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第16章 七閃剣士〈セブンセイバー〉
虫愛ずるリッカ
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「何度言えばわかるのです。あなたをこの世界に呼んだのは、そんなことをさせるためではないと!」
「いやあでもイノリさん。あんたのご所望のヒドラがやられちまったんだぜ? このままじゃあ、あんたも骨折り損の殺し損ってやつじゃあねーか!」
灰色の男が、昂った様子でテーブルから立ち上がったその瞬間。
水を差すような冷ややかな声が男の背中から聞こえてきた。
男が声の方を振り返ると、つい今しがたまで姿も気配もなにも無かったその場所に立っていたのは。
えんじ色のスーツでスラリとした体を包んだ若い女の姿。
さっきベンチの傍に立って男と話していた、堕蜘イノリの姿だった。
「せめて、あの七剣使いだけでも俺に……! 最近は殺し甲斐のない連中ばかりで俺のアレがウズウズし……」
灰色の男が納得のいかない顔で、イノリに何かを言いかけた、だがその時。
「聞こえなかったのですか? やめろといったのです!」
「……ウッ!」
一際冷たさを増したイノリの声が響くと、男は目の前の気圧されたようにビクッと体をすくませた。
「われらが神の復活のために。あなたには他にやるべき仕事があるのです。でなければ、あなたが自分の大望を成すためにこの世界で探しているモノは、永遠にその手には入りません。わかっていますね、マズブラス・ザンダー」
「フン。わかったよイノリさん」
まるで氷のように冷たい、それでいてなんの怒りも……感情すらこもっていない譫言のようなイノリの声に。
マズブラスと呼ばれた灰色の男は、肩をすくめながらシブシブ顔でそう答えた。
「またな、七剣使い。お互いこの世界に用があるのなら、どこかで会うこともあるだろう。その時には必ず……!」
空中で剣を構えて、油断なくヒドラを見据えるマティス・ゼクトの姿を見上げて。
マズブラスはそう呟くと、長い顔をニタリと歪ませた。
マティスの斬撃によって……斬撃と呼ぶのもためらわれる奇妙な剣技の前に、巨大なヒドラはその頭部のすべてを失っていた。
残された、イモ虫みたいな図太い蛇体が真っ青な血を噴き上げながら、なおも地響きを上げながら広場をのたくり続けている。
「それにしても……面白い子供だったな……」
マズブラスの死んだ魚のような目は、暴れるヒドラの背中に必死でしがみついた痩せぎすの少女……アレクシアの方に移っていた。
「魔族でも混血種でもない。どう見てもタダの人間に、あれだけの能力が備わっているなんて……もっと色々試して遊んでみたかったが、まったく残念なことをしたぜ……」
マズブラスはホーッとため息をつくと、心底残念そうに首を振った。
「エキドニアのヒドラの血を、あんなに浴びちまったら……どのみちもう助からない。いや、ただ死ぬよりも、もっと酷いことに……」
死んだ魚のような目をいたましげに細めながらそう呟くと、マズブラスはクルリと踵を返してヒドラとアレクシアたちに背中を向けた、次の瞬間。
もう灰色の男マズブラスの姿も、彼の前に立っていたイノリの姿も跡形もなかった。
もぬけの殻になったレストラン。
ヒドラの殺戮で皆が逃げ去り不気味な沈黙に満たされたテラスには、晴れ渡った秋の空の陽光がただ燦々と降り注ぐだけ。
#
「こいつ! 止まれ! なんとかしろよコレ!」
「なんてヤツだ、まだ生きてる!」
マティスとルシオンの見下ろす園内の広場では、まだ戦いは終息していなかった。
ヒドラの背中にしがみついたアレクシアが、頭部の全てを失ってもまだ動きを止めない怪物の体に苛立ちの声を上げていた。
空中のルシオンも、眼下のヒドラの恐ろしいしぶとさに、ただ息を飲むしかない。
「エキドニアのヒドラか……噂には聞いていたが、確かにすごい生命力だ。下手したらまた再生を始めかねない!」
ヒドラの頭部をすべて斬り払ったマティスも、ウルフェナイトのような目で大蛇を見下ろしながら厳しい顔をしていた。
「ならば、この剣で……」
「って……兄上? ヘ……なんすかソレ……!?」
マティスの言葉に、彼の方に目を向けると。
兄の構えた剣の異様さに、ルシオンの紅玉のような目が呆然と見開かれていった。
ギシギシギシギシ……金属のこすり合わさるような軋んだ音をたてながら。
秋の空から降り注ぐ陽光から、ルシオンの体を巨大な何かが遮っていく。
「四の剣は『怒涛』。その刃重大無辺にして、エクサのグラムで森羅万象一切圧潰!」
今マティスが、その右手に振り上げているモノ。
それはもう剣とすら呼べないような、あまりにも巨大な白銀の鉄の塊だった。
#
「どいていろ、娘!」
「おわああっ! なんなんだ!」
頭上から自分に呼びかける声の方を見上げて。
ヒドラの背中にしがみついたアレクシアも、みたまランドの空に広がる異様な光景に悲鳴を上げていた。
園内に降り注いでいた秋の陽光が、巨大な何かに遮られてアレクシアとヒドラに影を落としていた。
今、アレクシアに呼びかけたその男が……頭部を失ったヒドラに向かって空中のマティス・ゼクトが振り上げているモノ。
それはマティスの手にした剣の刀身が膨れ上がった金属の塊。
もはや剣とも呼べないような、巨大な塊だった。
「チッ! また異界者に助けられるなんて……!」
今、完全に戦いの流れをコントロールしているマティスの力を忌々しげな顔で認めながら。
だが次にアレクシアが起こした行動は迅速だった。
スッ……
しがみついたヒドラの背中に沈み込むみたいに。
アレクシアの姿は、一瞬でその場から消え去っていた。
自身の能力、空間断裂によって作られた面を通って、少女の体が何処かへと移動した、まさに次の瞬間!
