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1 私への罰

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雨が降りそう……
どんよりと重たい空を見上げてから時計を見る。
終業時間まであと数分。
もう机の上を片付け始めている人もいた。
金曜日のこの時間は心なしか全員の顔が明るく見える。

「どうするー?」

「行くに決まってるでしょ。だって、取引先の営業で一番イケメン率高いんだよ?」

「四対四にしたいよね。あと一人はどうしよー」

私には関係のないこと―――そう思って机の上に散らばっていた書類を集めた。
雨が降る前に早く帰りたい。
そんなことを思いながら。

「あのー、雪元ゆきもとさんも一緒に飲み会に行きませんか?かっこいい人いるかもしれませんよ?」

後輩の桜田さくらださんが近づいてきた。
お願いする時だけ少しだけ高くなる声。
彼女はそれに気づいているのだろうか。
ネイルサロンに通う彼女の爪にはマーメイドをイメージしたという貝殻の模様やピンクの鱗のような模様が可愛く描かれていた。
夏休みに友達とリゾートに行くからだと言っていたけど、休みの希望はなく、今日のためだったのだと今になって気づいた。

「いえ、私は結構です」

「そうですか……。残念です……」

「付き合い悪いわね」

「いつもよ、いつも。気にしないの」

同じ課の女子社員がそんなことを言うのが嫌でも耳に入ってくる。
『言われなくてもわかってる』と口には出さずに心の中でつぶやいた。
こんな時、耳がいいのも困りもの。
嫌な言葉もすぐに聴きわけてしまうのだから。
―――帰ろう。
少し仕事をしてから帰るつもりだったけれど、雨も降りそうだし、後は月曜日に後回し。
窓から見えた空は灰色の雲が厚くなり、今にも雨を降らせようとしている。
そういえば、天気予報は夕方から雨だと言っていたのを思い出した。
少し早足になりながら、ロッカールームに急いだ。
雨に濡れて風邪をひくのはごめんだ。
風邪をひいても誰も看病なんてしてくれないのだから。
両親?
両親は私のことなんて興味はゼロ。
邪魔に思っているか、存在自体を忘れているか。
そのどちらかなんだから。
それが悲しかったこともあったけど、もう昔のこと。
今じゃ両親は将来有望なピアニストとして期待されている妹に惜しみない愛情を注いでいる。
こっちに迷惑だけはかけるなよと言われるくらいで、今どうしているのかとかなにをしているのかなんて聞かれたことはない。
『できそこない』
『失敗作』
『落ちこぼれ』
それが私への家族の評価。
最低限の学費だけは払ってくれたけれど、存在自体が許せないとばかりに私のことを常に厄介者扱いしている。
妹は馬鹿にし、私の悪口を周囲に言いふらして、周囲の人間は私から自然に距離を置くようになった。

『みんなの期待を裏切ったんだぞ!』

ピアノが弾けなくなった私に父はそう怒鳴りつけたのを今も覚えている。
わかってる。
期待されて、それに応えられなかった私はいらない子。
孤独なのは私への罰。
バンッとロッカーの扉を閉めた。
ロッカールームで会社の制服を着替え終わると鏡を見た。
地味な事務員の制服から通勤着に変わったところで私の姿は劇的に変わらない。
通勤着は白シャツとネイビーのワイドパンツ。
暗くて付き合いの悪い女と一緒に働いている人達から言われていることもじゅうぶんわかっていた。
私は人付き合いも下手くそで仕事もすごくできるわけじゃないし、特徴もない。
結局、ピアノが弾けなくなった私は凡庸な人間で、それ以外はなに一つ得意とするものを見つけることはできなかった―――
神様は私にピアノの才能だけを与えてくれたのにそれが期限付きだったなんて、知らなかった。
最初から教えておいてよ、神様。
期限があるってこと。
そしたら、もう少しうまく生きれたはず。
性格だって今よりは明るかったと思うから。

「雨……」

会社を出たところで空からぽつぽつと雨が降ってきた。
傘を探してバッグの中に手を入れた。

「折りたたみ傘がない……」

傘を持ってくるのを忘れてしまった。
痛恨のミスにがっくりと肩を落とした。

「コンビニで傘を買っても五本目になっちゃうし」

はぁ……狭いアパートの玄関が傘に浸食されてしまう。
それを防ぐための折りたたみ傘作戦だったというのに。
本降りになりそうな雨粒の大きさに負けてアパートの帰り道にあるカフェに立ち寄った。
ひと時の雨宿りのつもりでカフェ『音の葉』に入った。
メニューを全部言えるくらい私がお気に入りにしているカフェ。
落ち着いた雰囲気が心地いい。
毎日の仕事帰りに立ち寄ることが多く、カレーやオムライスなどのセットメニューで夕飯を済ませて帰ることもある。
カフェ『音の葉』は開閉できる大きな窓ガラスが特徴で天気のいい日はテラス席が用意される。
梅雨が明けるまではそのテラス席はお預け。
早くこのじめじめした季節が終わってくれるといいのに。
なんとなく、気分的にも体調的にも不調になりやすいから。
それは私だけじゃない―――梅雨時は何度も調律に来てもらったなとふっと昔を思い出した。
ピアノも私と同じ。
調子が悪かった。

