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8 あなたはわたしのもの【優奈子】

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私が森崎もりさき斗翔とわさんと出会ったのは新しい駅の完成式典に父と一緒に出席した時だった。
どこか儚げで厭世えんせい的な彼は綺麗な顔立ちをしていて、他の誰とも違う特別な存在だってすぐにわかった。

「はじめまして。私、柴江しばえ優奈子ゆなこです」

握手をしようと手を差し出したけれど、その差し出された手をなんの感情もなく眺めて彼は言った。

「そうですか」

それだけだった。
今まで人からこんな扱いを受けたことがない。
ショックじゃかったと言えば嘘になるけど、彼は天才だもの。
少し他の人と違って当然よね。
そう思い直して、彼をずっと見ていた。
その日を境に彼のことはいろいろ調べた。
両親は他界して遠縁の森崎建設社長にお世話になっていたことや恋人は同じ会社の人で結婚間近だとか―――婚約者がいるのね。
写真を見たけど、普通だった。

「どこがいいのかしら?」

私のほうがずっと可愛いし、彼のサポートだってできるわ。
それになにこれ、土地を探している?
田舎で暮らしたいのか、全部ひなびた田舎の土地ばかり。
斗翔さんはそんな田舎で過ごしていい人じゃないわよ!
世界に名前を知られているような人なのよ?
きっとこの婚約者が田舎に住みたいなんて、ワガママを言ってるに違いないわ。

「なんとかしないと、彼の才能が埋もれてしまうわ」

そんなことを思っていた矢先のことだった。
森崎建設の不正が発覚したのは。
不正が発覚した森崎建設の経営が悪化するのは誰にでもわかることだった。
そう。私にですらね。

「お父様、お願いがあるの」

斗翔さんを助けてあげたい。
そして、助けた私に斗翔さんはきっと感謝をするでしょうね。
共和きょうわ銀行の頭取である父に森崎建設への融資をお願いすることなんて、私には簡単なことよ。
父も快諾してくれるのはわかってる。
だって、森崎建設は建設業界トップ。
潰すわけにはいかない企業で一時的に業績は落ち込んでもいずれ回復することは読めていたから。
私が頼んで融資してもらったという事実さえ、あればそれで私はいいのよ。
お金の話は彼を絡めとるには十分すぎるほど、効果をもっていた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


初対面なの?というくらい彼は私とは距離を置かれて、近寄らない。
警戒してるのかしら?
斗翔さんは自分から近づかないようにしていたけれど、私から歩み寄ってあげた。

「斗翔さんは人見知りだものね」

「俺には婚約者がいると言ったはずだけど?」

「そうだった?忘れちゃった」

にこっと笑うと斗翔さんは顔を歪めた。
どうせ今日までしか彼女は森崎建設に顔はだせないわよ?
そのことを彼は知らないだろうけど。
共和銀行から派遣した人間が彼女の椅子に今ごろ座っている。
どんな顔をしているか、見れないのは残念だけど―――

夏永かえさんだったかしら?斗翔さんの婚約者だっていう人」

怖い顔で睨み付けられたけど、私は平気。
だって、これは仕方ないことだから。
彼の才能を守るためには私が嫌われ役になってしまうことも今は我慢する。
そのうち、きっと彼は私に感謝するわ。

