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第二章
27 私の居場所
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桜が満開になった四月の午後――いなり寿司の油揚げを甘く煮て、卵焼きを焼く。
それから、祖母直伝のお煮しめ。
漆塗りの重箱は沈金の寿松。金の松葉が、針に似た葉を伸ばし、夏の夜に咲く打ち上げ花火を思わせ、金の単色であっても、とても華やかに見える。
松葉の数え方は針と同じで、一本二本と読む。
それも鋭く細く表現された葉を見れば、納得できる話だ。
金の松葉模様の蓋を開けて、朱色の内塗の中へ、冷ました料理を詰めていく。
これは今日の夕方に開かれるお花見に持っていくお弁当で、紫水様や陽文さん、蒼ちゃんのお友達が集まると聞き、量もそうだけど、味のほうも力を入れたお弁当になった。
「世梨さま。外にまで、砂糖とお醤油の香りがしました。早く食べたいですっ!」
蒼ちゃんは庭から、黄色の菜の花、緑の山椒の葉を木のざるに入れて、持ってきてくれた。
山椒の木の芽は、ようやく顔を出したばかり。
でも、木の芽は時期を逃すと、すぐに硬くなってしまうから、早めに使うようにしている。
「なにを煮ているんですか?」
「昆布の佃煮を作っているの。明日のご飯の時に食べましょう」
お煮しめのダシに使った昆布を細かく刻み、木の芽と一緒に煮れば、山椒昆布の佃煮になる。
春の香りがする佃煮は、紫水様のおにぎりの具にもなるし、夏には冷たい素麺に添えても美味しい。
蒼ちゃんはいなり寿司が並べられた皿を見て、お腹の音を鳴らした。
「蒼ちゃん、いなり寿司の味見をしてくれる?」
「わぁ! ありがとうございますっ!」
いなり寿司をひとつ、蒼ちゃんにあげると、大喜びで食べていた。
さっき、お昼に筍ご飯を食べたばかりだというのに、蒼ちゃんは食欲旺盛で、お弁当が足りるかどうか心配になってきた。
「大丈夫かしら……」
余った筍ご飯をおにぎりにして、これも夜の花見に持っていくことにした。
蒼ちゃんの食欲を考えたら、どれだけ作っても足りないような気がしてならない。
「今年は世梨さまがいるから、すごく楽しいお花見になると思います」
「本当? 私もお花見を楽しみにしてたの」
「提灯の灯りに照らされた桜が綺麗で、色んな種類の桜がある広いお庭なんですっ!」
お花見に誘われた場所は、三葉財閥が所有する和風庭園で、散策できるほどの広さがある立派な庭園らしい。
「ちゃんと桜を見るのは、久しぶりな気がするわ」
思えば、去年は花見どころではなかった。
祖父の体が弱っていくのが、目に見えてわかったし、自分がこれからどうなるのか、不安で仕方なかった。
でも、今は違う。
菜の花をいなり寿司の隙間に飾る。家のあかりが、ぽっと灯ったような黄色が、心を温かくする。
「世梨。妹の見舞いに行くんだろう? 時間は大丈夫か?」
茶の間の柱時計が二つ、音を鳴らす。
玄関そばの仕事場から、私を呼んだのは紫水様だった。
本業が蒐集家だからか、先日、紫水様は柱時計をいくつも購入してきた。
その中のお気に入りを茶の間に飾ったけれど、死ぬまで柱時計には困らないと思う。
「今、用意します」
蒼ちゃんは先にお花見会場へ行って、陽文さんと合流し、お花見の準備をする予定だ。
お手伝いとして、蒼ちゃんによく似た水干姿の子どもたちが集まり、玄関前はとても賑やかだった。
白蛇の一族たちなのか、蒼ちゃんとお喋りをしながら、私が作ったお弁当や日本酒、梅酒の瓶を荷車に運ぶ。
「それじゃあ、世梨さま。ぼく、お先に出発しますねっ!」
「ええ。蒼ちゃん、気を付けて」
蒼ちゃんたちを見送ってから、割烹着をはずし、着物から洋服に着替えた。
仕立ててもらった青いワンピースには、白い襟が付いている。
そして、同色のウエストベルトが、私の腰回りを細く見せ、鏡の前に立つとスタイルが良く見えた。
手にしたのは、ワンピースと同じ色のリボンで飾られた帽子。
それから、レースの手袋とクラッチバッグ、ヒールのある靴をはく。
洋服には靴だけど、慣れない靴のせいで玄関を出たばかりのところで、つまづいてしまう。
そんな私に気づき、紫水様が手を差し出す。
「転ぶなよ」
普段は着物なのに、紫水様は私に合わせて、洋服を着てくれている。
