来し方の子

はのこ

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 あの頃、下校後から夕食時までのほとんどの時間を、彼女は屋上で過ごしていた。彼女の居場所は、奥まっていて体を屈めなければ通れない通路を抜けた、貯水タンクの影。一度掃除に訪れた管理会社の社員に咎められてから、彼女は自分の居場所を唯一死角になるその場所に決めたという。彼女と話をしたいとき私はそこを訪れ、貯水タンク越しに彼女を呼んだ。彼女はそっと出て来て、私たちは座り込んで日が暮れるまで話し込んだ。ふたりで共有している秘密のことだけではなく、他愛もないそれぞれのクラスでの話や、教師の噂話もした。
 私は彼女に、母の電話を盗み聞いた夜のことや、母のついた嘘のことを話した。私が彼女の前で感情を吐露するようになってから、彼女も時折自分のことを話すようになった。彼女の憎しみのほとんどは、不倫をしている父親よりも、幼い頃から厳しく当たられたという母親に向いていた。母に現実を突きつけたらどうなるのか興味があるのだと彼女は言った。口に出しはしなかったけれど、彼女が冷たい風の吹き付ける階段で、下着姿でうずくまっていた夜のことを、私はいつも思い出した。
 幾度か話し合って、私たちは不貞の証拠を写真に撮ることを決めた。
 その日、私は友達と遊びに行くと嘘をついて屋上に上がった。母が彼女の父と会う約束をしていることは、前夜の電話を盗み聞いて知っていた。彼女はすでに待ち合わせ場所であるショッピングセンターに待機しており、私からの連絡を待っていた。
 足音のよく響くコンクリートの階段を誰かが降りる音がして顔を覗かせると、棟から出てくる母を見つけた。時計を見ると盗み聞いた待ち合わせの時間と齟齬はない。走り去る車の写真を数枚撮って彼女へ電話を掛けた。
「今出たよ。見つけた? お父さんの車」
「うん。不自然に隅に停まっていたからすぐにわかった」
「うちのお母さんはあと十分くらいでそっちに着くと思う」
 私は母の車の色とナンバーをもう一度伝えて電話を切った。
 彼女からの連絡を待っている間手持ち無沙汰になってしまったが、鞄の中の宿題に手をつける気も起きず、屋上の塀から顔を出して団地内を見渡す。私がそうだった頃と同じように子どもたちは歓声を上げながら公園を走り回っていた。あれは色鬼だろうか。私と一緒に公園に集った子たちは半数以上がこの団地から離れてそれぞれ住まいを持ち、幾度かは手紙のやり取りをしたけれど疎遠になってずいぶん経つ。
 団地の入り口へ目を向けると、歩いてくる妹の姿を見つけた。隣には一号棟に住んでいる、妹の友達がいる。分かれ道まで来た彼女らは別れを惜しむように立ち止まり、話を続ける体勢に入る。朝、洗面所の前で苦心して編み込みにしていた妹の頭が大げさに笑うたび揺れている。家庭科の裁縫も満足にできないくらい不器用なくせに、そういうことには熱心なのだ。鞄に付けたキーホルダーやストラップはいつの間にあんなに増えたのだったか。そもそもあの子はキャラクターなど好きだったろうか。平穏な日常の風景に、母の不貞の証拠を押さえようとしていることの現実感が薄れていく。母の不貞が明らかになったとき、妹はどうするのだろうか。想像を始めるより前に、ポケットの中で握っていた電話が鳴る。応答のボタンを押すと、興奮を抑えるように低めた彼女の声が聞こえた。
「もしもし。撮れたよ」
 急速に頭が冷える。彼女が持ち帰った写真には、彼女の父の車に乗り込む母の姿が写っていた。
 あまりに呆気なく私たちはそれを手にしたのだった。

 母はこの町から車で一時間ほど離れた町に住んでいる。
 両親をすでに亡くして頼る場所のない母は、再就職先の都合で由縁もないその町を選んだ。小さな軽自動車を持ち、小さなアパートで慎ましく暮らしている。母が電話はしてきても訪ねてくることがほとんどないのは、やはりこの町に嫌な思い出があるせいなのだと私は思っている。
