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第11章 機巧都市〈ウルヴェルク〉
表札の無い屋敷
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「まったく呆れたぜ……お前、ずっと文無しのまんまインゼクトリアを飛び出して、人間の世界まで顔をつっ込んでいたのか?」
「ウウ……そうではない。これまでは、その……出先で欲しいものがあったら、全部コゼットに頼んで買ってもらっていたのだ! だからわたしはその……お金というものを持ったことがないのだ!」
開いた口のふさがらないグリザルドに、ルシオンはモジモジしながらそう答える。
ほんとに……小さい子供かよ!
ルシオンの中のソーマも、呆然としてツッコむ言葉も見つからない。
これまで彼女が欲しいものは、侍女のコゼットに買ってもらっていたというのだ。
市場に1人残されて、急に不安そうな声を上げたのは、そういう理由だったのか……!
だが、その時だった。
「ほんとーにしょーがねーなぁ……」
グリザルドは大きくため息を吐きながら、背負っていたバッグの中身をゴソゴソ物色しはじめた。
そして……
「ほれ、これ使っていいから。こんだけあれば、その辺でメシだって食えるだろ。正午の鐘まで、おとなしくしてろよ?」
小さな声でルシオンにそう言うと、グリザルドはバッグから取り出した大きなヒョウ柄のガマ口を彼女に差し出した。
「それは財布……お金! いいのか本当に!?」
「ああ、無駄遣いすんじゃねーぞ」
グリザルドの言葉に、恥ずかしそうにモジモジしていたルシオンの顔が、パッと明るくなる。
「じゃあ、俺は行くからな? 忘れるなよ、正午の鐘であの鐘楼の下だ。あと大通り以外の裏道には絶対入るなよ? 色々物騒だからな!」
ワクテカした様子のルシオンに、心配そうに何度も何度も念を押しながら。
盗賊グリザルドは人込みの向こうに消えていった。
この街の、実力者かぁ……
ルシオンの中でソーマは首をかしげる。
グリザルドが探しているという人物は、いったいどんなヤツなのだろう。
あの盗賊の頭には、何かミッションをうまく運ぶ算段があるのだろうか?
モヤモヤとそんなことを考えるソーマだったが……肝心のルシオンの方は、もうそれどころではないみたいだった。
#
「ファハハハーッ! 自分のお金で買い物かあぁ! このへんにある店のモノ、全部買えるってことか! イイなあ……なんだかアガルなあ!」
おいおいルシオン、調子に乗って無駄遣いするなよ?
ガマ口の中身をジャラジャラさせながら、テンションが上がりすぎて変な笑い声を漏らしてるルシオンに、ソーマは心配そうな声を上げる。
「えーと、この小さい銅貨は10マジアで、銀貨は100マジア、こっちの大きいのが500マジアで、この紙切れが1000マジアっと……」
ガマ口の中身を1枚1枚確認しながら、普段使い慣れていない貨幣の金額を確かめていくルシオン。
「10マジアが8枚、100マジアが5枚、500マジアが1枚、1000マジアが2枚……ウウッ! ダメだ暗算できん!」
……3080マジアだよ、ルシオン。
お金の計算が、まるでダメな様子のルシオンに、ソーマが仕方なく助け舟を出す。
「フンッ! わたしもいま計算し終えたところだ。さて何に使うかな……っと!? この匂いは……!」
ソーマにへらず口を叩きながら、胸元に大事そうにガマ口をしまったルシオンが、何かを嗅ぎつけたのかクンクンと鼻を鳴らした。
「アッチから……美味そうな匂い!」
ちょと、こらルシオン!
ソーマの制止も聞かずに、ルシオンが匂いの漂ってくる方向に歩き始めた。
#
「へいらっしゃい、何にする嬢ちゃん?」
「よーしよし。まずは腹ごしらえだ、えーとえーと……」
通りのそこかしこに連なった屋台の1軒にたどりついたルシオンが、店先に並んだ様々な食べ物を見つめて頬を緩めている。
あれ、でもここで売ってる、コレって……?
何か妙なことに気がついたソーマが、店先に立つオヤジの顔をマジマジ眺めた、その時だった。
「オヤジ、まずはそこの『じゃがバター』というのを1つ。あとそっちの『タコ焼き』というのも1パックくれ!」
ルシオンが、欲しいものを指さしながら、毛むくじゃらの顔をした人の好さそうな獣鬼の親父にそう声をかけた。
……やっぱり!
ソーマはルシオンの中で驚愕の呻きを漏らす。
どこか似てるとか、そういうレベルじゃない。
完全にじゃがバターとタコ焼きじゃねーか!
「へい、じゃがバターが500マジアで、タコ焼きが400で……2つで900マジアね」
……高!
親父の言葉に唖然とするソーマ。
完全に、『縁日価格』だった!
その時だった。
「フヘヘ、親父、あともう1つ……」
ルシオンが、口元に悪い笑みを浮かべながら、店内のサーバーを指さした。
「1度いってみたかったんだ。あそこにある機巧都市名産……『黒ビール』ってやつを1杯!」
「へい毎度。500マジアね……」
……っておい。
ちょっと待てルシオン!
#
「ハー。1度やってみたかったんだ。『買い食い』ってやつを……」
ルシオンが上機嫌な様子で、広場のベンチに腰を下ろして買い物の成果を広げていた。
おいルシオン、本当に大丈夫なのかビールなんて!
「大丈夫だ問題ない。ビールなんて水みたいなものだって、前に父上が言ってたしな。1回試してみたかったんだ。でもその前に……」
心配そうなソーマを尻目に、ルシオンは目の前に取り出したじゃがバターを見つめてニヘッと笑う。
「なになに、吹雪国名産のジャガイモに、牛の乳を濾して発酵させたバターという脂を乗せた郷土料理です……か」
広場で無料配布されていた、屋台街のパンフレットを眺めながら興味深くうなずくルシオン。
まんま……人間の世界のモノと同じだ!
ソーマは改めて唖然とする。
いったいどういう理由なのだろう。
ひょっとすると……あの盗賊グリザルドのように、接界を通じてこの世界と人間の世界を行き来する者が他にも沢山いたのだとしたら……
そいつらが持ち込んだ、人間世界の食材や料理のレシピが、この世界でも広がっているのかもしれない。
いや、ひょっとして……むしろその逆ということもあり得ないと、いったい誰にわかる……!?