本当は着物を好んでいるのに、私にそれを秘密にしていて言わない。
「紫水様。ありがとうございます」
「なんのことだ」
とぼけてみせたけど、少し恥ずかしそうな顔をしていたから、私のお礼の意味がわかったと思う。
家の前の道路には、千後瀧から呼んだ黒の自動車が待っていた。
「どうぞ」
いつもと同じ運転手さんがドアを開けてくれた。
以前より態度が柔らかくなった気がする。
運転手さんに会釈し、後部座席へ座ると、そこには風呂敷包みがひとつ置いてあった。
「紫水様。これはなんですか?」
「見舞品だ」
私に用意しなくていいと言っていたのは、紫水様が用意するという意味だったらしい。
今から行く療養所は、花や植木鉢などの植物を部屋に置くことは禁じられ、飾れるものは限られていた。
紫水様がなにを用意したのか、わからなかったけれど、なにか意味のあるものに違いない。
自動車が動き出し、窓硝子越しに近所の街並みを眺めた。
最近、家の近所に銭湯ができた。
継山さんが経営する銭湯で、洋風建築の珍しい銭湯が評判となって、大繁盛している。
二号店、三号店も考えているそうだ。
今日も行列で、その繁盛ぶりを見た紫水様は、露骨にがっかりした顔をした。
「こんなに人が押し寄せるとは思わなかった。貸し切り気分で、銭湯の広い湯船に浸かる予定だったんだがな」
「坂の下にあるお店の奥さんたちも通っているんですよ。真っ白な壁と柱があって、最新のデザインのタイル模様がお洒落で、泉質もいいって褒めていました。お値段が多少高くても通いたいそうです」
「ふーん」
紫水様は富士山と松でいいのにと、ぼやいていた。
銭湯の完成を楽しみにしていた紫水様だけど、出来上がりを見て、継山さんに失望したとかなんとかいっていたのを思い出す。
失望するくらい富士山と松がお好きなんだと知り、心の中に留め置いた。
「銭湯で継山さんと喧嘩しないでくださいね。この間、男湯の声が女湯にまで、聞こえてきましたよ」
「あいつとは相性が悪い。だいたい打掛の行方もわからないままだ。まだ信用ならない」
「でも、継山さんは被害者でしょう? 盗まれたって聞きましたけど……」
「まあ、そうだ。騒動の中、持ち出されたらしい。鴉の情報網を使って、犯人を追わせているが、捕まっていないのが気になる」
配下になったあやかしは主に嘘をつけない。
だから、盗まれたというのは本当で、あの騒動の最中、誰かが忍び込み、どさくさに紛れて、打掛だけを盗んだらしいのだ。
この先、龍と鴉に追われるというのに、心臓の強い大胆な泥棒だと、陽文さんは感心していた。
「私は白無垢を着せていただきましたから、十分です。それに、これからはウェディングドレスなんていう衣装もあるんですよ」
もうすぐ、私は洋裁学校に通い始める。
紫水様は入学祝いに、輸入品の高価な足踏みミシンを買ってくれた。
あまりに嬉しくて、こっそり本を読み、古い着物をほどき、洋服らしきものを作ってみたけど、まだまだ練習中で見せられない。
早く男性物のシャツや子供服を仕立てたいけれど、今の私の技術では難しく、早く学校へ通いたくて仕方なかった。
「ウェディングドレスがいいのか?」
「はい。ドレスも作ってみたいです」
「それなら当分、先になるな」
「そうですね。すぐにドレスを作るのは、さすがに難しいと思います。きっと時間がかかる作業ですよね」
「いや、そうじゃなく……」
「え?」
「いや、別に」
紫水様は私から目を逸らし、人間の言葉は難しいとかなんとか言いながら、車の窓の外へ視線をやる。
「紫水様と蒼ちゃんに夏物の浴衣も縫ってますから、楽しみにしていてくださいね」
「浴衣か。浴衣は好きだ」
「はい」
紫水様は濃藍色、蒼ちゃんには明るい瑠璃色の浴衣。目にも涼しい青系の色は、夏の暑さを和らげてくれるだろう。
機嫌が良くなった紫水様は、私のほうへ顔を向けて、水墨画の話をしてくれた。
祖父から勧められて始めたこと、炭の作り方にはこだわりがあること――そんな話をしながら、車が山道を走ること数十分。
目的の療養所に着く。
空気が綺麗な場所に建てられたという療養所は、見舞客も少なく、黒々しい山の中から、鳥の鳴き声だけが聞こえてくる物寂しい場所にあった。
ここで玲花は療養生活を送っている。
玲花は病院へ運ばれたけれど、原因不明の病気として扱われた。
