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第17章 壊心少女〈インアレクシア〉
マルセイユの惨劇
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これは……街……!?
暗闇の中でアレクシアと混然一体になったソーマの心の中に、ある景色が広がっていった。
それはどこか……外国の海辺の街のようだった。
漁船やクルーズ船が、何十隻と連なった大きな港から、古めかしい石造りの家々の連なった街並みを見上げれば……
小高い丘の上に切り立つように建てられた、壮麗な白亜の寺院が夜の空に上った月の光で乳白色に濡れたような。
そんな月夜の中に浮かび上がった、歴史を感じさせる美しい街全体を……
真っ赤に燃え上がった猛火が包み込もうとしていた。
「この景色……この街は……アレクシアの記憶……!?」
そう思い至ったソーマの心によぎったのは、観覧車のゴンドラで、アレクシア・ユゴーがポツリと口にした、あの時の言葉だった。
――俺たちはみんな、組織に集められたんだ
――ハンタはアメリカのデトロイトで……
――シーシァは中国のホンコンで……
――そしてミルメは日本のサッポロで……
――俺はフランスのマルセイユで……
だとしたら、ここがアレクシアの故郷!
ソーマは炎に包まれた街並みを目にしながら、ザワザワと心がさわぐ。
何か、どうしようもない、引きちぎれるような悲しい思いが、ソーマの胸をよぎっていく。
これが……アレクシアの心だろうか?
アレクシア!
アレクシア!
聞こえるなら返事をしてくれ!
ソーマはあたりを見回しながら、必死でアレクシアにそう呼びかける。
すでに街の路地の中には、ソーマの存在が、ソーマの心が、一個の人影を成していた。
叩きつけるような熱風と煙と火の粉から顔をそらしながら、ソーマは夜の街を彷徨う。
アレクシアの存在を求めて彷徨う。
ついさっきまでソーマの腕に抱かれていたはずのアレクシアの体は。
ソーマと一体になっていたはずのアレクシアの存在は。
まるでソーマをすり抜けるようにして、感じられなくなっていた。
アレクシアは炎の街の何処かへと、その姿を隠してしまっていた。
マルセイユ……怪物災害……そうだ、確かアレは3年前……!
アレクシアの姿を捜しながら、ソーマは昼間の彼女の言葉から、必死で自分の記憶をたぐる。
アレクシアの故郷がこの港町……たしかフランスのマルセイユだったのならば。
いったいアレクシアの過去において、この場所で何が起きた……!?
そしてソーマは思い出す。
まだソーマが中学校にも上がる前に起きた、フランスでおきた忌まわしい怪物災害を。
その規模、犠牲になった人間の数において、過去最悪を記録した、あの『マルセイユの惨劇』と呼ばれた事故のことを!
その時だった。
「もういや、やめて! 助けて!」
あ……!?
かぼそいが悲鳴がソーマの耳をかすめた。
路地の向こうから響いてくる、聞き覚えのある少女の声に気づいて、ソーマは息を飲んだ。
カッカッカッ……石畳を叩く乾いた靴音とともに、小さな人影がソーマの方に向かって走り寄ってくるのがわかった!
あれは……アレクシア!
その少女の姿に、輪郭に、顔つきに、ソーマは見覚えがあった。
昼間会った時よりもずっと小柄で、あどけない顔をしたアレクシア・ユゴーだ。
そして悲鳴を上げながら、恐怖に顔を歪ませて必死で走るアレクシアの背後からは……
――ア ア ア ア アレクシア!
――アレクシア! アレクシア! アレクシア!
黒板をひっかくような、ゾッとする、声ともいえない声が少女の名前を呼んでいた。
な……なんなんだ、アレは!
燃え立つ炎の向こうから、アレクシアを追いかけてくる無数の人影に気づいて。
ソーマもまた、恐怖のうめきを漏らしていた。
「あれは……まさか人間!」
小さなアレクシアを追いかけてくる無数の人影に、ソーマは悲鳴を上げた。
そいつらは、一目見たきりでは普通の人間と変わらない恰好をしていた。
男がいた、女がいた、子供も、若者も、老人も。
みな、いつもなら街中ですれ違っても気にもならないような普通の人々。
だが燃え盛る炎の向こうから現れた彼らは……どこかおかしかった。
ギクシャクとした緩慢な動き、見開かれた虚ろな目、土気色の顔。
そしてみな……酷い怪我をしている。
手足の折れ曲がった者、首の傷からしたたる血で衣服を真っ赤に濡らした者。
そして中には、手足や顔の肉を……ゴッソリと食いちぎられている者まで!