「怒涛!」
マティスの気合と同時に、ブオォン!
彼が空中で振り上げていた、直径10メートルは超えている金属塊が風を切る音とともにヒドラの蛇体に振り下ろされた。
グチャッ!
肉がつぶれて中身の何かがまき散らされるイヤな音とともに。
ヒドラの体はマティスの剣に押し潰されて、文字通りペチャンコになっていた。
「あれが兄上の『怒涛』……わたしも初めて見る!」
な……なんなんだよルシオン、お前の兄さんは!
ギシギシギシギシ……
ヒドラを叩き潰したマティスの剣が軋んだ音をたてながら、みるみる変形してそのサイズを縮めながら、マティスの右手に戻っていく。
ルシオンも、そしてルシオンの中のソーマも、ただ茫然とインゼクトリアの第1王子の……マティス・ゼクトの桁外れの戦いを見ているしかなかった。
「あ、兄上は七剣使い。インゼクトリア……いや深幻想界でも最強格の剣聖なのだ!」
剣術……あれが!
なんだか誇らしげなルシオンの声に、ソーマは呆れかえる。
その剣速で敵を焼き払ったり。
貫いた相手の体を、内側から爆破したり。
おまけに刀身を巨大化させて、相手の体を叩き潰したり。
ソーマが知っている剣術とは、何から何まで違いすぎる!
……あっ!
そしてソーマは、若草色の着物に包まれたマティスの体に目を凝らして再び愕然とする。
今までその力に圧倒されて気にも留めなかったが、マティスには左腕がなかった。
生まれつきなのか、それとも戦いの中で失ったのか。
いずれにしてもこの剣士は、自分の右腕だけで、眩暈がするほど多彩な技を繰り出していたことになる!
ルシオンの家族、インゼクトリアの魔王の眷属の能力の凄まじさを目の当たりにしてソーマは改めて息を飲んでいた、その時だった。
「でも、どうして兄上が人間の世界に……まさか!」
ん……どしたルシオン?
ルシオンが心配そうに小さく呟いた言葉を、ソーマは聞き逃していなかった。
#
「兄上! 兄上!」
「久しいな、ルシオン!」
背中の翅をたたんで地上に降り立ったマティスに、同じく地上に降りたルシオンが駆け寄っていく。
マティスの方もルシオンの方を向いて、フッと美しい顔を綻ばせた。
こいつがルシオンと……そしてあのビーネスやアラネアの兄さんか!
青鋼色の入墨が生きているように優美に流れていくマティスの顔を目の当たりにして。
男のソーマも少しドキッとするくらい、マティスの姿は綺麗だった。
スッと整った目鼻立ちと、輝くような銀色の髪。
間違いなくルシオンたち姉妹と血のつながった彼女の兄だ。
「風の便りで聞いているぞ。父上から大命を受けて、人間の世界で暮らしていることを! 成長したようだなルシオン!」
「あえ……へへへへへ! イヤーそれほどでも……あるっすよ。でも、その……」
ルシオンとマティスは、久しぶりに会ったらしい。
出会いがしらのマティスに、いきなり褒められたルシオンはニマニマ照れ笑い。
「その、兄上は……なぜ人間世界に……?」
何かが気にかかるらしいルシオンが、兄に向かってそう尋ねようとした、その時だった。
「そ……その前にルシオン。1つ頼みがあるのだが……」
「へ、なんすか兄上……って!? わーッ!」
切実そうなマティスの声に、首をかしげていたルシオンがいきなり悲鳴を上げた。
ドサリ。
ルシオンの目の前で、マティスの足からいきなりヘナヘナ力が抜けて、マティスの体はそのまま地面に突っ伏していた!
「兄上! 兄上しっかり!」
「ウウ……腹が減った。こっちに来てから一週間、もう何も食べていない……!」
……って、またこのパターンかよ!
地面に倒れ込んで弱々しい声を上げるマティスに、ルシオンの中のソーマは呆れ果てていた。
「兄上! 兄上!」
「めまいがする……こっちの世界は魔素が薄すぎて、そのぶん腹が減りすぎるぅ……」
グーギュルルルルル……
腹の虫を盛大に鳴らしながら地面に突っ伏すマティスに、必死な顔でよびかけるルシオン。
マティスたち魔王の眷属は、その力がすごい分、人間の世界で戦うと激しく体力を消耗するらしい。
ルシオンの姉、第2王女ビーネスの時もそうだった。
御珠美術館での戦いの時、大鬼のグロム・グルダンを追い詰めたビーネスは蛮族にとどめを刺すその寸前に、まるでガス欠を起こした自動車のように動けなくなってしまったのだ。
ちょうど、今のマティスみたいに。
に、しても。もう一週間も何も食べていないなんて!
