上 下
97 / 124
第14章 王都帰還〈ゼクトパレス〉

女医アラネア

しおりを挟む
 あれは……!?

 ヴィトルの振る小さな鐘の周囲に集っていく2つの光にソーマは目をみはる。
 もつれあった光のうねりが、徐々に2つの形をなしていった。
 それは燃え上がる炎の羽衣を纏った、掌に乗るくらいの小さな少女の姿。
 そして蛇のようにうねった水柱の下半身をした、これまたハムスターほどの大きさしかない透き通った少女の姿だった。

 リーン……リーン……リーン……
 鐘の音が徐々が、しだいにその大きさを増していく。
 それに呼応するように鐘の周りを舞う2人の少女たちの体もまた輝きを増していき……
 鐘をもつヴィトルの頭上の光景がグニャリと歪み始めた、だが次の瞬間。

 ギンッ!
 金属の弾き飛ばされるような鋭い音とともに。

「わあああっ!」
「きゃああっ!」
 鐘の周りから弾き飛ばされた2人の少女の悲鳴が、洞全体に響きわたっていた。

「やはり……ダメなのか……!」
 呆然とそう呟いたヴィトルの手にした銀色の鐘から、急速に輝きが失われていった。

「この子たちの助けを借りても……『反魂ジールの鐘』に始原の島フェインゼルの精霊たちの力を乗せても、取り戻せないのか!」
 小さな鐘をギュッと握り締めながら、ヴィトルは悲痛な声で呻いていた。

「お前の体はこんなに近くにあるというのに、もう俺たちのところには……戻って来てくれないのかピューパ。お前の……魂は……!」
 緑のコケの絨毯に横たわった、美しい女のもとにひざまずいて。
 魔王ヴィトルはスミレ色に輝いた女の髪を、そっと撫でた。
 女に語りかける魔王の頬を一筋の涙が伝っていた。
 その時だった

「父……上……」
「ビーネス……ルシオン……!」
 おずおずとヴィトルの背に声をかけるルシオンたちを振り向いて、魔王は驚きの声を上げた。

「お前たち……インゼクトリアに戻っていたのか!」
 ヴィトルは今ようやく、ルシオンとビーネスの姿に気づいたみたいだった。

  #

「ピューパ……!」
「母上……」「母上!」
 ザワザワザワ……
 ヴィトルとルシオンとビーネスが、やりきれない声を上げるその目の前で。
 横たわった女の体が、洞から伸びあがったゼクトバウムの樹の根に覆い隠されていく。
 
 ルシオン、お前の母さんは、その……
 唇をかみしめながらジッと母の姿を見送るルシオンに、彼女の中のソーマが遠慮がちに声をかける。
 この場所は、ルシオンたちの母親の体を収めた、まるで天然の墓所みたいに……

「ちがう! 母上はまだ、生きておられる!」
 ソーマの聞きたいことを先回りして察したのか、ルシオンは声を荒げて強く首を振った。

「母上のお体は、まだ命を失っていない。強力な魔素エメリオに覆われた千年樹ゼクトバウムの根の洞に守られてな。だが、母上の魂は……」
 ポツリ、ポツリ。
 ルシオンはソーマに話しだした。

  #
 
 魔王ヴィトル・ゼクトがインゼクトリアに……いや深幻想界シンイマジアの各地でその活動を活発化させていた邪教、イリス教団の殲滅に力を注いでいたのは、まだルシオンがものごころもつかないほど幼い頃だった。
 罪もない農民や小さな子供たちをさらい、自分たちの信奉する邪神への供物とするため残忍な儀式を執り行う狂信者たちと、ヴィトルと彼に率いられた兵たちは死にものぐるいで戦った。
 魔王と彼の兵たちの、命がけの奮戦の甲斐あって、邪教の信者たちは徐々にその活動拠点を失い、その力を失っていった。

 だが追い詰められたイリス教団の祭司たちは、最後の最期で卑劣な報復の牙をむいた。
 力の及ばないヴィトル本人ではなく……彼の家族に、魔王の眷属にテロルの刃の先を向けたのだ。
 ようやく教団を壊滅させたヴィトルが、インゼクトリアの民の待つ王都に戻った時……魔王城ゼクトパレスに戻った時。
 ヴィトルを待ち受けていたのは絶望的な報せだった。
 彼の妻、ピューパが刺され倒れたというのだ。
 街娘に化けてインゼクトリアに潜り込んだイリスの巫女の握った黒い短刀に、その胸を貫かれて!

