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35 大人の男
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「俺がフラれるなんて生まれて初めてだ。さすが唄代先生の血を引くだけある。俺に人生二度目の衝撃を与えたよ」
冗談なのか、本気なのか、わからないことを須麻さんは言いながら、ランチに連れてきてくれた。
場所はフレンチレストラン。
このレストランは私がよく知っているレストランだった。
大きなガラス窓からは昼間の光が絶妙に入るよう調整され、一日の間で昼間が店内をもっとも明るくさせる。
濃い木目の床、大理石の柱には壁の淡いライトが反射して夜になるとまるでロウソクの明かりが揺らめいているように見える。
すべて、そうなるよう計算されているのだ。
「この間の彼が手掛けた店だよね。建築デザイナーの森崎斗翔」
「斗翔のこと気づいていたんですか」
「ライバルのことを知りたいと思って調べたんだ」
「またそんな冗談を言わないでください」
「俺は本気なのにひどいな」
ランチタイムで混んでいたけれど、私が案内されたのは個室で警戒する私に須麻さんは笑った。
「この店はね、女性を口説くより接待で使うことが多いから大丈夫。そんな警戒しないで」
それなら、思わせぶりなことを言うのをやめてほしいと思いながら、黙ってうなずいた。
私がどう頑張っても経験の差は大きく、須麻さんにあっさりと手のひらで転がされてしまう。
「プリフィクスコースで。前菜は蟹のジュレのキャビア添え、肉は鴨で魚は今日のおすすめにして。デザートはフルーツコンポートのアイス添えかな。仕事中だからノンアルコールにしておくよ。夏永ちゃんはどうする?」
どうすると言われても。
メニューを見ても何がおすすめなのかわからないし、選ぶのに時間がかかりそうだった。
そんな時は魔法の言葉がある。
「同じものでお願いします」
「かしこまりました」
完成した時、二人で食事をしたことを思い出してしまう。
私は若くて、フレンチなんて食べたことがなかった。
初めてキャビアを食べたのもこの店だった。
おいしいというと斗翔が自分の分のキャビアをくれて、なんていい人なんだろうって思ったのが懐かしい。
私には何もかもが珍しくて、斗翔がすごい大人に見えたな。
すぐに斗翔は私より子供っぽいところがあるとわかったけれど―――
「彼のこと考えてる?」
「そうですね」
「妬けるなぁ」
俺と食事しているのにと須麻さんは肩を落とした。
フルーツソースがかかった白いムースを口にした。
ふんわりとしたムースに甘酸っぱいムースが口の中で溶けた。
思い出の味は一つもなくて、新しいメニューばかりだった。
同じ建物なのに中身はあの頃とまったく違う。
「おいしいよね。この店、スタッフ全員が成長していていい店だなって思ってた。夏永ちゃんは自分を変えたくない?」
私が変わる―――?
「夏永ちゃん、付き合うのが無理ってのはわかったけど、須麻繊維で働かない?俺達、いいビジネスパートナーになれる思う」
「それは私が須麻繊維で働くということですか?」
「そうだよ。唄代先生のようにね」
「私を買いかぶりすぎです。素人ですから」
「じゃあ個展を開いてみたら?みんなの反応がわかるんじゃないかな」
「私の個展になんて誰もきませんよ」
そう言うと、須麻さんは真剣な顔で言った。
「まずは唄代先生と夏永ちゃんで個展を開いたら?」
「そんなことできませんよ」
くすりと須麻さんは私を挑発するように笑った。
「自信ない?唄代先生と並んで飾るのは」
「それもありますけど……」
染めた物を細々と売っている自分の作品と言われてもイメージがわかない。
「おばあちゃんの色はすごいんです。自然の中に溶け込んでいるっていうか……ブレてないっていうか」
「唄代先生と同じ色にする必要はない。君には君の色があるよ、きっとね」
「まだ見つけられていませんけど」
「その若さで見つけられるものなんて、恋の相手くらいなものだよ」
まだ見つける必要はない。
挑戦しろと須麻さんは言いたいのだろう。
須麻さんらしい物の言い方に思わず、笑みがこぼれた。
「個展を開くなら、協力するよ」
「はい。その時はよろしくお願いします」
「わかった!」
須麻さんは満足そうにうなずいた。
きっと私がそう答えることも須麻さんはお見通しだったんだろうな。
