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1巻

1-2

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 派手な女は嫌いだと、お見合いの席で言っていたのを思い出して苦笑した。だから、私はいつも彼と会う前に化粧が派手じゃないか服装はおとなしめか、必ず鏡でチェックしてきた。
 癖になっているのか、今もだらしないところがないようにチェックする自分がいる。
 けれど、彼が派手な格好をするなと要求していたのは私にだけだと知った。昨晩の歩果の服装は胸元が大きく開いたTシャツにショートパンツ、髪は明るめのオレンジブラウン。

「なにが派手な女は嫌いよ。大好きだったんじゃない」

 ロッカーの扉を、バンッと力強く閉める。
 私の両親も口では真面目が一番と言いながら、昔から妹には甘く、歩果が派手な服装をしても成績が悪くても叱らなかった。歩果のほうがおしゃれだの、愛嬌があるだの、今さら言われても困る。

「歩果みたいな子がタイプなら、港次さんも婚約話が出た時に断ってくれればよかったのに」

 港次さんとの婚約が決まった時、両親はとても喜んでくれた。その喜ぶ顔を見て、私だって嬉しかった。結婚が駄目になったと知ったら、両親が一番悲しむだろうということはわかる。がっかりする両親の顔が想像できて、落ち込んだ。
 重たい気持ちになりながら、港次さんとの待ち合わせ場所であるコーヒーショップに向かった。
 仕事終わりの道は薄暗く、コーヒーショップがある大通りに出るまで徒歩で五分くらいかかる。
 高校周辺は街灯が少ないせいか、余計に道が暗く感じた。
 大通りに出ると人通りが多くなり、眩しいくらいに明るい。コーヒーショップの看板の灯りが見えた。店に入る前から道路にはコーヒーのいい香りが漂っている。いつもなら、のんびり本を読んだり、軽食を食べたりするところだけれど、今日はそんなわけにもいかない。
 コーヒーショップのドアを開け、店内を見渡す。
 すでに店内にいた港次さんが私を見つけると、気だるげに手を挙げた。

「ごめんなさい。待たせてしまって」
「遅かったな」

 開口一番、港次さんは私にそう言った。偉そうに胸の前で腕を組み、けわしい表情をしている。
 思えば、私は港次さんの笑顔らしい笑顔は一度も見たことがなかった。
 待ち合わせ時間より早く着いたのか、港次さんが飲んでいるアイスコーヒーの氷は溶けて小さくなっていた。

「座れよ。見下ろされるのは好きじゃない。待たされるのもな」
「そう。まだ約束の五分前だけど、お待たせしてしまったみたいね」

 にっこりほほんで答えると、港次さんはいつもの私と違うぞとようやく察したようで、胸の前に組んでいた腕をほどいた。

「なんだ、機嫌が悪いな。俺がなにかしたか?」

 彼の私に対する態度は、歩果に対するものとはまったく違う。歩果といる時はあんなにニコニコしているくせに私の前だと笑顔はないし、態度は最悪。
 相手によって態度を変える男――これが港次さんの本性なのだ。
 港次さんは顔もスタイルもいいほうで、営業職だからか身だしなみに気を遣い服装もきちんとしている。ヨレたスーツやしわのあるシャツなんて見たことがない。
 そして、港次さんの両親はお見合いの席で、これでもかってくらい息子をベタ褒めしてきた。息子は大手建設会社であるもりさき建設の営業部長で同期の中でも一番の出世頭。社長のお気に入りでゆくゆくは役員になるだろうと語っていた。会社でも一目置かれる存在だとか。
 私の両親もそんな話を聞いて、三十の娘に素敵な人が見つかったと、有頂天になっていた。
 港次さんの両親が嬉しそうな顔で、自慢の息子なんですよ、と何度も言っていたのを思い出す。
 その自慢の息子が婚約者の妹と浮気をして、今まさに婚約を解消されようとしているなんて夢にも思わないだろう。
 注文を取りに来た店員にホットコーヒーを頼むと、テーブルには沈黙が訪れる。
 私はコーヒーの香りがする店内の空気を吸い込み、重々しい口調で告げた。