  #

「だから……わたしも母上のことはボンヤリとしか覚えていないんだ。でも、それからだと聞く。父上が母上の命を保つために、そのお体をゼクトバウムの洞に匿うことになったのは。そして邪神の巫女の握った剣の呪いで……母上の魂は……そのお体からいずこかに捕らえられ、今もそこに……!」
 ルシオンの声が怒りに震えていた。

「父上は母上を救おうと手を尽くしておられたのだ。だから、精霊の客人たちをこの洞に招いて、精霊たちの力を借りて再び母上を……!」
 そんな……事情があったのか!
 ルシオンの答えにソーマは声を失った。
 ヴィントライゼの指輪によるルシオンの呼びかけに、彼女の父ヴィトルが答えられなかったのは……そんな理由があったというのだ。
 そして、ルシオンもまたソーマと同じように……母親の記憶があまり無いのだという。
 洞に横たわった母のもとにひざまづき、悲嘆の涙を流す父ヴィトルの背中を、ルシオンはどんな気持ちで見つめていたのだろう?
 ルシオン……
 ソーマはルシオンにかける言葉が見つからず、ただ静かに彼女にそう呼びかけることしかできなかった。

「すまなかった、情けない姿を見せちまって……そしてお帰り、ビーネス、ルシオン!」
「そんな、父上は……!」
「父上。ビーネスとルシオンはただいま戻りました!」
 ヴィトルがルシオンとビーネスを向いて、頭を下げた。
 オロオロした顔で父を止めようとするルシオン。
 ビーネスの方は精いっぱいに胸を張って、父に改めて姉妹の帰還を告げた。

  #

「そうだったのか。人間の世界と機巧都市ウルヴェルクで、そんなことが……!」
 地下の樹の洞から王城の玉座の間に戻ったヴィトルが、ルシオンとビーネスの報告を聞いて灰色の目を見開いていた。

「すまなかったルシオン! お前との約束も守れず、ビーネスとお前を危険な目に遭わせちまって!」
「や……やめてください父上、父上のお気持ちはわたしたちにも痛いほどわかります!」
「そうです。2人とも無事に戻ってこれたんだし。それにルシオンは……戦士として、大変な成長を見せました!」
 改めて娘たちに深々と頭を下げるヴィトルを、ルシオンとビーネスは必死な顔で止めた。

「だがしかし……信じられん。あの機巧都市ウルヴェルクの武人ロック将軍と、魔王マシーネと戦ってよくぞ無事で……2人とも、立派だったぞ!」
「わたしたちの力だけでは果たせませんでした。『表札の無い屋敷』の探偵マキシと……それに他の者たちの助けなしには……!」
 ルシオンも昨夜の戦いを思い出して、改めて武者震いした。
 ヴィトルには、マシーネとの戦いの事は伝えていても、盗賊グリザルドと薔薇の姫メイのことは内緒にしておいた。
 それが約束を果たしてくれたグリザルドへの、ルシオンの礼だった。

「それに……決して勝ったわけではありません。あたしの力が未熟なばかりに、あたしもルシオンも……この有様です……」
 ビーネスは頬を赤らめて、ヴィトルに自分の背を見せた。
 ビーネスの翅も、ルシオンの翅も、その背中から切り裂かれたまま、まだ回復していないのだ。
 これでは、空を飛ぶこともできなかった。

「『帝国療養所ゼクトリウム』に行って、ドクター・ネイルに診てもらわないと……」
「わ、わたしも……」
「『帝国療養所ゼクトリウム』? ん……そうか……」
 ルシオンとビーネスの背中の傷を見て、ヴィトルは少し困ったように首をかしげた。

「ドクター・ネイルは今、自分の屋敷で寝込んでいるんだ。このまえやったギックリ腰が、まだ良くならなくてな……」
「え……じゃあ療養所は、その?」
 ヴィトルの言葉に、ルシオンもつられて困り顔をした、その時だった。