見慣れた顔つきでホコホコと湯気を立てているじゃがバターを前にして、ソーマは果てしない思考の迷路に迷い込んでいた……その時だった。
「イモをふかして牛の乳の脂を乗せるなんて、妙なことを考えるヤツがいるなー。でも美味そうだ……(パクッ)」
ルシオンが、ふかしたじゃがにかぶりついていた。
「ムホオオオオッ! ホクホクとした素朴なイモの味を、薫り高いバターが何倍にも引き立てている! これは有り! アリアリ、オオアリクイだ! うーまーいーぞー!」
まったく、さわがしいなぁ……
口の中に広がるイモとバターの味わいに、ルシオンが歓びの悲鳴を上げていた。
「続いてこっちは……なになに、灰海国で獲れた新鮮なタコの美味しさを、特殊な機器を使って小麦粉の中に閉じ込めました……か」
ルシオンが、タコ焼きのパックを開けていた。
8個入りの小ぶりな球に、ソース、青ノリ、鰹節……
ソーマも見慣れた、いつものあのルックスだった。
「ウへー。タコって、本当にあのタコだったのか! あの足がいっぱいあってグニョグニョした! よくあんなモノを食べてみようなんて思ったよなぁ……」
ルシオンが、興味半分、恐ろしさ半分の顔つきで、タコ焼きを自分の口に放り込んだ。
「ンムウウウウッ! なんだこれは! 外はカリッと中はトロっとしたこの食感は! でもって周りにかけられたこのタレと、フワフワしたもの味のハーモニーは! トロッした中から最後に現れるこのクネクネコリコリしたものの旨味……これがタコ!? ううううううーまーいーぞー!」
ルシオンはタコ焼きにもご満悦のようだった。
「このじゃがバターとタコ焼きの美味さを……こいつで一気に……流し込む……ってゲホッ! なんだこれ苦い……変な味がする!」
あーあ、だから言ったのに……
タコ焼きの後に流し込んだビールに、強烈な拒絶反応を起こすルシオン。
ルシオンの中のソーマは、呆れた顔で彼女の食事を見守るしかなかった。
だが、その時だった。
「ヘヘヘ……いたぞ、コイツだ!」
「間違いねえ、番兵のフォークがタレこんだ通りだ、猫人の子供だ!」
「こいつは……ポーフの旦那に高く売れるぜ!」
ルシオンの周りから、いくつもの気配が近づいてくるのをソーマは感じた。
「うん……!?」
怪訝そうに顔を上げたルシオンが辺りを見回すと……
いつの間にかルシオンを取り囲んでいるのは、屈強な体つきをした何人もの男たちだった。
「間違いねえ、猫人のガキだ!」
「1人きりか? フォークが言ってた土鬼の奴隷商の姿が見えんが……まあいい好都合だぜ……」
「うん……なんだ?」
ルシオンが妙な気配に気づいて辺りを見回すと、いつの間にか彼女を取り囲んでいたのは……
大鬼、獣鬼、小鬼……
その手にこん棒やナイフや鉈を握った、ガラの悪そうな5人の男たちがニヤニヤ笑いながらルシオンを見下ろしている。
「ひょ……ひょっとまへ……ンガ……モガ!」
じゃがバターとタコ焼きをどうにかビールで流し込んだルシオンが、慌ててベンチから飛び上がる。
どうやら男たちの目当ては、ルシオンそのものみたいだった。
あの小鬼の番兵は、人買いの悪党どもとグルだったらしい。
「買い手になる主人を探してるんだって?」
「ちょうどいいぜ、俺たちが拾ったことにして売りさばいちまおう」
「ああ、猫人のガキならポーフの旦那のとこに持ってけば、言い値で売れる……」
「こっちに来な、クソガキ!」
それぞれ好き勝手なことを言いながら、男たちがルシオンに近づいてきた。
お、おい大丈夫かルシオン?
ルシオンの中のソーマは心配そうに彼女に尋ねる。
ルシオンが実力を出せば、こんなチンピラどもを片付けるは一瞬のはずだ。
だが、ルシオンがここで力を使ったら……この場で目立って、正体を晒したりしてしまったら……
「フン……『奴隷』とか『主人』とか『売りさばく』とか……ヘドが出るな!」
だが、当のルシオンはそんなことを気にしている様子は、まったく無いみたいだった。
「あん、なんだと……」
「こんなに凄い機械の城塞に住んでいるのに……奴隷制とか人身売買とか、どこまで野蛮なんだ、おまえらの国は。まったくとんでもない後進国だな……」
不敵な態度のルシオンに、チンピラどもが一瞬たじろぐ。
男たちを見回しながら、心底ウンザリした様子で、ルシオンは深いため息をついた。
そして……
「うるせー! なに訳のわかんねーこと言ってやがる! おとなしくしてねーとドベエエエッ!」
「ほー。おとなしくしないと、どうなるんだ?」
ルシオンの肩を無理やり掴もうとした獣鬼が、地面に突っ伏して悲鳴を上げていた。
ルシオンの小さな手が男の腕を変な方向に折り曲げて、そのまま男の体を広場の石畳に叩き伏せていたのだ!
「こ……このクソガキ!」
「ほれほれ時間がもったいない。まとめてチャッチャと片付けてやる。かかってこい……って……アレ!?」
一斉に武器を構えて殺気立つ男たちを見回して。
ルシオンが威勢よくタンカをきった……だが、その時だった。
「なんだ……体が……おふぁひい……」
ルシオン? おい、ルシオン!
ルシオンの体に起きた異変に気づいてソーマは悲鳴を上げた。
彼女の手に、足に、まったく力が入っていなかった。
目の前がグルグル回っている。
全身がカッカと熱い。
手も足も、真っ赤に染まっていた。
「なんやあほえ、目が回る~~~」
あールシオン!
だから止めろって言ったのに!
ルシオンにもソーマにも、もう体に起きた異変の理由は明白だった。
さっき屋台で買って無理やり飲み干した黒ビールが全身に回って……
ルシオンを完全な酩酊状態にしてしまったのだ!
制御のきかなくなったルシオンの体が、広場の石畳にドサッと倒れこむ。
……よりによってこんな時に!
アルコール耐性0かよ!