「実はね、昨日、港次さんが歩果の部屋で話をしているのを聞いていたの」
「そうか」
「ええ。ホテルに行くなんて、二人は特別な関係なのね」

 私が真剣な顔で告げるのに対して、港次さんは平然とアイスコーヒーを一口飲んだ。
 ドキドキしながら港次さんの答えを待つ。
 二人が浮気しているのは間違いないのだから、私がなにを言わんとしているかはこれだけでも伝わるはずだ。彼の答えは言い訳か承諾か。心の準備をして待っているけど、一向に返ってこない。会話のないテーブルに、長い沈黙だけが続く。
 肩透かしもいいところだ。
 私の想像では『すまない、茅依さん。俺は歩果のことが好きなんだ』『なかなか言い出せずにいた』とか、そんな流れが来るはずだった。
 その後の私の言葉もちゃんと考えてある。『そうなの。わかったわ。別れましょう』。
 これで私たちの婚約は解消されて終わり、という筋書きが私の中でできあがっていた。
 けれど港次さんはやはりなにも答えないまま、先ほどの店員がホットコーヒーを運んでくる。

「あのー……」
「なんだ? まだなにかあるのか」

 浮気を指摘されたのに顔色ひとつ変えていない。
 このパターンは想定外だった。
 もしかしたら、港次さんは浮気イコール別れに直結しないタイプの人間なのかもしれない。
 ――そうね、浮気したからといってすぐにお別れというのは、恋愛経験の少ない私のあんな考えだったのかもしれないわね。
 港次さんの心理を分析し、コホンッと咳ばらいをして居住まいを正した。

「婚約者がいるのに浮気するような相手と結婚なんてできないわ。私と別れてください」

 これでわかってもらえたと私は思っていた。けれど私の予想を裏切って、港次さんは別れの言葉にも動じることなく、淡々とした口調で切り返してくる。

「俺は別れない」
「は? わ、別れない? それってどういうこと……?」
「君のためだ。俺の両親が君を気に入っているというのもあるが、その年齢で結婚話がなくなるのは辛いだろう?」

 テーブルの下で握りしめた拳に思わず力がこもる。この拳で港次さんを殴り倒したい気持ちにられたけど、それをなんとか抑え込んだ。

「私の年齢まで考慮し、同情していただいてありがとうございます。けど、妹と浮気をしている人とは結婚できません」

 これだけ言えば、わかってもらえたと思う。
 ふうっと息を吐いて、ホットコーヒーの入ったカップをながめた。
 まだ一口も飲んでいないことに気付き、口に含む。
 動揺のあまりコーヒーにミルクと砂糖を入れ忘れていたようで、口の中にコーヒーの苦みが広がった。気持ちを落ち着け、ミルクと砂糖を加えてから改めてコーヒーを飲む。

「証拠は?」

 思いも寄らない言葉にコーヒーを噴き出しかけた。

「しょ、証拠……?」
「俺が浮気しているという証拠はあるのか?」
「なに言ってるの! 自分の耳と目で、ばっちり目撃したのよ? あなたと歩果が部屋でイチャイチャしているのをね!」

 もちろん証拠なんてない。あれだけ決定的な瞬間を目撃した以上、証拠が必要になるとは思っていなかったのだ。

「ないのか。なら、君の勘違いということもある。冷静になったほうがいい」
「かっ、勘違い?」

 これで話は済んだだろうという態度に動揺を隠せず、こちらの余裕は完全に消え失せた。

「ま、待って。私は冷静に考えた上で別れを選んだのよ?」
「一度の浮気くらい目をつぶったらどうだ。これくらい普通だろう」
「浮気が普通のことなんて、簡単に割りきれないわ」
「何度も言わせるな。別れて損をするのは君のほうだ。だいだい利用価値があるから、俺たちは婚約したんだろう? 歩果は若くて可愛いが、見た目が軽すぎる。俺の両親が納得しない」
「り、利用価値って! 馬鹿にしないでください!」
「声が大きい」