「ああ、今『帝国療養所ゼクトリウム』を取り仕切ってるのはアラネアだ。アイツに診てもらうといい!」
「姉上が……!?」
大姉上おおあねうえが……!?」
 次にヴィトルの発した言葉に、ルシオンとビーネスは変な声を上げて互いの顔を合わせた。

帝国療養所ゼクトリウムに行くつもりなら丁度いい。この子たちも案内してやってくれ……」
 ヴィトルが、彼の周りを漂っている2人の小さな少女を指差してルシオンに言った。

「この子たちは……精霊エレメンタル?」
「ああ、火の精サラマンドルのメララと水の精ウンディーネのウルル。親善大使としてインゼクトリアにしばらく滞在する予定の……始原の島フェインゼルの精霊だ。帝国療養所ゼクトリウムに入所してる、ある患者・・の治療を助けてほしいと、アラネアから頼まれてな……」
 目をパチパチさせて火と水の衣をまとった2人の少女を見回すルシオンに、ヴィトルはそう答える。
 
「まったく、この子たちには世話になりっぱなしだ。さっきも『反魂ジールの鐘』の音を共鳴させるのを助けてもらったしな」
「うっすヴィトル様……お役に立てず申し訳ないっす!」
「わたくしたちの力では……お妃さまをお助けすることは……」
 精霊の少女たちを見回して、ヴィトルはシミジミした様子でそう呟くが、2人は残念そうにペコリと魔王に頭を下げる。
 
「そうか、この精霊たちが来たから、父上は母上のことを……」
 ルシオンは何かに納得したように、だがやるせない様子でギュッと自分の唇を噛んだ。

「ルシオン様。ビーネス様。わたくしがウルル。こちらのガラの悪いのがメララさん。よろしくお願いいたします」
「うっすルシオン様。ビーネス様。よろしくっす!」
 水の精ウンディーネのウルルと火の精サラマンドルのメララがルシオンとビーネスにピョコンとお辞儀をした。

「あ……ああ、よろしくです」
「これからも我がインゼクトリアを頼みます……」
 ルシオンとビーネスも改まって精霊たちにお辞儀する。
 魔王エルメリアの統べる精霊たちの国……始原の島フェインゼルとインゼクトリアは友好関係を保っているのだ。

  #

「それにしても大姉上おおあねうえ……まさかもうドクター・ネイルの代わりまで務めているなんて……!」
「ええ、ドクターに弟子入りしてから、メキメキ力をつけているとは聞いていたけど……本当に大丈夫なのかしら?」
 精霊の少女たちを連れて、ゼクトパレスを出発したルシオンとビーネス。
 2人が向かっているのは帝都の西のはずれ、インゼクトリアの怪我人、病人の一切を引き受ける帝国療養所ゼクトリウムだった。

 大姉上おおあねうえか……ルシオンの中で、ソーマは頭を整理する。
 3人いるルシオンの兄姉きょうだいの長女は……その、病院みたいなところで何かの治療・・をうけおっているらしいのだ。
 その時だった。

「見えてきた……帝国療養所ゼクトリウム……」
 ルシオンが震え声でそう呟いていた。
 大通りの向こうに、灰色の石づくりの大きな建物が見えてきたのだ。

  #

「「な……なんだこりゃ……!?」」
 帝国療養所ゼクトリウムの門をくぐって、待合室の扉を開けたルシオンとビーネスはあたりの光景を見回して驚きの声を上げていた。

「ウニャニャニャ~~~~!」
「んぎゃーヤダヤダヤダ! おちゅーしゃヤダーーーーー!」
「ふんにゃああ! ふんにゃああ!」
「ほらほらもう泣かないの。ちょっとチクッとしただけでしょう?」
 広い待合室のそこかしこを、小さなモフモフした毛玉みたいなものが、泣きまわったり転がりまわったりしている。
 白衣を着た大人の魔族イマジオンたちが、その毛玉を抱え上げたり押さえつけたりヨシヨシなだめたりしているのだ。
 よく見れば、毛玉はみんな小さな猫人ミアウの子供たちだった。

「『おちゅーしゃ』……じゃあ今日は……予防接種!?」
「ま、また今度にしようルシオン! あたし、子供がうるさいのってチョー無理!」
 唖然とするルシオン。
 騒然とした待合室の空気に圧倒されたビーネスが、待合室の出口を開けて逃げ出そうとした、だがその時だった。

 ビュッ!