 誰に頼まれたわけでもないのに、私は月に一度ほど母の家を訪ね、一緒に暮らしていた頃のように朝から夕方までを過ごす。
 修一を起こさないよう静かに朝食を食べ、最低限の家事を終えて家を出た。就職して二年目に中古で買った軽自動車の助手席に鞄を乗せて走り出す。後部座席には、前に母を訪ねたときにおかずを詰めてもらったタッパーと保冷剤が積んである。私が一人暮らしを始めた大学生の頃から、母は私に会うたびおかずをタッパーに取り分けて持たせてくれる。
 早朝まで降り続いていた雨は空に厚い雲をまばらに残して、雲は強風で右から左へ流されていく。太陽は顔を出したり隠れたり、乾きかけたアスファルトの上を光の固まりが忙しなく移動する。今朝見たニュースで午後からは晴れると言っていたことを思い出しながら、私はバックミラーを見上げ、トンネルの黒い半円が遠ざかるのを見る。
 母は念入りに掃除して待っていた。台所では水で戻したひじきや干し椎茸が汁碗に浮いていて、私に持たせるためのおかずを母が準備していたことを見て取る。掃除機をかけたばかりの、元々荷物の少ない部屋はさらに殺風景に見える。私は部屋の真ん中に置かれた座卓の前に座るが、私の住んだことのない部屋はいまだに私の日常には馴染まず、何度訪れても身の置き場がわからない。ジュースでいいかと母が尋ね、私は頷く。いつまでも私を子どものように思っている母は、自分自身は口にしないジュースや菓子をいつも用意している。
 母の家では、昔一緒に暮らしていた頃と同じように過ごす。地元局のテレビを見ながら簡単な昼食をとり、近所のショッピングモールに出かけ、少しの時間昼寝をし、目を覚ましてから洗濯物を畳む。夕方、母がまだ眠っているのを見て、茄子の煮浸しを作りはじめる。一人暮らしの母にはケーキ屋のきれいな手みやげよりも、数日分のおかずのほうが助かることを知っている。こんなときくらい母の食べたことのないものを作りたいとも思うが、私の料理は母が作ってくれていたものとどうしても似てしまう。
 茄子の煮汁の味をみながらふと、母がもし私と彼女の再会を知ったらと想像する。話せば、母の心を苦しくすることは簡単に予想できた。そうして、私の中に母に話せないことが少しずつ増えていく。
 母が目覚めた気配がして、ベランダの戸が開く音を聞いた。ハンガーが大きく揺れ、物干竿に当たる音が聞こえる。家族で暮らしていた頃と同じ夕方の気配に私は耳を澄ます。ここ数年で白いものが目立ちはじめた髪を乱れさせた母は居間にやって来て、おはようと言って笑った。寝たのかと尋ねる母に、ちょっとだけ、と私は答える。いいにおい。母が言って台所を振り向き、作ったの、と私は照れ隠しのように短く言う。鍋のふたを開けて上げられた歓声が気恥ずかしくて私は小さく笑う。母は両手に抱えていた洗濯物をストーブの前に置き、私たちは向かい合って洗濯物を畳む。母一人の洗濯物はすぐに畳み終えてしまう。
 食べて行ったらと母は言ったが、残り物があるからと答えて家を出た。
 修一はどこかに出かけているようで、日の落ちた部屋のなかは薄暗かった。念のため呼びかけて寝室を覗くが姿はない。
 母に持たされたおかずの入ったタッパーを冷蔵庫に入れていると、町内放送のチャイムが鳴った。告別式のお知らせです。日常に馴染んだ男性の声を聞き流し、冷蔵庫の中身を動かしていると、芝居がかったナレーションの合間に、覚えのある言葉を耳が拾った。二度目の放送に耳を澄ます。今度は間違いなく彼女の苗字が読み上げられ、私は息を詰める。喪主として挙げられた男性は彼女の兄だろうか。
 亡くなったのか、彼女の母が。私は冷蔵庫のドアを閉めることも忘れ、放送終了のチャイムの最後の一音が消えていくのを聞いていた。ドアの開け放し防止アラームで我に返り、彼女に連絡しようかと思いかけ、やめておく。彼女の母親に対する複雑な気持ちを思うと、掛けるべき言葉が思い浮かばない。
