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第二章

17 憧れか憎悪か

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「龍……」

 清睦きよちかさんは驚き、紫水しすい様から目を逸らせずにいた。
 私の目には人間の姿にしか見えず、清睦さんがなにを見ているかわからない。
 ただわかるのは、清睦さんの顔から笑みが消えたということだけだ。

「小僧。足をどかせ」
 
 スケッチブックを見た紫水様の声は、怒りに満ちていた。
 足をどかした瞬間、あおちゃんが駆け寄り、スケッチブックを拾い上げ、泥まみれの絵をなんとか元に戻そうとしてくれる。
 でも、破れてしまった紙は元には戻らず、悲しい顔をして私のところまで持ってきた。

世梨せりさま、ごめんなさい。困ってるみたいだったから、紫水さまをお呼びしてしまいました」
「いいえ。蒼ちゃん、ありがとう。私のために紫水様を連れてきてくれて」
「えへへ。間違ってなくて、よかったです」

 スケッチブックを受け取り、頭を撫でると、蒼ちゃんは褒めてもらったことが嬉しいのか、にっこり微笑んだ。
 蒼ちゃんは人に近づくため、少しずつ学んでいるところなのだ。
 どうしたらいいのか、人の気持ちを考えながら行動している。
 清睦きよちかさんは馬鹿にしていたけど、馬鹿にしていい存在じゃない。
 私は傷つくより、怒るべきだったのだ。

「まさか白蛇じゃなく、龍神に嫁ぐなんてね……」
「なんだ。蒼を馬鹿にしていたのか? 蒼をみくびるなよ。お前程度の力では、蒼の足元にも及ばない」

 紫水様の下駄が、土と小石の混じる音を鳴らした。
 清睦さんは本能的に危険だと感じとったのか、数歩後ろへ下がる。

「お前が世梨を貶めるのは、ただの八つ当たりだ。千秋せんしゅうはお前に絵を止めろとは言わなかったはずだ」
「清睦さんが絵を……?」

 絵を描いていたとは知らず、清睦さんが祖父に絵を見せに来たというのも初耳だった。
 清睦さんは顔を赤くし、私を睨んだ。

「笑いたければ笑えよ。俺は本宮もとみやの祖父のようになりたくて、絵を描いていたんだ!」

 父は清睦さんを郷戸ごうどの跡継ぎに考えている。
 郷戸の長男が画家になると言ったら、父は怒り、絶対に許さないだろう。
 父は清睦さんが帝大に入学するまでの間、何人も家庭教師を雇い、東京に別邸を建て、勉学を助けた。
 それもすべて郷戸家の将来のため。
 帝大に入学し、自由になれたと清睦さんは思ったかもしれない。
 けれど、入学と同時に婚約者を決められ、学生生活から結婚まで、父の管理下に置かれた。
 卒業さえしてしまえば、出世は約束されている――そんな話を郷戸の家でも村の中でも耳にした。

「俺は父の言いなりで、なに一つ自由がない。だから、祖父の元で自由に絵を描き、千秋の技を学んだお前が嫌いだ。千秋という天才に見込まれ、引き取られた妹を一度も可愛いと思ったことがない」

 私はようやく理解した。
 自分がなぜ、母からも清睦さんからも嫌われているのかということを。
 本宮もとみやの叔父もそうだ。
 清睦さんと同じ目をし、私を見ていたのに、気がつかないふりをしていた。
 最初から画家になるのを諦めていた叔父でさえ、私を疎ましいと思い、祖父の跡を継がずにいるのも不満で、母と同様、私を嫌った。
 祖父が怨霊となって、私を責めていると思ったのは、跡を継がなかった後ろめたさから。
 でも、私は――

「清睦さんにも夢があるように、私にも夢があります」
「天才と呼ばれた祖父の跡を継ぐより大事な夢なのか? どうせ、くだらない夢なんだろう?」

 くだらないと言われて、抱えていたスケッチブックをきつく握りしめた。
 清睦さんにとって、祖父の跡を継ぐこと以外、他はどうでもいい夢なのだ。
 もしかしたら、祖父を尊敬する紫水様も私の夢を否定するかもしれない。
 そう思ったら、自分の夢をそれ以上、口にすることはできなかった。

「千秋に引き取られたお前に、俺の絶望感はわからないよ。絶対にね」
「そんなことありません。夢を諦める辛さは、私にもわかります」

 祖父が死に、なにもかも叔父夫婦に奪われ、郷戸の家へ戻った。
 その時、私の人生は一変し、住んでいた家も思い出の品も全て失ったのだ。
 清睦さんが知らないだけで、一度、私はすべてを諦めた。
 文様を身に宿し、祖父母との思い出だけを支えにして生きていた。
 紫水様に会うまでは。

