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第14章 王都帰還〈ゼクトパレス〉

ルシオンの選択

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 ジジ……ジジジ……ジジジジジ……

「母上、母上、怖い!」
「大丈夫よルシオン……この場から動かないで……しっかりわたしに掴まっているの!」
 ソーマの体はガッシリと、温かな腕に抱きしめられていた。
 ここは……俺、いったい……
 ソーマはボンヤリとした頭で考える。

 ザワザワザワ……さざめく波のような不思議な音をたてて。
 ソーマの周りを、何かが取り囲んでいた。
 誰か……自分よりもずっと大きくて温かな存在に抱きすくめられながら。
 ソーマは頭を上げてあたりを見回す。

「ヒッ!」
 そしてあたりの光景に。
 さざめく波のような音の正体を見て。
 ソーマは引きつった声を上げた。
 そこはまだ日も差しこまない、朝靄にかすんだ森の中。
 ソーマを抱きしめているのは、純白のドレスをまとった1人の美しい女だった。
 この人……この顔……知っている。
 ソーマは心の中で驚きの声を上げる。
 それは魔王城の中央を貫く千年樹の洞に横たわっていたあの姿……

 見間違えようがない、ルシオンの母親……ピューパ・ゼクトの姿だった。
 だったらこれは……ルシオンの夢……!
 ソーマは母にすがった小さな自分の手を見つめる。
 これはルシオンの記憶……ルシオンの見ている夢を、ソーマもまた彼女と共有しているのだろうか?
 そして……
 
「うう……」
 母親と自分とを取り囲んだ、ざわめきの正体。
 ソーマにも確かに見覚えのあるモノたちのおぞましい姿に、ソーマは全身が総毛立つ。
 森の地面を這いずりながら、ピューパとルシオンに迫って来るモノ。
 それは真っ赤な鱗をテラテラ光らせて、シューシューと威嚇の声を上げている何百匹もの小さなヘビの群れだった。
 忘れられるはずもない、アビムの赤蛇だ。

「去りなさい、おぞましきヘビよ、邪神の巫女のしもべたちよ!」
 ルシオンをしっかりと抱きしめながら、母親のピューパは威厳に満ちた声で迫るヘビたちにそう告げた。
 とたん……ビスンッ! ビスンッ!
 ピューパの周囲で、不思議なことが起きていた。
 ヘビたちの這いずる朝靄にしめった森の土がえぐれていた。
 無数のヘビたちの小さな体を、何かが捉えて締め上げている。
 あれは……ソーマは驚きの声を上げる。
 ピューパの声に応じるように、森の地面から顔を出してヘビたちを捕らえているモノ……
 それは地中に巡らされた……樹木の根だった!
 
 キシャーッ!
 ピューパの操る木の根に自由を奪われ、締め上げられ、引きちぎられていく何百匹のヘビたちの断末魔が朝の森に木霊していく。

 そして、シュルルルルルルル……
 異変が起きているのはヘビたちだけではなかった。
 ピューパにすがったルシオンの全身が、何かに包み込まれていくのに気づいて、ソーマは息を飲んだ。
 小さな幼女の頃のルシオンに、幾重にも覆いかぶさっていくモノ。
 それはピューパの両手の指先から噴き出した、真っ白で微細な糸の折り重なったものだった。
 
「母上……? 母上!」
「動かないでルシオン。わたしの繭の中にいれば、ヘビたちの牙も通らない。あなたを……あなたの命だけは、このわたしが絶対に守る!」
 ルシオンの全身がみるみる内に、ピューパの編み上げた真っ白な繭玉の中に閉じ込められていく。

「イヤ! 母上、母上もいっしょに!」
「わたしは大丈夫よルシオン。ほんの少しそこで我慢していて。すぐに一緒にお城に戻れるか……ッ!!」
 繭に包まれていくルシオンに顔を寄せて、ピューパは優しく微笑んでいた、だがその時だった。
 ルシオンを慈しむピューパの声が、とつぜん苦悶のうめきに遮られていた。

「母上ーーーーーー!!!!」
 ピューパの繭がルシオンの視界を完全に閉ざす、まさにその刹那。
 幼いルシオンは、絶叫していた。

「ああああああっ!」
 ピューパが悲痛な叫びを上げていた。
 彼女の背後に滑るように……物音一つたてずに這いよった小さな人影が。
 たおやかな両手に握った黒い剣の刃先で、ピューパの胸を背後から刺し貫いていたのだ!

