38 / 44
38 ただ一人だけ
しおりを挟む「納多さん、香水を変えたんですね」
沈黙を破ったのは私のほうからだった。
けれど、口に出してしまってから『言わなきゃよかった』と思った。
斗翔が使っている香水と同じものですねって言っているようなものだ。
私の馬鹿!
心の中で自分の迂闊さを呪った。
「そうですね」
―――気まずい。
なにか話題をと思っていると、 納多さんが先に口を開いた。
「伶弥さんから勧められた香りだったので使っていただけです」
「納多さんは伶弥さんのこと、すごく大事にしてますよね」
「尊敬しています。優秀さや強さも自分より上ですから。幼い時から一緒に過ごしてきたので家族に近いですね」
「なんだかいいですね。そんな大切な人がいるのって」
「大切だからこそ、うまくいかないこともありますけどね」
納多さんはそう言って自嘲気味に笑った。
「それより、今日、送ってきた男は誰ですか?」
「須麻繊維の社長でおばあちゃんと親しくしていた方なんです。おばあちゃんの個展のスポンサーで私にも染物をやらないかって言ってくださっている奇特な人です」
「やらないんですか?」
「え?」
「染物です」
「考え中です。私になにができるのかなって悩んでいるところで……」
ビールの缶をことんと納多さんは置いた。
いつもの髪型じゃないせいか、違う人みたいに見える。
「―――初めて見た時、綺麗だと思いました。染めた布の中に一人立っている姿は特別なものでした」
納多さんの口から綺麗なんて単語が出るとは思わず、ドキッとした。
お世辞を言わない人でありのままを口にする人だから余計にそう感じるのかもしれない。
本当の言葉は力がある。
私をやる気にさせるくらい。
「そうですね。私の色が見つけられるくらいまで極められたらいいなって思ってます」
「……そうですか」
納多さんはビールを飲んだ。
まだなにか言うのかと待っていると、納多さんは私をじっと見た。
「てっきり新しい恋人かと思いました」
「違いますよー!あっ、もしかして。それで焦って見にきたんですか?もー、納多さんってばー……」
「そうですよ」
「えっ?そ、そうですよ?」
冗談で言ったつもりの言葉を肯定されて動揺した。
そんな答えが返ってくる予定ではなかったから……
納多さんは黙ったまま、真顔でぬれた前髪をかきあげると、ふうっとため息をついた。
その姿は男の人だと思わせるのには十分だった。
「恋人じゃなくてよかった」
ど、ど、どういう意味!?
いやいや、納多さんに限って私となんてありえないよね?
だって、いつも憎まれ口しか叩いてないし。
それにっ。
頭の中にぐるぐるとわけのわからない思考を巡らせて混乱していると納多さんが笑った。
「少しは意識してもらえましたか?」
「わ、わざとですか」
「まあ、そうですね。あなたはいつもこちらを警戒していませんから。それも面白くないと思いまして」
こ、このぉー!
本当にこの人はっ!
憎たらしいというか、なんというか。
でも、気まずい雰囲気はなくなり、笑うことができた。
それに私が染めたものを綺麗だって言ってくれたしね。
いい人には間違いない。
「おつまみもどうぞ!じゃんじゃん食べてください!」
褒められて気をよくした私は納多さんに皿を渡し、並んだおつまみ達をずずいっと前に出した。
「はあ……、あなたはいいですね。お気楽で」
「お、お気楽!?」
「その図太さがうらやましいです」
いつもの調子で納多さんたは淡々と言ってきた。
別にいいけど。
もう慣れっこだし!
「よーし、飲みましょう!」
納多さんは『はいはい』と返事をすると星名ちゃんと伶弥さんが出会った頃の話をしてくれた。
そして、もうすぐスポーツ競技場と合宿所が完成するという他愛ない話をした。
私達の話は尽きない。
いつの間にか風の音は止み、虫が鳴いていることも気づかずにいた。
納多さんは飲むと少しだけおしゃべりになる。
ビールのピラミッドがなくなる頃、雨も風もやんで静かになり、納多さんがもう大丈夫そうですから帰りますと言った。
見送るのに一緒に外に出ると庭に大きな水溜まりがいくつもできていて、カエルの声がうるさいくらい鳴いていた。
「今日はありがとうございました」
「いえ」
納多さんはレインコートを几帳面にたたみ、懐中電灯で足元を照らして道を確認していた。
ちゃんと長靴をはいてきていたけど、来るまでに泥が跳ねたのか、泥だらけで申し訳ない気持ちになったことはいうまでもない。
酷い雨風の中をよくきてくれたわよね……
「納多さんと楽しく飲めてよかったです」
「そうですか」
いつものように淡々と返事をした納多さんは私に背中を向けた。
「あなたの心には最初から最後までたった一人しかいないんですね」
虫の声しかない庭にその声ははっきりと響いた。
「そうですね―――」
私が答えるとこちらに顔を向けずに納多さんは手をあげた。
それ以上は言わなくていいというように。
「それじゃあ、帰ります。おやすみなさい」
「おやすみなさい……」
納多さんはこちらを一度も振り返らずに山道を歩いていった。
台風が去った後の空は満天の星空が広がっていて、空気が澄んでいた。
なにもかも見えてしまうんじゃないかってくらいの透き通った空気はアルコールで酔った私の頭まで明瞭にさせたのだった―――
14
お気に入りに追加
1,490
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる