婚約者を奪われ無職になった私は田舎で暮らすことにします

椿蛍

文字の大きさ
35 / 44

35 大人の男

しおりを挟む
「俺がフラれるなんて生まれて初めてだ。さすが唄代うたよ先生の血を引くだけある。俺に人生二度目の衝撃を与えたよ」

冗談なのか、本気なのか、わからないことを須麻すまさんは言いながら、ランチに連れてきてくれた。
場所はフレンチレストラン。
このレストランは私がよく知っているレストランだった。
大きなガラス窓からは昼間の光が絶妙に入るよう調整され、一日の間で昼間が店内をもっとも明るくさせる。
濃い木目の床、大理石の柱には壁の淡いライトが反射して夜になるとまるでロウソクの明かりが揺らめいているように見える。
すべて、そうなるよう計算されているのだ。

「この間の彼が手掛けた店だよね。建築デザイナーの森崎もりさき斗翔とわ

「斗翔のこと気づいていたんですか」

「ライバルのことを知りたいと思って調べたんだ」

「またそんな冗談を言わないでください」

「俺は本気なのにひどいな」

ランチタイムで混んでいたけれど、私が案内されたのは個室で警戒する私に須麻さんは笑った。

「この店はね、女性を口説くより接待で使うことが多いから大丈夫。そんな警戒しないで」

それなら、思わせぶりなことを言うのをやめてほしいと思いながら、黙ってうなずいた。
私がどう頑張っても経験の差は大きく、須麻さんにあっさりと手のひらで転がされてしまう。

「プリフィクスコースで。前菜は蟹のジュレのキャビア添え、肉は鴨で魚は今日のおすすめにして。デザートはフルーツコンポートのアイス添えかな。仕事中だからノンアルコールにしておくよ。夏永かえちゃんはどうする?」

どうすると言われても。
メニューを見ても何がおすすめなのかわからないし、選ぶのに時間がかかりそうだった。
そんな時は魔法の言葉がある。

「同じものでお願いします」

「かしこまりました」

完成した時、二人で食事をしたことを思い出してしまう。
私は若くて、フレンチなんて食べたことがなかった。
初めてキャビアを食べたのもこの店だった。
おいしいというと斗翔が自分の分のキャビアをくれて、なんていい人なんだろうって思ったのが懐かしい。
私には何もかもが珍しくて、斗翔がすごい大人に見えたな。
すぐに斗翔は私より子供っぽいところがあるとわかったけれど―――

「彼のこと考えてる?」

「そうですね」

「妬けるなぁ」

俺と食事しているのにと須麻さんは肩を落とした。
フルーツソースがかかった白いムースを口にした。
ふんわりとしたムースに甘酸っぱいムースが口の中で溶けた。
思い出の味は一つもなくて、新しいメニューばかりだった。
同じ建物なのに中身はあの頃とまったく違う。

「おいしいよね。この店、スタッフ全員が成長していていい店だなって思ってた。夏永ちゃんは自分を変えたくない?」

私が変わる―――?

「夏永ちゃん、付き合うのが無理ってのはわかったけど、須麻繊維で働かない?俺達、いいビジネスパートナーになれる思う」

「それは私が須麻繊維で働くということですか?」

「そうだよ。唄代先生のようにね」

「私を買いかぶりすぎです。素人ですから」

「じゃあ個展を開いてみたら?みんなの反応がわかるんじゃないかな」

「私の個展になんて誰もきませんよ」

そう言うと、須麻さんは真剣な顔で言った。

「まずは唄代先生と夏永ちゃんで個展を開いたら?」

「そんなことできませんよ」

くすりと須麻さんは私を挑発するように笑った。

「自信ない?唄代先生と並んで飾るのは」

「それもありますけど……」

染めた物を細々と売っている自分の作品と言われてもイメージがわかない。

「おばあちゃんの色はすごいんです。自然の中に溶け込んでいるっていうか……ブレてないっていうか」

「唄代先生と同じ色にする必要はない。君には君の色があるよ、きっとね」

「まだ見つけられていませんけど」

「その若さで見つけられるものなんて、恋の相手くらいなものだよ」

まだ見つける必要はない。
挑戦しろと須麻さんは言いたいのだろう。
須麻さんらしい物の言い方に思わず、笑みがこぼれた。

「個展を開くなら、協力するよ」

「はい。その時はよろしくお願いします」

「わかった!」

須麻さんは満足そうにうなずいた。
きっと私がそう答えることも須麻さんはお見通しだったんだろうな。
食えない大人なんだから。
デザートのサクランボのコンポートを食べ終わり、須麻さんと一緒に席を立った。
帰りの時間が迫ってきていて、駅まで送ろうと須麻さんは言ってくれた。

「すみません。忙しいのに送ってもらって」

「いいよ」

店のエントランスでそんな会話をしていた時だった。

「夏永……」

私の名前を声に顔を向けるとそこには斗翔とスーツ姿の男の人達、そして優奈子ゆなこさんがいた。

「斗翔……」

腕を組み、店に入ってきたばかりで私が見たことのないスーツを着ている。
それは優奈子さんが斗翔に買ったものなのだろう。

「もしかして、そちらの男性は夏永さんの新しい恋人?斗翔さん、言ったでしょ。忘れて新しい人をすぐに見つけるって」

「恋人じゃないよ。そうなればいいなとは思ってるけどね」

須麻さんは毒気のない顔でにっこり微笑んだ。
その明るさが優奈子さんをたじろがせた。

「そ、そう。今日はね、婚約パーティーの打ち合わせにきたのよ。ね?斗翔さん?」

「そうだね」

斗翔は作り笑いなのか、本当に笑っているのか、わからないけれど、微笑んでいた。
こんな人の前で笑わないで。
そう言いたかったけど、私の立場じゃそんなことは言えない。
信じると決めたのに―――

「行こう。夏永ちゃん」

須麻さんに背中を押されて、ハッとした。
うつむいて私は斗翔の横を通りすぎた。
どんな顔をしているか、知りたくなくて。

「待って」

斗翔が呼び止めたのは私ではなく、須麻さんだった。
名刺をとりだし、差し出す。

「これもなにかの縁だしね」

「ふぅん。いいよ」

微笑み合う二人は名刺を交換した。
ただのビジネスシーンのはずなのに二人の間にはピリピリとした緊張感が漂っている。
名刺を渡すとすぐに斗翔は優奈子さんと店の奥へと入っていた。
私とは一言も口をきかずに―――
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」 母に紹介され、なにかの間違いだと思った。 だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。 それだけでもかなりな不安案件なのに。 私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。 「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」 なーんて義父になる人が言い出して。 結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。 前途多難な同居生活。 相変わらず専務はなに考えているかわからない。 ……かと思えば。 「兄妹ならするだろ、これくらい」 当たり前のように落とされる、額へのキス。 いったい、どうなってんのー!? 三ツ森涼夏  24歳 大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務 背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。 小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。 たまにその頑張りが空回りすることも? 恋愛、苦手というより、嫌い。 淋しい、をちゃんと言えずにきた人。 × 八雲仁 30歳 大手菓子メーカー『おろち製菓』専務 背が高く、眼鏡のイケメン。 ただし、いつも無表情。 集中すると周りが見えなくなる。 そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。 小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。 ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!? ***** 千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』 ***** 表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101

処理中です...