「これは罰ですピューパ・ゼクト。我らが神に楯突く神敵、魔王ヴィトル・ゼクトに与する者は、たとえ女子供であろうとも……我らイリスのしもべは、決して容赦しません!」
 森の地面に崩れ落ちたピューパを見下ろしながら。
 ピューパの血を滴らせた黒い剣を握りしめたまま、その少女は譫言みたいな声でピューパを見下ろしそう呟いた。
 まだあどけないとさえいえる顔立ち。
 燃え立つ炎のような紅色の髪。
 琥珀色をした虚ろな瞳。
 小さな体にまとった薄桃色のケープ。

 あいつは……!
 繭によって視界が閉ざされるわずか一瞬、ルシオンの目に刻まれたその少女の姿に、ソーマもまた悲鳴を上げていた。
 それは人間世界でソーマと死闘を果たした蛇人ナーガの巫女。
 プリエル・セルパンの姿だった。

  #

「うあああああああああああっ!」
「ルシオン様!」
 ルシオン!

 悲鳴を上げて、ルシオンの体がベッドから跳ね上がっていた。
 ここは……ルシオンの中のソーマも我に返って辺りを見回す。
 そこは大きな窓から月明かりの差し込む、広々としたゼクトパレスの一室。
 フカフカのベッドが用意された、ルシオンの寝室だった。
 ベッドから半身を起こしたルシオンの体が、ジットリと冷たい汗に濡れていた。

「ルシオン様、大丈夫ですかルシオン様?」
「コゼット……!?」
 どうにか落ち着いたルシオンの肩に優しく手を添えてそう尋ねてきたのは、窓からさす月光をうけて輝くようなに金髪を揺らした少女だった。
 ルシオンと同じベッドの上に居たのは、侍女のコゼットだった。
 どうやらルシオンが飛び起きたのは、コゼットの膝枕からだったらしい。

「コゼット……どうしてわたしと一緒に!? まだ体も治りきっていないのに!」
「何をいいます、ルシオン様の方がよほど心配だったので。今夜もずっと……うなされていましたし……ルシオン様、いったい何が?」
 コゼットの体をいたわるように彼女の肩を抱くルシオンに、コゼットもまた静かな声でそう答えた。
 そうだ……ソーマは思い出す。
 晩餐で泥酔した、姉のアラネアの乱痴気騒ぎに巻き込まれたルシオンとソーマは、そのまま疲れ切った体でルシオンの寝室に引き払ったのだ。
 コゼットはルシオンのことが心配で、まだ完全でない体を引きずって、ここまでついて来てくれていたのだ。

「そうだ……恐ろしい夢を見たのだコゼット。そして思い出したのだ。わたしは確かにあの時……母上のおそばに居たのだ! それに……」
 ルシオンの肩が小さく震えていた。
 ルシオンと共に夢を見ていたソーマにはわかった。
 それは恐怖ではなく、怒りの震えだった。

「アイツだコゼット! 母上をあんな目に遭わせたのは……! 母上の体を卑怯にも背中から刺したのは……あの邪神イリス教団の巫女……プリエル・セルパンなのだ!」
「そうですかルシオン様……覚えていらしたのですね……!」
 両目からポロポロ涙をこぼしながら、怒りと悔しさに顔を歪めて、コゼットにそう訴えるルシオン。
 そしてルシオンの肩をそっと抱きながら、コゼットは悲しげな顔で首を振っていた。

「その通りですルシオン様。城内の異変に気づいたわたくしが、衛兵を連れてピューパ様とルシオン様のもとに駆けつけた時……すでにピューパ様は邪神の巫女の刃に倒れていたのです……」
 コゼットは深いため息をついて、ルシオンにそう答えた。

蛇人ナーガの巫女はヘビの群れに紛れてすぐにその場から逃げ去り、残されたのは……ピューパ様の繭に守られて無事だったルシオン様……そして黒い剣に魂を奪われて眠りから覚めないピューパ様でした」
「そんな……わたしは何故……なぜそんな大事なことを、忘れていたのだ!」
 コゼットの答えに、ルシオンはやるせない顔で何度も何度も首を振る。

「わかりません、ですが目の前でピューパ様が襲われるのを目の当たりにした心の傷のせいでしょうか。繭の中から助け出されたルシオン様は、まるで拭ったようにその時のことを忘れてしまったようでした。それに……」
 コゼットの声が、震えていた。

