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27 暗い海の上

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「ごめんなさいね、エルヴィーラ。おかしくて笑っちゃった」

 震えていたのは笑いを堪えていたから?
 私はなにが起きたか理解できず、呆然とした顔をしてベアトリーチェを見上げていた。

「馬鹿な犬だな」

 オディロンが物陰から現れた。
 以前より、オディロンは頬が痩け、目が落ち窪んでいた。身ぎれいにしていたオディロンの面影はなく、汚らしい無精髭を生やし、血走った眼を私へと向ける。

「今回はエルヴィーラ専用の檻にしてあげたのよ」

 確かに前は鳥籠の形をしていたのに今は四角い檻だった。

「ベアトリーチェ……どうして……」

 笑うベアトリーチェの代わりにオディロンが答えた。

「俺達が幸せになるためには後ろ盾がいる。お前は芸のひとつもできない役立たずだが、珍しい獣人だ。アシエベルグ王族達の暇潰しくらいにはなるだろう」
「また私をベアトリーチェの代わりにするの?」
「そういうこと。私の代わりにアシエベルグ国王から可愛がってもらいなさい。どうせ今まで、野良犬みたいに暮らしていたんでしょ?」

 オディロンは私を誘き寄せるためにレムナーク王国の港にいたってこと?
 で、でも、それだといつ、私が停泊しているかわからないし。

「鳥籠に入っているのが美しい私ではなく、エルヴィーラだと気づいたら、捨てられるだろうって思っていたわ」
「捨てられていないわ!」
「嘘つかなくていいのよ? 港で野良犬みたいに暮らしているだろうって思ったら、やっぱりそうだったんじゃないの」
「ホスキンズの奴が言っていたぞ。お前は王宮で殺されたか、捨てられたってな」

 ヴィオレットから追われる身となったオディロンは『パレ・ヴィオレット』への出入りが禁じられたせいか、正しい情報を手に入れることができなくなっていたようだった。

「ホスキンズ様はどうなったの?」
「レムナーク王国の国王陛下は噂通り酷い男よね。ホスキンズ商会は奴隷売買が明るみに出て財産を没収されたわ。いまや無一文よ」

 死刑にはされなかったようだ。
 今はホスキンズ様より自分の身の上のほうがよっぽど危機的状況に陥っている。

「野良犬を捕獲し、ベアトリーチェとして献上すれば、ヴィオレットに言い訳できる。ベアトリーチェはもういない。アシエベルグ国王の元にいるってな」

 またオディロンは同じことをするつもりのようだった。
 どうしてわからないのだろう。
 ヴィオレットにそんな子供騙しのような嘘が通用するわけない。

「オディロンが私に飽きたという噂を流したら、私を笑いにエルヴィーラがやってくるだろうって思っていたわ」
「笑ってないわ! 私はベアトリーチェを助けにきたのに……!」

 必死な私よりベアトリーチェは自分の爪のほうが大事らしく、長く艶やかな爪に傷がついていないか、熱心に見つめていた。

「あら、そう。ありがとう。それじゃあ、私を助けると思ってアシエベルグ王の貢ぎ物になってちょうだい」

 港を離れ、船の動く気配がして絶望した。
 私はここから逃げることもできず、行き着く先はアシエベルグ王国。
 遠ざかる王宮が目に浮かび、涙がこぼれた。

「ギデオン様……」

 眠っていたギデオン様は朝にならないと、私がいないことに気がつかない。
 こんな真夜中に誰も助けてなんてくれないし、他の船も犬一匹が捕まっていたところでなんとも思わないだろう。
 ベアトリーチェとオディロンは笑いながら船室のドアを閉めると、楽しそうに肩を組み出ていった。
 ランプの灯りも持っていかれ、船底は暗く波の音しか聞こえない。
 狡猾なベアトリーチェはオディロンから捨てられそうになって、私を身代わりにすることを思いついたのだろう。
 幸せになりたいのはわかるけど―――オディロンが悪党だと言っていたのは本当だった。

「帰りたい……。ギデオン様のところに帰りたいよ……」

 ぽたぽたと涙をこぼして、泣いても涙をぬぐってくれる指はなく白い毛並みを濡らした。
 泣いていると、ドーンッと大砲の音がし、船がぐらぐらと揺れて、波がざぶざぶと船体にかかるのがわかった。
 
「え? も、もう、アシエベルグの港に着いたの……?」

 大砲の音はオディロンが港に着いた合図のはずだ。
 ぐしっと涙をぬぐい、いつ私がここから連れ出されるのだろうかと、怯えながら待った。
 けれど、いつまで経っても来ない。
 やがて、甲板がうるさいことに気が付いた。
 船底まで響く喧騒はただ事ではないと思って、天井を眺めていると、ドンッと天井がぶち抜けた。

