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精霊祭と幼馴染
しおりを挟む「ユフィ様、このあたりは各地の名産品が集まっているようです。あ、この生地! ここ、とても有名な村の逸品ですよ。この青ときたら、どれもとても綺麗な色ですね……!」
夕暮れの真っ赤な空に、藍色が滲み始めていた。
遠くに見えるアウレロイヤ城、住居の軒先には青を基調とした領旗が吊り下げられ、街は祭り一色に染めあげられている。
大通りには多くの出店が並び、普段より着飾った人々が華やいだ表情で練り歩く。夜間は外出を禁じられた子供たちが寄木細工の玩具を手に駆け抜け、屋台の傍では果実酒入りのマグを掲げた男たちが豪快に祝福を叫んでいる。
いつもならば人通りが減り始める刻限にも関わらず、アウレロイヤの街はまだなお覚めやらぬ熱気に包まれていた。
エリオットもまた、祭りの空気に酔わされたそのうちの一人だ。
エリオットがとある露天で足を止めると、その手元を長身の影がひょいと覗き込んだ。そのなんてことのない仕草にどきりとして、思わずその人物を見上げる。
長い金の髪を後頭部でまとめあげ、白いシャツに革のベストを羽織った青年は、庶民に扮装したユフィその人であった。前髪の分け目から覗く紫色の瞳は暗がりの中で普段より深みを増し、どことなく妖艶な、夜の香りを漂わせていた。その瞳の奥の闇に吸い込まれてしまいそうになり、エリオットはすぐ視線を逸らした。
髪をまとめたスカーフ、シャツにブーツは平凡な市販品に見えて、よく見ると仕立ても布地も高価であると窺い知れる。けれどそれも、夜目ではすぐには分からないだろう。
ラフな出で立ちをしたユフィからは神々しいほどの清廉潔白さが削ぎ落され、全くの別人のようだった。
エリオットは戸惑うが、致し方が無いことだ。神官服のまま出歩いたのでは祝福を求めた人々が押し寄せてしまう。今のユフィなら、お忍びでやってきた青年貴族だとごまかすことは難しくない。ユフィという名前もけして珍しいというわけではないし、誰も神官のユフィだとは顔を見てもすぐには気づかないだろう。
「なるほど。本当だ、生地もしっかりしている。エリオットはどの色が好き?」
「うーん…………これ、かなあ」
エリオットはいくつかの布地と、ユフィの顔を見比べて指さした。
――この深い蒼なら、ユフィ様の白金の髪にきっとよくお似合いだろうなあ……。
深蒼の花婿衣装に身を包んだユフィが脳裏に浮かぶ。とても美しいけれど、その隣には同じ青を纏った愛らしい女性がいるはずだ。
針を呑んだような胸の痛みを覚え、慌てて背を向けた。
「ああ、綺麗だ。水の底か、暮れたての夏の夜空を思わせる色だね。うん、淡いものもいいけれど、きっとエリオットの白い肌がよく映えるよ」
「ええ、本当にきれ……ぼ、僕ですか⁉ いえっ! 僕になんて、そんな!」
この青は精霊石で染めなくては出ることのない色味で、かなり上等な生地だ。エリオットがこの青を纏うとしたら、自身の結婚式にほかならない。エリオットはぶんぶんと首を横に振った。結婚なんて予定にない、滅相もないと慌てふためくと、見下ろしていたユフィが目元を和ませてくすくすと笑う。
揶揄われただけのようだけれど、不思議と怒りは起きない。ユフィのその、とろけんばかりの笑顔に見惚れていた。傍に吊り下げられた柔らかなランプの光が、その顏の陰影を色濃くしている。あまりに美しくて呼吸さえ忘れてしまいそうだ。
「どうかした?」
「あ、い、いえ……」
「ふふ、変なエリオット」
ユフィはそう言うと、ベストのボタンホールに挿していた枯れない青薔薇を抜き、エリオットの耳の上に添えるように飾った。
少し前、シェリーズを紹介した際に、シェリーがくれた祝い花だ。
距離の近さに、先日、祭りの案内を頼まれた日のことを思いだした。緊張と羞恥で帰り際の記憶がおぼろげだけれど、自戒するだとか、本気を出すだとか――あれはいったいどういう意味だったのか、数週間経過した今でも図りかねている。
「こ、こんなの、僕には似合いません」
「そんなことはないよ、とても似合っている。君のための花のようだ」
何のてらいもなさそうな純粋な台詞に、それでもエリオットは内心で首を横に振る。
精霊祭は、精霊への感謝、そして街とジェスリン王国の繁栄を願う祭りだ。
同時に、精霊の御子の再誕を祝福するためのものである。蒼という色は精霊を、そして青い花々は御子を象徴するものである。
かつて、精霊は人の心を理解することを望んだ。精霊のいう何よりも人らしい心とは、他者を乞い求め慕う、恋をする心であるとされている。
それを裏付けるように、御子が心からの恋に目覚めると、祭殿のあるアウレロイヤの森にありとあらゆる青の花々が咲き乱れる。精霊が祝福を授けるのだ。御子はその花を摘んで恋い慕う相手に求婚し、式場を飾り立てる。