「人間の世界で再びあの者と……プリエル・セルパンとまみえた時、わたくしの心を満たしたのは激しい恐れでした。ピューパ様の時と同じように……ルシオン様までが邪神教団の凶事に巻き込まれ、お命を失ってしまうのではないか、そう考えると……ルシオン様には、そのような者たちとの戦いには関わってほしくはなかったのです。だからあえて……ピューパ様のこともあなたには……!」
「そうかコゼット……もう1つ、教えてくれ」
 消え入りそうな声で自分の心情を告白したコゼットの髪を、ルシオンは優しく撫でていた。
 自分の母親の仇が目の前に現れたことを、もしもあの場でルシオンが思い出したら。
 ルシオンは、怒りに我を忘れて後先も考えず、さらに危険な戦いに飛び込んでいくところだったろう。

 コゼットはコゼットで、ルシオンの身を案じて彼女にそのことを黙っていたのだ。
 そのことは、ルシオンにも痛いほどよくわかった。

「母上は……黒い剣の呪いによって何処かに囚われているという母上の魂は……もうわたしたちの手でお救いすることはできないのか……精霊たちの力を借りた反魂ジールの鐘の力をもってしても、お救いできないのか……!?」
「はい、残念ながら、おそらく今のわたくしたちの力では……ただ1つ、可能性があるとすれば……」
「可能性?」
 コゼットの言葉に、ルシオンの紅玉ルビーのような瞳が大きく見開かれた。

「ピューパ様の魂を奪った呪い……プリエル・セルパンが握っていた黒い剣を手に入れて、その呪いの秘密を解き明かすことが出来たなら、あるいは、ピューパ様の魂もまた……」
蛇人ナーガの巫女の剣を……! だがしかしプリエル・セルパンはもうこの世には!」
 コゼットの答えに、ルシオンは絶望のうめきを漏らした。
 人間世界の……御珠中央公園でのい戦いで。
 ソーマの放った極大の雷撃ライトニングは、プリエルの体を引き裂き燃やし尽くし、消滅させていた。
 インゼクトリア……この深幻想界シンイマジア全域においても、すでに邪神教団は滅ぼされて消滅したというのが定説だった。
 蛇人ナーガの巫女が握っていたという呪いの剣に辿りつくあてなど、どこにもなかったのだ。
 だが、その時だった。

「ルシオン様……!」
「コゼット?」
 こわばった声でルシオンの名を呼びながら。
 コゼットが、まっすぐにルシオンの顔を見つめていた。
 雲一つない夏の空みたいに真っ青なコゼットの瞳に、ある光が宿っていた。
 それは、激しいためらいと、逡巡の色をしていた。
 5秒……10秒……張り裂けるような緊迫した沈黙が続いたあと……
 コゼットはおずおずとその口を開いた。

あの者・・・は……『プリエル・セルパン』は、滅んではいません。生きながらえて、その身を隠し、おそらくはまだ、人間の世界に……!」
「な、なんだって!」
 コゼットの言葉に、悲鳴にも似たルシオンの声が寝室全体に響いた。

「はい。いかなる理由かはわかりませんが、あの邪神イリスの巫女は不滅なのです。邪神教団の討伐のために、わたくしやヴィトル様が、何度あの者を追い詰めて、討ち滅ぼしても……あの小さなあの邪神イリスの巫女だけは……次なる教団の潜伏地にはまた平然と現れて、おぞましいヘビでわたくしたちに襲いかかってきました。ソーマ様の使った魔法がいかに強大であっても、あの者を完全に滅ぼせたとは、とても……」
 まさか……そんな!
 コゼットの言葉に、ルシオンの中のソーマもまた呻いた。
 プリエル・セルパン。
 人間世界の……『クロスガーデン御珠』の戦いでは、女子供、老人若者の区別もなく112人を殺し尽くしたおぞましいヘビ使い。
 ソーマの雷撃ライトニングで燃え尽き滅ぼしたと思っていた、あの狂信的なテロリストが……
 おそらくはまだ、生きながらえて人間世界に潜伏しているというのだ!