あれから、玲花は一言も口を利くことができず、人形のような状態のまま、変化のない毎日を過ごしていた。
それから、祖母直伝のお煮しめ。
漆塗りの重箱は沈金の寿松。金の松葉が、針に似た葉を伸ばし、夏の夜に咲く打ち上げ花火を思わせ、金の単色であっても、とても華やかに見える。
松葉の数え方は針と同じで、一本二本と読む。
それも鋭く細く表現された葉を見れば、納得できる話だ。
金の松葉模様の蓋を開けて、朱色の内塗の中へ、冷ました料理を詰めていく。
これは今日の夕方に開かれるお花見に持っていくお弁当で、紫水様や陽文さん、蒼ちゃんのお友達が集まると聞き、量もそうだけど、味のほうも力を入れたお弁当になった。
「世梨さま。外にまで、砂糖とお醤油の香りがしました。早く食べたいですっ!」
蒼ちゃんは庭から、黄色の菜の花、緑の山椒の葉を木のざるに入れて、持ってきてくれた。
山椒の木の芽は、ようやく顔を出したばかり。
でも、木の芽は時期を逃すと、すぐに硬くなってしまうから、早めに使うようにしている。
「なにを煮ているんですか?」
「昆布の佃煮を作っているの。明日のご飯の時に食べましょう」
お煮しめのダシに使った昆布を細かく刻み、木の芽と一緒に煮れば、山椒昆布の佃煮になる。
春の香りがする佃煮は、紫水様のおにぎりの具にもなるし、夏には冷たい素麺に添えても美味しい。
蒼ちゃんはいなり寿司が並べられた皿を見て、お腹の音を鳴らした。
「蒼ちゃん、いなり寿司の味見をしてくれる?」
「わぁ! ありがとうございますっ!」
いなり寿司をひとつ、蒼ちゃんにあげると、大喜びで食べていた。
さっき、お昼に筍ご飯を食べたばかりだというのに、蒼ちゃんは食欲旺盛で、お弁当が足りるかどうか心配になってきた。
「大丈夫かしら……」
余った筍ご飯をおにぎりにして、これも夜の花見に持っていくことにした。
蒼ちゃんの食欲を考えたら、どれだけ作っても足りないような気がしてならない。
「今年は世梨さまがいるから、すごく楽しいお花見になると思います」
「本当? 私もお花見を楽しみにしてたの」
「提灯の灯りに照らされた桜が綺麗で、色んな種類の桜がある広いお庭なんですっ!」
お花見に誘われた場所は、三葉財閥が所有する和風庭園で、散策できるほどの広さがある立派な庭園らしい。
「ちゃんと桜を見るのは、久しぶりな気がするわ」
思えば、去年は花見どころではなかった。
祖父の体が弱っていくのが、目に見えてわかったし、自分がこれからどうなるのか、不安で仕方なかった。
でも、今は違う。
菜の花をいなり寿司の隙間に飾る。家のあかりが、ぽっと灯ったような黄色が、心を温かくする。
「世梨。妹の見舞いに行くんだろう? 時間は大丈夫か?」
茶の間の柱時計が二つ、音を鳴らす。
玄関そばの仕事場から、私を呼んだのは紫水様だった。
本業が蒐集家だからか、先日、紫水様は柱時計をいくつも購入してきた。
その中のお気に入りを茶の間に飾ったけれど、死ぬまで柱時計には困らないと思う。
「今、用意します」
蒼ちゃんは先にお花見会場へ行って、陽文さんと合流し、お花見の準備をする予定だ。
お手伝いとして、蒼ちゃんによく似た水干姿の子どもたちが集まり、玄関前はとても賑やかだった。
白蛇の一族たちなのか、蒼ちゃんとお喋りをしながら、私が作ったお弁当や日本酒、梅酒の瓶を荷車に運ぶ。
「それじゃあ、世梨さま。ぼく、お先に出発しますねっ!」
「ええ。蒼ちゃん、気を付けて」
蒼ちゃんたちを見送ってから、割烹着をはずし、着物から洋服に着替えた。
仕立ててもらった青いワンピースには、白い襟が付いている。
そして、同色のウエストベルトが、私の腰回りを細く見せ、鏡の前に立つとスタイルが良く見えた。
手にしたのは、ワンピースと同じ色のリボンで飾られた帽子。
それから、レースの手袋とクラッチバッグ、ヒールのある靴をはく。
洋服には靴だけど、慣れない靴のせいで玄関を出たばかりのところで、つまづいてしまう。
そんな私に気づき、紫水様が手を差し出す。
「転ぶなよ」
普段は着物なのに、紫水様は私に合わせて、洋服を着てくれている。
本当は着物を好んでいるのに、私にそれを秘密にしていて言わない。
「紫水様。ありがとうございます」
「なんのことだ」
とぼけてみせたけど、少し恥ずかしそうな顔をしていたから、私のお礼の意味がわかったと思う。