 ハッとして周囲を見回すと、店内にいる人たちがチラチラとこちらを見ているのがわかった。
 ちょうど店は学校や仕事帰りの人で混んでいる。課題をする大学生や本を読む女性、メガネをかけた若いサラリーマン。ちょうどこちらを見たサラリーマンと目が合った。気まずくなったのか、その人は読んでいた雑誌で顔を隠した。
 別れ話がこじれているんだろうなと思われていることは間違いない。

「そもそも、君だって都合のいい妥協相手だと思って俺と婚約したんだろ? お互いにうるさい両親を黙らせることができれば、それでいいじゃないか。俺だけを悪者にするな」
「そんな妥協だなんて失礼なこと……」
「違うのか? 今まで君から俺に対してなんのアプローチもなかった」

 そう言われて、なにも言い返せなかった。黙り込んだ私を港次さんが鼻で笑う。

「ほらな。利害が一致しているんだ。悪い話じゃなかっただろう? 俺と別れる前に気がついてよかったじゃないか」
「そうね。結婚する前にあなたの本性がわかってよかったわ」

 私のことを従順な女だと思っていたらしい港次さんは、眉をひそめた。
 その表情で、私が今まで彼にとって都合のいい女だったのだと知った。どれだけ遊んでいてもうるさく言わない楽な女。うまくいけば、結婚後も遊べるだろうと思っていたに違いない。

「別れるつもりか? 後悔するぞ」
「結婚してから後悔するよりはいいと思うわ」

 港次さんの顔が、見るからに不機嫌になった。そして、舌打ちしながら立ち上がる。

「わかった……。だが、俺の両親には俺から話をする。それまでは、君からなにも言うなよ」

 港次さんは両親をがっかりさせたくないのか、そんなことを私に要求してきた。
 両親のことを思う気持ちは私にもわかる。

「わかったわ」

 ようやく別れ話に決着がついたことに安心し、うなずいた。

「話はこれで終わりか?」
「ええ」

 追うこともなく、すがることもない私の淡々とした態度が彼のプライドを傷つけたらしく、去り際、港次さんは私に捨て台詞を吐いた。

「妹に婚約者を奪われて悔しくないのか? 少しはびろよ。可愛げのない女だな」
「可愛げのない女……」

 呆然としている私に背を向け、港次さんはコーヒーショップから出ていった。
 可愛げがない――ずっと頭の中で繰り返される言葉。
 そして、歩果の勝ち誇った顔と港次さんの私を見下す目が重なる。
 ――私はただ真面目に生きてきただけ。それはこんなに馬鹿にされるようなことなの?
 私は自分の手をきつく握りしめる。
 今のほうが、昨日以上にみじめに感じるのはきっと気のせいじゃない。
 握りしめた手の先に港次さんが飲み残したアイスコーヒーがある。氷が溶けて薄くなっていた。
 そのコップの隣、テーブルの上にはもう一つコップが置いてあったのだろう、水滴が落ちた後の丸い輪が残っているのに気がつく。
 私はそれが意味するところを察した。

「私との待ち合わせ前に誰かといた、ってわけね……」

 横並びで座っていたのか、テーブルの上にはストローの袋も二本分あった。
 それもちょうど隣の席のあたりに誰かいたことを教えるかのようにして。
 ――一緒にいたのは歩果かもしれない。
 平気でこんなことができる人なんだと思うと気分が悪くなり、コーヒーショップを出た。
 外はもうすっかり暗く、仕事終わりの人たちが歩いている。
 傷つけられたけど、別れを告げたことに後悔はしていない。
 ここで泣くことができたなら、可愛げのある女だと思ってもらえたのかもしれない。
 悲しいけれど涙は出ず、ぼんやりと星の見えない暗い夜空を見上げた。
 婚約者と別れ、一人になった私がこれからどうするか――答えは出ている。