魔王の一族の食事の間隔は、人間のそれとはかなりかけ離れているみたいだった。
「ウウウウどうしよう。わたし1人では兄上は運べないし……」
動けないマティスの上体を抱き起しながら、ルシオンが途方に暮れていた、その時だった。
「あーもう、だから戦う前に、なんか口に入れてけって言ったのに、しょーがねーなー!」
「うん?」
聞き覚えのない声がルシオンの背中から響いてきて、ルシオンが怪訝そうに顔を上げると。
「マッちゃん、大丈夫かマッちゃん!」
「おわあっ!」
ルシオンとマティスのすぐ目と鼻の先に、おかしな恰好をした小さな影がニュッと顔を出した。
「ほれマッちゃん、これ食えって、そこの店んとこに捨ててあったから!」
「な……なんだお前は!」
ルシオンの胸元くらいまでの背丈しかないそいつは、マティスの口元に向かって手に持ったつくね棒を突っ込もうとしていた。
そいつの姿は異様だった。
小さな体にまとっているのは、まるでズダ袋みたいなゴワゴワした茶色いボロ布1枚。
顔にかぶっているのは、遮光器型土偶を思わせる粘土を焼き固めたような質感の仮面だった。
まるで直立したミノムシみたいな恰好をしたその子供……声からしてたぶん少女? が、おそらく園内の売店からくすねてきたのだろうつくね棒をマティスに押し付けている!
「もごご……やめろ、リッカ! 捨ててあったなどと適当な嘘を! 仮にもインゼクトリアの魔王の眷属たる私が、無銭飲食などするわけにはいかん……!」
「あーもう、めんどくせーなあ。どーせみんな逃げちまって誰もいないんだから、捨ててあったよーなモンだろ! ほれ早く食えマッちゃん、本当に死んじまうぞ!」
「こらーお前! 兄上に何をする!」
少女なりに、マティスの体を気遣っているのか。
彼の口を無理やり押し開けて、嫌がるマティスにつくねを食べさせようとする強引な少女に、ルシオンが戸惑いの声を上げた、その時だった。
「全員、そこを動くな!」
「手を上げて、ゆっくりその場から立ち上がれ!」
強い恐怖と、緊張感と、何よりそれを上回る使命感を感じさせる声がルシオンたちにそう呼びかけてきた。
「わ……!」
ルシオンが慌てて周りを見渡すと、ルシオンたちを取り囲んでいるのは拳銃を構えた何人もの警官だった。
みたまランドからの通報を受けて、ようやく現場に駆けつけたのだろう。
園内に突然現れた巨大なヒドラ。
大蛇の餌食になった何人もの犠牲者。
そして警官たちが駆けつけた時に園内に広がっていた光景は……
巨大な何かに叩き潰されたヒドラの死骸。
そのすぐ近くには、明らかに銃刀法違反の長剣を手にしたマティスに、どう見てもカタギではないルシオン。
そして怪しげなミノムシ……。
これでは取り囲まれて、逮捕されても仕方のない状態だった。
ああもう、ますます面倒くさいことになった!
ルシオンの中のソーマも、警官たちを見回して途方に暮れた、だがその時だった。
「しょーがねーなー……。こんなとこでグズグズしてるからだぜ、マッちゃん……」
「もごー……仕方ないリッカ。アレを頼む……!」
マティスにリッカと呼ばれた仮面の少女が、ポリポリと頭をかきながらそう呟くと、マティスも情けない声でそれに答えた。
「ああ、とりあえず飛ぶから落ちんなよ。それと、どっかテキトーな隠れ場所があったら案内してくれ、マッちゃんの妹!」
「マッちゃんの、妹……!」
リッカがそう呼んだのが自分のことだと気づいて、ルシオンが口元をモゴモゴさせたその時だった。
仮面の少女が自分の胸の前で、ガッキと両手で印を結んだ。
「地虫忍法、羽霞乱舞!」
リッカが唱えた凛とした一声があたりに響いた、次の瞬間。
ブズズズズズズズズズ……
何かが細かく振動するような幽かな音が、ルシオンたちの方に近づいてきた。
#
「うわあああっ!」
ブウゥウウウウンンンン……
マティスとルシオンのもとに現れた不思議な少女リッカのかけ声と同時に。
いきなり空から近づいてきて周囲を覆いつくした黒い影に、ルシオンは悲鳴を上げていた。
耳元でワンワンと響く何かが震えるような音とともに。
目の前が真っ黒な霧みたいなモノに覆われて、1メートル先を見通すこともできない!
「うわああ、これは!」
「状況、ガス!」「生存者の救出と、園内からの避難を優先しろ!」
悲鳴を上げているのは、ルシオンだけではなかった。
ルシオンたちに銃を構えていた警官たちも、霧の向こうで混乱した会話を交わしている。
この状況……確かに毒ガスか何かの使用を疑われても仕方がない。
「ぐうう兄上、まさか、これは!」
目の前を覆う霧の正体に気づいたルシオンが、驚愕のうめきを漏らしていた。
あ……! ルシオンの中のソーマも霧を構成する微細なモノの姿を認めて、おぞましさに悲鳴を上げた。
耳元で響く震えるような音は……膨大な数の羽音だった。
いきなり空から降ってきて、ルシオンとマティスとリッカを覆った黒い霧の1粒1粒。
それは、1匹1匹はルシオンの小指の爪先ほどしかない、小さな黒い羽虫だった!
そして突然、ゴオオオオッ!
ルシオンたちを取り巻いた羽虫の群れが、轟音を上げて渦巻いた。
「どわああああああっ!」
驚愕の叫びを上げるルシオンを、マティスを、そして胸の前でガッキと印を結んで何かに集中した様子のリッカを巻き込んで。
まるで黒い竜巻のようになった羽虫の群れが、ルシオンたちの体をみたまランドの空中高くまで舞い上げていく!
