上 下
94 / 124
第13章 魔城決戦〈グランドバトル〉

眠れる薔薇の姫

しおりを挟む
「ハル……ハル……」
 マシーネが黒い瞳をウルウルうるめて、尖塔の中から現れた美しい少年の半身を見上げた。
 
「どうしてみんなボクの邪魔をするの? ボクはどうにかして、キミの体を治したいだけなのに……!」
 魔王の小さな白い手が、少年を包み込んだ水槽のような透明な円筒をスッと撫でる。

 それはかつて魔王が愛した唯一の男。
 邪神戦争でその体をバラバラに引き裂かれて命を落とした人間の勇者の欠片カケラだった。
 戦のあとでマシーネが、どうにか男の破片をこの地にかき集め、男の魂を重力城グラヴィオンの『制御実存』としてこの場所に留めたのは、もう20年も前のこと。
 残された幽かな命の炎をとどめておくため、男の欠片カケラはかつての勇壮な姿から小さな少年の姿まで退行してしまっていた。
 それからのマシーネは深幻想界シンイマジア中からあらゆる宝具を奪い集め、男の肉体の再生に力を注いだが、まだ復活への道のりは遠かった。

 だが、今宵こそは……!
 ドッペルアドラーの艦橋で、自身の領地機巧都市ウルヴェルクの内にあの力を感じた時、マシーネは昂った。
 20年ぶりにこの世界に姿を現した薔薇の姫メイ。
 その吹雪国シュネシュトルムの双子王《ジェミナス》の力……この世の摂理を乱す『幽界の薔薇』の力を手に入れ、解き明かすことが出来れば……
 男の肉体と魂の、完全なる復活をこの手で成し遂げることができる!
 そんなマシーネの望みも、今やあっけなく崩れ去ろうとしていた。

 インゼクトリアの戦姫の姉妹と、突然現れた探偵マキシの邪魔のせいで、重力城グラヴィオンは崩壊寸前まで追い込まれてしまった。
 マシーネが慌てて繰った『シュナイドの糸』の暴走で、彼女がまとった自慢の美しい傀儡体リペアもバラバラになってしまった。
 重力城グラヴィオンに宿した勇者ハルの肉体と魂だけはどうにか無事だったが、計画は完全に振り出しに戻ってしまって……
 もう、踏んだり蹴ったりだった。

「もういいや、もう疲れたよハル。さあ、一緒にお城に戻ろう……ボクとハルの2人きり……誰にも邪魔されない2人だけの場所に……ってっ……ハワワワ―!?」
 マシーネと少年とを隔てた透明な水槽にペタリと額を押し当てて、小さな少女の姿をした魔王が切ない顔でそう呟いた……だがその時だった。
 誰かの手で、無理やり水槽から引きはがされたマシーネが狼狽の声を上げていた。

「どこに行くつもりだ、マシーネ。まだ話はついてないだろう……?」
「な……何をするだァー! 放せマキシ、無礼者ー! このハゲー!」
 探偵マキシの右手が、小さなマシーネの襟首をまるで子猫かなにかをつまみあげるように空中に吊り上げていたのだ。

「クソ―いつもいつも……大事なところで余計な首を突っ込んで、力技でボクの計画を台無しにしやがって。この脳筋探偵、雰囲気探偵! だいたいお前が推理・・してるとこなんか、ボクは1度も見たことないぞ!」
 小さな手足をジタバタ振り回しながら、マキシをにらんでマシーネがわめく。

「ぼ……ボクっ……!」
「そんなキャラだったのか魔王マシーネ……!?」
 飛空艇の甲板では、ビーネスとグリザルドが探偵と魔王のやりとりを見下ろして呆れた声を上げる。
 美しい傀儡体リペアを身にまとっていた時の貴婦人然とした言葉使いからは一転。
 両腕をグルグル振り回してどうにか探偵の手から逃れようとするマシーネの姿は、駄々をこねる子供そのものだった!