「俺の夢はもう消えたよ。俺の絵を見た祖父……。いや、千秋は父の跡を継いだほうがいいと言った。俺の描いた絵を突き返され、二度と見なかった」
「それは、千秋なりの優しさだ。お前に厳しくしたのは、将来がないという意味じゃないぞ。千秋は他の道もあると、教えたはずだ」

 祖父の友人だった紫水様は、清睦さんを知っていた。
 もしかしたら、祖父に清睦さんのことを聞かされていたのかもしれない。

「他の道に興味はない。千秋の弟子になることが、俺の目標だったんだ。俺だけじゃない。母さんもそうだ。けど、千秋は俺も母さんも弟子にしなかった!」
「だが、才能がないと、千秋は言わなかっただろう?」

 清睦さんは泣き笑いのような表情を浮かべた。

「俺が気づかないとでも? 祖父の仕事場にあった絵が、すべて物語っている。俺の絵は返しても世梨の絵は飾ってあった。祖父は世梨だけを認めていたんだ」

 身内の贔屓目で――とは、清睦さんに言えなかった。
 祖父の仕事場にあった絵は、私が庭の花や祖父の下絵を真似た絵の数々だった。
 自分が気に入れば、弟子をとると言っていた祖父。
 その祖父が気に入り飾ってあったということは、祖父が認めた者である証拠だったのだ。
  
「世梨。これでわかっただろう? お前はずっと嫌われ者の裏切り者だ。跡を継ごうが、継ぐまいが、本宮からも郷戸からも好かれることはない」

 それは、永遠に解かれることのない呪いの言葉だった。
 きっとそう思っているのは、清睦さんだけではない。
 もしかしたら、死んだ祖父も同じ、私を裏切り者と言って――

「別にいいんじゃないか」

 その言葉に驚き、私は紫水様の顔を仰ぎ見た。

「世梨はもう俺の嫁だ。本宮にも郷戸にも戻らない。今、戻る必要がないと、はっきりした」 
「そうですっ! 世梨さまのこと、ぼくは大好きですっ!」
「紫水様、蒼ちゃん……」

 私を庇ってくれる人は、祖父母の他に誰もいないと思っていた。
 でも、今の私には紫水様と蒼ちゃんがいた。

「千秋に心酔しんすいしているようだが、あいつは残酷で自分勝手で、酷い男だぞ。だから、千秋なら、家族から勘当されても気にせず絵をやっていたはずだ」

 紫水様の言ったことは、たぶん正しい。
 祖父は才能を見込まれ、日本画を始めたけれど、着物に興味を持ち、周囲がどんなに止めても耳を貸さず、着物作家になった話は有名だ。  
 もちろん、その話を清睦さんも知っている。
 清睦さんは黙り込んだ。

「なぁ、小僧。俺も千秋に憧れた。だが、あいつと並ぶだけの才能を得られなかった。だから、気持ちはわかる。わかるが、誰かにその気持ちをぶつけようとは思わない」

 そう言うと、紫水様は私のスケッチブックを奪い、どさくさに紛れて中身を見た。
 清睦さんのように怒るだろうかと思っていたら、怒らず、私の手に戻す。

「千秋は美術学校に入学すれば、お前はそこそこの画家になると言っていたぞ」

 清睦さんは拳を握りしめ、紫水様を睨みつけた。

「そこそこなど……俺はっ!」
「千秋の言葉は伝えた。小僧。もうここには来るな。千秋に免じて、今日は見逃してやる。だが、次は無事に帰れると思うな」
「ならば、お前の正体をバラしてやる。人ではないとわかったら、お前だけでなく世梨も白い目で見られて……」
「そんなもの握りつぶされるだけですよっ……と!」

 紫水様の怒りが頂点に達する寸前に、タイミングよく現れたのは、陽文ひふみさんだった。
 陽文さんは私の手から、清睦さんが持ってきた手土産の風呂敷包みをひょいっと持ち上げ、その手土産を清睦さんに返した。
 そして、自分が持ってきた手土産を私に渡す。
 包装紙に包まれた箱の銘柄は、美味しいと評判のカステラのお店のもので、三葉みわ百貨店限定品。
 一度食べてみたいと思っていたけれど、すぐに売り切れてしまうから、まだ口にしたことのない貴重なカステラだった。