「ま……魔法じゃない。この業は忍法!」
渦巻く虫たちの群れによって空に浮かび上がったルシオンは、リッカの使った術の正体に気づいて再び愕然とした顔。
「まさか……『隠忍領』の忍びの者が、なぜ兄上と一緒に……!?」
「うむルシオン……話すと長いが旅先の隠忍領で、いろいろあって成り行きでな……」
首をかしげてマティスにそう尋ねるルシオン。
あいかわらず腹が減って動けないマティスが、億劫そうにルシオンにそう答えた。
ニンジャラント……!
ルシオンの中のソーマも、不思議そうにマティスの言葉を繰り返す。
深幻想界の国の名前だろうか。
羽虫の群れ……リッカと呼ばれた小さな少女の使った不思議な術も、この少女の生い立ちによるものなのだろうか?
疑問はつもる一方だった。
「へへ……その通りさ。マッちゃんは、おいらの剣の師匠なんだ。おいらはリッカ、病葉リッカ。よろしくな、お師匠の妹!」
虫の渦の中で印を結んだリッカも、馴れ馴れしい感じでルシオンにそう答えた。
「い、妹って言うな! わたしはルシオン。インゼクトリアの第3王女、ルシオン・ゼクトだぞ!」
「そうか。じゃあ……ルッちゃんだな。よろしくなルッちゃん!」
「る……ルッちゃん……!」
勝手に変なあだ名をつけて、相変わらず馴れ馴れしくそう話しかけてくるリッカに、ルシオンは口元をモゴモゴさせていた、その時。
アレクシア……。
ソーマの方は、遠ざかっていくみたまランドの方に目線を移して気の抜けたようなつぶやきを漏らしていた。
いきなり暴れ出したヒドラのせいで、アレクシアとはゆっくり話もできなかった。
アレクシアの身の上のこと、彼女が所属している組織のこと、マサムネやミルメたちのこと。
もっと、色々と話をしたかったのに。
マティスの剣戟から身をかわして姿を消したまま、再会する暇もなく。
ソーマとルシオンは半ば強引に、リッカの術によって空高くまで巻き上げられて、みたまランドを離れていく。
アレクシアのことだから、無事なことは間違いないが、それにしても……
ソーマはモヤモヤと、煮え切らない気持ちが残る。
それでも……
観覧車での短いやりとりの中で、ソーマにもハッキリわかったことがあった。
アレクシアが、ただ戦いが好きで、喧嘩早いだけの怪物じゃなかったこと。
ちゃんと彼女なりに、子供っぽさや無邪気さも持っていたこと。
そして理由はわからないが、ソーマのことをとても心配していてくれたこと。
ゴンドラの中で重ねたアレクシアの体の温もりを思い出して、ソーマの胸にもジンワリと、温かな気持ちがわき上がってくるのがわかった。
あ……!
そして再び地上に目をこらして、ソーマは気づく。
警官たちも避難して、無人になった遊園地のメリーゴーラウンド。
その円屋根にポツリと立ち尽くした、1人の痩せぎすの少女の姿を。
自分が切り裂いたヒドラの青い血に全身を濡らしながら、アレクシアの暗灰色の目が、どこか寂しげな色を帯びて、遠ざかっていくソーマたちを見つめているのを……!
#
「……ったく、せわしねーったらありゃしねーな。ゆっくり話すヒマもねー。それにもっと色々、コースターとか、コイツにも乗ってみたかったのに……まあいいか、また会おうぜ、御崎ソーマ……」
みたまランドの地上では、無人のまま回転を続けるメリーゴーラウンドの円屋根に腰を下ろして。
雲一つない青空の向こうに遠ざかっていく黒い竜巻……ソーマたちを運んでいく虫の群れを見送りながら、アレクシアも気が抜けたような顔でそう呟いていた。
パラパラパラパラ……
離れていくソーマたちとは対照的に、空からアレクシアに近づいてくるプロペラ音があった。
「アレクシア―!」
「アレク、どうしちゃったの大丈夫アレク!」
「グッ……ギッ……ギッ……!」
園内に着陸したヘリから飛び出して、心配そうな声を上げてメリーゴーラウンドの方に駆け寄ってくる者たちがいた。
氷室マサムネ、見滝原ミルメ、王シーシァ、ハンター・ハンター……
みたまランドで発生した怪物災害の報せを受けて此処まで飛んできた、アレクシアの仲間たち。
特殊殲魔部隊のメンバーたちだった。
「おせーよ、お前ら、もう俺たちで、決着つけちまったぜ……!」
いつもと変わらない仲間たちの顔を見下ろしながら、アレクシアがフッと口元を綻ばせて、トンッと円屋根から飛び降りようとした、だがその時だった。
ドクンッ……!