「ハハーン。噂は本当だったんだなマシ―ネ……」
 尖塔から姿をのぞかせた少年の体に目をやったマキシは、少し意地悪な顔で笑った。

「もともとは自分の機巧都市ウルヴェルクの調整と増殖にしか興味のなかった引きこもり・・・・・魔王のお前が、急に人間の世界に興味を持ち始めたのも、あのおぞましい傀儡体リペアで自分の体を飾り立て始めたのも、そしてあの柄でもない貴族趣味も……全部1人の人間のに出会ったから……だっていう噂は……!」
「ワー! ワー! 違う……違うし、そんなんじゃないし!」
 探偵の言葉に、真珠のような肌を真っ赤に染めながらマシーネはブンブン首を振る。

「し……思春期かよ……!?」
「まったく……オタクの恋はメンドクセーな……」
 甲板では、マシーネのあまりの豹変に呆然とするビーネスとグリザルドが、生暖かい目で探偵と魔王のやりとりを見守るしかなかった。

「いいかマシーネ。今日はこれくらいで見逃してやる、だが約束しろ!」
「ヒグッ……!」
 マキシは厳しい声を上げて、その端正な顔をマシーネに寄せた。

「メイ君とビーネス君にしたようなマネを、2度と他の者にしないことを! 自分の下らない欲望のために傀儡体リペアなんてモノを2度と作らないことを! そして人間の世界への余計な干渉をやめることを! でなければ……」
 マキシの金色の瞳がギラリと光った。

「私は何度でもこの場所・・・・に立って、今夜と同じこと・・・・をするぞ! 君の大事な男性ヒトが次も無事である保証など……どこにもないのだからな!」
「や……やめてくれマキシ。わかった、する……約束するから!」
 凄まじい剣幕のマキシから目を泳がせながら。
 小さな少女の姿をした魔王は、消え入りそうな声で探偵にそう答えた。

  #

「さあ、帰ろうハル……」
 ギギギイィイイイ……
 探偵マキシと約束を交わして、彼の手から解放された魔王マシーネの指示のもと。
 人間の勇者ハルの欠片カケラを乗せた重力城グラヴィオンの尖塔が徐々にその形を変えていく。
 崩れかけた黒鉄のが折り重なり寄り合わさって、ハルを包んだ透明な円筒とそれに寄り添ったマシーネの姿を隠していく。

 『制御実存』ハルの覚醒とともに変形した重力城グラヴィオンが、その形を元に戻しつつあった。
 メイの放った幽界の薔薇によって水晶と化した城壁に包まれて、魔王マシーネとハルは、重力城の奥へと消えていった。

「マシーネは、放っておいて大丈夫なのか……マキシ?」
「ああ、きっと大丈夫さルシオン君。重力城グラヴィオンがあれだけの損傷ダメージを受けて、愛する者の命まで危険に晒してしまったんだ。マシーネもさすがに懲りただろう。しばらくは自分の城の奥から出てこないはずだ。それに……」
 怪訝そうな顔のルシオンを見て、探偵マキシはフッと笑った。

「さっきアイツに行ったように、あの魔王が命を失えば、機巧都市ウルヴェルクの街もまた、マシーネと運命を共にすることになるだろう。彼女もまた、この深幻想界シンイマジアに欠くことの出来ない偉大な魔王の1人なのさ。わかってくれルシオン君……」
「ああ、わかってるマキシ」
 マキシの言葉に、城壁に立ったルシオンはマシーネたちのいる尖塔を見つめてコクリとうなずいた。

 不思議だった。
 ルシオンもビーネスも、あのマシーネからは、あれだけ恐ろしい目に遭わされたはずなのに。
 重力城グラヴィオンが崩れる時の、そしてあの人間の勇者の欠片カケラを目にした時の魔王の狼狽えぶりと、流した涙を思い出すと……
 ルシオンの胸からは、魔王マシーネに対する怒りや憎しみが、スッと消えていたのだ。

「ならば……良し・・! ルシオン君、あらためて……勇気を失わず、よくぞここまで戦った。立派だったぞ……」
「え……? あはうえへへへあはは……当たり前だ。わたしはインゼクトリアの第3王女、ルシオン・ゼクトだぞ!」
 晴れやかな顔をして、探偵マキシがルシオンの銀色の髪をクシャクシャ撫でた。
 顔を真っ赤にしてニヤケ顔を押さえながら、どうにか胸を張って威厳を保とうとするルシオン。

