学院時代の恩師と言う輪郭を隠す程の無造作に生えた、白髭のおじいさんを家に連れてきた。
どうやら両親共通の先生だったらしく、思い出話でいつの間にやら日は沈み、辺鄙な田舎のお陰で終電も旅館もなく、父の誘いもありその日は泊まることになった。夕食の時に、隣に座ったあの人はゆったりと私に微笑んでくれたが、すでにひねくれていた私は、場の雰囲気を読んで黙々と胃を拡げていった。
どうやらこのおじいさんは天文の専門家らしく、まだ幼い私にその好さを知って欲しかったのか、私の人生初の夜更かしはこの日となった。
この時の、老人が何を話していたかは今となってはよく憶えていないが、それでも子供心ながらこの宇宙の壮大さに驚愕し、己のちっぽけさに恐怖したのは憶えている。
私はそう無意識に思ってしまった。
この日を境に、私の世界観は自分では気がつかないほど大きく変化したのだ。
四
高校受験に失敗し齢十四にして浪人になってしまった。
だからどうしたというのか、私には正直今更だ。
それこそ口煩い筈の母が黙ってしまうほどに、どうしようもないものは、どうしようもない。
ただ時間を眺め、流れる周りの何かをどうすることもなく、蝉が死んだ。
かつて友と呼んだ誰かも、我先にとこの辺境の地を旅立っていく。その頃だ、父の訃報を聞いたのは。
耳障りな経に不愉快な香が私に襲い掛かる中、寂しくはあったが悲しくは無いと、ただ早く帰りたいと思っていた。
僧侶が先に帰った後、特にすることもなくただ流されるまま親族一同昼食をとる。見たことも聞いた事もない親類に囲まれ憂鬱な面持ちで、顰めっ面をしていた。
「人はいつか必ず死ぬ。その“いつ”がわからないから何事も一生懸命頑張るんだ。」
こんなことを言っていた父はやはり過労死だった。尊敬できる人だったが、憧れるような人ではない。そんな阿保なことを考え、何となくボケッと座っていると、後ろに昔、優しく声をかけてくれた白髭の御爺さんが、酒を煽っていた。
「あんまり頑張りすぎると疲れるから。死んだら、後は誰かが代わりにやってくれるから。大丈夫。」
彼は悲壮な顔で静かに、此方に気がつかずに何処かに去っていった。
あれは果たして、彼の声だったのだろうか。いや、声ですら無かったのかもしれない。それでも何故か、救われた気分になった。
五
まだ森の中にいる。どうやら寝ていたようだ。
どことなく心地好さが残るものの、夢というか追憶というか、いつの間にか忘れていたものが私の体を蝕む。果たしてそれは悪いのだろうか。
そうやってむずむずしていると、遠方で鼻歌が聴こえてくる。
ふと、心が弾けそうな気がした。
音色に導かれて代わり映えのしない眩しい森を鬱陶しく進んでいく。
「初めまして、隣人さん。」
綺麗な声で、胸に響く声で、そっと私に語りかける。
そこには優しく微笑む天使がいた。
私とは似ても似つかないその姿を見て、不思議と親しみを感じてしまった。
その違和感がとても心地好かった。
試しに君は誰かと尋ねてみるものの、ただ朗らかにこちらを見ているだけだ。
ならここはどこかと尋ねてみると、透き通る声で、「ここは、君の心だよ。」と。
悪戯に天使は笑った。
あり得ない、だがある意味そうなのかもしれない。私は元気よく歩き出した天使を追いながら、そうであることを願った。
「君はどうしてここにいるの。」
突然、天使がそう尋ねてきたが知るよしもないので、「わからない。」と簡潔に答えた。
「君は、何で生きてるの。」
また天使が尋ねてきた。生きる理由なら一応あるが、この天使が聞きたいのはそんなことではない筈だ。そもそも何故こんなこと聞いてくるのか疑問でしかない。
そうやって黙りこくっていると、天使は不可解そうな顔をした。
「君は、気がついていないんだ。自分は、もう気がついていることに。」
瞬きをした、してしまった。
だからだろうか、あれほど眩しかった森は既に星屑が現れ、天使はもう見えなかった。
ああ、なるほど。確かに私の心だ。
六
鳥の囀りすら聴こえないこの森で、おのずと冷静になった私は感慨深く立ち尽くすばかりである。