「おわあああああっ!」
 いきなり風を切って。
 自分の手元に向かって飛んできた何か・・に、ビーネスは悲鳴を上げた。

「逃げるんじゃあないビーネス、ルシオン。帝国療養所《こっち》に来たなら、ついでに色々手伝いなさい!」
 待合室の奥、診察室の開け放たれた扉の奥から、ドスの効いた若い女の声がした。

 これは……!?
 ルシオンの中のソーマはビーネスの手元、待合室の出口の取っ手に張りついているモノを見て首をかしげる。
 診察室の扉の奥から飛んできて、出口の扉を塞いでいるモノ……
 それは白くてネバついた……糸のカタマリみたいに見えた。

「そこの石鹸でよく手を洗って、そこのウガイ薬でよくウガイして、そこにあるマスクをつけて。準備が出来たら、その子たちが怖がって逃げ出さないようお世話してあげて! なにしろ今年の猫流感ニャンフルエンザは大流行の兆しなんだから……全員まとめて、今日片付けるのよ!」
 診察室の扉の奥から姿を現した1人の女が、ルシオンとビーネスにむかってテキパキとそう指示を出す。
 それはスラリとした長身に白衣をまとい、輝くような銀色の髪をひっつめにした、ベッコウ縁の分厚い眼鏡をかけた若い女だった。
 
「あーいやでも姉上。あたしたち、今日は怪我を診てもらいに……」
「あん? イヤだって言うのビーネス? このアラネア・ゼクトの頼み・・、聞けないってそういうことね……?」
「……ヒッ! うそ、うそです姉上、手伝います!」
 その場から後ずさりして何かを言いかけたビーネスに、女は低くてドスの効いた声でそう畳みかけた。
 ベッコウ縁の分厚い眼鏡の奥から覗いたサファイアみたいな深みのあるウルトラマリンの瞳が、ビーネスとルシオンの顔をキッと見据えていた。

  #

「うにゃー! うにゃー!」
「こらー! 床をゴロゴロしちゃダメー!」
「にゃあああああっ! いたあああああああい!」
「ハイハイよく我慢したねー。ほらこれ、飴ちゃん舐めていいからね……」
「イヤだー! おちゅーしゃイヤーーー!」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとチクッとするだけだからねー!」
 帝国療養所ゼクトリウムの待合室に溢れかえった小さな猫人ミアウの子供たちを、ルシオンとビーネスが必死になだめたり、抱き上げたり、捕まえたり、絵本を読んだり。
 2人とも、もうてんてこまいだった

「あーもうキリがない! 親は、この子たちの親はなにやってるんすか姉上」
「グダグダ言わないビーネス! 親御さんたちも、あっちで一生懸命でしょ。それに猫人ミアウは子だくさんなんだから。なんでもかんでも親の責任にしないで、社会全体で子供を見守り育てていくという心構えが大切なのよ……ハイ、ちょっとチクッとするからねー」
「うにゃああああっ!」
 肩で息をしながら診察室のアラネアに文句を言うビーネス。
 どこかで聞いたような御託でビーネスをあしらいながら、猫人ミアウの子供たちの腕に次々注射をしていくアラネア。
 待合室も診察室も、まるで戦場だった。

 これが……ルシオンとビーネスの姉さん……ゼクトの長女!
 猫人ミアウの子を抱きかかえてぎこちない様子であやすルシオンの中で、ソーマは驚きの声を上げていた。
 インゼクトリアの怪我人、病人の一切を引き受けるという帝国療養所ゼクトリウムを、今はほとんど1人で切り盛りしている女医……。
 インゼクトリアの魔王の長女アラネアは、この街で医者として働いているというのだ!