「な……なんだ……?」
アレクシアの顔がこわばっていた。
なんだか様子がおかしかった。
手が、足が、アレクシアの思うように動かない。
視界がグニャリと歪んだり、ところどころだけ妙に鮮明になったりボンヤリぼやけたり……やがて目の前が、視界全体が真っ赤な血の色に染まっていく。
耳元で、まるで早鐘のようにガンガンと鳴り響いているのは、アレクシア自身の心臓の音だろうか。
ドクンッ……ドクンッ……ドクンッ……その不吉な鼓動にあわせるように。
アレクシアは、自分の中の大事な何かが……音を立てて次々に毀れていくのがわかった。
「いやあでもイノリさん。あんたのご所望のヒドラがやられちまったんだぜ? このままじゃあ、あんたも骨折り損の殺し損ってやつじゃあねーか!」
灰色の男が、昂った様子でテーブルから立ち上がったその瞬間。
水を差すような冷ややかな声が男の背中から聞こえてきた。
男が声の方を振り返ると、つい今しがたまで姿も気配もなにも無かったその場所に立っていたのは。
えんじ色のスーツでスラリとした体を包んだ若い女の姿。
さっきベンチの傍に立って男と話していた、堕蜘イノリの姿だった。
「せめて、あの七剣使いだけでも俺に……! 最近は殺し甲斐のない連中ばかりで俺のアレがウズウズし……」
灰色の男が納得のいかない顔で、イノリに何かを言いかけた、だがその時。
「聞こえなかったのですか? やめろといったのです!」
「……ウッ!」
一際冷たさを増したイノリの声が響くと、男は目の前の気圧されたようにビクッと体をすくませた。
「われらが神の復活のために。あなたには他にやるべき仕事があるのです。でなければ、あなたが自分の大望を成すためにこの世界で探しているモノは、永遠にその手には入りません。わかっていますね、マズブラス・ザンダー」
「フン。わかったよイノリさん」
まるで氷のように冷たい、それでいてなんの怒りも……感情すらこもっていない譫言のようなイノリの声に。
マズブラスと呼ばれた灰色の男は、肩をすくめながらシブシブ顔でそう答えた。
「またな、七剣使い。お互いこの世界に用があるのなら、どこかで会うこともあるだろう。その時には必ず……!」
空中で剣を構えて、油断なくヒドラを見据えるマティス・ゼクトの姿を見上げて。
マズブラスはそう呟くと、長い顔をニタリと歪ませた。
マティスの斬撃によって……斬撃と呼ぶのもためらわれる奇妙な剣技の前に、巨大なヒドラはその頭部のすべてを失っていた。
残された、イモ虫みたいな図太い蛇体が真っ青な血を噴き上げながら、なおも地響きを上げながら広場をのたくり続けている。
「それにしても……面白い子供だったな……」
マズブラスの死んだ魚のような目は、暴れるヒドラの背中に必死でしがみついた痩せぎすの少女……アレクシアの方に移っていた。
「魔族でも混血種でもない。どう見てもタダの人間に、あれだけの能力が備わっているなんて……もっと色々試して遊んでみたかったが、まったく残念なことをしたぜ……」
マズブラスはホーッとため息をつくと、心底残念そうに首を振った。
「エキドニアのヒドラの血を、あんなに浴びちまったら……どのみちもう助からない。いや、ただ死ぬよりも、もっと酷いことに……」
死んだ魚のような目をいたましげに細めながらそう呟くと、マズブラスはクルリと踵を返してヒドラとアレクシアたちに背中を向けた、次の瞬間。
もう灰色の男マズブラスの姿も、彼の前に立っていたイノリの姿も跡形もなかった。
もぬけの殻になったレストラン。
ヒドラの殺戮で皆が逃げ去り不気味な沈黙に満たされたテラスには、晴れ渡った秋の空の陽光がただ燦々と降り注ぐだけ。
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「こいつ! 止まれ! なんとかしろよコレ!」
「なんてヤツだ、まだ生きてる!」
マティスとルシオンの見下ろす園内の広場では、まだ戦いは終息していなかった。
ヒドラの背中にしがみついたアレクシアが、頭部の全てを失ってもまだ動きを止めない怪物の体に苛立ちの声を上げていた。
空中のルシオンも、眼下のヒドラの恐ろしいしぶとさに、ただ息を飲むしかない。
「エキドニアのヒドラか……噂には聞いていたが、確かにすごい生命力だ。下手したらまた再生を始めかねない!」
ヒドラの頭部をすべて斬り払ったマティスも、ウルフェナイトのような目で大蛇を見下ろしながら厳しい顔をしていた。
「ならば、この剣で……」
「って……兄上? ヘ……なんすかソレ……!?」
マティスの言葉に、彼の方に目を向けると。
兄の構えた剣の異様さに、ルシオンの紅玉のような目が呆然と見開かれていった。
ギシギシギシギシ……金属のこすり合わさるような軋んだ音をたてながら。
秋の空から降り注ぐ陽光から、ルシオンの体を巨大な何かが遮っていく。
「四の剣は『怒涛』。その刃重大無辺にして、エクサのグラムで森羅万象一切圧潰!」
今マティスが、その右手に振り上げているモノ。
それはもう剣とすら呼べないような、あまりにも巨大な白銀の鉄の塊だった。
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「どいていろ、娘!」
「おわああっ! なんなんだ!」
頭上から自分に呼びかける声の方を見上げて。
ヒドラの背中にしがみついたアレクシアも、みたまランドの空に広がる異様な光景に悲鳴を上げていた。
園内に降り注いでいた秋の陽光が、巨大な何かに遮られてアレクシアとヒドラに影を落としていた。
今、アレクシアに呼びかけたその男が……頭部を失ったヒドラに向かって空中のマティス・ゼクトが振り上げているモノ。
それはマティスの手にした剣の刀身が膨れ上がった金属の塊。
もはや剣とも呼べないような、巨大な塊だった。
「チッ! また異界者に助けられるなんて……!」
今、完全に戦いの流れをコントロールしているマティスの力を忌々しげな顔で認めながら。
だが次にアレクシアが起こした行動は迅速だった。
スッ……
しがみついたヒドラの背中に沈み込むみたいに。
アレクシアの姿は、一瞬でその場から消え去っていた。
自身の能力、空間断裂によって作られた面を通って、少女の体が何処かへと移動した、まさに次の瞬間!