「ほんと、よく戦ったわルシオン。あの時のあんたのアイデア。このあたしでも思いつかなかったもの……」
 飛空艇ドッペルアドラーの甲板から城壁に降りてきたビーネスも、ルシオンの方に歩み寄って彼女の肩をポンと叩く。

「えーなんすか小姉上ちいあねうえまでー、やめてくださいよー!」
 戦闘のセンスでは、ルシオンを大きく上回る姉のビーネスからも意外な賞賛の言葉をもらって……ルシオンのニヤニヤが止まらない。
 あの時、とっさの機転をきかせて。
 ビーネスとメイの助けがあったとはいえ、ルシオンはあの強大な魔王マシーネに、確かに一矢報いていたのだ。

 本当に……凄かったよなルシオン……。
 ルシオンとビーネスとメイ、それにマシーネとマキシ……
 魔王の眷属同士の間で繰り広げられた凄まじい戦いの数々を、ルシオンの中のソーマは息を飲んで見守るしかなかった。
 だがその壮絶な戦いを……ルシオンは、そしてソーマは、どうにか生き残ることが出来たのだ!
 ルシオンの命がけの頑張りと勇気に、彼女の中のソーマもまた感嘆の声を上げた、その時だった。

「メイ! なんてこったメイ!」
「メイ? そういえば……!」
 ビーネスと共に城壁に降り立っていた盗賊グリザルドの悲痛な悲鳴に。
 ルシオンは我に返って盗賊の声の方を向いた。

「「あっ!」」
 そして、ルシオンとビーネスもまた同時に、小さく悲鳴を上げていた。
 
 『幽界の薔薇』の力を放って重力城グラヴィオンを崩壊から救ったメイの体が……
 凍れる時から解放されたはずのメイの体が、いままた再び動かなくなっていたのだ。

 あどけない顔にウッスラと静かな笑みをたたえ、緑の瞳を閉じたまま。
 小さな少女の体に絡みついた幾筋もの緑に輝く薔薇の蔓、そしてそれをすっぽり包み込んだ美しい氷の塊みたいに。
 メイの体は、幽界の薔薇の力で城壁を覆ったモノと同じように……青白く輝いた水晶の中に閉じ込められていたのだ。

「メイ! メイ! 返事をしてくれ!」
「落ち着きたまえグリザルド君。メイ君は死んではいない……」
 狼狽えるグリザルドの肩にポンと手を置いて、マキシは静かな声でそう言った。

「『幽界の薔薇』の力を使い果たして、一時的に眠りについているんだ。私の屋敷の薔薇園ローズガーデンに連れて行けば、じきに目を覚ますはずだ。だがしかし、そうなると……」
 探偵は何か困ったように首をかしげる。

「そういえば、あの時……」
 水晶の柱の中で穏やかな顔で眠っているメイを見つめながら、ルシオンは不思議そうに呟いた。

「メイはどうして……この城を助けようとしたんだろう。自分の力を使い果たしてまで……」
「さあね、詳しいことは知らないが、ひょっとしてメイ君と、あの人間の勇者には昔なにか繋がりがあったのかも知れないな。いや、そんな事情は抜きにしても……」
 探偵マキシもメイの顔を見つめて、少し切なげな顔をした。

「彼女はもう、誰も殺したく・・・・・・なかったのかも知れないな……」
「メイ、生きてるのか、よかったああああああ……!」
 マキシの言葉に安堵したのか、グリザルドはペタリとその場に座り込んでいた。

「ああグリザルド君。だが安心ばかりもしていられないぞ。今夜のメイ君の力の解放で……『幽界の薔薇』の力の解放で、深幻想界シンイマジア中の魔王たちもまた、彼女の存在に気づいたはずだ。マシーネがそうしたように、いつまた彼女の身に他の魔王たちの手が及ばないとも限らない。どこか安全な場所に、メイ君を匿わなければ……匿う、匿う……そうか!」
 自分に言い聞かせるように何かをブツブツ呟いていたマキシが、突然大きな声を上げた。