ルシオンのあまりの不用心さと間の悪さに、ソーマは絶望の声を上げた。
「なんだこいつ……勝手に倒れちまったぞ?」
男たちが拍子抜けした声を上げる。そして……
」
「このクソガキー! さっきはよくも!」
ゲシッ! ゲシッ! ゲシッ!
ルシオンに腕を折られて地面に倒れていた獣鬼が、怒りに顔を歪めながらルシオンのミゾオチを何度も蹴り上げる。
「ふえーダメだ……もう飲めない……」
あーもう! 立て! 立つんだルシオン!
獣鬼にされるがままのルシオンに、ソーマは必死でそう叫ぶが……
ルシオンは目を回したまま、立ち上がることもできない。
「おい、顔は傷つけるなよ、値段が下がっちまうからな……」
「クソが! 最初からおとなしくしてりゃいいものを!」
そして獣鬼が、ルシオンの髪を掴んで引きずって、どこかに持ち去ろうとした……その時だった。
「やれやれ、この界隈にも品格の無い奴が増えたな」
声がした。
ルシオンを取り囲んだチンピラたちとは違う。
静かで落ち着きのある、だがナイフの切っ先のような冷たさを感じさせる声が、あたりに響き渡った。
「なんだ、てめえ?」
チンピラの1人、ナイフを持った小鬼が声の方を向くと、いったい何時からそこにいたのか。
立っていたのは、1人の男だった。
ほっそりとした体躯に、上下とも真っ黒な仕立ての良いスーツをまとっていた。
白い手袋をした右手に携えているのは、漆黒のコウモリ傘。
年は20後半くらいだろうか。
きれいに撫でつけた漆黒の髪。
まるで女と見違えるような、整った目鼻立ち。
そしてチンピラたちをキッとにらんだその瞳は、金色に輝いていた。
「こんな小さな淑女を、大の男が5人がかりで……。紳士のする事とは言えんな……」
黒衣の男は呆れた様子でそう呟くと、ツカツカと荒くれたちに近づいてきた。
ただ立って歩くその姿に、優雅さと張り詰めたような緊迫感がある。
「うるせえ! すっこんでろ! この街で関係ない事に首つっこむ馬鹿は」
小鬼が獰猛にうなると、威嚇するように自分のナイフを男に向けた……だがその時だった。
「…………!」
声を上げる暇もなかった。
ナイフを持った小鬼が、広場の石畳に倒れ込んでいた。
男の振るったコウモリ傘の先端が、小鬼の握ったナイフを一瞬で路上に叩き落としていた。
そして間髪入れずに男の放った左の掌底が、小鬼のミゾオチにめり込んでいたのだ。
目にも止まらぬスピードだった。
「……関係ならあるぞ」
何が起きたのか理解できずに呆気にとられるチンピラたちを見回して、男は凄みのある声でそう答えた。
「この街では全部で48ルートある、私の朝の散歩道……この広場はその1つだ。この私……マキシ・クロニアムの前で、品格の無いマネは許さない」
「……あっ! マキシ……!?」
そう言い放った男の言葉に、何かに思い出したようにこん棒を持った大鬼が声を上げた。
ザワザワザワ……
チンピラたちの間に、動揺の色が広がっていく。
「ちくしょう、あの糞ったれの『壊し屋』マキシか!」
「またその名前か……。まったく君たちチンピラの語彙の乏しさにはいつもウンザリさせられる。とはいえ……」
マキシと呼ばれた黒衣の男が、心底ウンザリしたように首を振ると荒くれたちにこう言い放った。
「私の『二つ名』を知っていて近接戦闘を挑んでくるのは、賢い者のすることではないぞ? 早く帰って、お」
「うるせえ! やっちまえ!」
男の制止も聞かず、手斧、鉈、こん棒を構えたチンピラたちが、一斉に男に襲い掛かった。
だが……
#
「ひっひいいいッ!」
数秒後、石畳に尻もちをついた大鬼や獣鬼の恐怖の呻きが、広場に響いていた。
襲い掛かった4人のチンピラを、男が叩きのめして卒倒させるまで、1秒もかからなかったのだ。
「ちっくしょう、ふざけやがって!」
さっき男に叩きのめされた小鬼が、肩で息をしながら石畳から立ち上がった。
そして小鬼は、懐のホルスターから黒光りする何かを取り出していた。
「ほう、貴重品の拳銃か。で、なにかな、そいつで私を撃つのか?」
黒衣の男が興味深げに、小鬼の取り出したソレを眺めていた。
男に向かって構えられていたのは、銀色の回転式拳銃だった。
「強い……!」
なんなんだ、あいつ!?
酩酊して動けないルシオンと彼女の中のソーマは、石畳につっぷしたまま闘いの行方を見ているしかない。
「やれやれだ。朝市で賑わったこんな場所でソイツを撃ったらどうなると思う。みんながパニックになっていきなり逃げだしたら、怪我人も1人や2人じゃすまないぞ……」
「へっ! なにが怪我人だよ。ちっとは自分の心配をしやがれ。もっともおめーは、怪我じゃすまねーけどな!」
そして最後に残ったチンピラの1人……下卑た笑みを浮かべた小鬼が構えた銀色の拳銃を見て、マキシは肩をすくめた。
両手を上げて、チンピラを思いとどまらせようと話しかけるマキシだったが、小鬼の方にそんなつもりは無いようだった。
チンピラの構えた拳銃の銃口は、ピタリとマキシの胸に向けられていた。
「なるほど分かった。だったら、先程よりちょっぴり痛い思いをしてもらう!」
「ギャハハハハッ! 何言ってやがる。痛みでのたうちまわってくたばるのは、おめーの方だぁ!」
引き金にかかった小鬼の指先に力がこもって……弾丸が発射されてマキシの胸を撃ち抜く……
かに思えた、だがその時だった。
「編集!」
マキシが、右手の指先をパチリと鳴らして凛とした声を上げていた。
なにが起きた!
ルシオンの中のソーマが、唖然としてそう声を上げた。
ルシオンの視線の先、さっきまでマキシが立っていたその場所から……フッと拭い去るように、男の姿が消えていた。
と。同時に……
「ギャアアアアアアッ!」
小鬼の悲鳴が広場に木霊していた。
さっきまで拳銃を構えていた右手を押さえながら、チンピラが広場をころげまわっている。
あれは……ナイフ!