 さっき目にしたコゼットの逡巡の理由が、今ではソーマにもハッキリ理解できた。
 コゼットはルシオンのことを心配していたのだ。
 ソーマの手によって死んだと思っていた自分の母親の仇が。
 ルシオンの目の前でピューパを刺したプリエル・セルパンが。
 まだ、のうのうと生きていると知ったなら、ルシオンはどれほど取り乱し、うちのめされることだろう。
 あるいは、怒りに我を忘れて、再び人間世界に飛び出して、危険な戦いに身を投じてしまうかもしれない。
 コゼットは、それを恐れていたのだ。
 だが、その時だった。

「ありがとうコゼット……」
「え……!」
 コゼットも戸惑うくらい、静かで穏やかな声で。
 ルシオンはコゼットの肩に手を置きながら、彼女に礼の言葉を告げた。

「ありがとうコゼット、真実を教えてくれて。ありがとうコゼット、このわたしを信頼してくれて。そして……わたしにもわかったコゼット。父上の恐れの理由が。父上がわたしを人間の世界に留めた理由が。そして父上もまた、わたしのことを信頼してくれていたのだ……」
「ルシオン様……!」
 静かだが、腹の底から響くような力強い声で。
 穏やかだが、いま全てを理解し見出したような確信に満ちた声で。
 コゼットの方を向いてそう告げるルシオンの顔つきに。
 コゼットの青い瞳が、みるみる驚きに見開かれていった。

「コゼット。わたしはソーマと一緒に、人間の世界に戻る。ソーマと暮らしを共にしながら、人間の世界で不穏なことが起きていないか、つぶさに見張る、観察する……」
「もう、決めてしまったのですね。ルシオン様……」
 コゼットの手を取り、コゼットの目を見つめながら、ルシオンは言葉を続けた。

「そうだコゼット。でも安心してくれ。わたしが人間の世界に行くのは、母上の仇を討つためでも、邪神の巫女プリエルを滅ぼすためでもない。母上を……お救いするためだ! もう決して無茶なマネも、馬鹿なマネもしない。だからコゼットは……体が完全に回復するまで、安心して帝国療養所ゼクトリウムで治療に専念してくれ……!」
「ルシオン様……本当に成長されたのですね……!」
 ルシオンの言葉に感極まったのか。
 見開かれたコゼットの目から、ポロリと1粒、涙がこぼれていた。

「明日……父上や姉上たちに、そのことを伝えよう。そして城を出よう。インゼクトリアを出よう。父上の言われた通り、人間の世界に戻って異変を見張るのだ。そして母上をお救いする方法を探すのだ。それでいいなソーマ?」
 あ……ああルシオン。
 俺はまったく……

 ルシオンの示した態度に、ソーマもまた圧倒されていた。
 あのわがままで、子供っぽいばかりだったルシオンが……!
 さっきコゼットに語りかけたルシオンの声は、まるで慈しみと威厳に満ちた女王のようだった!
 同時にソーマは、胸をなでおろす。
 また人間世界に……自分の家に帰れるのだ。

 ユナ、コウ、ナナオ、それに姉さん……!
 ソーマがこっちの世界に来てから4日は過ぎているから、学校でも結構な騒ぎになっているかもしれない。
 帰れる、帰れるんだ……懐かしい者たちの顔をまぶたに浮かべながら、ソーマの胸を安堵の思いが満たしていった。

「さあ、もう寝ようコゼット。膝枕なんていいから、ベッドで一緒に……」
「はい、ルシオン様……」
 銀色の月明かりの差し込んだ寝室のベッドの上で。
 ソーマとコゼットは2人仲良く一緒に横になって、やがて眠りの沼に沈んでいった。

  #

「もう発ってしまうのか、ルシオン……?」
「大丈夫なのルシオン? せめて背中の翅が元に戻るまで、城にいた方が……」
「あーーたたたたた……そのぉルシオンと『ソーマ』……昨日はゴメン……」
 翌朝。
 朝早くに目を覚まして、魔王ヴィトルの待つ玉座の間に足を運んだルシオンは、改めて父に自分の選択を告げていた。
 これからすぐにでも、再び人間の世界に旅立つことを。
 人間の世界の異変を注意深く見張り、邪神の巫女の影があればそのことをヴィトルたちに報告することを。
 
 ルシオンの隣では、心配そうに彼女の背中に目をやるビーネス。
 そして昨夜の飲みすぎでズキズキ痛む頭を押さえながら、ルシオンとソーマに詫びを入れるアラネアの姿があった。

「大丈夫です父上、姉上。まだ速く飛ぶことは出来ませんが、この季節に吹き抜ける西風が、わたしを辺境の森まで飛ぶ助けになってくれるはずです!」
 ヴィトルと姉たちを見回して、ルシオンは力強くそう答えた。

 逆に言えば、今が絶好のタイミングなのだ。
 ソーマがルシオンの姿を初めて見たあの場所へ。
 辺境の森に燃えたった接界点ゲートに辿りつくのには。
 王都から森へと吹き抜ける風をいま逃せば、ルシオンとソーマが人間の世界に戻る機会は、あと1週間も2週間も遅れてしまうだろう。