「え?」

 天井から落ちてきたのはオディロンだった。
 オディロンは擦り傷と切り傷だらけになった姿で、私が入っている檻にしがみついた。

「ええええっ?」

 血だらけのオディロンの姿が怖かったけど、それを上回る戸惑いに恐怖は打ち消された。
 甲板から誰か階段を降りてくる音がする。
 木の階段がミシミシと音をたて、天井からパラパラと木屑が落ちてくる。
 そして、ぶち抜かれた穴から潮風が入り込み、ふわりと白いマントを撫でた。

「お前は檻が好きだな。また檻の中にいるのか」
「ぎ、ギデオン様っ……」

 ここまで走ったせいで、私の姿は泥とホコリまみれになり、涙に顔が濡れて、お世辞にも綺麗な毛並みじゃなかった。
 でも、ギデオン様は暗くても私だとわかってくれた。

「エルヴィーラ、身をかがめろ」
「はっ、はい!」

 しつけの本で読んだアレを実行する。
 伏せっ!
 ペタンっと床に腹をつけると頭の上でビュッと風が起きて、檻が上下半分に切断された。
 青い刀身の剣が穴の開いた空から降り注ぐ月の光に照らされている。刃こぼれひとつせず、堂々と輝く姿は王の剣そのものだった。

「な、な……ぜ、レムナーク国王が……」

 オディロンは頭や体を血まみれにしながら、ギデオン様を仰ぎ見る。

「それはねぇ。エルヴィーラが国王陛下の犬だからだよっ。俺達の大事な犬を迎えにきたんだよ。ねっ、ギデオン様?」

 天井の穴からロキの背中に乗ったライオネルが降りてきて、身軽に床の上に立つ。

「ライオネル、こいつを連れて行け」
「はーい! 悪い子は連行しまーす」
「た、助けてくれ、助けてくれえええ」

 獲物を見つけたとばかりにロキがかぶりとオディロンを噛んだ。ロキはオディロンの体をずるずると引きずり、階段を上っていく。
 ゴンッとか、ドンッと痛々しい音がするのはオディロンの体がぶつかっている音だろうか。

「怪我はないか」
「ぎ、ギデオン様っ……わ、私っ……」

 檻の中へとギデオン様が手を伸ばし、私の体を抱き上げてくれた。暖かい手のぬくもりと優しい声に涙があふれてきた。

「おい、泣くな。犬に泣かれるのは苦手だと言っただろう?」
「ご、ごめんなさい……」

 ギデオン様は私の毛並みに顔を埋めると、頭の上にキスを落とした。
 そして、私を抱き抱え、階段を上っていく。
 潮風の匂いが強くなり、甲板へと出る。
 私は周囲が騒がしいのも気にならず、再会できた喜びで、ギデオン様しか目に入ってなかった。

「一人で出掛けるな」
「え? 出掛ける……?」
「今日、一緒に出掛ける約束をしていただろう? 湖で釣りと狩猟をしようと言ったな?」

 私は黒い海を眺めた。
 これは……ずいぶんと大きな湖ですね……
 明らかに湖とは違う潮の香りが漂っているんですが。
 オディロンの船を護衛していた船は火に包まれ、黒い海を不気味に照らしていた。

「犬一匹にレムナーク王国の戦列艦を動かすなんて正気の沙汰じゃない!」
「レムナーク王家の紋章があるぞ」
「まさか国王陛下が来ているのか……?」

 重装備の戦列艦は砲甲板が何層にもなり、無数の艦砲がオディロンの船を捉えていた。
 いつ沈められてもおかしくない。
 戦列艦には薔薇と獅子、剣を描いた紋章の旗が風になびいていた。その旗を見ただけで、オディロンが雇ったと思われる護衛達は騒然となり、怯えていた。
 護衛は護衛になっておらず、逃げまどっていた。

「お、おい、あの服装……」
「白い軍服……」

 甲板にギデオン様がいると護衛達が気づいた瞬間、マストの上から黒い鳥のようなものが降り立った。重たい音を鳴らし、飛び降りて来たのは黒い軍服を着たジョシュアだった。
 ダンッと甲板の上に降り立った瞬間、人間の急所を知り尽くしているのか、護衛の男達を一撃で昏倒させた。
 奇襲攻撃に護衛達は対応できず、理解する前に打ちのめされた。
 ギデオン様は動じることなく、悠然とした足取りで甲板を歩き、ロキに遊ばれてボロ雑巾になったオディロンの前に立つ。