だが妙だ。やけに空が澄みきっている。
私というやつは、実につまらない人間だ。
初めからそうあったわけではないが、いつだろうかと思い出すこともない。
全てどうでもよかった筈なのに、いつの間にかそのどうでもいいことに囚われている。
それが、どういった意味なのかも分からぬまま、再び私の体に不安が纏わりつくと、急に雨が降りだした。
やはり妙だ。
七
大学四回生の秋、私は教授と二人で夜遅くまで研究所に残っていた。
私は卒業論文をだらだらと仕上げ、教授は恒星進化論という宇宙物理の分野で、学会に提出する論文を作成していた。
教授とは二年半ほどの付き合いがあるが、飲みに行くような仲ではない。
だが決して仲が悪いわけではない。何かもっとこう、違うのである。
私が黙々と論文を仕上げる中、一段落でもついたのか教授が話しかけてきた。
「どうだい、順調そうかな。」
そんなこと問われてもなかなか困るもので、私が少しだけ悩んでから「順調です。」と告げると、「そうか、それならいい。」と、奥の資料室へと消えていった。
私はよく知らないが、教授はこの道ではわりかし有名らしく、優秀らしい。
ならばこそ見た目が、残念だ。一言で言い表すには小太りの中年おじさんで、つまるところ何処にでもいそうな人だが、むしろ「らしい」のではないのだろうかと思う。
性格だって決して褒められたわけではないが、それなりに良い人だし、私との相性は割りと良い、と本人が言っていた。
「もうそろそろ帰ろうか。」と言われ、思いの外時間が経っていたことに気がつくと、切りも良いので直ぐに帰ることにする。十分、終電には間に合いそうだ。
「教授は何で今の道に進もうと思ったんですか。」
駅に向かう途中、口が暇をもて余していたので、ふと気になったことを聞いてみる。
教授は少し驚いた顔をしたが、またいつもどうり平然な顔をして言った。
「さぁ、憶えてないな。でも多分、答えを求めていたんだと思う。」
「答え、ですか。」
「そう答えさ。いつだったか誰に問われた訳でもないのに、勝手に問われた気になって探し求めていたんだ。」
「それは、見つかったんですか。」
私がそう言うと、今度は諦めたような顔をして話した。
「わからない。仮に答えを見つけていたとしても、知らず知らずのうちにそれを否定して、見ないようにしているのかもしれない。」
「この歳になって思うが、人には本当の意味での答えなんて必要無いんだよ。それでも人ってやつは、その必要の無い答えをいつも探し求めてる。それが人生ってやつなんじゃないかな。」
私はその言葉に頭を掻き乱された。
それもそうだろう、その言葉は紛れもなく、今までの私の人生を否定するものであり、私という存在を肯定する言葉であった。
ああ、この感情をどうすればいい。怒りにも似た混乱が、叫びにも似た感動が、私の中を渦巻いていく。
ふと気がつくと、私は一人で駅のホームにいた。どうやら終電には間に合わなかったらしい。
ふと、何かが頬を伝った。
八
気がつくと雨が止んでいた。
偶々持っていた、傘のお陰で濡れはしなかったが、何とも言えない気持ちになる。
森はまだ暗いままで、どれだけ時が流れたかも分からないが、この纏わりついた不安せいか、とにかく眠たいのは分かる。
だからといって、眠ろうとは思わなかった。
もし、もう一度瞼を落としてしまえば、私はついに駄目になると直感したからだ。
仮にこれ以上逃げ続けたとして、いったい何処に到ると言うのだろう。少なくともそこが終点ではないのに。
ああ、そうだ。そうだった。私はついに、この不安と立ち向かう時が来たのだ。
いやそうではない、むしろ逆なのかもしれない。
私はついに、この不安を受け入れる時が来たのだろう。
そう強く思うと今まで息を潜めていた記憶たちが、けたたましく呼び起こされ私の世界は自由になる。
そうだ。確かにそうだ。
私はあの時確かに、世界の広大さなどではなく、無知の無限さに驚き、己の脆弱性よりも特異性の無さに行き場の無い不安を感じた。