ソーマは目を見張る。
引き金を引こうとしていたチンピラの指先が……その手から斬り落とされていた。
小鬼が力を込めて右手に握り締めていたモノ。
それはさっきマキシのコウモリ傘で叩き落されたはずの、むき出しになったナイフの刃先だった!
「痛え! 痛えよおおおお!」
「だから言っただろう、痛い思いをするって……」
そして、どういうわけかナイフと入れ替わってしまった小鬼の拳銃が、いま在る場所は……
いつの間にか小鬼の傍に立っていた、マキシの右手の中だった!
「そんなに力んで撃つからだ。指が取れてしまってるじゃあないか?」
「ちくしょーっ! おめーいったい何を……!?」
地面に転がった小鬼の指を見て、呆れた様子でため息をつくマキシ。
「まだやるか? 今度は『ちょっぴり痛い』くらいじゃ済まないぞ。仲間を連れてとっとと消え失せろ。でないと……」
マキシは苦痛のうめきを漏らす小鬼の鼻先に、銀色の拳銃をチラつかせると……
「バアン!」
「ひいいいいいいいっ!」
小鬼の耳元に、大声で。
マキシが銃を撃つ口真似をすると、小鬼は悲鳴を上げて、転がるようにその場から逃げ去っていった。
「やれやれだ。怪我はないかね、小さな淑女……?」
小鬼が消えたのを見届けると、マキシが倒れこんだルシオンの方に歩いてきた。
「ふぁーおあえあー?」
「猫人の子供とは珍しいな。親とはぐれたのか? 動けないのか、連中に薬を飲まされた……?」
ろれつの回らない声で、マキシに何か話そうとするルシオン。
動けないルシオンをのぞき込みながら、不思議そうに首をかしげるマキシ。
「いや、だが……猫人にしては、何かおかしいような……? うん?」
ルシオンの姿に違和感を覚えたのか、そう呟いてマキシが首をかしげた、その時だった。
シュウウウウ……
ルシオンの体が、緑色の光に包まれていった。
そして徐々に薄れてゆく光の中から現れたのは……
「のわあああああああああっ!」
露わになったルシオンの姿に、マキシが悲鳴を上げた。
いま仰向けになって広場に倒れているのは、猫人に変装したお忍び服でも、黒鳥のような衣をまとった戦闘服でもない。
一糸もまたわない、生まれたままのルシオンの姿だった。
「な……何をやっているだ! 公衆の面前で!」
「いやーらっへ~~~~」
マキシが顔を真っ赤にしてルシオンにそう叫ぶが、ルシオンはもう自分の服のコントロールも出来ないみたいだった。
「ええい、見てられん……淑女なら恥じらいを持て! 編集!」
マキシはルシオンから目線をそらしながら、自分の右手の指をパチリと鳴らした。
すると……さっきと同じだった。
なんの前触れもなく、景色が見えない筆先で塗り替えられたみたいに。
全裸だったルシオンが、服を着ていた。
いや、それは服というにはあまりにもお粗末な……まるでその辺で拾ってきたズダ袋に袖穴を通したようなシロモノだったが。
「まったく何かと思えば……魔王の眷族の転身か。紛らわしいマネを……にしても?」
袋に包まれた、まるでミノムシみたいな恰好で目を回しているルシオンを見下ろしてマキシは再び首をかしげる。
「この姿は……確かゼクトの一族。インゼクトリアの魔王の子供が、どうして機巧都市に……!?」
#
「よーやく見つけた。こんな場所まで移動してたのか……」
盗賊グリザルドが、目の前にそびえた大きな鉄門を見上げてため息をついていた。
そこは、大通りからずっと隔たった入り組んだ路地の奥。
暗い路地の向こうに、いきなり広がっている、表札のかかっていない大邸宅の門前だった。
鉄門の向こうに広がっているのは、手入れの行き届いた芝生と生垣。
そのさらに奥に建っているのは、白亜の壁をした壮麗な洋館。
「お屋敷よ、頼む通してくれ。俺はグリザルド。屋敷の主、マキシ・クロニアムに用があるんだ」
グリザルドが門前でそう告げると。
ギギイイイイ……
誰の手も触れていないのに、盗賊の目の前で大きな鉄門が軋んだ音をたてて開いた。
「しっかし何度見ても、不思議な場所だぜえ……」
邸宅の敷地に足を踏み入れて。
洋館に向かって歩き出したグリザルドは、あたりを見回して感嘆の声を漏らした。
広大な庭園の手入れ行き届いた花壇や生垣には、色とりどりの季節の花々が咲き乱れている。
「探偵マキシ・クロニアムの住む『表札の無いお屋敷』……機巧都市だけじゃない。あらゆる国の、あらゆる街角に不定期に存在している不思議な屋敷、か……っと、そうだ!」
グリザルドは何かを思い出したように、自分のバッグに手を伸ばした。
盗賊がバッグの中から取り出したのは、朝方市場の雑貨屋で手に取った、小さな金色のネックレスだった。
「アイツ、喜ぶかな……? まあ安物だけど、ちょっとは気が紛れるかもしれねーしな……」
ネックレスを見つめながら、グリザルドは少しシミジミした口調でそう呟いた。
盗賊が雑貨屋で買ってきたのは、誰かに渡すための土産の品のようだった。
#
「いるかいマキシの旦那、勝手に邪魔するぜ?」
洋館の玄関にたどり着いたグリザルドがそう声を上げると。
「ああ、そろそろ来る頃だと思っていたよグリザルドくん。勝手に上がってくれたまえ……」
屋敷の中から響いた誰かの声と同時に。
洋館の玄関の鍵が上がり、その扉が音もなく開いた。
そして……
#
「邪魔するぜ、マキシの旦那……って!!!!」
屋敷の外装に見合った、壮麗で掃除も行き届いている客間に顔を出したグリザルドの体が……。
一瞬にして固まっていた。
「ボゲエーーー。ぐるじいー頭が痛いーーー!!」
「ほらほら、もっとたくさん水を飲むんだ。洗面器はそこだからな。まったく酒に飲まれて行き倒れていただなんて、淑女にはあるまじき振る舞いだぞ……」
盗賊が目の当たりにしたのは……
客間のソファーに横になって苦しげな声を上げているミノムシのような姿のルシオンと。
呆れた顔で彼女を介抱しているマキシ・クロニアムの姿だった。
「どわああああああっ! 王女! なんでお前が此処に!」
グリザルドが悲鳴を上げた。
盗賊の顔が、恐怖に引きつっていた。
「ウウ……そうではない。これまでは、その……出先で欲しいものがあったら、全部コゼットに頼んで買ってもらっていたのだ! だからわたしはその……お金というものを持ったことがないのだ!」
開いた口のふさがらないグリザルドに、ルシオンはモジモジしながらそう答える。
ほんとに……小さい子供かよ!