「そうだソーマ、あれが大姉上おおあねうえだ……」
 ソーマの声に答えて、ルシオンが少し誇らしげなような、だが何かに怯えるような。
 なんだか腰の引けた声でそう答える。

「3年前、インゼクトリアに戻って・・・きてからは、この国1番の名医、ドクター・ネイルに弟子入りして医者としての修行を積んできたんだ。もう今ではネイルに匹敵するとも言われる腕前で、国民の誰からも敬われる立派な姉上だ……が……」
 ルシオンの声が急に小さくなった。

「絶対に逆らってはダメだぞソーマ。大姉上おおあねうえは、小姉上ちいあねうえの100倍怖いんだ……」
 ……100倍!
 ルシオンの言葉にソーマは息を飲む。
 そういえば、あの勝気なビーネスもアラネアには全く頭が上がらないみたいだ。
 子供たちをなだめながら、テキパキと仕事をこなしていくアラネアが、そんなに恐ろしい存在なのだろうか?

「はい終わり。よく我慢したねーこれ、ご褒美の飴ちゃんだからねー」
 診察室の奥で、相変わらず慌ただしい感じのアラネア。
 昼下がりの帝国療養所ゼクトリウムの喧騒は、まだまだ静まる様子はなかった。

  #

「ハーやっと終わったか……」
「本当にありがとうございましたアラネア様……」
「お世話になりましたアラネア様」
「はい、お大事に。夜になっても熱が出たり、しんどくなったりしなければ、お風呂に入ってもいいからね」
 何人もいる自分の子供を抱きかかえて、アラネアに頭を下げながら療養所を出ていく猫人ミアウの親たちに、アラネアはそう声をかけていく。
 気がつけば、すっかり外は暗くなっていた。
 アラネアの今日の仕事が、ようやく終わったみたいだった。

「あーやれやれ、今日も良く働いた。ビーネス、ルシオン、あんたたちも初めてにしてはよくやったわ。ほら、飴ちゃん舐めなさい……」
 ルシオンとビーネスも、疲れ果てた顔で待合室の椅子でへばっている。
 診察室の机で一息ついたアラネアが、折り紙の小物入れに盛られた飴玉を2人に投げてよこした。

「あ……飴ちゃん……!」
 アラネアが投げてよこした飴玉を口に放りこんで、ルシオンはまんざらでもない顔。

「まったく……あれだけ人をこき使っておいて飴玉1こかよ。相変わらず偉そーにしやがって、あの出戻りの干物女……ってアダダダダダダッ!」
「きーこーえーてーるーぞー、ビーネス!」
 ビーネスの方は飴玉をギュッと握り締めて、誰にも聞こえないくらい小さな声で何かを呟いていたが……その呟きが悲鳴に変わっていた。
 いつの間にかビーネスの目の前に立っていたアラネアが、ビーネスの右耳をギュッとつまみ上げていたのだ。

「うそっ! いまのはうそ! 冗談です姉上!」
「フン。まあいいわ、で……今日は何? 2人とも何か用事があって来たんでしょう」
 ビーネスの耳から手をはなして、アラネアは大きく息をついた。
 ベッコウ縁の分厚い眼鏡の奥で光ったウルトラマリンの瞳が、怪訝そうにルシオンとビーネスを見つめている。

「え、あ、はい大姉上おおあねうえ……」
「姉上、実はあたしたちもコレを……」
 ルシオンとビーネスが、頬を赤らめながらアラネアに向かって自分の背中を見せた。

「なるほどコレか。2人とも綺麗にザックリやられてるわね……」
「痛い! 姉上、つっつかないで!」
 根元から切り裂かれた、ビーネスの背中の翅の傷口をアラネアは自分の指先でツンツンつっついていた。

「まあでも……この程度・・・・ならすぐに終わるわ。2人とも、そのまま動かないで……」
 ……え?
 アラネアの声に、ルシオンの中のソーマは首をかしげた。
 アラネアは今、この場で、2人に何かするつもりなのか?

 そして、シュルシュルシュルシュル……かすれた音を立てながら。
 ルシオンとビーネスの背に向けられたたおやかなアラネアの指先から、真っ白い何か・・が噴き出していた。

 シュルン……シュルン……シュルン……

 女医アラネアの指先から噴き出したのは、いく筋のもの真っ白な糸だった。
 まるで蜘蛛のソレのように、微細で粘ついた糸がルシオンとビーネスの切り裂かれた翅の断面に貼りつき絡みつくと……
 より合わさった糸たちが、まるでそれ自体が生き物のように成長しながら美しい翅脈を編み上げていく!