「あ……」

店にお客さんが誰もいなくて、もしかして休みなのかな?と思いながら店先を見たけど、営業中になっている。
私一人なんて珍しい。
レンガの壁面には蔦が這い、ランプのようなライト、渋い色をしたソファー、黒に近い木目のテーブルと椅子。
BGMはジャズミュージックで雨がよく似合う音楽。
だから、雨の日こそ私は『音の葉』にいくのが好きだった。
雨音に静かなジャズとコーヒー付きのケーキセット。
カフェの店長は綺麗な女の人で―――

「いらっしゃい」

「え?」

いつもの店長じゃない。
色素の薄い髪と瞳、涼やかな目元、外国のモデルのような男の人がカウンターに立っていた。
繊細そうな長い指で水に濡れたカップを白い布巾で丁寧にふいている。
西洋人形みたいに整った顔は冷たく見え、温度を感じない。

「今日は店長が休みなんだ」

「そうですか……」

バイトの人だろうか。
これが普通の見た目の男の人なら気にならなかったかもしれない。
人の目を引く人だなと思いながら、いつも座る窓際のソファー席に足を向けた。
視線をフロアの方へ移した瞬間、足を止めた。
違う、足が止まったのだ。
その先に進めなくて。
突然、カフェに現れた黒くて艶のある大きなグランドピアノはフロアの真ん中にあった。
以前までなかったのにどうして―――?
心臓が早鐘を打ち、手のひらに汗がにじんだ。

「まさかスタインウェイ……?本物?」

白く滑らかな鍵盤が私を呼ぶ。
『弾いて』と。
それはできないのと心の中で答えた。
頭の中に音がないから。
コンクール最終日。
私は音を失った。
いつも鳴りやまなかった音が頭の中から一瞬にして消えた。
けれど、なぜだろう。
きっとこのピアノと雨のせい。
二度と触れることはないと思っていた白い鍵盤に人差し指を一本だけ置いた。
気まぐれに人差し指で白い鍵盤をポーンッと叩いた。
私以外のお客さんはおらず、広いフロアに音が響く。
外の雨が激しくなって、ピアノの音を包みこんだ。

「……っ!」

雷鳴と同時に一瞬で引き戻されたのは過去の私。
コンクールの舞台から降りる私、失望と嘲笑、閉じ込められる私の姿。
そして深い闇。
頭の中に映像が次々と流れて足が震えた。
やっぱり弾けない。
私は―――

「弾きたいなら、どうぞ」

その声にハッとして我に返った。
自分がいるのは馴染みのカフェだと気づいて、ほっとした。

「……いえ、勝手に触ってすみません」

「君ならいいよ」

どういう意味?
振り返るといつの間にか私のそばにバイトの男の人が立っていた。

「弾かないの?」

鍵盤に触れただけでも奇跡に近い。
ピアノをやめてから一度も触れていなかったのに。
ふわりと香る彼のは香りはグリーン系の香水で甘くない香りが私の頭を明瞭にさせた。
こちらが現実……
私が首を横に振るのを見た彼は私の顔を上から覗き込んだ。
まるで私の目を逃がさないように。
逃げれないように追ってきた。
近くで見るとその目の色も髪も不思議でジッと見つめてしまった私に彼は目を細めた。

「じゃあ、俺が弾こうか?」

「弾けるの?」

私の問いかけに彼は笑った。
綺麗すぎる顔のせいか、冷たく見えていた顔の印象が笑うとガラリと変わった。
笑うと思わなかった人形が笑って、胸がドキッとした。
こんなの不意打ちすぎる……
さっと目を逸らした。

「それじゃあ、君だけのためにリサイタルをひらこうか」

椅子をもってきて、ピアノのそばに置いてくれた。
テーブル席じゃなく、楽譜をめくれるくらいの距離。
こんな近くで?と思わなくもなかったけれど、言われたとおりに黙って座った。
彼の指も表情も見えるくらいに近い。
すっと指を置いて、まるでピアノが生きているかのように鍵盤をなでて微笑む。
音を確かめるように一音鳴らす。
高く澄んだよく響く音を。
それだけでわかった。
彼は―――ピアニストなのだと。
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