ルシオンの中のソーマも、呆然としてツッコむ言葉も見つからない。
これまで彼女が欲しいものは、侍女のコゼットに買ってもらっていたというのだ。
市場に1人残されて、急に不安そうな声を上げたのは、そういう理由だったのか……!
だが、その時だった。
「ほんとーにしょーがねーなぁ……」
グリザルドは大きくため息を吐きながら、背負っていたバッグの中身をゴソゴソ物色しはじめた。
そして……
「ほれ、これ使っていいから。こんだけあれば、その辺でメシだって食えるだろ。正午の鐘まで、おとなしくしてろよ?」
小さな声でルシオンにそう言うと、グリザルドはバッグから取り出した大きなヒョウ柄のガマ口を彼女に差し出した。
「それは財布……お金! いいのか本当に!?」
「ああ、無駄遣いすんじゃねーぞ」
グリザルドの言葉に、恥ずかしそうにモジモジしていたルシオンの顔が、パッと明るくなる。
「じゃあ、俺は行くからな? 忘れるなよ、正午の鐘であの鐘楼の下だ。あと大通り以外の裏道には絶対入るなよ? 色々物騒だからな!」
ワクテカした様子のルシオンに、心配そうに何度も何度も念を押しながら。
盗賊グリザルドは人込みの向こうに消えていった。
この街の、実力者かぁ……
ルシオンの中でソーマは首をかしげる。
グリザルドが探しているという人物は、いったいどんなヤツなのだろう。
あの盗賊の頭には、何かミッションをうまく運ぶ算段があるのだろうか?
モヤモヤとそんなことを考えるソーマだったが……肝心のルシオンの方は、もうそれどころではないみたいだった。
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「ファハハハーッ! 自分のお金で買い物かあぁ! このへんにある店のモノ、全部買えるってことか! イイなあ……なんだかアガルなあ!」
おいおいルシオン、調子に乗って無駄遣いするなよ?
ガマ口の中身をジャラジャラさせながら、テンションが上がりすぎて変な笑い声を漏らしてるルシオンに、ソーマは心配そうな声を上げる。
「えーと、この小さい銅貨は10マジアで、銀貨は100マジア、こっちの大きいのが500マジアで、この紙切れが1000マジアっと……」
ガマ口の中身を1枚1枚確認しながら、普段使い慣れていない貨幣の金額を確かめていくルシオン。
「10マジアが8枚、100マジアが5枚、500マジアが1枚、1000マジアが2枚……ウウッ! ダメだ暗算できん!」
……3080マジアだよ、ルシオン。
お金の計算が、まるでダメな様子のルシオンに、ソーマが仕方なく助け舟を出す。
「フンッ! わたしもいま計算し終えたところだ。さて何に使うかな……っと!? この匂いは……!」
ソーマにへらず口を叩きながら、胸元に大事そうにガマ口をしまったルシオンが、何かを嗅ぎつけたのかクンクンと鼻を鳴らした。
「アッチから……美味そうな匂い!」
ちょと、こらルシオン!
ソーマの制止も聞かずに、ルシオンが匂いの漂ってくる方向に歩き始めた。
#
「へいらっしゃい、何にする嬢ちゃん?」
「よーしよし。まずは腹ごしらえだ、えーとえーと……」
通りのそこかしこに連なった屋台の1軒にたどりついたルシオンが、店先に並んだ様々な食べ物を見つめて頬を緩めている。
あれ、でもここで売ってる、コレって……?
何か妙なことに気がついたソーマが、店先に立つオヤジの顔をマジマジ眺めた、その時だった。
「オヤジ、まずはそこの『じゃがバター』というのを1つ。あとそっちの『タコ焼き』というのも1パックくれ!」
ルシオンが、欲しいものを指さしながら、毛むくじゃらの顔をした人の好さそうな獣鬼の親父にそう声をかけた。
……やっぱり!
ソーマはルシオンの中で驚愕の呻きを漏らす。
どこか似てるとか、そういうレベルじゃない。
完全にじゃがバターとタコ焼きじゃねーか!
「へい、じゃがバターが500マジアで、タコ焼きが400で……2つで900マジアね」
……高!
親父の言葉に唖然とするソーマ。
完全に、『縁日価格』だった!
その時だった。
「フヘヘ、親父、あともう1つ……」
ルシオンが、口元に悪い笑みを浮かべながら、店内のサーバーを指さした。
「1度いってみたかったんだ。あそこにある機巧都市名産……『黒ビール』ってやつを1杯!」
「へい毎度。500マジアね……」
……っておい。
ちょっと待てルシオン!
#
「ハー。1度やってみたかったんだ。『買い食い』ってやつを……」
ルシオンが上機嫌な様子で、広場のベンチに腰を下ろして買い物の成果を広げていた。
おいルシオン、本当に大丈夫なのかビールなんて!
「大丈夫だ問題ない。ビールなんて水みたいなものだって、前に父上が言ってたしな。1回試してみたかったんだ。でもその前に……」
心配そうなソーマを尻目に、ルシオンは目の前に取り出したじゃがバターを見つめてニヘッと笑う。
「なになに、吹雪国名産のジャガイモに、牛の乳を濾して発酵させたバターという脂を乗せた郷土料理です……か」
広場で無料配布されていた、屋台街のパンフレットを眺めながら興味深くうなずくルシオン。
まんま……人間の世界のモノと同じだ!
ソーマは改めて唖然とする。
いったいどういう理由なのだろう。
ひょっとすると……あの盗賊グリザルドのように、接界を通じてこの世界と人間の世界を行き来する者が他にも沢山いたのだとしたら……
そいつらが持ち込んだ、人間世界の食材や料理のレシピが、この世界でも広がっているのかもしれない。
いや、ひょっとして……むしろその逆ということもあり得ないと、いったい誰にわかる……!?