怪我をしている……というよりも、もう死んでいても不思議でないくらい肉体を損傷した人間たち……
その喉元から、黒板をひっかくようなおぞましい呻きを上げながら、アレクシアを追いかけてくる無数の人影!
まさか、あいつら……!
死んでいるのか……!
あまりにも異様な追跡者たちの姿に、ソーマが恐ろしい考えに至ったのと、ほぼ同時に。
「あれはまさか……『ギルアの死霊』!?」
ソーマの横から、悲鳴にも似た驚きの声が響いた。
ルシオン……!
いつも聞きなれた声の方を、ソーマも驚いて振り向くと。
ソーマのすぐ傍に立っていたのは、黒鳥のような衣を熱風にたなびかせた美しい少女だった。
見誤りようがない、ルシオン・ゼクトの姿だ。
この街のい中では……ハンターの暗黒領域の『深奥』の中では。
ソーマとルシオンの心は、おたがい独立した本来の姿として存在することができるようだった。
「あいつらは……あいつらは、なんなんだ! 知っているのかルシオン!」
「ああ、噂には聞いたことがある……あの人間たちは、もう死んでいる。ギルアの死霊……大昔に滅びてしまった深幻想界の大国、ギルア帝国の廃墟を彷徨うという死霊。ヤツらは死んだ者の体に取り憑いて……死体を操ることができるという……そして生きている者に襲いかかっては自分の操り人形を増やしていく……深幻想界でも最低の悪霊だ!」
ソーマの声に答えるルシオンの顔もまた、恐怖に歪んでいた。
そんな……そんなヤツらが、人間の世界に!
アレクシアの故郷を襲ったというのか!
ルシオンの言葉に、ソーマの全身が総毛立つ。
『マルセイユの惨劇』……大暗黒以降の世界で、人類が経験した最大規模にして最悪の怪物災害。
フランス最大の港湾都市の、実に半数の人命が失われたこの恐ろしい事故のことは、ソーマも新聞やニュースで見た記憶はあっても……
実際にどれほど恐ろしい事態が起きていたかなんて、想像できようはずもなかった。
だが今、惨劇はソーマとルシオンの目の前で起きようとしていた。
暗黒領域の『深奥』でソーマと溶け合った、アレクシア・ユゴーの悲痛な記憶の景色を通して!
「だめだ……アレクシア!」
そして追いかけてくる死体の群れから、悲鳴を上げながらこっちに向かって逃げてくる少女の姿に。
自分でも気がつかないうちに、ソーマの足は駆け出していた。
小さなアレクシアを抱きとめるために、この場から一緒に逃げ出すために。
ソーマは無我夢中で、駆け出していた。
アレクシア、早く逃げよう、こんな場所から!
涙を流しながら駆け寄ってくるアレクシアに、ソーマは自分の両手を広げた。
だが次の瞬間……スーッ……
「え……?」
ソーマは戸惑いの声を上げる。
ソーマの手の中に飛び込んだはずのアレクシアの体が……
そのままソーマの体をすり抜けていた。
「兄さん! 兄さん! アレクシス兄さん!」
アレクシアが泣きながら逃げてゆく先はソーマの背後に立つ、火の粉も炎の明かりも届かない……暗闇の中だった。
あれは……!?
その、ドロリとした闇を背にして立った人影に、アレクシアの逃げ行く先を振り向いたソーマは気がついた。
その男……背の高い、まだ少年と言っていいくらいの若い男……暗灰色の髪で目元をかくしたその男が広げた腕の中に、小さなアレクシアは飛び込んでいた。
あの人が……アレクシアの兄さん!?
アレクシアを抱きすくめた男の姿に、ソーマが戸惑いの声を上げた、だが次の瞬間!
「そんな……イヤ、やめて兄さん……!」
アレクシア、アレクシア!