「お元気でルシオン様。わたくしもこの体が元に戻ったなら、必ずや一刻も早くルシオン様とソーマ様のもとに馳せ参じますわ!」
「ああ、頼んだぞコゼット。だがまずは何よりも、お前自身の体を第一にな……」
 ルシオンの背後では、輝くような金髪を揺らした侍女のコゼットが、笑顔でルシオンの後押しをする。
 コゼットは知っているのだ。
 ルシオンの選択が、宝石よりも固い決意によってもたらされた、揺るぎのないものであることを。

「わかったルシオン。だったら発つ前に、これをお前に……」
「父上、これは……!」
 ルシオンの意志が固いことを悟ったヴィトルが、玉座から立ち上がるとルシオンの前に歩いてきた。
 そして力強い手つきでルシオンの手をガシリと握ると同時に、ルシオンは驚きの声を上げていた。

 ボォオオオオオ……
 魔王ヴィトルから注がれたによって、ルシオンの右手に何かが浮かび上がってきたのだ。
 いまルシオンの手首にはまっているもの、それはまるで鏡張りのようにあたりの景色を鮮やかにうつしこんだ滑らかな銀色の腕輪だった。

「それは『シュピーゲルの腕輪』。この俺が……魔王ヴィトル・ゼクトが勇者と認めた者にのみ預けるインゼクトリアの至宝だ。光矢召喚レイブリングの能力で戦うお前の、力強い剣となり鎧となろう。達者でなルシオン!」
「あ、ありがとうございます父上!」
 父親からの思いがけない贈り物に、ルシオンは誇らしげな顔でそう礼を言った。

「父上、姉上方。しばしのお別れです。わたしは人間世界で……必ずや母上をお救いする方法を見つけ出してみせます!」
「ルシオン……苦労をかけるが、頼んだぞ!」
「じゃあ、気をつけてねルシオン」
「何かあったら、あたしたちも必ず助けに!」
 父と姉たちに、ルシオンがペコリと頭を下げてそう挨拶すると。
 ヴィトルもアラネアもビーネスも、シミジミした顔で次々に別れの挨拶を交わす。

「インゼクトリア。わたしの故郷。また次に帰ってくる時まで、しばらくのさよならだ!」
 玉座の間から張り出したバルコニーに歩いて出たルシオンは、眼下に広がる景色をグルリと見回してそうつぶやいた。
 ルシオンの前に広がっているのは、インゼクトリアの王都の美しい街並み。
 その向こうにどこまでも広がった、鬱蒼とした緑の森。
 空は晴れ渡っていた。
 辺境の森に向かって吹く西風は、冷たくてもが引き締まりそうで……だが今のルシオンには心地よかった

「行くぞ、ソーマ!」
 行こう、ルシオン!
 
 そして、治りかけの背中の翅を思い切り広げてから。
 ゼクトパレスのバルコニーから、ルシオンは飛翔していた。
 城下の街並みを金色に照らしてゆく朝日が、ルシオンの翅にあたってキラキラ反射する。
 通り過ぎてゆく王都の景色を晴れ晴れとした顔で見渡しながら。
 叩きつけるような西風を背名の翅いっぱいに受けて、ルシオンは飛ぶ。
 母ピューパの魂を救うか鍵を求めて、ルシオンと一体になった御崎ソーマの故郷へと。
 ソーマの家族や友たちの待つ、人間の世界へと。

  #

「気分はどうだい、リンネ?」
 病室の窓際のベッドで半身を起こして外の景色を見つめている少女に、ベッドの傍に立った1人の男が、そう声をかけた。

「気分は……いい・・わ。このごろは何故だか……とても落ち着いている。でも……」
 つるべ落としみたいな秋の日が、窓の向こうに広がった山並みの向こうに急速にその輝きを隠してゆく。
 その最後の日の名残りを受けて、真っ赤に燃え上がった病室の一角で。
 男の声に答える、まるで鈴を振るようなその少女の声。
 
「なんだか最近少し変なの。頭がボンヤリして、時々いまが何時なのか、何日なのかも思い出せなくなってしまって……」
 深まっていく、窓の外の夕闇をながめながら、少女は不思議そうに首をかしげてホーッと息をついた。
 まるで朱をさしたように真っ赤に濡れた少女の唇から漏れた甘い吐息は夏水仙のような涼やかな、だが濃厚な甘い香がした。