「僕の持ってきたカステラのほうが、先生はお好きですので、そちらは持って帰ってくださいね」

 ハンチング帽にジャケット、吊りズボンという軽装で現れた陽文さんは、どこか遊びに行ってきた帰りのようだった。

「狐……か……?」
「おや。よくわかりましたね。この中で、僕が一番人間の姿になって長い。見抜けないかと思いました」

 陽文さんを送ってきた車が横付けされ、運転手さんが清睦さんを警戒するように、こちらを見ている。
 清睦さんが陽文さんをただ者ではないと認識するのに、時間はかからなかった。
 
「父が三葉みわ財閥の当主も郷戸に訪れたと、騒いでいたが、まさか……」
「大正解です。すでに我々は、この国の中枢に存在する。言いふらしたところで、頭がおかしくなったと思われるのは、あなたのほうですよ」

 陽文さんは笑いながら、清睦さんの肩をぽんぽんっと叩いた。

「これ以上、千後瀧ちごたき先生の怒りを買わないほうが身のためです。僕みたいに優しくないですよ?」

 その笑顔は、清睦さんの微笑みの上を行く恐ろしさがあった。
 完璧な笑顔と声で、人の良い青年を装っていながら、中身は別だ。

「骨すら残さず、消されたくないでしょう? さあ、どうぞお帰りはあちらですよ」

 清睦さんは学帽をかぶりなおし、私を睨みつけた。
 けれど、さっまでの鋭く、きつい目付きではなくなっていた。

「世梨。とんでもない連中と関わったな」

 今なら、私は自分の気持ちをちゃんと言える気がした。
 清睦さんに微笑み、私は言った。

「いいえ。私にとって、誰よりも優しくて親切な方々です」
 
 この結婚が、周囲を欺くための契約結婚だとしても構わない。
 両親や兄妹よりも、紫水様は私のことを考えてくれている。
 結婚するのは、私を守るためと、紫水様は言った。
 あの時、私に力を使うなと言ったのは、紫水様だけ――郷戸から連れ出してくれたのも。

「私は二度と郷戸へ戻りません。清睦さんが自分の道を歩めるよう願ってます」

 私が傷ついてなにも言えなくなっていると思っていた清睦さんは動揺し、目を泳がせた。

「ふん。俺はお前が結婚したと聞いて安心した。二度と顔を見なくて済むからな。それを伝えに来ただけだ」

 清睦さんはバツが悪そうな顔をして言い捨てると、早足に去っていった。
 私が郷戸の家を確実に出たかどうか――その真偽をはっきりさせるために来たのだ。
 お祝いではなく、私が二度と自分に関わらないことを確認するために。
 
「清睦さんは、私を本気で嫌っていたんですね」

 自分の心の平穏ため、私の兄でなくなった。そして、今度は身内でなくなり、とうとう他人に――
 清睦さんが去った方角をぼんやり眺めていると、紫水様が私の頭をぽんっと叩いた。
 私は泣いていなかったけれど、紫水様は見えない涙をぬぐうようにして、指を頬に触れさせた。

「どうして紫水様は、私に怒らないんですか?」
「なぜ怒る?」
「私が祖父の跡を継いでいないと知って、紫水様は怒るか、がっかりすると思っていました」
「俺はあいつほど、千秋に心酔していない。俺には、まだ憧れている存在がいる」

 悪い顔をして、紫水様は笑う。
 紫水様の本業は蒐集家しゅうしゅうか。他にも興味を引き、心奪われるものが、たくさんあるのだろう。
 家の中にある蒐集品がそれを語っている気がした。

「俺が世梨にスケッチブックをやったのは、お前の望みを知るためだ」
「私のしたいことですか?」
「そうだ。明日、世梨の洋服を仕立てに行こう」

 その言葉を聞いて、泣きそうになった。
 口に出して言えない私の願いを探るため、紫水様は私にスケッチブックを渡し、絵を描かせたのだ。
 そして、紫水様は絵を見て、私の願いがわかった。

「……はい」
「泣くな」

 ずっと私は言いたかった。
 でも、言えなかった。
 気づかないふりをしていたけど、祖父が私に自分の弟子として、教えていたことに気づいていたし、本宮の家は私が祖父の跡を継ぐことを嫌がった。
 本宮の本家を乗っ取るのではと疑われ、嫌な思いもたくさんした。
 郷戸に戻れば、私は女中扱いで――

「先生、気が利くじゃないですか。世梨ちゃんは手足が長いから、きっと洋服が似合いますね。うちの百貨店で、小物を揃えるといいですよ。買い物に付き合います」
「世梨さまとお買い物、楽しみですっ!」

 ――ここは違う。
 私の気持ちを言っても許される。

「私、洋裁をやりたいんです」

 気持ちを言えば、紫水様が笑ってくれる。
 それを知っているから。
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