兄の手に飛び込んだ、少女の様子がおかしかった。
「兄さん、兄さん、イヤアァアアアアアアアアアッ」
抱きすくめられた男の姿ごと、ドロリとした闇に飲まれていくアレクシアの絶叫が、火の手の迫った暗い路地いっぱいに響き渡っていた。
#
「アレクシア、アレクシア―――!」
遠ざかっていくアレクシアの悲鳴を追いかけて、ソーマは通りを覆った闇の中に飛び込んでいた。
「ソーマ、おい待てソーマ!」
一瞬の迷いもなく行動を起こしたソーマの背中を追いかけながら、ルシオンは戸惑い顔。
ソーマとルシオンの体を、コールタールのようにドロリとした闇がまとわりついた。
何も見えない、体が重い、気持ちが悪い、頭もクラクラする。
でも……! ソーマの心は決まっていた。
アレクシアをこんな闇の中に……おきざりになんかできない。
必ず、必ずあいつの命を……
両手で闇をかき分けながら、ソーマとルシオンが必死にアレクシアの気配を捜していると、不意に。
あ……!
ソーマは驚きの声を上げる。
立ち込めた闇が次第に薄らいで、ソーマとルシオンの周囲にボンヤリと、ある景色が浮かび上がってきた。
そこは火事で焼け焦げ荒れ果てた街路の中で、奇跡的に焼け残った一軒の古びた屋敷。
暗い夜空に上った月光に照らされたその屋敷の一室の窓から、かすかな、かすかな、誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。
#
「こんなところにいたのか、アレクシア……」
開け放たれた屋敷の入り口から、すすり泣きの声をたどって。
ソーマがその部屋のドアを開けると……
天窓から月の光の降り注ぐ何もないその部屋の片隅にうずくまって、1人の少女が小さな子供のように泣いていた。
クリーム色の検査着1枚まとったきりの、アレクシア・ユゴーの姿だった。
ソーマが窓の外に目をやれば、あたりに広がっているのは焼けただれて、無人になり、廃墟になった港町の荒涼とした夜の景色。
アレクシアは、ずっとこんな所に住んでいたのだろうか。
怪物災害によって荒れ果てた街の、もう誰もいないこの屋敷に……たった1人で……!
胸が締めつけられるような、無性な悲しさがこみあげてきて……ソーマは頭を振った。
「さあ、こんなところから出ようアレクシア。みんな……みんな……お前が帰って来るのを、みんな待ってるから……」
「ソーマ……」
ソーマが静かな声でアレクシアにそう呼びかけると、アレクシアの方も今、はじめてソーマに気づいたように泣きはらした顔を上げた。
だが少女の顔から、恐怖と混乱の色は消えていなかった。
「来るなソーマ! 俺はもうだめだ……俺は……人殺しだ!」
アレクシアがイヤイヤと首を振りながら、震える体を引きずってソーマから離れようとする。
ソーマはたまらなくなって、アレクシアに駆け寄る。
おびえる少女の両肩に、自分の手を差し伸ばす……けれども。
スーッ……結果はあの時と同じだった。
ソーマの手は、アレクシアをすり抜けてしまう。
アレクシアを抱きとめることも、救い出すことも、今のソーマには何もできない!
「殺したくなんかなかった。でも止められなかった。兄さんにあんなことをされて、怖くて……怖くて……自分の気持ちを止められなかった! 俺は……自分の手で兄さんを!」
兄さん……さっきアレクシアを闇の中に連れ去ったアイツ……
アイツがアレクシアをこんなに苦しめて、アレクシアをこんなに追い詰めて……その果てが……!
カチカチと歯を鳴らし震えながら、アレクシアの漏らすかすれた声に、ソーマの頭を恐ろしい想像がよぎる。
だが、そのすぐ後に起こった事が、ソーマのそんな恐れすら吹き飛ばして……ソーマを更なる絶望と恐怖に叩き込んだ。
「そんな……!」
ソーマの目の前で、アレクシアの姿が揺らいでいた。
アレクシアの体が、まるで夏の道路に立った陽炎みたいに、だんだん揺らいで薄らぎ……消えていく。
アレクシアの存在が、消えてなくなってしまう!