「これはもう、飲むしかないわね」

 私の数少ない趣味、ひとり酒。この趣味のためにジャージスタイルで勤務していると言っても過言ではない。スタイル維持のため、昼休みや放課後に学校のトレーニングルームを使用し、日々涙ぐましい努力をしていた。
 どこのお店にしようかと、スマホを取り出し、店を検索する。
 落ち込んだ時だからこそ、がっつりぜいたくにいきたい。

「うーん。海鮮か、いっそ分厚いステーキでもいいわね。それとも、ひとり焼き肉? 悩むわ……」

 なかなか決められず、適当に近くのお店のクーポン券でも探そうかと思った時、ドンッと人にぶつかった。

「あ、す、すみません」

 道の端に寄り、足を止めていたけど、邪魔になっていたらしい。反射的に謝って、スマホの画面から顔を上げると、パーカーのフードを深く被った男の人が立っていた。夜の暗さもあって、顔が見えにくく、不気味に感じる。

「こんばんは」

 挨拶された声に聞き覚えがあり、戸惑いながらも挨拶を返した。

「……こんばんは」

 確か毎朝、私のアパート前をジョギングしている男の人だ。たまにすれ違うと挨拶をしていたが、こんな時間にアパートから離れた場所で会うのは初めてだった。夜もジョギングを始めたのだろうか。

「アパートに帰らないんですか?」

 ――それが、あなたになんの関係が?
 そうたずねたかったけど、なんとなく嫌な空気を感じて言葉が出なかった。
 気のせいでなければ、この人は私の退路を断つように道をふさいでいる。私の背後はシャッターが下りたビルで、その横の細い路地へ少しずつ私を追い詰めていく。
 まるで、逃げる小動物を隅に追い込んで、捕まえようとしているようだった。
 無言のまま、身の危険を感じたその瞬間――

「荻本先生? 荻本茅依先生だよね?」

 突然第三者が私を呼ぶ声がして、男は驚き、振り返る。荻本先生と呼ばれたほうを見ると、そこには人懐っこい笑みを浮かべたスーツ姿の男性がいた。
 その顔には、見覚えがある。

「もしかしてまな君?」
「そうです」

 やっぱりそうだ。かつての教え子である、真辺りょう君。
 このタイミングで彼に出会ったことは幸運だった。
 真辺君がこちら側へ足を踏み出すと、男は舌打ちし、逃げるように走り去っていった。

「今の、先生の知り合い?」
「いいえ。道をたずねられただけ」

 とっさに嘘をついてしまった。教え子の前だから、みっともないところを見せたくないという意地もあり、冷静さと平常心をなんとか取り戻す。

「真辺君、久しぶりね」
「俺のこと覚えていてくれたんだ?」
「忘れないわよ」

 とても優秀だったし、モデルのように綺麗な顔をした男子学生で、他校の女子からも人気があった。なにかと目立つ存在だった彼は私だけじゃなく、他の教師たちの記憶にも残っていると思う。
 真辺君は私の教え子だけど、彼に初めて会ったのは教育実習生の時だった。
 教育実習先だった高校に採用されて今の教員生活がある。
 教師となって再会した時、彼は高校二年生になっていた。

「大人っぽくなったわね。元気にしていた? 今、なにをしているの?」

 成長した真辺君は高級そうなオーダーメイドのスーツに甘いムスクの香水を漂わせ、人を誘い込むような雰囲気を身に付けていた。見るからに成功どころか大成功しているようで、教え子の活躍が素直に嬉しい。