「怒涛!」
マティスの気合と同時に、ブオォン!
彼が空中で振り上げていた、直径10メートルは超えている金属塊が風を切る音とともにヒドラの蛇体に振り下ろされた。
グチャッ!
肉がつぶれて中身の何かがまき散らされるイヤな音とともに。
ヒドラの体はマティスの剣に押し潰されて、文字通りペチャンコになっていた。
「あれが兄上の『怒涛』……わたしも初めて見る!」
な……なんなんだよルシオン、お前の兄さんは!
ギシギシギシギシ……
ヒドラを叩き潰したマティスの剣が軋んだ音をたてながら、みるみる変形してそのサイズを縮めながら、マティスの右手に戻っていく。
ルシオンも、そしてルシオンの中のソーマも、ただ茫然とインゼクトリアの第1王子の……マティス・ゼクトの桁外れの戦いを見ているしかなかった。
「あ、兄上は七剣使い。インゼクトリア……いや深幻想界でも最強格の剣聖なのだ!」
剣術……あれが!
なんだか誇らしげなルシオンの声に、ソーマは呆れかえる。
その剣速で敵を焼き払ったり。
貫いた相手の体を、内側から爆破したり。
おまけに刀身を巨大化させて、相手の体を叩き潰したり。
ソーマが知っている剣術とは、何から何まで違いすぎる!
……あっ!
そしてソーマは、若草色の着物に包まれたマティスの体に目を凝らして再び愕然とする。
今までその力に圧倒されて気にも留めなかったが、マティスには左腕がなかった。
生まれつきなのか、それとも戦いの中で失ったのか。
いずれにしてもこの剣士は、自分の右腕だけで、眩暈がするほど多彩な技を繰り出していたことになる!
ルシオンの家族、インゼクトリアの魔王の眷属の能力の凄まじさを目の当たりにしてソーマは改めて息を飲んでいた、その時だった。
「でも、どうして兄上が人間の世界に……まさか!」
ん……どしたルシオン?
ルシオンが心配そうに小さく呟いた言葉を、ソーマは聞き逃していなかった。
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「兄上! 兄上!」
「久しいな、ルシオン!」
背中の翅をたたんで地上に降り立ったマティスに、同じく地上に降りたルシオンが駆け寄っていく。
マティスの方もルシオンの方を向いて、フッと美しい顔を綻ばせた。
こいつがルシオンと……そしてあのビーネスやアラネアの兄さんか!
青鋼色の入墨が生きているように優美に流れていくマティスの顔を目の当たりにして。
男のソーマも少しドキッとするくらい、マティスの姿は綺麗だった。
スッと整った目鼻立ちと、輝くような銀色の髪。
間違いなくルシオンたち姉妹と血のつながった彼女の兄だ。
「風の便りで聞いているぞ。父上から大命を受けて、人間の世界で暮らしていることを! 成長したようだなルシオン!」
「あえ……へへへへへ! イヤーそれほどでも……あるっすよ。でも、その……」
ルシオンとマティスは、久しぶりに会ったらしい。
出会いがしらのマティスに、いきなり褒められたルシオンはニマニマ照れ笑い。
「その、兄上は……なぜ人間世界に……?」
何かが気にかかるらしいルシオンが、兄に向かってそう尋ねようとした、その時だった。
「そ……その前にルシオン。1つ頼みがあるのだが……」
「へ、なんすか兄上……って!? わーッ!」
切実そうなマティスの声に、首をかしげていたルシオンがいきなり悲鳴を上げた。
ドサリ。
ルシオンの目の前で、マティスの足からいきなりヘナヘナ力が抜けて、マティスの体はそのまま地面に突っ伏していた!
「兄上! 兄上しっかり!」
「ウウ……腹が減った。こっちに来てから一週間、もう何も食べていない……!」
……って、またこのパターンかよ!
地面に倒れ込んで弱々しい声を上げるマティスに、ルシオンの中のソーマは呆れ果てていた。
「兄上! 兄上!」
「めまいがする……こっちの世界は魔素が薄すぎて、そのぶん腹が減りすぎるぅ……」
グーギュルルルルル……
腹の虫を盛大に鳴らしながら地面に突っ伏すマティスに、必死な顔でよびかけるルシオン。
マティスたち魔王の眷属は、その力がすごい分、人間の世界で戦うと激しく体力を消耗するらしい。
ルシオンの姉、第2王女ビーネスの時もそうだった。
御珠美術館での戦いの時、大鬼のグロム・グルダンを追い詰めたビーネスは蛮族にとどめを刺すその寸前に、まるでガス欠を起こした自動車のように動けなくなってしまったのだ。
ちょうど、今のマティスみたいに。
に、しても。もう一週間も何も食べていないなんて!