見慣れた顔つきでホコホコと湯気を立てているじゃがバターを前にして、ソーマは果てしない思考の迷路に迷い込んでいた……その時だった。
「イモをふかして牛の乳の脂を乗せるなんて、妙なことを考えるヤツがいるなー。でも美味そうだ……(パクッ)」
ルシオンが、ふかしたじゃがにかぶりついていた。
「ムホオオオオッ! ホクホクとした素朴なイモの味を、薫り高いバターが何倍にも引き立てている! これは有り! アリアリ、オオアリクイだ! うーまーいーぞー!」
まったく、さわがしいなぁ……
口の中に広がるイモとバターの味わいに、ルシオンが歓びの悲鳴を上げていた。
「続いてこっちは……なになに、灰海国で獲れた新鮮なタコの美味しさを、特殊な機器を使って小麦粉の中に閉じ込めました……か」
ルシオンが、タコ焼きのパックを開けていた。
8個入りの小ぶりな球に、ソース、青ノリ、鰹節……
ソーマも見慣れた、いつものあのルックスだった。
「ウへー。タコって、本当にあのタコだったのか! あの足がいっぱいあってグニョグニョした! よくあんなモノを食べてみようなんて思ったよなぁ……」
ルシオンが、興味半分、恐ろしさ半分の顔つきで、タコ焼きを自分の口に放り込んだ。
「ンムウウウウッ! なんだこれは! 外はカリッと中はトロっとしたこの食感は! でもって周りにかけられたこのタレと、フワフワしたもの味のハーモニーは! トロッした中から最後に現れるこのクネクネコリコリしたものの旨味……これがタコ!? ううううううーまーいーぞー!」
ルシオンはタコ焼きにもご満悦のようだった。
「このじゃがバターとタコ焼きの美味さを……こいつで一気に……流し込む……ってゲホッ! なんだこれ苦い……変な味がする!」
あーあ、だから言ったのに……
タコ焼きの後に流し込んだビールに、強烈な拒絶反応を起こすルシオン。
ルシオンの中のソーマは、呆れた顔で彼女の食事を見守るしかなかった。
だが、その時だった。
「ヘヘヘ……いたぞ、コイツだ!」
「間違いねえ、番兵のフォークがタレこんだ通りだ、猫人の子供だ!」
「こいつは……ポーフの旦那に高く売れるぜ!」
ルシオンの周りから、いくつもの気配が近づいてくるのをソーマは感じた。
「うん……!?」
怪訝そうに顔を上げたルシオンが辺りを見回すと……
いつの間にかルシオンを取り囲んでいるのは、屈強な体つきをした何人もの男たちだった。
「間違いねえ、猫人のガキだ!」
「1人きりか? フォークが言ってた土鬼の奴隷商の姿が見えんが……まあいい好都合だぜ……」
「うん……なんだ?」
ルシオンが妙な気配に気づいて辺りを見回すと、いつの間にか彼女を取り囲んでいたのは……
大鬼、獣鬼、小鬼……
その手にこん棒やナイフや鉈を握った、ガラの悪そうな5人の男たちがニヤニヤ笑いながらルシオンを見下ろしている。
「ひょ……ひょっとまへ……ンガ……モガ!」
じゃがバターとタコ焼きをどうにかビールで流し込んだルシオンが、慌ててベンチから飛び上がる。
どうやら男たちの目当ては、ルシオンそのものみたいだった。
あの小鬼の番兵は、人買いの悪党どもとグルだったらしい。
「買い手になる主人を探してるんだって?」
「ちょうどいいぜ、俺たちが拾ったことにして売りさばいちまおう」
「ああ、猫人のガキならポーフの旦那のとこに持ってけば、言い値で売れる……」
「こっちに来な、クソガキ!」
それぞれ好き勝手なことを言いながら、男たちがルシオンに近づいてきた。
お、おい大丈夫かルシオン?
ルシオンの中のソーマは心配そうに彼女に尋ねる。
ルシオンが実力を出せば、こんなチンピラどもを片付けるは一瞬のはずだ。
だが、ルシオンがここで力を使ったら……この場で目立って、正体を晒したりしてしまったら……
「フン……『奴隷』とか『主人』とか『売りさばく』とか……ヘドが出るな!」
だが、当のルシオンはそんなことを気にしている様子は、まったく無いみたいだった。
「あん、なんだと……」
「こんなに凄い機械の城塞に住んでいるのに……奴隷制とか人身売買とか、どこまで野蛮なんだ、おまえらの国は。まったくとんでもない後進国だな……」
不敵な態度のルシオンに、チンピラどもが一瞬たじろぐ。
男たちを見回しながら、心底ウンザリした様子で、ルシオンは深いため息をついた。
そして……
「うるせー! なに訳のわかんねーこと言ってやがる! おとなしくしてねーとドベエエエッ!」
「ほー。おとなしくしないと、どうなるんだ?」
ルシオンの肩を無理やり掴もうとした獣鬼が、地面に突っ伏して悲鳴を上げていた。
ルシオンの小さな手が男の腕を変な方向に折り曲げて、そのまま男の体を広場の石畳に叩き伏せていたのだ!
「こ……このクソガキ!」
「ほれほれ時間がもったいない。まとめてチャッチャと片付けてやる。かかってこい……って……アレ!?」
一斉に武器を構えて殺気立つ男たちを見回して。
ルシオンが威勢よくタンカをきった……だが、その時だった。
「なんだ……体が……おふぁひい……」
ルシオン? おい、ルシオン!
ルシオンの体に起きた異変に気づいてソーマは悲鳴を上げた。
彼女の手に、足に、まったく力が入っていなかった。
目の前がグルグル回っている。
全身がカッカと熱い。
手も足も、真っ赤に染まっていた。
「なんやあほえ、目が回る~~~」
あールシオン!
だから止めろって言ったのに!
ルシオンにもソーマにも、もう体に起きた異変の理由は明白だった。
さっき屋台で買って無理やり飲み干した黒ビールが全身に回って……
ルシオンを完全な酩酊状態にしてしまったのだ!
制御のきかなくなったルシオンの体が、広場の石畳にドサッと倒れこむ。
……よりによってこんな時に!
アルコール耐性0かよ!
ルシオンのあまりの不用心さと間の悪さに、ソーマは絶望の声を上げた。
「なんだこいつ……勝手に倒れちまったぞ?」
男たちが拍子抜けした声を上げる。そして……
」
「このクソガキー! さっきはよくも!」
ゲシッ! ゲシッ! ゲシッ!
