婚約者を奪われ無職になった私は田舎で暮らすことにします

椿蛍

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38 ただ一人だけ

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納多のださん、香水を変えたんですね」

沈黙を破ったのは私のほうからだった。
けれど、口に出してしまってから『言わなきゃよかった』と思った。
斗翔とわが使っている香水と同じものですねって言っているようなものだ。
私の馬鹿!
心の中で自分の迂闊うかつさを呪った。

「そうですね」

―――気まずい。
なにか話題をと思っていると、 納多さんが先に口を開いた。

伶弥りょうやさんから勧められた香りだったので使っていただけです」

「納多さんは伶弥さんのこと、すごく大事にしてますよね」

「尊敬しています。優秀さや強さも自分より上ですから。幼い時から一緒に過ごしてきたので家族に近いですね」

「なんだかいいですね。そんな大切な人がいるのって」

「大切だからこそ、うまくいかないこともありますけどね」

納多さんはそう言って自嘲気味に笑った。

「それより、今日、送ってきた男は誰ですか?」

須麻すま繊維の社長でおばあちゃんと親しくしていた方なんです。おばあちゃんの個展のスポンサーで私にも染物をやらないかって言ってくださっている奇特な人です」

「やらないんですか?」

「え?」

「染物です」

「考え中です。私になにができるのかなって悩んでいるところで……」

ビールの缶をことんと納多さんは置いた。
いつもの髪型じゃないせいか、違う人みたいに見える。

「―――初めて見た時、綺麗だと思いました。染めた布の中に一人立っている姿は特別なものでした」

納多さんの口から綺麗なんて単語が出るとは思わず、ドキッとした。
お世辞を言わない人でありのままを口にする人だから余計にそう感じるのかもしれない。
本当の言葉は力がある。
私をやる気にさせるくらい。

「そうですね。私の色が見つけられるくらいまで極められたらいいなって思ってます」

「……そうですか」

納多さんはビールを飲んだ。
まだなにか言うのかと待っていると、納多さんは私をじっと見た。

「てっきり新しい恋人かと思いました」

「違いますよー!あっ、もしかして。それで焦って見にきたんですか?もー、納多さんってばー……」

「そうですよ」

「えっ?そ、そうですよ?」

冗談で言ったつもりの言葉を肯定されて動揺した。
そんな答えが返ってくる予定ではなかったから……
納多さんは黙ったまま、真顔でぬれた前髪をかきあげると、ふうっとため息をついた。
その姿は男の人だと思わせるのには十分だった。

「恋人じゃなくてよかった」

ど、ど、どういう意味!?
いやいや、納多さんに限って私となんてありえないよね?
だって、いつも憎まれ口しか叩いてないし。
それにっ。
頭の中にぐるぐるとわけのわからない思考を巡らせて混乱していると納多さんが笑った。

「少しは意識してもらえましたか?」

「わ、わざとですか」

「まあ、そうですね。あなたはいつもこちらを警戒していませんから。それも面白くないと思いまして」

こ、このぉー!
本当にこの人はっ!
憎たらしいというか、なんというか。
でも、気まずい雰囲気はなくなり、笑うことができた。
それに私が染めたものを綺麗だって言ってくれたしね。
いい人には間違いない。

「おつまみもどうぞ!じゃんじゃん食べてください!」

褒められて気をよくした私は納多さんに皿を渡し、並んだおつまみ達をずずいっと前に出した。

「はあ……、あなたはいいですね。お気楽で」

「お、お気楽!?」

「その図太さがうらやましいです」

いつもの調子で納多さんたは淡々と言ってきた。
別にいいけど。
もう慣れっこだし!

「よーし、飲みましょう!」

納多さんは『はいはい』と返事をすると星名せなちゃんと伶弥りょうやさんが出会った頃の話をしてくれた。
そして、もうすぐスポーツ競技場と合宿所が完成するという他愛ない話をした。
私達の話は尽きない。
いつの間にか風の音は止み、虫が鳴いていることも気づかずにいた。
納多さんは飲むと少しだけおしゃべりになる。
ビールのピラミッドがなくなる頃、雨も風もやんで静かになり、納多さんがもう大丈夫そうですから帰りますと言った。
見送るのに一緒に外に出ると庭に大きな水溜まりがいくつもできていて、カエルの声がうるさいくらい鳴いていた。

「今日はありがとうございました」

「いえ」

納多さんはレインコートを几帳面にたたみ、懐中電灯で足元を照らして道を確認していた。
ちゃんと長靴をはいてきていたけど、来るまでに泥が跳ねたのか、泥だらけで申し訳ない気持ちになったことはいうまでもない。
酷い雨風の中をよくきてくれたわよね……

「納多さんと楽しく飲めてよかったです」

「そうですか」

いつものように淡々と返事をした納多さんは私に背中を向けた。

「あなたの心には最初から最後までたった一人しかいないんですね」

虫の声しかない庭にその声ははっきりと響いた。

「そうですね―――」

私が答えるとこちらに顔を向けずに納多さんは手をあげた。
それ以上は言わなくていいというように。

「それじゃあ、帰ります。おやすみなさい」

「おやすみなさい……」

納多さんはこちらを一度も振り返らずに山道を歩いていった。
台風が去った後の空は満天の星空が広がっていて、空気が澄んでいた。
なにもかも見えてしまうんじゃないかってくらいの透き通った空気はアルコールで酔った私の頭まで明瞭にさせたのだった―――
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