「匿うったて何処に、マキシの旦那の屋敷くらいしか行く当ては……」
「いーや、グリザルド君、もっと安全な場所さ!」
 不安そうにオロオロ声を上げる盗賊を見つめて、探偵の金色の瞳がキラリと輝く。

「もっと安全な……!?」
「そう、特別な『地図』と特別な『鍵』無しには、どんな魔王でも絶対に辿り着けない特別な場所……」
 探偵マキシが、グリザルドに向かってニッと笑った。

「『狭間の城』だよ……」

  #

「狭間の城……! あの……誰も辿り着いた者のいないと言われる伝説の……いや、だって、しかし、そんな簡単に……!」
 探偵マキシの言葉に双頭のリザードマンの4つの目が、驚愕に見開かれていた。
 
 全世界の泥棒ドロボーの夢。
 数多の始原魔器プライマルズを収めているといわれる、究極の宝物庫。
 盗賊グリザルドが命がけで獅子裂谷レーヴェンタールの古代遺跡からその地図を探し出して……
 甲蟲帝国インゼクトリアの宝物殿から『ルーナマリカの剣』を盗み出し、双子王ジェミナスの欠片が目論んでいた大接界に協力してまで見つけることを、もくろんでいた幻の場所。
 そんな伝説の城に、マキシはメイを匿うと言っているのだ。
 まるで……近所の知り合いの家に、飼っている猫を預けるみたいな感じで、こともなげに!

「ハハ。たどり着けないのも無理はないさ。そもそも狭間の城は、深幻想界シンイマジアにも人間の世界にも存在しない・・・・・んだから。2つの世界を隔てる境界……文字通り世界の狭間・・・・・を漂う城なのだから……」
 アングリと口を開けたグリザルドを見て、マキシは肩をすくめた。

「私の左胸の『クロニアム』は、世界の境界線を越えるための『鍵』になっている。そしてグリザルド君のもたらしてくれた『時の羅針』は、城にたどり着くための『地図』になっている。この2つがそろわなければ、この世のどんな魔王と言えど、狭間の城に入ることは出来ないんだ」
 自分の左胸をコツコツ叩くと、マキシは淡々とした口調でそう言った。

「城の鍵……なんてこった、こんなすぐ目の前に……マキシの旦那自身が……!」
「黙っていて済まなかったなグリザルド君。君が自分の盗賊人生を賭して狭間の城を探してるって噂は知ってたんだが……何しろ泥棒ドロボーの君に、わざわざそんな事を教えるのも、どうかと思ってねぇ……」
 呆然とするグリザルドにそう答えて、探偵マキシは全く済まなくなさそうな顔でポリポリと頭をかいた。

「狭間の城……!」
「本当に、存在するのか……!?」
 突然マキシが切り出した突拍子もない話に、ルシオンとビーネスも唖然としてそう呟くしかない。

「わかるなグリザルド君? 魔王たちが動き始める前に、彼女を……メイ君を城に匿うんだ。しばらくはメイ君を狭間の城で1人ぼっちにしてしまうことになるが……それが今の彼女にとっては最も安全な道なのだ!」
「わ……わかったぜ、マキシの旦那……」
 青白い水晶柱に閉じ込められて眠る小さなメイを見つめながら。
 グリザルドはいたましげな顔で、マキシの言葉にそう答えた。

「決まりだな。では出発しよう……」
「え……今から!?」
「ああ、善は急げさ。屋敷への近道・・にもなるし、ちょうどいい。グリザルド君も、ルシオン君も、ビーネス君も、私の体にしっかりつかまっていてくれ……!」
 驚くルシオンたちを尻目に、探偵マキシは眠れるメイの前にツカツカと歩み寄ると、彼女を包んだ水晶の柱にピタリと自分の右手をかざした。
 
「準備はいいなみんな。では、行く・・ぞ!」
 マキシにうながされたルシオンたちが、それぞれ探偵の着ている上着ジャケットの端をキュッと掴むと、探偵は3人の顔を見回してコツコツ自分の左胸を叩いた。
 とたん……