「記憶や人格の乖離が確認される。覚醒時・・・のことは、まだ・・覚えていないのか……」
 自分にしか聞こえないくらいの幽かな声で、少女の傍らに立った白衣を着た痩せぎすの男がそう呟いていた。

「そうだ、そろそろ診察の時間だ。でもおかしいわ……」
 まるで譫言みたいな声でそう呟きながら、人形のような顔をした美しい少女は再び首をかしげた。

「東郷先生も、担当の看護師さんたちも、今日は朝から来ていないみたい。みんな、どこに行ってしまったのかしら……」
「大丈夫だよリンネ。頭がボンヤリするのは、お前が良く・・なりかけているということだ。東郷先生たちのことも心配するな。今日は休みを取っているが……じきに替え・・の先生方が来る。心配することはない……」
 少女が気にしているのは、自分の主治医と看護師たちの行方のようだった。
 ここは人間の世界。
 重篤な症状の魔法過敏症マジカセンシビティ患者を隔離する、御珠病院は特殊病棟の一室だった。

「そうだ父さん・・・、ソーマはどこ?」
 その時だった。
 不意に、何か大事なことを思い出したように。
 黒珠のような切れ長の少女の目が、不安そうに大きく見開かれた。

「もう何日も……何日も何日も……ソーマに会っていない気がする! どこなのソーマ……わたしの大事なソーマ!」
「落ち着きなさいリンネ。ソーマならじきに戻ってくる。今はゆっくりと体を休めて……眠っているんだ。もうすぐ退院だろうリンネ。家に帰って、またずっとソーマと一緒にいられるさ……」
「うん、わかった父さん……」
 取り乱したように辺りを見回す少女に、男は優しげな声でゆっくりとそう言い聞かせた。
 男の声にコクリとううなずいた少女は、ベッドに半身をあずけると……
 やがて数分もしないうちに、スースーと穏やかな寝息をたて始めた。
 その時だった。

「御崎博士……!」
 息を切らせたような、かすれた男の声が、少女の傍に立つ白衣の男の背中にかかってきた。

「終わったかね?」
「はい博士……病院全域の隔離と捜索を完了しまして……病棟の職員と患者全員の……変質・・を確認しました。すでに処分・・は完了していますが……!」
 男に声をかけてきたのは、黒光りするハンドガンを携えた所属もわからない軍服のようなモノを着込んだ若い壮漢だった。

「被験体『ベータ』との接触・・を1日欠かしただけで……病棟の人間全員・・・・を……!」
 白衣の男の背中をにらんだ壮漢の声が震えていた。
 壮漢の着込んだ軍服の襟口が冷たい汗で、ジットリと濡れていた。

「博士……本当に……このようなモノ・・・・・・・を外部に放つおつもりなのですか! 1歩誤れば……いやほんの僅かな手違いが1つでも生じただけで……この日本は……いやこの世界全体が……!」
「恐れは無用だ、黒木特佐。実験に犠牲はつきものだ。君たちはただ……私と『巫女』の指示に従っていればいい。被験体『ベータ』の消失は私も予想外だったが……もう何も問題ない。たった今、むこう側・・・・の『内通者』から報せが入った。彼は……御崎ソーマはじきに人間世界こちらに戻ってくる。もう私の計画遂行には何の障害もない……!」
 男はクツクツと笑ってそう呟きながら、黒木と呼んだ男とともに、少女の眠る病室の出口を開けた。
 夕闇の中に沈んでいく少女の病室をあとにして……病棟の廊下を歩き出した男の目の前に広がっている光景は……!
 
 異様だった。
 廊下のそこかしこに、医師や看護師のまとう白衣が散乱していた。
 白衣だけではない、おそらくは入院している患者のものだろう。
 子供の服、大人の服、男もの、女もの、老人、若者、一切の区別なく……
 まるで服だけをのこして中身の人間の肉体だけが消失してしまったかのように。
 病棟の廊下、待合室、診察室に散乱している、人間の抜け殻みたいな服、服、服、服!
 その時だった。

 ザザアアアアアアアア……

 廊下の一角で開け放たれた窓から、冷たい夜の風が吹き込んできた。
 風が、あたりに散乱した何着もの服をたなびかせると……
 その下から舞い上がったのは、真っ白な灰だった。
 もぬけの空になった服の合間から舞い散った、まるで屍を焼いた燃えカスみたいな白い灰が。
 暗い廊下を歩いてゆく白衣の男の体全体を、さらに真っ白く、まるで不吉な骨の色みたいに染め上げていった。


 第2部 了


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