花屋の鈍感少年は溺愛神官の求愛に気づけない

澪尽

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神官ユフィ

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 『君の育てた花をずっと見ていたいな――――』

 そんな他愛もない社交辞令を真に受けて、十年近くが経過しようとしている。人は時に、心にもないことを口にすることがあるのだと理解するようになってからは、いずれ「もういらないよ」と言われてしまう日が来ることを怯えていた。
 けれど、エリオットは今日もこうして変わらず、緑豊かで緩やかな山道を上っている。

 ――本当は迷惑だったりするのかな……こうして嬉しくてたまらないのは僕だけ、ひとりよがりで……。

 前回の配達の折、アウレロイヤ家の従僕との大事な談話の最中に訪問してしまったことを思い出して、申し訳なさでいっぱいになる。祭殿の主たるユフィとシェリーズの間で契約書を取り交わして取引ではあるものの、「それなら毎週必ず持っていきます!」と押し売りをしたのは幼い頃のエリオットだった。

 わかっている。ユフィはこの世の誰よりも清らかで心優しい人だ。自分に尽くそうとするエリオットを拒みきれないのだろう。あるいは、小さな花屋の稼ぎを奪うことになるのが可哀想だと契約を打ち切れないのかもしれない。

 エリオットは、そんなユフィの厚意に甘えて――いや、彼の傍に居たいという浅はかな欲を満たすために、利用しているといっても過言ではない。
 身の程知らずだという自覚はある。ユフィもそんなエリオットに内心、うんざりしているのかもしれない。

「……そっか、結婚式が羨ましかったのかな。あんなに幸せそうなところを見て暗くなるなんて、申し訳ないしよくないな……」

 エリオットは深呼吸して自身に喝を入れ直した。今の自分の精神状況はおかしいと自覚しただけで、気分が軽くなる。何より、彼にこんな暗い顔を見せるわけにはいかない。きっと心配させてしまう。
 これは仕事だ、エリオットの想いなんて関係ない。依頼されたから花を届ける。エリオットとユフィは店員と客、それだけの間柄なのだ。迷惑かもしれないなどと気後きおくれする必要はない。
 今日も元気に、単なる町の花屋として笑顔と綺麗な花々を届けてさしあげればいい。

 鳥の囀りを相槌に鼻歌を紡いでいると、あっという間に祭殿の入口へ辿り着いた。
 石積みの門は開け放たれていた。風化して隙間から雑草の生えたそれをくぐると、天を覆う巨木の幹に絡めとられたように佇む、純白の石造の祭殿の姿が露わとなる。

 当初は祭殿の傍らに植えられていたとされる庭木が、長い年月を経て根を伸ばし枝葉を広げ、祭殿の一部を呑み込むようにして成長したのだという。
 この息を呑むような絶景はあまり知られていない。アウレロイヤが首都から離れた僻地に存在していること、そして何より精霊信仰がジェスリンでは一般的ではないためだ。邪教ではないが、主流でもない。普通は精霊の上位に存在する、太陽や農耕の神々を信仰するため、巡礼ルートから外れてしまうのだという。

 それでよかったのだと、エリオットは思う。人が増えれば増えるほど、静かで神聖な森は荒らされてしまう。のみならずユフィの姿を拝み、その教えを聞こうとより多くの人が押し寄せただろう。それではユフィが今以上に遠い存在になってしまう。ユフィもまた、人の多い王都は苦手で、この穏やかな土地を愛しているのだと言っていた。

 エリオットは何年通っても飽きることのない光景に見惚れてから、閉ざされたアーチ状の木製の両扉へと歩み寄った。

 コンコン、コン。

 二度、三度とノックを繰り返す。此処にはユフィの他、三人の老僕が従神官として居住しているはずだが、返事はなかった。生活用品を調達するため街へ下りたか、あるいは山羊や番犬の散歩を兼ねて野草採取にでも出かけたのか。頻繁にというわけではないが、稀にあることだった。

 ――……今日は、ユフィ様にお会いできそうもないな。

 神官らが不在の際は、花を替え終えたら内部で待つよう言い付けられている。けれどエリオットがその命令に従ったことはほとんどない。
 帰宅とともにエリオットのおとないを知った彼らは、慌てた様子でティータイムの準備を始める。つまり、エリオットを労おうという心遣いからの命令なのだ。自分一人のためにユフィの手を煩わせるだなんて恐れ多いにもほどがある。
 その意図に気づいてからは、突然雨が降り出しただとか、体調が芳しくない場合を除いて早めに立ち去るようになったのだ。

 ――ユフィ様とお茶ができるなんて身に余る光栄だけれど、こうも頻繁だと勘違いしてしまいそうになるから。

 勘違いするのはエリオットの勝手だけれど、期待して辛い思いをするとわかりきっているのなら、最初から近づきすぎない方が良い。
 少々落胆しながら、打ち付けられた把手に手をかけて勢いよく引いた。