魔王の一族の食事の間隔は、人間のそれとはかなりかけ離れているみたいだった。
「ウウウウどうしよう。わたし1人では兄上は運べないし……」
動けないマティスの上体を抱き起しながら、ルシオンが途方に暮れていた、その時だった。
「あーもう、だから戦う前に、なんか口に入れてけって言ったのに、しょーがねーなー!」
「うん?」
聞き覚えのない声がルシオンの背中から響いてきて、ルシオンが怪訝そうに顔を上げると。
「マッちゃん、大丈夫かマッちゃん!」
「おわあっ!」
ルシオンとマティスのすぐ目と鼻の先に、おかしな恰好をした小さな影がニュッと顔を出した。
「ほれマッちゃん、これ食えって、そこの店んとこに捨ててあったから!」
「な……なんだお前は!」
ルシオンの胸元くらいまでの背丈しかないそいつは、マティスの口元に向かって手に持ったつくね棒を突っ込もうとしていた。
そいつの姿は異様だった。
小さな体にまとっているのは、まるでズダ袋みたいなゴワゴワした茶色いボロ布1枚。
顔にかぶっているのは、遮光器型土偶を思わせる粘土を焼き固めたような質感の仮面だった。
まるで直立したミノムシみたいな恰好をしたその子供……声からしてたぶん少女? が、おそらく園内の売店からくすねてきたのだろうつくね棒をマティスに押し付けている!
「もごご……やめろ、リッカ! 捨ててあったなどと適当な嘘を! 仮にもインゼクトリアの魔王の眷属たる私が、無銭飲食などするわけにはいかん……!」
「あーもう、めんどくせーなあ。どーせみんな逃げちまって誰もいないんだから、捨ててあったよーなモンだろ! ほれ早く食えマッちゃん、本当に死んじまうぞ!」
「こらーお前! 兄上に何をする!」
少女なりに、マティスの体を気遣っているのか。
彼の口を無理やり押し開けて、嫌がるマティスにつくねを食べさせようとする強引な少女に、ルシオンが戸惑いの声を上げた、その時だった。
「全員、そこを動くな!」
「手を上げて、ゆっくりその場から立ち上がれ!」
強い恐怖と、緊張感と、何よりそれを上回る使命感を感じさせる声がルシオンたちにそう呼びかけてきた。
「わ……!」
ルシオンが慌てて周りを見渡すと、ルシオンたちを取り囲んでいるのは拳銃を構えた何人もの警官だった。
みたまランドからの通報を受けて、ようやく現場に駆けつけたのだろう。
園内に突然現れた巨大なヒドラ。
大蛇の餌食になった何人もの犠牲者。
そして警官たちが駆けつけた時に園内に広がっていた光景は……
巨大な何かに叩き潰されたヒドラの死骸。
そのすぐ近くには、明らかに銃刀法違反の長剣を手にしたマティスに、どう見てもカタギではないルシオン。
そして怪しげなミノムシ……。
これでは取り囲まれて、逮捕されても仕方のない状態だった。
ああもう、ますます面倒くさいことになった!
ルシオンの中のソーマも、警官たちを見回して途方に暮れた、だがその時だった。
「しょーがねーなー……。こんなとこでグズグズしてるからだぜ、マッちゃん……」
「もごー……仕方ないリッカ。アレを頼む……!」
マティスにリッカと呼ばれた仮面の少女が、ポリポリと頭をかきながらそう呟くと、マティスも情けない声でそれに答えた。
「ああ、とりあえず飛ぶから落ちんなよ。それと、どっかテキトーな隠れ場所があったら案内してくれ、マッちゃんの妹!」
「マッちゃんの、妹……!」
リッカがそう呼んだのが自分のことだと気づいて、ルシオンが口元をモゴモゴさせたその時だった。
仮面の少女が自分の胸の前で、ガッキと両手で印を結んだ。
「地虫忍法、羽霞乱舞!」
リッカが唱えた凛とした一声があたりに響いた、次の瞬間。
ブズズズズズズズズズ……
何かが細かく振動するような幽かな音が、ルシオンたちの方に近づいてきた。
#
「うわあああっ!」
ブウゥウウウウンンンン……
マティスとルシオンのもとに現れた不思議な少女リッカのかけ声と同時に。
いきなり空から近づいてきて周囲を覆いつくした黒い影に、ルシオンは悲鳴を上げていた。
耳元でワンワンと響く何かが震えるような音とともに。
目の前が真っ黒な霧みたいなモノに覆われて、1メートル先を見通すこともできない!
「うわああ、これは!」
「状況、ガス!」「生存者の救出と、園内からの避難を優先しろ!」
悲鳴を上げているのは、ルシオンだけではなかった。
ルシオンたちに銃を構えていた警官たちも、霧の向こうで混乱した会話を交わしている。
この状況……確かに毒ガスか何かの使用を疑われても仕方がない。
「ぐうう兄上、まさか、これは!」
目の前を覆う霧の正体に気づいたルシオンが、驚愕のうめきを漏らしていた。
あ……! ルシオンの中のソーマも霧を構成する微細なモノの姿を認めて、おぞましさに悲鳴を上げた。
耳元で響く震えるような音は……膨大な数の羽音だった。
いきなり空から降ってきて、ルシオンとマティスとリッカを覆った黒い霧の1粒1粒。
それは、1匹1匹はルシオンの小指の爪先ほどしかない、小さな黒い羽虫だった!
そして突然、ゴオオオオッ!
ルシオンたちを取り巻いた羽虫の群れが、轟音を上げて渦巻いた。
「どわああああああっ!」
驚愕の叫びを上げるルシオンを、マティスを、そして胸の前でガッキと印を結んで何かに集中した様子のリッカを巻き込んで。
まるで黒い竜巻のようになった羽虫の群れが、ルシオンたちの体をみたまランドの空中高くまで舞い上げていく!