「だめだ! 逝くな、逝かないでくれアレクシア!」
「もういいんだソーマ、こんな部屋にずっと……いつまでも兄さんといるくらいなら、もう……」
悲鳴を上げるソーマに、アレクシアは虚ろな目でフッと笑った。
少女の黒灰色の瞳が、まるで月もささない夜の海の大渦のように、部屋の一角を見据えていた。
「ほら、アソコにも、アソコにも兄さんが……バラバラになった兄さんが、俺をにらんで……!」
「…………!?」
その時だった。
その体と共に、その存在と共に薄らいでいくアレクシアの悲鳴を耳にして、ソーマの悲鳴は止まっていた。
アレクシアの指さす先を、恐る恐るソーマは振り返るが……
ソーマがここに来た時と同じだった。
うっすらと埃の積もったガランと何もない部屋にいたのは、確かにアレクシア1人きり。
今はソーマと、その背に立ったルシオンが、消えゆくアレクシアを見下ろしているきり。
ソーマは息を飲んだ。
理由も根拠も何もない。
けれども不意に……何かがわかったような気がした。
「聞いてくれアレクシア……」
ソーマは再び静かな声で、だがソーマの全存在を振り絞ったような力強い声で、薄らいでいくアレクシアの耳元にそう呼びかけた。
「お前は……人殺しなんかじゃない。お前がそんなこと……するはずがない……だってお前はあの時……!」
ソーマの声が震えている。
「みんなを助けるために、ヒドラの所にたった1人で……みんなの命を救うために、自分の安全なんか気にもせずにたった1人で……遊園地のみんなを守ろうとしてくれた! 命を助けようとしてくれた! お前は誰よりも優しくて勇敢だ。 このまま死んでいいワケない! 消えていいワケない! お前は絶対に人殺しなんかじゃない。そのことは俺が1番わかってる!」
自分でも気づかないうちに、ソーマの頬をポロリと涙が伝っていた。
ソーマの言葉は、消えていくアレクシアに伝わったのだろうか……その時だった。
「あ……!」
消えゆくアレクシアの黒灰色の目が、不意に何かを見出したかのように、大きく見開かれていた。
その瞳にさしているのは、金色の月の光だった。
暗闇の中でアレクシアと混然一体になったソーマの心の中に、ある景色が広がっていった。
それはどこか……外国の海辺の街のようだった。
漁船やクルーズ船が、何十隻と連なった大きな港から、古めかしい石造りの家々の連なった街並みを見上げれば……
小高い丘の上に切り立つように建てられた、壮麗な白亜の寺院が夜の空に上った月の光で乳白色に濡れたような。
そんな月夜の中に浮かび上がった、歴史を感じさせる美しい街全体を……
真っ赤に燃え上がった猛火が包み込もうとしていた。
「この景色……この街は……アレクシアの記憶……!?」
そう思い至ったソーマの心によぎったのは、観覧車のゴンドラで、アレクシア・ユゴーがポツリと口にした、あの時の言葉だった。
――俺たちはみんな、組織に集められたんだ
――ハンタはアメリカのデトロイトで……
――シーシァは中国のホンコンで……
――そしてミルメは日本のサッポロで……
――俺はフランスのマルセイユで……
だとしたら、ここがアレクシアの故郷!
ソーマは炎に包まれた街並みを目にしながら、ザワザワと心がさわぐ。
何か、どうしようもない、引きちぎれるような悲しい思いが、ソーマの胸をよぎっていく。
これが……アレクシアの心だろうか?
アレクシア!
アレクシア!
聞こえるなら返事をしてくれ!
ソーマはあたりを見回しながら、必死でアレクシアにそう呼びかける。
すでに街の路地の中には、ソーマの存在が、ソーマの心が、一個の人影を成していた。
叩きつけるような熱風と煙と火の粉から顔をそらしながら、ソーマは夜の街を彷徨う。
アレクシアの存在を求めて彷徨う。
ついさっきまでソーマの腕に抱かれていたはずのアレクシアの体は。
ソーマと一体になっていたはずのアレクシアの存在は。
まるでソーマをすり抜けるようにして、感じられなくなっていた。
アレクシアは炎の街の何処かへと、その姿を隠してしまっていた。
マルセイユ……怪物災害……そうだ、確かアレは3年前……!
アレクシアの姿を捜しながら、ソーマは昼間の彼女の言葉から、必死で自分の記憶をたぐる。
アレクシアの故郷がこの港町……たしかフランスのマルセイユだったのならば。
いったいアレクシアの過去において、この場所で何が起きた……!?
そしてソーマは思い出す。
まだソーマが中学校にも上がる前に起きた、フランスでおきた忌まわしい怪物災害を。
その規模、犠牲になった人間の数において、過去最悪を記録した、あの『マルセイユの惨劇』と呼ばれた事故のことを!