 糸……これがお前の姉さんの……!
 ソーマはルシオンの中で驚きの声を上げる。
 あの機巧都市ウルヴェルクの魔王マシーネがそうしたように。
 アラネアもまた、微細な糸をその指先で巧みに操りながらルシオンたちの翅脈をを形作っていくのだ。

「そうだソーマ。これが大姉上おおあねうえの『フュズィオンの糸』。魔王マシーネの『シュナイドの糸』とはワケが違う。あらゆるものを縫いあわせ、つなぎ止め、再生させる糸。そして……」
 ソーマが何を考えているかを察したのだろうか。
 ルシオンが小声でソーマにそう説明する

「あのマシーネの糸なんかより……ある意味、遥かに恐ろしい糸だ!」
 ルシオンの幽かに震えていた。

 恐ろしい……糸!?
 あらゆるものを縫い合わせ、再生させる糸が、どうして恐ろしい糸なのだろうか。
 ソーマはいまいち納得できずに首をかしげた、その時だった。

「おっし出来た!」
 診察を始めてからほんの3分も経たないうちに、アラネアは大きく息をついた。

「ビーネス、ルシオン。もう動いていいわよ。翅脈は作り直しておいたから、あとは2、3日安静にしてれば勝手に再生するでしょう。1週間もすれば飛べるようになるからね……」
「あ……もう動かせる!」
「ありがとうございます姉上!」
 ルシオンとビーネスの顔がパッと明るくなった。
 アラネアの糸は、ルシオンとビーネスの背に一応は翅の形をした脈相を編み上げていた。
 ルシオンが背中に手をやって、うれしそうに出来かけの翅をピョコピョコさせている。
 
 よ……よかったなルシオン……
 ソーマもルシオンの中で、ホッと息をついた。
 人間世界でレモン・サウアーとの戦いに敗れて以来。
 ルシオンは、まさに翼をもがれた鳥みたいに意気消沈していたのだから。
 また、飛べるようになって本当によかった。

「エヘヘ……エヘヘ……」
 ルシオンがニマニマ頬をゆるませながら、自分の両翅をピョコピョコ動かしていた、その時だった。

「あ……そういえば!」
 突然ビーネスが、何かを思い出したひょうに大きな声を上げた。

「どうしたのビーネス、いきなり?」
「あの子たちのこと、すっかり忘れてた!」
「あの子たち……? あっ!」
 首をかしげるアラネア。
 慌ててあたりを見回すビーネス。
 ルシオンも、ビーネスの言葉の意味に気づいてその場から跳ね上がった。

 猫人ミアウの子供たちの世話にかかりきりで、ここまで案内してきた精霊の少女たち……ウルルとメララのことをすっかり忘れていたのだ!

「ウルル、メララ、大変だ! どこかその辺で迷子に……」
 ルシオンが慌てて、すっかり日の暮れた療養所の外に飛び出そうとした、だがその時だった。

「ああ、大丈夫よルシオン」
 アラネアが軽い調子でルシオンを止めた。

「へ……大丈夫って?」
「あんたたちがバタバタしてる間に、あの子たちにはあたしから別の仕事を頼んでおいたの。それにしても、さすがは始原の島フェインゼルの精霊……ものすごい効能・・だったわ」
「え、姉上がもう、仕事を……」
 アラネアの言葉に、顔を見合わせて目をパチパチさせるルシオンとビーネス。

「そう、あの患者・・・・くらい特殊な症例だと、精霊たちの力でも借りないとリハビリも捗らなくてね。そうだ、ついでに会っていきなさいルシオン。彼女もきっと喜ぶわ」
「あの患者? 会う? わたしが……?」
 アラネアの言葉の意味が一瞬よくわからず、首をかしげるルシオン。

「何を言ってるのルシオン……!」
 アラネアはルシオンの顔をのぞいて、ちょっと呆れたようにウルトラマリンの目を丸くした。

帝国療養所ゼクトリウムで治療を受けているあなたの侍女……コゼット・パピオのことじゃない……」
「コゼット! コゼット! コゼットがここに……!!!!!!!」
 アラネアの言葉を耳にして、ルシオンの声が途中から歓喜の悲鳴に変わっていた。





しおりを挟む

処理中です...