「ま……魔法じゃない。この業は忍法!」
渦巻く虫たちの群れによって空に浮かび上がったルシオンは、リッカの使った術の正体に気づいて再び愕然とした顔。
「まさか……『隠忍領』の忍びの者が、なぜ兄上と一緒に……!?」
「うむルシオン……話すと長いが旅先の隠忍領で、いろいろあって成り行きでな……」
首をかしげてマティスにそう尋ねるルシオン。
あいかわらず腹が減って動けないマティスが、億劫そうにルシオンにそう答えた。
ニンジャラント……!
ルシオンの中のソーマも、不思議そうにマティスの言葉を繰り返す。
深幻想界の国の名前だろうか。
羽虫の群れ……リッカと呼ばれた小さな少女の使った不思議な術も、この少女の生い立ちによるものなのだろうか?
疑問はつもる一方だった。
「へへ……その通りさ。マッちゃんは、おいらの剣の師匠なんだ。おいらはリッカ、病葉リッカ。よろしくな、お師匠の妹!」
虫の渦の中で印を結んだリッカも、馴れ馴れしい感じでルシオンにそう答えた。
「い、妹って言うな! わたしはルシオン。インゼクトリアの第3王女、ルシオン・ゼクトだぞ!」
「そうか。じゃあ……ルッちゃんだな。よろしくなルッちゃん!」
「る……ルッちゃん……!」
勝手に変なあだ名をつけて、相変わらず馴れ馴れしくそう話しかけてくるリッカに、ルシオンは口元をモゴモゴさせていた、その時。
アレクシア……。
ソーマの方は、遠ざかっていくみたまランドの方に目線を移して気の抜けたようなつぶやきを漏らしていた。
いきなり暴れ出したヒドラのせいで、アレクシアとはゆっくり話もできなかった。
アレクシアの身の上のこと、彼女が所属している組織のこと、マサムネやミルメたちのこと。
もっと、色々と話をしたかったのに。
マティスの剣戟から身をかわして姿を消したまま、再会する暇もなく。
ソーマとルシオンは半ば強引に、リッカの術によって空高くまで巻き上げられて、みたまランドを離れていく。
アレクシアのことだから、無事なことは間違いないが、それにしても……
ソーマはモヤモヤと、煮え切らない気持ちが残る。
それでも……
観覧車での短いやりとりの中で、ソーマにもハッキリわかったことがあった。
アレクシアが、ただ戦いが好きで、喧嘩早いだけの怪物じゃなかったこと。
ちゃんと彼女なりに、子供っぽさや無邪気さも持っていたこと。
そして理由はわからないが、ソーマのことをとても心配していてくれたこと。
ゴンドラの中で重ねたアレクシアの体の温もりを思い出して、ソーマの胸にもジンワリと、温かな気持ちがわき上がってくるのがわかった。
あ……!
そして再び地上に目をこらして、ソーマは気づく。
警官たちも避難して、無人になった遊園地のメリーゴーラウンド。
その円屋根にポツリと立ち尽くした、1人の痩せぎすの少女の姿を。
自分が切り裂いたヒドラの青い血に全身を濡らしながら、アレクシアの暗灰色の目が、どこか寂しげな色を帯びて、遠ざかっていくソーマたちを見つめているのを……!
#
「……ったく、せわしねーったらありゃしねーな。ゆっくり話すヒマもねー。それにもっと色々、コースターとか、コイツにも乗ってみたかったのに……まあいいか、また会おうぜ、御崎ソーマ……」
みたまランドの地上では、無人のまま回転を続けるメリーゴーラウンドの円屋根に腰を下ろして。
雲一つない青空の向こうに遠ざかっていく黒い竜巻……ソーマたちを運んでいく虫の群れを見送りながら、アレクシアも気が抜けたような顔でそう呟いていた。
パラパラパラパラ……
離れていくソーマたちとは対照的に、空からアレクシアに近づいてくるプロペラ音があった。
「アレクシア―!」
「アレク、どうしちゃったの大丈夫アレク!」
「グッ……ギッ……ギッ……!」
園内に着陸したヘリから飛び出して、心配そうな声を上げてメリーゴーラウンドの方に駆け寄ってくる者たちがいた。
氷室マサムネ、見滝原ミルメ、王シーシァ、ハンター・ハンター……
みたまランドで発生した怪物災害の報せを受けて此処まで飛んできた、アレクシアの仲間たち。
特殊殲魔部隊のメンバーたちだった。
「おせーよ、お前ら、もう俺たちで、決着つけちまったぜ……!」
いつもと変わらない仲間たちの顔を見下ろしながら、アレクシアがフッと口元を綻ばせて、トンッと円屋根から飛び降りようとした、だがその時だった。
ドクンッ……!
「な……なんだ……?」
アレクシアの顔がこわばっていた。
なんだか様子がおかしかった。
手が、足が、アレクシアの思うように動かない。
視界がグニャリと歪んだり、ところどころだけ妙に鮮明になったりボンヤリぼやけたり……やがて目の前が、視界全体が真っ赤な血の色に染まっていく。
耳元で、まるで早鐘のようにガンガンと鳴り響いているのは、アレクシア自身の心臓の音だろうか。
ドクンッ……ドクンッ……ドクンッ……その不吉な鼓動にあわせるように。
アレクシアは、自分の中の大事な何かが……音を立てて次々に毀れていくのがわかった。
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