ルシオンに腕を折られて地面に倒れていた獣鬼が、怒りに顔を歪めながらルシオンのミゾオチを何度も蹴り上げる。
「ふえーダメだ……もう飲めない……」
あーもう! 立て! 立つんだルシオン!
獣鬼にされるがままのルシオンに、ソーマは必死でそう叫ぶが……
ルシオンは目を回したまま、立ち上がることもできない。
「おい、顔は傷つけるなよ、値段が下がっちまうからな……」
「クソが! 最初からおとなしくしてりゃいいものを!」
そして獣鬼が、ルシオンの髪を掴んで引きずって、どこかに持ち去ろうとした……その時だった。
「やれやれ、この界隈にも品格の無い奴が増えたな」
声がした。
ルシオンを取り囲んだチンピラたちとは違う。
静かで落ち着きのある、だがナイフの切っ先のような冷たさを感じさせる声が、あたりに響き渡った。
「なんだ、てめえ?」
チンピラの1人、ナイフを持った小鬼が声の方を向くと、いったい何時からそこにいたのか。
立っていたのは、1人の男だった。
ほっそりとした体躯に、上下とも真っ黒な仕立ての良いスーツをまとっていた。
白い手袋をした右手に携えているのは、漆黒のコウモリ傘。
年は20後半くらいだろうか。
きれいに撫でつけた漆黒の髪。
まるで女と見違えるような、整った目鼻立ち。
そしてチンピラたちをキッとにらんだその瞳は、金色に輝いていた。
「こんな小さな淑女を、大の男が5人がかりで……。紳士のする事とは言えんな……」
黒衣の男は呆れた様子でそう呟くと、ツカツカと荒くれたちに近づいてきた。
ただ立って歩くその姿に、優雅さと張り詰めたような緊迫感がある。
「うるせえ! すっこんでろ! この街で関係ない事に首つっこむ馬鹿は」
小鬼が獰猛にうなると、威嚇するように自分のナイフを男に向けた……だがその時だった。
「…………!」
声を上げる暇もなかった。
ナイフを持った小鬼が、広場の石畳に倒れ込んでいた。
男の振るったコウモリ傘の先端が、小鬼の握ったナイフを一瞬で路上に叩き落としていた。
そして間髪入れずに男の放った左の掌底が、小鬼のミゾオチにめり込んでいたのだ。
目にも止まらぬスピードだった。
「……関係ならあるぞ」
何が起きたのか理解できずに呆気にとられるチンピラたちを見回して、男は凄みのある声でそう答えた。
「この街では全部で48ルートある、私の朝の散歩道……この広場はその1つだ。この私……マキシ・クロニアムの前で、品格の無いマネは許さない」
「……あっ! マキシ……!?」
そう言い放った男の言葉に、何かに思い出したようにこん棒を持った大鬼が声を上げた。
ザワザワザワ……
チンピラたちの間に、動揺の色が広がっていく。
「ちくしょう、あの糞ったれの『壊し屋』マキシか!」
「またその名前か……。まったく君たちチンピラの語彙の乏しさにはいつもウンザリさせられる。とはいえ……」
マキシと呼ばれた黒衣の男が、心底ウンザリしたように首を振ると荒くれたちにこう言い放った。
「私の『二つ名』を知っていて近接戦闘を挑んでくるのは、賢い者のすることではないぞ? 早く帰って、お」
「うるせえ! やっちまえ!」
男の制止も聞かず、手斧、鉈、こん棒を構えたチンピラたちが、一斉に男に襲い掛かった。
だが……
#
「ひっひいいいッ!」
数秒後、石畳に尻もちをついた大鬼や獣鬼の恐怖の呻きが、広場に響いていた。
襲い掛かった4人のチンピラを、男が叩きのめして卒倒させるまで、1秒もかからなかったのだ。
「ちっくしょう、ふざけやがって!」
さっき男に叩きのめされた小鬼が、肩で息をしながら石畳から立ち上がった。
そして小鬼は、懐のホルスターから黒光りする何かを取り出していた。
「ほう、貴重品の拳銃か。で、なにかな、そいつで私を撃つのか?」
黒衣の男が興味深げに、小鬼の取り出したソレを眺めていた。
男に向かって構えられていたのは、銀色の回転式拳銃だった。
「強い……!」
なんなんだ、あいつ!?
酩酊して動けないルシオンと彼女の中のソーマは、石畳につっぷしたまま闘いの行方を見ているしかない。
「やれやれだ。朝市で賑わったこんな場所でソイツを撃ったらどうなると思う。みんながパニックになっていきなり逃げだしたら、怪我人も1人や2人じゃすまないぞ……」
「へっ! なにが怪我人だよ。ちっとは自分の心配をしやがれ。もっともおめーは、怪我じゃすまねーけどな!」
そして最後に残ったチンピラの1人……下卑た笑みを浮かべた小鬼が構えた銀色の拳銃を見て、マキシは肩をすくめた。
両手を上げて、チンピラを思いとどまらせようと話しかけるマキシだったが、小鬼の方にそんなつもりは無いようだった。
チンピラの構えた拳銃の銃口は、ピタリとマキシの胸に向けられていた。
「なるほど分かった。だったら、先程よりちょっぴり痛い思いをしてもらう!」
「ギャハハハハッ! 何言ってやがる。痛みでのたうちまわってくたばるのは、おめーの方だぁ!」
引き金にかかった小鬼の指先に力がこもって……弾丸が発射されてマキシの胸を撃ち抜く……
かに思えた、だがその時だった。
「編集!」
マキシが、右手の指先をパチリと鳴らして凛とした声を上げていた。
なにが起きた!
ルシオンの中のソーマが、唖然としてそう声を上げた。
ルシオンの視線の先、さっきまでマキシが立っていたその場所から……フッと拭い去るように、男の姿が消えていた。
と。同時に……
「ギャアアアアアアッ!」
小鬼の悲鳴が広場に木霊していた。
さっきまで拳銃を構えていた右手を押さえながら、チンピラが広場をころげまわっている。
あれは……ナイフ!
ソーマは目を見張る。
引き金を引こうとしていたチンピラの指先が……その手から斬り落とされていた。
小鬼が力を込めて右手に握り締めていたモノ。
それはさっきマキシのコウモリ傘で叩き落されたはずの、むき出しになったナイフの刃先だった!