それを何故あんなふうに勘違いしてしまったのだろう。
そうか、私だからだ。
九
綺麗な笑い声が小さく木霊する。
真っ白に塗りつぶされた世界に、私ともう一人。
「また会えたね。隣人さん。」
天使が喜んだように、頸を傾ける。
あの透き通る世界ではなく、この何もない世界が美しく感じる。
考えることで見つけたものを考えすぎることで見失ってしまった私には、とても良く似合っている。
「ありがとう」
その一言だけで十分だ。
伝わる必要は無い。
最初からずっと、ここには私しかいないのだから。
十
「明日死ぬのだから、なるようになる。」そんなことを思いながら、私は徐に布団から起き上がる。
特別に憂鬱だとか、そうではなくただ漠然と不安なだけだ。
日の出がまだ窓から顔を出さないほどの余裕を持って、昨日の新聞を読みながら朝食をとり、慣れた手付きで支度を終えると、いつもと僅かばかり違う今日に細やかな期待を抱きながら、掲げ鞄を持つ。
「いってきます。」
誰もいない世界に優しく響くドアの音がなだらかに消え、テルテル坊主が落っこちた。
「明日死ぬのだから、なるようになる。」そう思うと、私はいてもたっても居られなくなり布団から起き上がる。
別に自殺志願者だとか不治の病だとかそうではない。
聞き覚えのないほど自然と、その言葉が私の記憶を支配しているような感覚に陥ったのは、いつ頃だろう。
日の出が窓から少し、虚ろな私を眺め、少し慣れない手つきでしわくちゃの背広に着替えると、テルテル坊主が落っこちた。
電車に揺られながら脚を組み、興味の無い朝刊を読むふりをする。
そんなちっぽけなことで自尊心が保たれる私は、まだ人間なのだろう。
一月前に何となく今の職に就いたが、ありきたりな繋がりと同じような業務を繰り返すよくあるつまらない日常も、私にとっては充分に生きる理由にはなる。
しかし、ただなんとなくぼさっと仕事をするのも虚しいもので、このまま職場に行くのもいいが心の誰かが駄々をこねるせいで、最寄り駅には降りれなかった。
そしていつの間にかぼやけていた視界は突如として息を吹き替えし、眩しすぎる森に一人。そっと風が吹いた。
二
地平線まで続く草原に、突然現れたかのような見上げるほどの大きな木々が無数に整列し、神秘的で、孤独な場所。
新聞紙に傘と掲げ鞄を持って、喧騒の中にあった日常は、静寂な非日常に姿を変え、得体の知れない高揚と顔見知りの不安が私を襲った。
そして私は、よくわからない確信を持って歩き始めた。
あれからどれほど歩いただろうか、そんなことさえ忘れさせてくれるぐらい今だこの森は眩しいままだ。
だがやはり、とうとう疲れ果てた私は大の字になりながら、ただどうしようもなく瞼を落とした。
三
小学二年生頃のある日、父が大学院時代の恩師と言う輪郭を隠す程の無造作に生えた、白髭のおじいさんを家に連れてきた。
どうやら両親共通の先生だったらしく、思い出話でいつの間にやら日は沈み、辺鄙な田舎のお陰で終電も旅館もなく、父の誘いもありその日は泊まることになった。夕食の時に、隣に座ったあの人はゆったりと私に微笑んでくれたが、すでにひねくれていた私は、場の雰囲気を読んで黙々と胃を拡げていった。
どうやらこのおじいさんは天文の専門家らしく、まだ幼い私にその好さを知って欲しかったのか、私の人生初の夜更かしはこの日となった。
この時の、老人が何を話していたかは今となってはよく憶えていないが、それでも子供心ながらこの宇宙の壮大さに驚愕し、己のちっぽけさに恐怖したのは憶えている。
私はそう無意識に思ってしまった。
この日を境に、私の世界観は自分では気がつかないほど大きく変化したのだ。
四
高校受験に失敗し齢十四にして浪人になってしまった。
だからどうしたというのか、私には正直今更だ。
それこそ口煩い筈の母が黙ってしまうほどに、どうしようもないものは、どうしようもない。
ただ時間を眺め、流れる周りの何かをどうすることもなく、蝉が死んだ。