「高校時代にときとう先輩が起業した会社で、今も一緒に働いてます」
「そう……。時任君と働いているの……」

 名前を聞いて、懐かしいと思うより先にほおがひきつる。
 時任君は真辺君のひとつ上の先輩で、我が校の歴史に名を刻んだとんでもない生徒――教員たちは彼が在学していた三年間を暗黒時代と呼び、未だ語り継がれている。
 時任君は高校在学中に部活仲間と起業し、会社を立ち上げた。その中の一人が真辺君だ。
 それだけでなく、超進学校である我が校で、どんなに仕事が忙しくても全員が上位の成績をキープし続けたという優秀すぎるくらい優秀なメンバー。そこまで聞けば、誰でもすごい生徒だったんですねと、普通の感想を返すと思う。
 けれど、時任君たちを知る人はそれを口にしない。
 時任君と彼を取り巻く友人メンバーが、トラウマレベルでぶっ飛んでいたから。
 どれくらいぶっ飛んでいたかといえば、プールを勝手にアジアンリゾート風に改造したり、新入生の歓迎だと言って花火を打ち上げたり、ペット禁止の寮で捨て猫を飼おうとしたり。
 仲のいい友人たちと集まってはそんな無茶苦茶なことをする部活を作っていたのだ。
 その時顧問を押しつけられたのが私だった。
 捨て猫騒動の時は学校のライフラインを破壊するぞとおどしまでして、必死の抵抗を見せた――思い出すだけで頭が痛くなる。
 なお、猫は事務員さんに引き取ってもらい、一件落着した。
 我が校の教育理念は学生の自由を尊び、学生の自治権を認めるというもの。けれど、責任は学校管理者側にあるわけで、時任君が在籍した暗黒時代は担任から校長まで胃薬と始末書がワンセット。
 次はなにをしでかすのだろうと、学校側はハラハラしていた。
 それを本人たちが自覚していたかどうか。

「荻本先生が顧問を引き受けてくれなかったら、俺たちの成功はなかったかもしれない」
「そんな大げさよ」
「学生だった俺たちを助けてくれたこと、今も覚えてますよ」

 卒業した教え子からそんなふうに言われたら、感動して泣いてしまいそうになる。

「そう……。やっと私の苦労をわかって……」
「高校時代は色々と制限があって自由に動けなかったけど、今は違いますよ。荻本先生に俺たちの会社を見てもらいたいな」

 真辺君の言葉にがっくりと肩を落とす。人畜無害そうな笑顔と柔らかな物腰にだまされてはいけないと、その言葉を聞いて確信した。まったく反省していない。

「あれ以上自由に振る舞ったら退学だったわよ、退学!」
「先生は相変わらず心配性だな。大丈夫だって。ちゃんと先輩たちはギリギリのラインを理解していたから。……たぶん」
「退学させたくてもできなかっただけでしょう。時任君たち以上に優秀な生徒はいなかったせいでね。もちろん、真辺君も含めて」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
「今のは皮肉が八割よ」

 学校側が彼らを退学にできなかった理由のひとつに、時任君たちの優秀さを認めていたというのもある。彼らは高校生起業家と呼ばれ、いちやく有名人となった。
 テレビに出演し、雑誌に載ることに対して時任君たちが積極的だったかというと、そんなことはなかったと思う。あまり好きではないようだったけど、それを説得したのは真辺君だった。
 なぜ、それが必要だったかは後になってから理解した。すべて学校側を黙らせるために真辺君が考えた戦略だったのだ。自らが学校の広告塔となり、学校側から自分たちの活動を干渉されないよう仕向けた。

『自分たちの成功は生徒の自由を重んじる校風のおかげです』
『先生方は未熟な自分たちを指導し、助けてくださっています』
『この高校に入学したことで、才能を伸ばしてもらうことができました』

 ――などなど。心にもないことをペラペラとテレビや雑誌で語ったのだ。
 彼らによって、我が校の認知度とイメージはうなぎのぼり。入学希望者は増え、学校側にとってマイナスなことはなにひとつなかった――学内を除いては。
 学校近くのドラッグストアでは胃薬がよく売れたに違いない。

「真辺君は今も時任君たちと会社を続けているのね」
「先輩たちを野放しにすると世の中の迷惑になるので、俺が面倒を見ています」
「面倒って……。でも、ちゃんとやっているみたいで安心したわ」