その時だった。
「もういや、やめて! 助けて!」
あ……!?
かぼそいが悲鳴がソーマの耳をかすめた。
路地の向こうから響いてくる、聞き覚えのある少女の声に気づいて、ソーマは息を飲んだ。
カッカッカッ……石畳を叩く乾いた靴音とともに、小さな人影がソーマの方に向かって走り寄ってくるのがわかった!
あれは……アレクシア!
その少女の姿に、輪郭に、顔つきに、ソーマは見覚えがあった。
昼間会った時よりもずっと小柄で、あどけない顔をしたアレクシア・ユゴーだ。
そして悲鳴を上げながら、恐怖に顔を歪ませて必死で走るアレクシアの背後からは……
――ア ア ア ア アレクシア!
――アレクシア! アレクシア! アレクシア!
黒板をひっかくような、ゾッとする、声ともいえない声が少女の名前を呼んでいた。
な……なんなんだ、アレは!
燃え立つ炎の向こうから、アレクシアを追いかけてくる無数の人影に気づいて。
ソーマもまた、恐怖のうめきを漏らしていた。
「あれは……まさか人間!」
小さなアレクシアを追いかけてくる無数の人影に、ソーマは悲鳴を上げた。
そいつらは、一目見たきりでは普通の人間と変わらない恰好をしていた。
男がいた、女がいた、子供も、若者も、老人も。
みな、いつもなら街中ですれ違っても気にもならないような普通の人々。
だが燃え盛る炎の向こうから現れた彼らは……どこかおかしかった。
ギクシャクとした緩慢な動き、見開かれた虚ろな目、土気色の顔。
そしてみな……酷い怪我をしている。
手足の折れ曲がった者、首の傷からしたたる血で衣服を真っ赤に濡らした者。
そして中には、手足や顔の肉を……ゴッソリと食いちぎられている者まで!
怪我をしている……というよりも、もう死んでいても不思議でないくらい肉体を損傷した人間たち……
その喉元から、黒板をひっかくようなおぞましい呻きを上げながら、アレクシアを追いかけてくる無数の人影!
まさか、あいつら……!
死んでいるのか……!
あまりにも異様な追跡者たちの姿に、ソーマが恐ろしい考えに至ったのと、ほぼ同時に。
「あれはまさか……『ギルアの死霊』!?」
ソーマの横から、悲鳴にも似た驚きの声が響いた。
ルシオン……!
いつも聞きなれた声の方を、ソーマも驚いて振り向くと。
ソーマのすぐ傍に立っていたのは、黒鳥のような衣を熱風にたなびかせた美しい少女だった。
見誤りようがない、ルシオン・ゼクトの姿だ。
この街のい中では……ハンターの暗黒領域の『深奥』の中では。
ソーマとルシオンの心は、おたがい独立した本来の姿として存在することができるようだった。
「あいつらは……あいつらは、なんなんだ! 知っているのかルシオン!」
「ああ、噂には聞いたことがある……あの人間たちは、もう死んでいる。ギルアの死霊……大昔に滅びてしまった深幻想界の大国、ギルア帝国の廃墟を彷徨うという死霊。ヤツらは死んだ者の体に取り憑いて……死体を操ることができるという……そして生きている者に襲いかかっては自分の操り人形を増やしていく……深幻想界でも最低の悪霊だ!」
ソーマの声に答えるルシオンの顔もまた、恐怖に歪んでいた。
そんな……そんなヤツらが、人間の世界に!
アレクシアの故郷を襲ったというのか!
ルシオンの言葉に、ソーマの全身が総毛立つ。
『マルセイユの惨劇』……大暗黒以降の世界で、人類が経験した最大規模にして最悪の怪物災害。
フランス最大の港湾都市の、実に半数の人命が失われたこの恐ろしい事故のことは、ソーマも新聞やニュースで見た記憶はあっても……
実際にどれほど恐ろしい事態が起きていたかなんて、想像できようはずもなかった。
だが今、惨劇はソーマとルシオンの目の前で起きようとしていた。
暗黒領域の『深奥』でソーマと溶け合った、アレクシア・ユゴーの悲痛な記憶の景色を通して!