「ふ、んっ……くう……!」

 何度か弾みをつけて引っ張るものの、扉はびくともしなかった。以前はこんなに固くなかったはずだ。
おかしいな、と思いつつ全体重をかけて足を踏ん張るが、やはり堅固な扉は開かない。
 そんな風に小首を傾げるエリオットの背後に、足音もなく現れた優雅な人影がそっと寄り添った。

「遅れてしまってごめんね、エリオット」
「へ……」

 早朝の清々しい空を思わせる甘く澄んだ声が降るとともに、把手を握るエリオットの手に、黒手袋をはめた伸びやかな指が重ねられる。
 扉と自身の上に差し込んだ黒影から、すぐ真後ろにその人が居ることを知る。
エリオットは数秒の間硬直してから、はっと頭上を振り仰いだ。

「えっ、あ、ユフィ、さま……」
「こんにちは。驚かせてしまったよね。君が何やら一生懸命になっているのが可愛らしくて、ちょっと悪戯心が湧いてしまって」

 その言葉通りに、こちらを真上から見下ろす、底の知れぬ聖性を秘めた深いアメジスト色の瞳が悪戯っぽく細められる。それを間近で目撃したエリオットは、暫しの間、頬を赤らめたまま呆けてしまう。
腰まで伸ばされた滑らかで癖のない髪が、うららかな日差しを受けてきらきらと輝いている。

 その顔立ちは温和で甘い。眼元や口元が常に柔らかく弧を描いていて、いつ何をしていても微笑んでいるような印象を抱かせる。元からそうなのか、それとも意識して保たれたものなのか、エリオットはこの表情が崩れた瞬間を目にしたことがない。ともかく、慈愛に満ちた端正な顔をしているのだ。

 小柄なエリオットを上から容易く覗き込めてしまうほどの長身は街でもあまり見かけない。白に金糸のローブを纏っているために痩身と誤解されそうだが、地方貴族とは思えぬ鍛えられた肉体を持つことを、エリオットは意図せず思い知らされていた。
 アウレロイヤに住まう乙女が一度は憧れる、完全無欠の神官――それが、このユフィという男だ。

「ここの扉なんだけど、先日、荷車が意図せずぶつかってしまってね。それからどうも建付けが悪くて開くのにコツがいるんだ。ともかく、君が去る前に間に合ってよかった……んだけど、どうしたの? 私の顔に何かついているかな?」
「…………」

 黄金と言うよりはプラチナブロンド近い髪は、その初雪のように白い肌とともに彼の神聖性を際立たせている。
 その神々しい存在が、あまりに近くて見惚れてしまう。

 ――気のせいかな、最近、なんだか前と距離感が違うような……近くなった、ような。

 頭上から覗き込まれたことで彼の髪がカーテンのように顔の両側に下り、周囲の景色を覆い隠していた。
 狂おしいほどに憧れ続けたユフィの顔しか見えない。しかも前方は固く閉ざされた扉。背後には彼自身が居る。まるで追い詰められたかのような心許なさと面映おもはゆさに、エリオットは放心していた。

「……エリオット?」
「あ、あっ、ごめんなさい! まさかお会いできるとは思わなくて」
「本当に危ういところだった、私がどれだけどうか待っていてほしいとお願いしても、こういうとき、特に最近のエリオットはすぐに帰ってしまうんだもの。そんなに私と一緒に居たくないのかと、少し寂しくなるよ。……なんて冗談。さあ、立ち話も何だし中に入ろう」
「はい、ありがとうございます」

 ユフィはにこりと笑みを深めると、扉と地面の隙間に爪先を差し込み、跳ね上げるようにして弾みをつけて扉を引いた。ギギッ、という木の擦れ合う音とともに重い扉が動き、エリオットは勧められるままにあわあわと内部へ入り込んだ。

 薄暗い祭殿へ入り込むと、エリオットはばくばくと煩く高鳴る胸を抑えるようにバスケットを抱え込んだ。ついため息が漏れる。焚き染められた木香と新緑の匂いの混じった清々しい香りに心が凪ぐが、ユフィからも同じ香りがしていたことを思い出し、また息が苦しくなる。

「さあ、どうぞ」

 扉が閉ざされる重い音とともに、前に回り込んだユフィが最奥部の祭壇へ向かって真っすぐに伸びた身廊を指し示す。その身廊の終点、小さな説教代の奥には天井から床までを覆い尽くすほどの壮大なステンドグラスが嵌め込まれていた。精霊石で彩色された青を基調とした図案は、真青な精霊を前に剣を持つ甲冑の騎士がひざまずく、建国神話をモチーフとしたものだ。
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