「た、助けてくれ。頼む……」
「ロキ。食べていいぞ。たいしてうまくもないだろうが」
「ま、待ってくださいっ」
「待てを命じるのは俺だ」

 さあ、食えとギデオン様がロキをにらんだ。
 けれど、命じられたロキは『こいつ食べたくない』という顔をしていた。

「おい……」

 それを見ていたライオネルが苦笑した。

「あー、最近さ。エルヴィーラの作るアップルパイを食べすぎちゃって、美食家になっちゃったみたいなんだよね」
「好き嫌いをするな!」
「ギデオン様が好き嫌いをして、アップルパイを食べなかったせいですよ」

 ジョシュアに言われ、ギデオン様はぐっと言葉に詰まった。
 
「ギデオン様がアップルパイを食べてくれないから、ロキが代わりに食べてくれていたんです」

 好き嫌いをしていたのはギデオン様でしたね。
 ちらりと私は咎めるようにギデオン様を見たけれど、ギデオン様は目をそらし、何事もなかったような顔をした。
 ず、ずるい。
 今のは逃げましたね、完全に。

「な、なんなのよ、これぇ!」

 ベアトリーチェの悲鳴が聞こえてきた。ベアトリーチェはオディロンの船がぐるりと取り囲まれていることに気づき、激しく取り乱していた。
 
「い、いいわ。私だけでも逃げてっ……」

 鳥の姿にベアトリーチェが変化し、空へと逃げた。
 けれど、それを阻んだのは巨大な鳥だった。
 鷲の姿にライオンの胴体をした鳥がベアトリーチェに噛みつき、地上へと叩き落とした。
 その巨大な鳥達が空を旋回し、赤く燃える海の上を支配している。
 ライオネルが空を見上げて、無邪気に微笑んだ。

「エルヴィーラはあの子達とはじめましてだねっ!」
「あの子達って……。ライオネルの仲間なの?」
「そうだよ」

 子……?
 そんな可愛い容貌には見えないけれど、落ちたベアトリーチェをつついていた。

「きゃああああっ! 私の顔がっ!」

 ベアトリーチェが叫び声をあげたかと思うと、顔の部分から血が落ち、美しかった毛がむしられた。

「エルヴィーラ。ここから先は俺達の領分だから、見ないでくれる?」

 ライオネルは自分の唇に指をあてて微笑むと赤い目が闇に光った。
 私の目を覆ったのはギデオン様の手だった。

「見て欲しくないとライオネルが言っている」
「……はい」

 ベアトリーチェの体は私から遠ざけるようにして、他の船へと連れて行かれた。
 キメラを操るライオネルは次々と仲間を呼ぶ。月を背にして、海鳥のように船の上の空を自由にキメラが飛んでいる。
 パニックになり、逃げた水夫達が次々と海に飛び込んだのを見て、ギデオン様は船上から水夫達を見下ろした。

「ライオネル。水夫達を助けてやれ。船を動かすのに必要だからな」
「りょーかい」
 
 ライオネルは空を飛ぶキメラを操り、海に落ちた水夫達を救出していく。
 まるで魚を釣り上げるようにして。
 まさか、これが釣りだとかいいませんよね?
 オディロンはほとんど口もきけないくらい怯え、震えていた。

「レムナーク国王陛下が……こんな海賊のような振る舞いをするなど……」
「海賊のような?」

 ギデオン様がぴくりと眉を動かした。

「い、いえっ!」
「ああ。懐かしいですよね。昔はよくやりました。ディアドラ王妃の差し向けた私掠船を返り討ちにし、敵を海に落として味方になるかここで死ぬか、選ばせましたよね」

 ジョシュアが昔話をしながら、昏倒した男達を手慣れた様子でぐるぐる巻きにしていた。
 
「それで配下をかなり増やせたからな」
「海賊のようなじゃなくて、もう海賊じゃないですかっー!」
「しかたないだろう。乳母のローナは一家で海賊稼業をしていたのを母が俺の乳母に取り立てた。多少の影響はあるだおるな」
「多少……?」

 儚げなイメージがあったギデオン様のお母様だけど、その教えとはたくましく育てということですか?
 そういえば、息子が海軍にいるとかなんとか自慢げにローナさんが言っていたような気がする。
 つまり、海賊業をしながら、現在のレムナーク王国軍を編成しつつ、他国の船を襲って資金を調達。
 水夫を雇いながら、船を建造して自勢力を拡大し、今に至ると……

「思い出話はこれくらいでいいだろう」

 私に素敵な思い出話と武勇伝を私に聞かせたという顔で、ギデオン様は満足そうに微笑んだ。
 
「エルヴィーラ。王宮に帰ろう」
「……はい」

 ギデオン様が私の鼻にキスをした時、水平線から太陽が昇り、黒い海の線を赤から金色へと変えた。
 海の黒は濃い紺色から青へと変化し、白く空が染まる。
 レムナーク王国の船は夜明けの光で美しく見え、赤い薔薇と獅子の紋章の旗が潮風になびき、その薔薇が刻まれた紋章は私にとって心強かった。
 なによりも―――
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