だからこの青い花は、精霊の御子たるユフィにこそ相応しいのだ。そして、こうしてエリオットが貰うべきではない。相手は、ユフィが想う相手でなければならないから。
もっとも、彼が尊き存在であることに気づいているのは、市民だとエリオットぐらいなものだろう。誘拐だとか暗殺だとか、そういった事件を防ぐためその正体は極限まで秘匿され続ける。御子の存在を感知できるのは、かつてその契約を交わした王族のみだという噂もある。もしかすると、ユフィ自身も自分の正体には気づいていないのかもしれない。
「いえ、ユフィ様の方がお似合いですよ。絶対に」
万感の思いを込めて、エリオットは笑み返し、髪から引き抜いてユフィへと差し出した。
ユフィ・クロル・アウレロイヤ。精霊信仰の最高神官にして高貴なる血統に連なるお方。御子であろうとなかろうと、けして手の届かない人。
わかっているけれど、彼がもし御子でなかったとしても、エリオットはきっと彼に思いを寄せていた。
「! そ、そうかな……なんだか君にそう言われると照れてしまう。いいのかな、その、私がもらっても」
「? はい、もとはかあさんがユフィ様に差し上げたものですから。ユフィ様が持っている方が、お花も母も喜びますよ」
ユフィは、エリオットの話を聞いているのかいないのか、どこか恥じらうように「それでは遠慮なく」と青薔薇を受け取った。その花弁に口づけた様子にどきりとしたけれど、香りを嗅いだのを見間違えただけだろう。
――母さんに貰った時より嬉しそうに見える……けど、僕の気のせいだよね。
ふいに「エリオット!」と誰かに名を呼ばれた気がした。
周囲を見回そうとした瞬間、バンバンと背中に衝撃が走る。驚いたときには既に乱暴な仕草で肩に手を回されていた。
「良い夜だなあ! こういう日は特に酒が美味いってのに呑んでないのか? ったく真面目だよなあエリオットは」
「……あ、ジン⁉」
ジンはマグを掲げると、満面の笑みでぐびりと中身をあおった。
普段より小奇麗なシャツに青いスカーフ、何よりもトレードマークのキャスケットを着けていないため、一瞬、誰か分からなかった。
「僕はジンほどお酒に強くないっていうだけだよ。前に二口で寝ちゃったの覚えてるでしょ?」
そうだっけ? とジンは陽気に笑った。
「そうだよ。それにしてもいつもと雰囲気が全然違うね。今年は特に……前髪を上げてるせいかな、去年の時よりカッコよくて、びっくりしちゃった」
「か……へえっ⁉ そ、そうか? いや、はは、知らなかったな、こういうのが好きなのか……」
「好きっていうか、ジンに似合うよ。どうしたの、実は恋人でもできた?」
「できてたらこんなとこでお前に絡んだりしてな……ヒッ……」
こちらへ笑いかけていたジンが、エリオットの頭上を見て硬直する。その一点を注視したままそろりと腕を外され、エリオットは何事かと反対側を仰ぎ見た。
そこには穏やかな微笑を浮かべ、優雅な所作で蒼薔薇を胸元に挿し直すユフィがいるばかりだ。ジンが表情を凍てつかせるようなものは何一つ存在しない。
――……あっ! ジンは人の顔を覚えるのが得意なんだった、ユフィ様の正体に気づいたのか……!
しかも、突然の闖入者に気を取られユフィを置いてけぼりにしてしまっていた。エリオットは慌てて眉を八の字にする。
「ごめんなさい、あの、こちら隣人で友人のジンです。あの、ジン、こちらは……」
「……あの青薔薇」
遮るように怪訝に呟かれたジンの言葉。それは確かに呟言であったはずなのに、喧騒の中でも妙に明瞭に聞こえた。
それはユフィも同じだったらしい。ああそれは母さんが、と答えるより先に、薔薇をつまみあげたユフィが鷹揚に応じる。
「これはエリオットから受け取ったものだ。つい、先ほど。君が現れる直前のことだったな」
エリオットは狼狽えた。間違ってはいないが、正しくもないような気がする。それをくれたのはシェリーで、エリオットは借りたものを返し、それをユフィが受け取っただけだ。なぜそのような言い回しになったのだろう。
気づくと、妙に緊迫した空気が漂っている。見えない糸が張りつめているような――少なくとも、雑然と華やいだ祭りらしいそれとは違う。
――何だろう、この二人、実はもう知り合いだったとか? 仲が悪い、のかな?
二人の顔を交互に見比べて小首を傾げるエリオットに、ジンがはっとしたあと苦笑を漏らした。
「ああ、いやごめんうっかり酔って忘れてた。俺、他の奴らに呼ばれてたんだったわ」
「えっ? そ、そうなの?」
不自然だとは思うが、ここで変だよと引き止めるのも躊躇われる。
エリオットがじゃあまた、と声をかけるより早く、ジンは文字通り逃げるように雑踏の向こうへ消えてしまった。
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