かつて友と呼んだ誰かも、我先にとこの辺境の地を旅立っていく。その頃だ、父の訃報を聞いたのは。
耳障りな経に不愉快な香が私に襲い掛かる中、寂しくはあったが悲しくは無いと、ただ早く帰りたいと思っていた。
僧侶が先に帰った後、特にすることもなくただ流されるまま親族一同昼食をとる。見たことも聞いた事もない親類に囲まれ憂鬱な面持ちで、顰めっ面をしていた。
「人はいつか必ず死ぬ。その“いつ”がわからないから何事も一生懸命頑張るんだ。」
こんなことを言っていた父はやはり過労死だった。尊敬できる人だったが、憧れるような人ではない。そんな阿保なことを考え、何となくボケッと座っていると、後ろに昔、優しく声をかけてくれた白髭の御爺さんが、酒を煽っていた。
「あんまり頑張りすぎると疲れるから。死んだら、後は誰かが代わりにやってくれるから。大丈夫。」
彼は悲壮な顔で静かに、此方に気がつかずに何処かに去っていった。
あれは果たして、彼の声だったのだろうか。いや、声ですら無かったのかもしれない。それでも何故か、救われた気分になった。
五
まだ森の中にいる。どうやら寝ていたようだ。
どことなく心地好さが残るものの、夢というか追憶というか、いつの間にか忘れていたものが私の体を蝕む。果たしてそれは悪いのだろうか。
そうやってむずむずしていると、遠方で鼻歌が聴こえてくる。
ふと、心が弾けそうな気がした。
音色に導かれて代わり映えのしない眩しい森を鬱陶しく進んでいく。
「初めまして、隣人さん。」
綺麗な声で、胸に響く声で、そっと私に語りかける。
そこには優しく微笑む天使がいた。
私とは似ても似つかないその姿を見て、不思議と親しみを感じてしまった。
その違和感がとても心地好かった。
試しに君は誰かと尋ねてみるものの、ただ朗らかにこちらを見ているだけだ。
ならここはどこかと尋ねてみると、透き通る声で、「ここは、君の心だよ。」と。
悪戯に天使は笑った。
あり得ない、だがある意味そうなのかもしれない。私は元気よく歩き出した天使を追いながら、そうであることを願った。
「君はどうしてここにいるの。」
突然、天使がそう尋ねてきたが知るよしもないので、「わからない。」と簡潔に答えた。
「君は、何で生きてるの。」
また天使が尋ねてきた。生きる理由なら一応あるが、この天使が聞きたいのはそんなことではない筈だ。そもそも何故こんなこと聞いてくるのか疑問でしかない。
そうやって黙りこくっていると、天使は不可解そうな顔をした。
「君は、気がついていないんだ。自分は、もう気がついていることに。」
瞬きをした、してしまった。
だからだろうか、あれほど眩しかった森は既に星屑が現れ、天使はもう見えなかった。
ああ、なるほど。確かに私の心だ。
六
鳥の囀りすら聴こえないこの森で、おのずと冷静になった私は感慨深く立ち尽くすばかりである。
だが妙だ。やけに空が澄みきっている。
私というやつは、実につまらない人間だ。
初めからそうあったわけではないが、いつだろうかと思い出すこともない。
全てどうでもよかった筈なのに、いつの間にかそのどうでもいいことに囚われている。
それが、どういった意味なのかも分からぬまま、再び私の体に不安が纏わりつくと、急に雨が降りだした。
やはり妙だ。
七
大学四回生の秋、私は教授と二人で夜遅くまで研究所に残っていた。
私は卒業論文をだらだらと仕上げ、教授は恒星進化論という宇宙物理の分野で、学会に提出する論文を作成していた。
教授とは二年半ほどの付き合いがあるが、飲みに行くような仲ではない。
だが決して仲が悪いわけではない。何かもっとこう、違うのである。
私が黙々と論文を仕上げる中、一段落でもついたのか教授が話しかけてきた。
「どうだい、順調そうかな。」
そんなこと問われてもなかなか困るもので、私が少しだけ悩んでから「順調です。」と告げると、「そうか、それならいい。」と、奥の資料室へと消えていった。
私はよく知らないが、教授はこの道ではわりかし有名らしく、優秀らしい。