「だめだ……アレクシア!」
そして追いかけてくる死体の群れから、悲鳴を上げながらこっちに向かって逃げてくる少女の姿に。
自分でも気がつかないうちに、ソーマの足は駆け出していた。
小さなアレクシアを抱きとめるために、この場から一緒に逃げ出すために。
ソーマは無我夢中で、駆け出していた。
アレクシア、早く逃げよう、こんな場所から!
涙を流しながら駆け寄ってくるアレクシアに、ソーマは自分の両手を広げた。
だが次の瞬間……スーッ……
「え……?」
ソーマは戸惑いの声を上げる。
ソーマの手の中に飛び込んだはずのアレクシアの体が……
そのままソーマの体をすり抜けていた。
「兄さん! 兄さん! アレクシス兄さん!」
アレクシアが泣きながら逃げてゆく先はソーマの背後に立つ、火の粉も炎の明かりも届かない……暗闇の中だった。
あれは……!?
その、ドロリとした闇を背にして立った人影に、アレクシアの逃げ行く先を振り向いたソーマは気がついた。
その男……背の高い、まだ少年と言っていいくらいの若い男……暗灰色の髪で目元をかくしたその男が広げた腕の中に、小さなアレクシアは飛び込んでいた。
あの人が……アレクシアの兄さん!?
アレクシアを抱きすくめた男の姿に、ソーマが戸惑いの声を上げた、だが次の瞬間!
「そんな……イヤ、やめて兄さん……!」
アレクシア、アレクシア!
兄の手に飛び込んだ、少女の様子がおかしかった。
「兄さん、兄さん、イヤアァアアアアアアアアアッ」
抱きすくめられた男の姿ごと、ドロリとした闇に飲まれていくアレクシアの絶叫が、火の手の迫った暗い路地いっぱいに響き渡っていた。
#
「アレクシア、アレクシア―――!」
遠ざかっていくアレクシアの悲鳴を追いかけて、ソーマは通りを覆った闇の中に飛び込んでいた。
「ソーマ、おい待てソーマ!」
一瞬の迷いもなく行動を起こしたソーマの背中を追いかけながら、ルシオンは戸惑い顔。
ソーマとルシオンの体を、コールタールのようにドロリとした闇がまとわりついた。
何も見えない、体が重い、気持ちが悪い、頭もクラクラする。
でも……! ソーマの心は決まっていた。
アレクシアをこんな闇の中に……おきざりになんかできない。
必ず、必ずあいつの命を……
両手で闇をかき分けながら、ソーマとルシオンが必死にアレクシアの気配を捜していると、不意に。
あ……!
ソーマは驚きの声を上げる。
立ち込めた闇が次第に薄らいで、ソーマとルシオンの周囲にボンヤリと、ある景色が浮かび上がってきた。
そこは火事で焼け焦げ荒れ果てた街路の中で、奇跡的に焼け残った一軒の古びた屋敷。
暗い夜空に上った月光に照らされたその屋敷の一室の窓から、かすかな、かすかな、誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。
#
「こんなところにいたのか、アレクシア……」
開け放たれた屋敷の入り口から、すすり泣きの声をたどって。
ソーマがその部屋のドアを開けると……
天窓から月の光の降り注ぐ何もないその部屋の片隅にうずくまって、1人の少女が小さな子供のように泣いていた。
クリーム色の検査着1枚まとったきりの、アレクシア・ユゴーの姿だった。
ソーマが窓の外に目をやれば、あたりに広がっているのは焼けただれて、無人になり、廃墟になった港町の荒涼とした夜の景色。
アレクシアは、ずっとこんな所に住んでいたのだろうか。
怪物災害によって荒れ果てた街の、もう誰もいないこの屋敷に……たった1人で……!
胸が締めつけられるような、無性な悲しさがこみあげてきて……ソーマは頭を振った。
「さあ、こんなところから出ようアレクシア。みんな……みんな……お前が帰って来るのを、みんな待ってるから……」
「ソーマ……」
ソーマが静かな声でアレクシアにそう呼びかけると、アレクシアの方も今、はじめてソーマに気づいたように泣きはらした顔を上げた。
だが少女の顔から、恐怖と混乱の色は消えていなかった。
「来るなソーマ! 俺はもうだめだ……俺は……人殺しだ!」
アレクシアがイヤイヤと首を振りながら、震える体を引きずってソーマから離れようとする。
ソーマはたまらなくなって、アレクシアに駆け寄る。
おびえる少女の両肩に、自分の手を差し伸ばす……けれども。
スーッ……結果はあの時と同じだった。
ソーマの手は、アレクシアをすり抜けてしまう。
アレクシアを抱きとめることも、救い出すことも、今のソーマには何もできない!