食えない大人なんだから。
デザートのサクランボのコンポートを食べ終わり、須麻さんと一緒に席を立った。
帰りの時間が迫ってきていて、駅まで送ろうと須麻さんは言ってくれた。
「すみません。忙しいのに送ってもらって」
「いいよ」
店のエントランスでそんな会話をしていた時だった。
「夏永……」
私の名前を声に顔を向けるとそこには斗翔とスーツ姿の男の人達、そして優奈子さんがいた。
「斗翔……」
腕を組み、店に入ってきたばかりで私が見たことのないスーツを着ている。
それは優奈子さんが斗翔に買ったものなのだろう。
「もしかして、そちらの男性は夏永さんの新しい恋人?斗翔さん、言ったでしょ。忘れて新しい人をすぐに見つけるって」
「恋人じゃないよ。そうなればいいなとは思ってるけどね」
須麻さんは毒気のない顔でにっこり微笑んだ。
その明るさが優奈子さんをたじろがせた。
「そ、そう。今日はね、婚約パーティーの打ち合わせにきたのよ。ね?斗翔さん?」
「そうだね」
斗翔は作り笑いなのか、本当に笑っているのか、わからないけれど、微笑んでいた。
こんな人の前で笑わないで。
そう言いたかったけど、私の立場じゃそんなことは言えない。
信じると決めたのに―――
「行こう。夏永ちゃん」
須麻さんに背中を押されて、ハッとした。
うつむいて私は斗翔の横を通りすぎた。
どんな顔をしているか、知りたくなくて。
「待って」
斗翔が呼び止めたのは私ではなく、須麻さんだった。
名刺をとりだし、差し出す。
「これもなにかの縁だしね」
「ふぅん。いいよ」
微笑み合う二人は名刺を交換した。
ただのビジネスシーンのはずなのに二人の間にはピリピリとした緊張感が漂っている。
名刺を渡すとすぐに斗翔は優奈子さんと店の奥へと入っていた。
私とは一言も口をきかずに―――
冗談なのか、本気なのか、わからないことを須麻さんは言いながら、ランチに連れてきてくれた。
場所はフレンチレストラン。
このレストランは私がよく知っているレストランだった。
大きなガラス窓からは昼間の光が絶妙に入るよう調整され、一日の間で昼間が店内をもっとも明るくさせる。
濃い木目の床、大理石の柱には壁の淡いライトが反射して夜になるとまるでロウソクの明かりが揺らめいているように見える。
すべて、そうなるよう計算されているのだ。
「この間の彼が手掛けた店だよね。建築デザイナーの森崎斗翔」
「斗翔のこと気づいていたんですか」
「ライバルのことを知りたいと思って調べたんだ」
「またそんな冗談を言わないでください」
「俺は本気なのにひどいな」
ランチタイムで混んでいたけれど、私が案内されたのは個室で警戒する私に須麻さんは笑った。
「この店はね、女性を口説くより接待で使うことが多いから大丈夫。そんな警戒しないで」
それなら、思わせぶりなことを言うのをやめてほしいと思いながら、黙ってうなずいた。
私がどう頑張っても経験の差は大きく、須麻さんにあっさりと手のひらで転がされてしまう。
「プリフィクスコースで。前菜は蟹のジュレのキャビア添え、肉は鴨で魚は今日のおすすめにして。デザートはフルーツコンポートのアイス添えかな。仕事中だからノンアルコールにしておくよ。夏永ちゃんはどうする?」
どうすると言われても。
メニューを見ても何がおすすめなのかわからないし、選ぶのに時間がかかりそうだった。
そんな時は魔法の言葉がある。
「同じものでお願いします」
「かしこまりました」
完成した時、二人で食事をしたことを思い出してしまう。
私は若くて、フレンチなんて食べたことがなかった。
初めてキャビアを食べたのもこの店だった。
おいしいというと斗翔が自分の分のキャビアをくれて、なんていい人なんだろうって思ったのが懐かしい。
私には何もかもが珍しくて、斗翔がすごい大人に見えたな。
すぐに斗翔は私より子供っぽいところがあるとわかったけれど―――
「彼のこと考えてる?」
「そうですね」
「妬けるなぁ」
俺と食事しているのにと須麻さんは肩を落とした。
フルーツソースがかかった白いムースを口にした。
ふんわりとしたムースに甘酸っぱいムースが口の中で溶けた。
思い出の味は一つもなくて、新しいメニューばかりだった。
同じ建物なのに中身はあの頃とまったく違う。
「おいしいよね。この店、スタッフ全員が成長していていい店だなって思ってた。夏永ちゃんは自分を変えたくない?」
私が変わる―――?