「「「おわあっ!」」」
 ルシオンとグリザルドとビーネスが、一斉に驚きの声を上げていた。
 もう朝方近く、白々と明けかかっていく機巧都市ウルヴェルクの星空が……
 朝靄に包まれた重力城グラヴィオンの景色が……一瞬にして3人の視界から消失・・していた。

  #

「こ……ここが……!」
「狭間の……城!?」
 気がつけば、ルシオンたちが立っていたのは無色透明のまるでガラス張りの冷たい床の上だった。
 ルシオンが足元を見下ろして、目をこらすと眼下に広がっているもの。
 それは一面の暗黒。
 そして彼方には宝石をまき散らしたように、白や赤や青をした無数の瞬きだった。

 宇宙……!?
 ルシオンの中のソーマも息を飲む。
 彼女が覗き込んでいるのは、確かに星空のようにも見える。

 周りを見渡せば、そこは鏡張りの大広間。
 足元のガラスの床からのぞいて見えるのは、何処までも広がる暗黒と瞬く星々。
 そんな不思議な広間の真ん中に、ルシオンとビーネスとグリザルドは立っていた。

「なんてこった、ここが夢にまで見た……狭間の城!」
「ああ、だが宝物庫を探そうとしても無駄な努力だぞグリザルド君。君がもたらしてくれた『時の羅針』ひと針では、この『ものみの間』しか出入りすることは出来ないんだから……」
 あたりを見回して歓喜の声を上げる盗賊にクギをさすような、探偵マキシの淡々とした声。

「世界の狭間の城……でもいったい、誰が何時、こんなモノを……!?」
 あまりに異様な広間の景色に、ルシオンは再び驚愕のうめきを漏らす。

「それは誰にもわからないんだルシオン君。だが伝説ではこの城は、深幻想界シンイマジアや、人間世界が生まれる遥か前から存在するという。この世界を創造し調律した『神様』や『天使』たち……そんな存在が創り上げ、住んでいたという言伝えもある……」
 ルシオンの疑問に、マキシもまた不思議そうな顔で首をかしげた。

「それにしても……こんな場所に、メイを1人で……」
 グリザルドが、冷たいガラスの床の広がる暗黒を見下ろして声を震わせた。
 1度は意を決したはずの盗賊の気持ちが、ガランと広がったうすら寒い大広間を……『ものみの間』を見渡して再び揺らいでいるみたいだった。

「耐えるんだグリザルドくん。メイ君の身の安全を考えれば、今はこの城に匿っておくのが最良の方法なんだ。それに……」
 グリザルドを気遣うようにマキシは盗賊の肩をポンと叩くと、広間の壁全体に張られた大きな鏡の方に目をやった。

「見たまえグリザルド君。メイ君にとっては、むしろ今の方・・・が、安らいだ心でいられるんじゃないか……私にはそんな気がするんだ」
「……アッ!?」
 探偵につられて鏡の方を振り返ったグリザルドは、小さく驚きの声を上げた。
 床一面に広がった星空を映しこんで、冷たく輝くばかりだった大広間の鏡に、何か別の景色・・・・が浮かび上がってきたのだ。

「これは……メイの……!」
「そうだこの大広間の『ものみの鏡』は、この場所で眠る者の夢を映し出すと言われているんだ」
 鏡に広がってゆく新緑の光に満たされた風景を見つめて、マキシは切なげにそう呟いた。

 でも……これって……!
 ルシオンの中のソーマもまた、驚きの声を上げていた。
 鏡の中に映った場所……ソーマには、そこは暖かな陽光の降り注ぐ初夏の公園のように見えた。
 その公園の芝生の上、薄桃色の可愛らしいワンピースを着た小さな少女が、笑顔で誰かに手を振っている。
 若草色の芝生に広げたレジャーシート・・・・・・・に腰をおろしたメイが、コットンの手提げから取り出したランチボックスを並べながら、誰かに笑いかけていた。
 
 これって……人間の世界……てゆうか日本の公園・・・・・の景色だよな……!?
 鏡に広がる景色を見つめて、ソーマは唖然とする。
 マキシの言葉が本当ならば、これは今、メイが見ている夢の景色。
 メイはもともと……人間の世界で暮らしていたのだろうか?
 昼下がりの公園の芝生、そよ風の中で降り注ぐ陽光が、あたりの一切をまるで緑色の陽炎のように、揺らめきながら溶かしてゆくような……そんな景色の中で。
 メイは陽炎の向こうに立った小さな人影……陽光にかすんでその顔もはっきりわからない1人の少年に向かって楽しそうに笑いながら、何かを話しかけていた。
 この光景が深幻想界シンイマジアの魔王の欠片カケラ……メイの見ている夢だというのだろうか?

「あ、でも、これって……」
 ルシオンの口を通じて、ソーマが声を漏らしかけた、その時。

「さあ、もういいなグリザルド君。もうそろそろ、ミセス・デイジーが気をもみ始める時刻だ」
「ああ、わかったぜマキシの旦那……!」
 鏡の中のメイの笑顔を、いたましげな顔で見つめているグリザルドに、マキシが静かに声をかけた。
 グリザルドも心を決めたように、グッと鏡から顔をそらしてマキシの方を向いた。

「マキシの旦那、その針は……『時の羅針』はあんたが持っていてくれ。メイのこと、よろしく頼むぜ……」
「ああ、安心したまえグリザルド君。なにせ私の上着ジャケットの胸ポケットは、この世で最も安全な保管庫だからね。その時・・・が来るまで、責任を持って預かろう」
 盗賊がmナキシの左胸に目をやって探偵にそう頼むと、マキシはニッと笑ってグリザルドの肩を叩いた。

「さあ、『表札の無い屋敷』に戻ろう。この『ものみの鏡』は、触れた者が行ったことのある、あらゆる場所を映し出して……そしてその場所に戻る・・ことが出来るんだ……」
 マキシがそう言って、大広間の鏡の一画に手をかざすと、鏡に広がった新緑の景色が……メイの夢の景色がユラリと揺らいだ。
 探偵マキシの目の前の鏡に映し出されているのは、朝靄におおわれた機巧都市ウルヴェルクの路地に面した、『表札の無い屋敷』の立派な鉄門だった。

「帰って朝食にしようグリザルド君。ルシオン君とビーネス君、君たちもミセス・デイジーに何か作ってもらうといい……」
 そう言うなりマキシはツカツカと鏡に向かって歩き出すと……その姿が鏡の向こうにユラリと消えた。

「やったー朝飯、朝飯!」
「はーそういえば、あたしも腹減ったー!」
 ルシオンとビーネスが屈託のない笑顔でそう声を上げると、マキシの後について鏡を通り抜けていく。

「またなメイ……」
 そしてグリザルドもまた、鏡を通って『表札の無い屋敷』に向かおうとするその直前。
 盗賊はもう1度、背中を振り返って水晶柱に包まれた小さなメイと、鏡に映ったメイの笑顔を交互に見返した。

「また必ず……お前を迎えにくるからな。お前が夢から覚めたあとも、そんな笑顔でいられるように、俺も……俺なりに手を尽くしておきたいんだ。それまでここで……待っていてくれ、メイ……」
 かすれた声で小さくそう呟くと、盗賊グリザルドの姿もまた、鏡の向こうに消えていった。

  #

 シュン……シュン……ほら見て、シュン。

 お弁当を作ってきたの、あとでみんなが……みんなが来たら、一緒に食べようシュン。
 降り注ぐ日の光、頬をなでる優しい風の中で、あたりの景色が揺らいで溶けてしまいそうな日曜日の公園で……
 わたしは光の向こうのシュンにむかって、そう笑いかける。
 メイ、メイ、ただいまメイ……
 いつも聞きなれてるはずなのに、なぜだか今日はすごく懐かしい・・・・シュンの声。
 燃え立つ緑の光の陽炎の向こうから、懐かしい・・・・で、シュンがわたしに手をさしのばす。
 おかえりなさいシュン、おかえりなさいシュン……
 シュンの方に手をのばしながら、そよ風になでられたわたしの頬を、なぜだかポロポロ涙がこぼれてるのがわかった。

 シュン……シュン……おかえりなさい、シュン。










しおりを挟む

処理中です...