「痛え! 痛えよおおおお!」
「だから言っただろう、痛い思いをするって……」
そして、どういうわけかナイフと入れ替わってしまった小鬼の拳銃が、いま在る場所は……
いつの間にか小鬼の傍に立っていた、マキシの右手の中だった!
「そんなに力んで撃つからだ。指が取れてしまってるじゃあないか?」
「ちくしょーっ! おめーいったい何を……!?」
地面に転がった小鬼の指を見て、呆れた様子でため息をつくマキシ。
「まだやるか? 今度は『ちょっぴり痛い』くらいじゃ済まないぞ。仲間を連れてとっとと消え失せろ。でないと……」
マキシは苦痛のうめきを漏らす小鬼の鼻先に、銀色の拳銃をチラつかせると……
「バアン!」
「ひいいいいいいいっ!」
小鬼の耳元に、大声で。
マキシが銃を撃つ口真似をすると、小鬼は悲鳴を上げて、転がるようにその場から逃げ去っていった。
「やれやれだ。怪我はないかね、小さな淑女……?」
小鬼が消えたのを見届けると、マキシが倒れこんだルシオンの方に歩いてきた。
「ふぁーおあえあー?」
「猫人の子供とは珍しいな。親とはぐれたのか? 動けないのか、連中に薬を飲まされた……?」
ろれつの回らない声で、マキシに何か話そうとするルシオン。
動けないルシオンをのぞき込みながら、不思議そうに首をかしげるマキシ。
「いや、だが……猫人にしては、何かおかしいような……? うん?」
ルシオンの姿に違和感を覚えたのか、そう呟いてマキシが首をかしげた、その時だった。
シュウウウウ……
ルシオンの体が、緑色の光に包まれていった。
そして徐々に薄れてゆく光の中から現れたのは……
「のわあああああああああっ!」
露わになったルシオンの姿に、マキシが悲鳴を上げた。
いま仰向けになって広場に倒れているのは、猫人に変装したお忍び服でも、黒鳥のような衣をまとった戦闘服でもない。
一糸もまたわない、生まれたままのルシオンの姿だった。
「な……何をやっているだ! 公衆の面前で!」
「いやーらっへ~~~~」
マキシが顔を真っ赤にしてルシオンにそう叫ぶが、ルシオンはもう自分の服のコントロールも出来ないみたいだった。
「ええい、見てられん……淑女なら恥じらいを持て! 編集!」
マキシはルシオンから目線をそらしながら、自分の右手の指をパチリと鳴らした。
すると……さっきと同じだった。
なんの前触れもなく、景色が見えない筆先で塗り替えられたみたいに。
全裸だったルシオンが、服を着ていた。
いや、それは服というにはあまりにもお粗末な……まるでその辺で拾ってきたズダ袋に袖穴を通したようなシロモノだったが。
「まったく何かと思えば……魔王の眷族の転身か。紛らわしいマネを……にしても?」
袋に包まれた、まるでミノムシみたいな恰好で目を回しているルシオンを見下ろしてマキシは再び首をかしげる。
「この姿は……確かゼクトの一族。インゼクトリアの魔王の子供が、どうして機巧都市に……!?」
#
「よーやく見つけた。こんな場所まで移動してたのか……」
盗賊グリザルドが、目の前にそびえた大きな鉄門を見上げてため息をついていた。
そこは、大通りからずっと隔たった入り組んだ路地の奥。
暗い路地の向こうに、いきなり広がっている、表札のかかっていない大邸宅の門前だった。
鉄門の向こうに広がっているのは、手入れの行き届いた芝生と生垣。
そのさらに奥に建っているのは、白亜の壁をした壮麗な洋館。
「お屋敷よ、頼む通してくれ。俺はグリザルド。屋敷の主、マキシ・クロニアムに用があるんだ」
グリザルドが門前でそう告げると。
ギギイイイイ……
誰の手も触れていないのに、盗賊の目の前で大きな鉄門が軋んだ音をたてて開いた。
「しっかし何度見ても、不思議な場所だぜえ……」
邸宅の敷地に足を踏み入れて。
洋館に向かって歩き出したグリザルドは、あたりを見回して感嘆の声を漏らした。
広大な庭園の手入れ行き届いた花壇や生垣には、色とりどりの季節の花々が咲き乱れている。
「探偵マキシ・クロニアムの住む『表札の無いお屋敷』……機巧都市だけじゃない。あらゆる国の、あらゆる街角に不定期に存在している不思議な屋敷、か……っと、そうだ!」
グリザルドは何かを思い出したように、自分のバッグに手を伸ばした。
盗賊がバッグの中から取り出したのは、朝方市場の雑貨屋で手に取った、小さな金色のネックレスだった。
「アイツ、喜ぶかな……? まあ安物だけど、ちょっとは気が紛れるかもしれねーしな……」
ネックレスを見つめながら、グリザルドは少しシミジミした口調でそう呟いた。
盗賊が雑貨屋で買ってきたのは、誰かに渡すための土産の品のようだった。
#
「いるかいマキシの旦那、勝手に邪魔するぜ?」
洋館の玄関にたどり着いたグリザルドがそう声を上げると。
「ああ、そろそろ来る頃だと思っていたよグリザルドくん。勝手に上がってくれたまえ……」
屋敷の中から響いた誰かの声と同時に。
洋館の玄関の鍵が上がり、その扉が音もなく開いた。
そして……
#
「邪魔するぜ、マキシの旦那……って!!!!」
屋敷の外装に見合った、壮麗で掃除も行き届いている客間に顔を出したグリザルドの体が……。
一瞬にして固まっていた。
「ボゲエーーー。ぐるじいー頭が痛いーーー!!」
「ほらほら、もっとたくさん水を飲むんだ。洗面器はそこだからな。まったく酒に飲まれて行き倒れていただなんて、淑女にはあるまじき振る舞いだぞ……」
盗賊が目の当たりにしたのは……
客間のソファーに横になって苦しげな声を上げているミノムシのような姿のルシオンと。
呆れた顔で彼女を介抱しているマキシ・クロニアムの姿だった。
「どわああああああっ! 王女! なんでお前が此処に!」
グリザルドが悲鳴を上げた。
盗賊の顔が、恐怖に引きつっていた。
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