家の前の道路には、千後瀧から呼んだ黒の自動車が待っていた。
「どうぞ」
いつもと同じ運転手さんがドアを開けてくれた。
以前より態度が柔らかくなった気がする。
運転手さんに会釈し、後部座席へ座ると、そこには風呂敷包みがひとつ置いてあった。
「紫水様。これはなんですか?」
「見舞品だ」
私に用意しなくていいと言っていたのは、紫水様が用意するという意味だったらしい。
今から行く療養所は、花や植木鉢などの植物を部屋に置くことは禁じられ、飾れるものは限られていた。
紫水様がなにを用意したのか、わからなかったけれど、なにか意味のあるものに違いない。
自動車が動き出し、窓硝子越しに近所の街並みを眺めた。
最近、家の近所に銭湯ができた。
継山さんが経営する銭湯で、洋風建築の珍しい銭湯が評判となって、大繁盛している。
二号店、三号店も考えているそうだ。
今日も行列で、その繁盛ぶりを見た紫水様は、露骨にがっかりした顔をした。
「こんなに人が押し寄せるとは思わなかった。貸し切り気分で、銭湯の広い湯船に浸かる予定だったんだがな」
「坂の下にあるお店の奥さんたちも通っているんですよ。真っ白な壁と柱があって、最新のデザインのタイル模様がお洒落で、泉質もいいって褒めていました。お値段が多少高くても通いたいそうです」
「ふーん」
紫水様は富士山と松でいいのにと、ぼやいていた。
銭湯の完成を楽しみにしていた紫水様だけど、出来上がりを見て、継山さんに失望したとかなんとかいっていたのを思い出す。
失望するくらい富士山と松がお好きなんだと知り、心の中に留め置いた。
「銭湯で継山さんと喧嘩しないでくださいね。この間、男湯の声が女湯にまで、聞こえてきましたよ」
「あいつとは相性が悪い。だいたい打掛の行方もわからないままだ。まだ信用ならない」
「でも、継山さんは被害者でしょう? 盗まれたって聞きましたけど……」
「まあ、そうだ。騒動の中、持ち出されたらしい。鴉の情報網を使って、犯人を追わせているが、捕まっていないのが気になる」
配下になったあやかしは主に嘘をつけない。
だから、盗まれたというのは本当で、あの騒動の最中、誰かが忍び込み、どさくさに紛れて、打掛だけを盗んだらしいのだ。
この先、龍と鴉に追われるというのに、心臓の強い大胆な泥棒だと、陽文さんは感心していた。
「私は白無垢を着せていただきましたから、十分です。それに、これからはウェディングドレスなんていう衣装もあるんですよ」
もうすぐ、私は洋裁学校に通い始める。
紫水様は入学祝いに、輸入品の高価な足踏みミシンを買ってくれた。
あまりに嬉しくて、こっそり本を読み、古い着物をほどき、洋服らしきものを作ってみたけど、まだまだ練習中で見せられない。
早く男性物のシャツや子供服を仕立てたいけれど、今の私の技術では難しく、早く学校へ通いたくて仕方なかった。
「ウェディングドレスがいいのか?」
「はい。ドレスも作ってみたいです」
「それなら当分、先になるな」
「そうですね。すぐにドレスを作るのは、さすがに難しいと思います。きっと時間がかかる作業ですよね」
「いや、そうじゃなく……」
「え?」
「いや、別に」
紫水様は私から目を逸らし、人間の言葉は難しいとかなんとか言いながら、車の窓の外へ視線をやる。
「紫水様と蒼ちゃんに夏物の浴衣も縫ってますから、楽しみにしていてくださいね」
「浴衣か。浴衣は好きだ」
「はい」
紫水様は濃藍色、蒼ちゃんには明るい瑠璃色の浴衣。目にも涼しい青系の色は、夏の暑さを和らげてくれるだろう。
機嫌が良くなった紫水様は、私のほうへ顔を向けて、水墨画の話をしてくれた。
祖父から勧められて始めたこと、炭の作り方にはこだわりがあること――そんな話をしながら、車が山道を走ること数十分。
目的の療養所に着く。
空気が綺麗な場所に建てられたという療養所は、見舞客も少なく、黒々しい山の中から、鳥の鳴き声だけが聞こえてくる物寂しい場所にあった。
ここで玲花は療養生活を送っている。
玲花は病院へ運ばれたけれど、原因不明の病気として扱われた。
あれから、玲花は一言も口を利くことができず、人形のような状態のまま、変化のない毎日を過ごしていた。
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