「夏永ちゃん、付き合うのが無理ってのはわかったけど、須麻繊維で働かない?俺達、いいビジネスパートナーになれる思う」
「それは私が須麻繊維で働くということですか?」
「そうだよ。唄代先生のようにね」
「私を買いかぶりすぎです。素人ですから」
「じゃあ個展を開いてみたら?みんなの反応がわかるんじゃないかな」
「私の個展になんて誰もきませんよ」
そう言うと、須麻さんは真剣な顔で言った。
「まずは唄代先生と夏永ちゃんで個展を開いたら?」
「そんなことできませんよ」
くすりと須麻さんは私を挑発するように笑った。
「自信ない?唄代先生と並んで飾るのは」
「それもありますけど……」
染めた物を細々と売っている自分の作品と言われてもイメージがわかない。
「おばあちゃんの色はすごいんです。自然の中に溶け込んでいるっていうか……ブレてないっていうか」
「唄代先生と同じ色にする必要はない。君には君の色があるよ、きっとね」
「まだ見つけられていませんけど」
「その若さで見つけられるものなんて、恋の相手くらいなものだよ」
まだ見つける必要はない。
挑戦しろと須麻さんは言いたいのだろう。
須麻さんらしい物の言い方に思わず、笑みがこぼれた。
「個展を開くなら、協力するよ」
「はい。その時はよろしくお願いします」
「わかった!」
須麻さんは満足そうにうなずいた。
きっと私がそう答えることも須麻さんはお見通しだったんだろうな。
食えない大人なんだから。
デザートのサクランボのコンポートを食べ終わり、須麻さんと一緒に席を立った。
帰りの時間が迫ってきていて、駅まで送ろうと須麻さんは言ってくれた。
「すみません。忙しいのに送ってもらって」
「いいよ」
店のエントランスでそんな会話をしていた時だった。
「夏永……」
私の名前を声に顔を向けるとそこには斗翔とスーツ姿の男の人達、そして優奈子さんがいた。
「斗翔……」
腕を組み、店に入ってきたばかりで私が見たことのないスーツを着ている。
それは優奈子さんが斗翔に買ったものなのだろう。
「もしかして、そちらの男性は夏永さんの新しい恋人?斗翔さん、言ったでしょ。忘れて新しい人をすぐに見つけるって」
「恋人じゃないよ。そうなればいいなとは思ってるけどね」
須麻さんは毒気のない顔でにっこり微笑んだ。
その明るさが優奈子さんをたじろがせた。
「そ、そう。今日はね、婚約パーティーの打ち合わせにきたのよ。ね?斗翔さん?」
「そうだね」
斗翔は作り笑いなのか、本当に笑っているのか、わからないけれど、微笑んでいた。
こんな人の前で笑わないで。
そう言いたかったけど、私の立場じゃそんなことは言えない。
信じると決めたのに―――
「行こう。夏永ちゃん」
須麻さんに背中を押されて、ハッとした。
うつむいて私は斗翔の横を通りすぎた。
どんな顔をしているか、知りたくなくて。
「待って」
斗翔が呼び止めたのは私ではなく、須麻さんだった。
名刺をとりだし、差し出す。
「これもなにかの縁だしね」
「ふぅん。いいよ」
微笑み合う二人は名刺を交換した。
ただのビジネスシーンのはずなのに二人の間にはピリピリとした緊張感が漂っている。
名刺を渡すとすぐに斗翔は優奈子さんと店の奥へと入っていた。
私とは一言も口をきかずに―――
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