ならばこそ見た目が、残念だ。一言で言い表すには小太りの中年おじさんで、つまるところ何処にでもいそうな人だが、むしろ「らしい」のではないのだろうかと思う。
性格だって決して褒められたわけではないが、それなりに良い人だし、私との相性は割りと良い、と本人が言っていた。
「もうそろそろ帰ろうか。」と言われ、思いの外時間が経っていたことに気がつくと、切りも良いので直ぐに帰ることにする。十分、終電には間に合いそうだ。
「教授は何で今の道に進もうと思ったんですか。」
駅に向かう途中、口が暇をもて余していたので、ふと気になったことを聞いてみる。
教授は少し驚いた顔をしたが、またいつもどうり平然な顔をして言った。
「さぁ、憶えてないな。でも多分、答えを求めていたんだと思う。」
「答え、ですか。」
「そう答えさ。いつだったか誰に問われた訳でもないのに、勝手に問われた気になって探し求めていたんだ。」
「それは、見つかったんですか。」
私がそう言うと、今度は諦めたような顔をして話した。
「わからない。仮に答えを見つけていたとしても、知らず知らずのうちにそれを否定して、見ないようにしているのかもしれない。」
「この歳になって思うが、人には本当の意味での答えなんて必要無いんだよ。それでも人ってやつは、その必要の無い答えをいつも探し求めてる。それが人生ってやつなんじゃないかな。」
私はその言葉に頭を掻き乱された。
それもそうだろう、その言葉は紛れもなく、今までの私の人生を否定するものであり、私という存在を肯定する言葉であった。
ああ、この感情をどうすればいい。怒りにも似た混乱が、叫びにも似た感動が、私の中を渦巻いていく。
ふと気がつくと、私は一人で駅のホームにいた。どうやら終電には間に合わなかったらしい。
ふと、何かが頬を伝った。
八
気がつくと雨が止んでいた。
偶々持っていた、傘のお陰で濡れはしなかったが、何とも言えない気持ちになる。
森はまだ暗いままで、どれだけ時が流れたかも分からないが、この纏わりついた不安せいか、とにかく眠たいのは分かる。
だからといって、眠ろうとは思わなかった。
もし、もう一度瞼を落としてしまえば、私はついに駄目になると直感したからだ。
仮にこれ以上逃げ続けたとして、いったい何処に到ると言うのだろう。少なくともそこが終点ではないのに。
ああ、そうだ。そうだった。私はついに、この不安と立ち向かう時が来たのだ。
いやそうではない、むしろ逆なのかもしれない。
私はついに、この不安を受け入れる時が来たのだろう。
そう強く思うと今まで息を潜めていた記憶たちが、けたたましく呼び起こされ私の世界は自由になる。
そうだ。確かにそうだ。
私はあの時確かに、世界の広大さなどではなく、無知の無限さに驚き、己の脆弱性よりも特異性の無さに行き場の無い不安を感じた。
それを何故あんなふうに勘違いしてしまったのだろう。
そうか、私だからだ。
九
綺麗な笑い声が小さく木霊する。
真っ白に塗りつぶされた世界に、私ともう一人。
「また会えたね。隣人さん。」
天使が喜んだように、頸を傾ける。
あの透き通る世界ではなく、この何もない世界が美しく感じる。
考えることで見つけたものを考えすぎることで見失ってしまった私には、とても良く似合っている。
「ありがとう」
その一言だけで十分だ。
伝わる必要は無い。
最初からずっと、ここには私しかいないのだから。
十
「明日死ぬのだから、なるようになる。」そんなことを思いながら、私は徐に布団から起き上がる。
特別に憂鬱だとか、そうではなくただ漠然と不安なだけだ。
日の出がまだ窓から顔を出さないほどの余裕を持って、昨日の新聞を読みながら朝食をとり、慣れた手付きで支度を終えると、いつもと僅かばかり違う今日に細やかな期待を抱きながら、掲げ鞄を持つ。
「いってきます。」
誰もいない世界に優しく響くドアの音がなだらかに消え、テルテル坊主が落っこちた。
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