 私がそう言うと、真辺君は苦笑した。

「卒業してから俺がなにをしていたか、先生は全然知らないんだ? 俺のことに興味なかった?」

 ひんやりと感じたのは冷たい春の夜風のせいだけじゃない。
 ほおをなでる風が、淡い記憶を呼び覚ます。
 風に揺れるカーテン。手の中からすり抜けた感触が、まだ残っている。
 私は慎重に言葉を選んで、言った。

「そんなことないわ。思い出すこともあったわよ」
「思い出すね……。雑誌くらい見てくれていると思ったんだけどな。先生に俺たちの活躍が伝わるには、それだけじゃ不十分だったってわけか」
「経済雑誌は読まないから。でも、実際にスーツを着て大人っぽくなった真辺君を見たら、他の先生たちも驚くと思うわ」
「大人っぽいって、俺はもう二十五歳だよ」
「それもそうね」

 会うのは卒業以来で、もう大人だとわかっているのに、高校生の真辺君と話しているような錯覚におちいる。真辺君自身は卒業して何年も経っているのに、私だけが時間が止まったまま、成長していない気がして、置いていかれたような気持ちになった。

「先生。ここで話し込んでいると通行人の邪魔になるし、よかったら飲みに行かない?」
「いいわよ。ちょうどお店を探していたところだったから」
「じゃあ、俺が店を選んでもいい?」
「ええ」

 どんなお店を選んでくるだろうと、お酒が飲めるようになった教え子に対し、期待を込めたまなざしを向ける。成長した教え子とお酒を飲むなんて感慨深い。
 真辺君は私のようにスマホを取り出して探すのではなく、目当ての店があるのか迷いなく目的の方向を指さした。

「少し歩くけどいい?」
「年寄り扱いはやめてよ。こう見えても学校のランニングマシンできたえているんだから」

 きたえていると言ったのは、久しぶりに会った教え子に少しを張りたかっただけで、本当はダイエット目的。でも、それは言わない。絶対に。

「先生は変わってないよ」

 通りすぎる車のライトの加減なのか、さっきまで人懐っこい犬のように見えた真辺君の顔が、今はゆうほんぽうな猫のような表情に見える。
 こちらの心を探るような目。茶色の瞳が私をじっと見つめていた。

「そ、そう」

 目力があるというか、なんというか――かっこよくなったなぁなんて、教え子相手に思ってしまう。

「ていうか先生、俺たちに学校の備品を無断で使うなって言ってなかったっけ? 先生も成長したよね」
「よく覚えているわね」

 記憶力がいい真辺君を誤魔化すのは難しい。
 気まずくて目を逸らすと、真辺君はそんな私を見て笑った。
 これじゃどっちが年上かわからない。

「先生はお酒、好きだよね? 近くに行きつけのバーがあるからそこにしよう」
「お店を決めるのが早いわね」
「昔から先輩たちにこういう仕事を押し付けられていたからね。自然とそうなったのかも」
「真辺君は高校の頃から先輩たちより社交性があったから、そういう役回りになるのもわかるわ」

 真辺君は誰とでもうまく付き合えるタイプで、時任君たちに比べたら目上の人からの印象も悪くなかった。

「変わり者の先輩たちと比べられても嬉しくないよ」
「それもそうね」

 真辺君が案内してくれたバーは、大通りから少しはずれた通りにあった。
 表には店名が書かれた小さな看板だけで、一緒に来なければそこに店があることを見落としていたと思う。
 同じ並びには炭火で肉が焼ける匂いがする焼き鳥屋、和風出汁の上品な香りを漂わせる小料理屋、寿司屋などがあって、バー以外の店もこだわりの雰囲気がある、一度入ってみたいと思う店ばかりだった。

「先生は一人で飲むタイプ?」
「そうね。そっちのほうが多いわ」

 でも、私はお店で飲むより、どちらかといえばテストの採点をしながらの家飲み派。
 そこは笑って誤魔化しておいた。

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