「殺したくなんかなかった。でも止められなかった。兄さんにあんなことをされて、怖くて……怖くて……自分の気持ちを止められなかった! 俺は……自分の手で兄さんを!」
兄さん……さっきアレクシアを闇の中に連れ去ったアイツ……
アイツがアレクシアをこんなに苦しめて、アレクシアをこんなに追い詰めて……その果てが……!
カチカチと歯を鳴らし震えながら、アレクシアの漏らすかすれた声に、ソーマの頭を恐ろしい想像がよぎる。
だが、そのすぐ後に起こった事が、ソーマのそんな恐れすら吹き飛ばして……ソーマを更なる絶望と恐怖に叩き込んだ。
「そんな……!」
ソーマの目の前で、アレクシアの姿が揺らいでいた。
アレクシアの体が、まるで夏の道路に立った陽炎みたいに、だんだん揺らいで薄らぎ……消えていく。
アレクシアの存在が、消えてなくなってしまう!
「だめだ! 逝くな、逝かないでくれアレクシア!」
「もういいんだソーマ、こんな部屋にずっと……いつまでも兄さんといるくらいなら、もう……」
悲鳴を上げるソーマに、アレクシアは虚ろな目でフッと笑った。
少女の黒灰色の瞳が、まるで月もささない夜の海の大渦のように、部屋の一角を見据えていた。
「ほら、アソコにも、アソコにも兄さんが……バラバラになった兄さんが、俺をにらんで……!」
「…………!?」
その時だった。
その体と共に、その存在と共に薄らいでいくアレクシアの悲鳴を耳にして、ソーマの悲鳴は止まっていた。
アレクシアの指さす先を、恐る恐るソーマは振り返るが……
ソーマがここに来た時と同じだった。
うっすらと埃の積もったガランと何もない部屋にいたのは、確かにアレクシア1人きり。
今はソーマと、その背に立ったルシオンが、消えゆくアレクシアを見下ろしているきり。
ソーマは息を飲んだ。
理由も根拠も何もない。
けれども不意に……何かがわかったような気がした。
「聞いてくれアレクシア……」
ソーマは再び静かな声で、だがソーマの全存在を振り絞ったような力強い声で、薄らいでいくアレクシアの耳元にそう呼びかけた。
「お前は……人殺しなんかじゃない。お前がそんなこと……するはずがない……だってお前はあの時……!」
ソーマの声が震えている。
「みんなを助けるために、ヒドラの所にたった1人で……みんなの命を救うために、自分の安全なんか気にもせずにたった1人で……遊園地のみんなを守ろうとしてくれた! 命を助けようとしてくれた! お前は誰よりも優しくて勇敢だ。 このまま死んでいいワケない! 消えていいワケない! お前は絶対に人殺しなんかじゃない。そのことは俺が1番わかってる!」
自分でも気づかないうちに、ソーマの頬をポロリと涙が伝っていた。
ソーマの言葉は、消えていくアレクシアに伝わったのだろうか……その時だった。
「あ……!」
消えゆくアレクシアの黒灰色の目が、不意に何かを見出したかのように、大きく見開かれていた。
その瞳にさしているのは、金色の月の光だった。
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写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
男子中学生から女子校生になった僕
葵
大衆娯楽
僕はある日突然、母と姉に強制的に女の子として育てられる事になった。
普通に男の子として過ごしていた主人公がJKで過ごした高校3年間のお話し。
強制女装、女性と性行為、男性と性行為、羞恥、屈辱などが好きな方は是非読んでみてください!
ずっと女の子になりたかった 男の娘の私
ムーワ
BL
幼少期からどことなく男の服装をして学校に通っているのに違和感を感じていた主人公のヒデキ。
ヒデキは同級生の女の子が履いているスカートが自分でも履きたくて仕方がなかったが、母親はいつもズボンばかりでスカートは買ってくれなかった。
そんなヒデキの幼少期から大人になるまでの成長を描いたLGBT(ジェンダーレス作品)です。
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