「別れをちゃんと告げてきて?」

「断る。俺は社長にはならない」

「そんなこと言わないで一緒に森崎建設を立て直していきましょう?ね、斗翔さん?」

「俺は夏永と生きていくって決めている。それ以外、なにもいらない」

「強情ね」

ふうっとため息をついた。
彼の才能は埋もれていいものじゃない。
このままだと困るわ。
コンコンと部屋をノックする音に私は気づいてドアを開けた。

「待ってたのよ。斗翔さんが社長にならないっていうから困っていたの」

入ってきたのは設計課にいるメンバー達。
一緒に仕事してきた彼にとっては馴れ親しんだ仲間達だった。

「お願いです!私、まだ娘が小さくて、家のローンも残ってるんです」

「うちも大学の学費があって、森崎君。頼むよ!」

なにを勝手なと斗翔さんが小さく呟いたけれど、顔色は良くない。
ずいぶんと動揺しているみたいだった。

「ありがとう、これで彼もきっと考え直してくれるわ」

最後まで斗翔さんに懇願する姿は本当に可哀想だったわ。
まさか、これで嫌だなんて言わないわよね?
振り返ると青白い顔で机に寄りかかっていた。
両親を亡くした彼にとっては家族はなによりも大切なものなんでしょうね。
それを壊すことができる?

「斗翔さん。大丈夫よ。あなたが社長になれば、みんなを助けられるわ」

首に手を回し、彼の顔を覗き込んだ。
なんて綺麗な顔なの。
苦しむ顔ですら、私には魅力的に見えた。

「斗翔っ!」

ドアが開き、私と抱き合う斗翔さんの姿をタイミングよく夏永さんが目撃した。
彼の婚約者である夏永さんは目を大きく見開き、固まっていた。
正しくは婚約者ね。
彼女は現実から目をそらし、逃げ出した。
追いかけようとした斗翔さんの手をとり、私は言った。

「いいの?みんな不幸になるけれど。それでも大丈夫というのなら追いかけて構わないわよ?」

手を振り払い、なおも追おうとした彼に言った。

「あなたと話したいお客様はまだいるの」

「なに―――」

経理課の筒井課長とその奥様を呼んでいた。
彼は足を止めて二人を見た。

「森崎君。この会社を守ってほしい。こんなことを頼まれても君は困るだろうが、社員一人一人に家族がいて生活があるんだ」

「娘が大学に入学したばかりなの。お願いします」

頭を下げる二人に驚き、足を止めた。

「……俺は頭を下げられるような存在じゃない」

彼の声は震えていて、私はそっと手をとった。

「ちゃんと別れてくださいね?私があなたの婚約者になるんだから」

彼からは拒否の言葉はなかった。
頭を下げる二人の前ではなにも言えず、苦しげな表情で沈黙していた。

「はい、これどうぞ」

スマホを渡した。

「なにを」

「ここで別れを告げてください。課長夫妻が証人です」

「できない」

「森崎君」

「通話ボタン、押してあげますね」

にこっと笑って通話ボタンを押した。

「早く言ってください。じゃないと、私、お父様に融資を取り消してもらいますよ?」

彼は青白い顔をしていたけれど、課長夫妻と目が合うと震える声で別れを告げた。

「……夏永。ごめん。もう一緒にはいれない」

そして、スマホを奪った。

「私と結婚することになったんです。これからは斗翔さんに近づかないでくださいね」

『どういうことですか!?』

電話の向こうからは困惑と焦りが混じった哀れな声が聴こえた。
今はショックだろうけれど、きっとあなたに合った人が見つかるわ。
あなたに合った普通の人が。

「わからなかったかしら?森崎建設の社長になって、私と結婚することになったんです。一緒にこの森崎建設を立て直すって約束したの。の皆さんのために」

ぐっと斗翔さんが拳を握ったのがわかった。
そう、今は我慢して。
彼女を忘れたら、きっとあなたの前には輝かしい道が広がっているわ。

「二度とこの電話にかけてこないでくださいね」

スマホの通話を切ると、彼女への連絡先を全て消した。
今はこれでいいけれど、番号を変えて新しいスマホを渡さないとね。

「斗翔さん。あの女の人が出ていくまで、家には帰らないでくださいね」

そして、監視の人をつけさせた。
彼が勝手にどこにも行かないように。
信用するまでの期間ですからと斗翔さんに言ったけれど、返事はなかった。
ただ呆然と立ち尽くし、消えた連絡先をいつまでも眺めていた―――
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