 問題を先送りにして私は、部屋着のジャージに履き替え、ベッドの上で目を閉じる。そうしていると、今、死んでしまった母親の傍にいるだろう彼女の心配よりも、自分のことばかりが頭に浮かんだ。もし母が死んだらという遠くない未来の想像。修一と別れ、気兼ねなく声を掛け合える友人もほとんどいない私の。胸の奥に違和感を感じて、握った手をぐっと押し当てる。けれど拳は皮膚の向こうに届かないから、寂しさはそのまま残った。
 空腹を感じて体を起こす。髪を撫で付け、定期預金を契約したときにもらったインスタントのカレーを湯で温める。袋の封を切りながら、妹のことを思い出す。
 私が家を出てから、妹とはほとんど連絡を取り合っていない。少なくともあの頃、妹は彼女の平穏を壊した私を憎んでいた。私はその怒りの正しさを痛いほど分かっていたけれど、自分も被害者だと意地を張ってちゃんと謝りもしなかった。二人して父に引き取られて数年、和解できないまま私は逃げるようにして家を出た。一度だけ、母は妹の近況を私に尋ね、私が知らないと言うと寂しそうな顔をした。ごめんねと下手な作り笑顔で言った私を気遣ってか、それ以来母は妹のことを話題にしない。
 カレーを食べ終えて皿を洗い、引き出しの中から妹の住所のメモと、随分昔に友人にもらった便箋を取り出す。もし知らないうちに妹が転居していればこの手紙は届かないけれど、そうでないことを祈った。
 ボールペンを握って妹への言葉を思い浮かべながら、母の罪を暴いた日のことを思い出す。

 写真が撮れた翌日、私と彼女は学校帰りに団地の最寄りのスーパーで待ち合わせた。スーパーの隅のカメラ屋で、私たちは写真を現像することにしたのだった。
 現像が終わるまでの三十分は、フードコートでソフトクリームを食べて待った。彼女はチョコを、私はチョコとバニラのミックスを選んだ。私たちは色あせた丸テーブルを挟んで向かい合い、他愛もない話をしてひたすら舌を出した。ある教師の出す課題の多さや、体育のバレーボールの組分けについて。彼女のソフトクリームが溶けて一筋、コーンの上を伝い、彼女はそれを舐めとる。彼女の赤い舌を見ながら、私はなんだか憂鬱だった。母を追いつめるその手段を手にして得られるはずだった優越はどこにもなかった。見たくないとすら思っていた。三十分はあっという間に過ぎた。写真の包みを受け取るとき、カメラ屋の受付の女性が窺うような視線を向けた気がしたが、足早に去って四号棟の屋上へ上った。
 夕方だというのに、やけに太陽が眩しかった。スーパーで買った封筒を出して私たちは作業を始めた。筆跡が分からないよう、封筒を交換してそれぞれの宛名を書いた。いつもポストの中を確認する母が開けてしまわないよう宛名は父にする。写真を入れて封をし、人目を避けるため私はひとりでポストに行った。妙に気が急いて足早に屋上に戻ると、彼女は何もなかったかのように鞄を膝に乗せて空を見ていた。私はその隣に座り、同じように空を仰いだ。私たちは始終言葉少なだった。すべてが現実感のない、夢の中のようにふわふわした気持ちのまま行われた。でも、もしあのとき彼女が本当にいいのかと私に尋ねたとして、やめようと言えた自信もない。
 異変があったのは翌日の夜。風呂から上がると父と母の姿がないのに気づいた。すでに寝室に引っ込み、布団に寝転んで漫画を読んでいた妹に、父母のことを尋ねた。妹はこちらも見もせずに知らないと言った。散歩か買い物じゃないの。妹は感心がなさそうにそう言ったけれど、両親にそんな習慣がないことはわかっていた。確かな予感に、心臓の鼓動が激しく打っていた。
 その日の夜明け、玄関のドアが鳴る音を聞いた。浅い眠りから目を覚ました私は布団のなかで息を潜め、廊下の足音に耳を澄ましていた。そっと床を離れるたび音を立てる足音の数はひとつ。お父さんね、今日は朝早くに出たの。翌朝、尋ねられてもいないのにそう言った母の目は腫れていた。ふうん、と興味が無さそうに言った妹は、まだ何にも気づいていなかった。
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