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第二章
21 卑怯な脅し
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広い鍔付きの帽子、ストライプ柄のワンピースにヒールのある靴、薄くお化粧をした玲花は美しい――はずなのに、どこか暗い陰を感じさせ、年相応の健康的な可愛らしさがあった玲花ではなくなっていた。
継山さんは以前と変わらず、垢抜けた服装で、白いシャツにジャケット、胸元にハンカチをちらりと見せていて、玲花と並ぶと、お洒落な恋人同士に見える。
「あれ? 世梨ちゃんだけじゃなく、僕もいるけど、目に入らなかったのかな?」
継山さんは陽文さんを鼻先で笑い飛ばす。
「龍に媚びへつらう、狐がいるそうですよ。狡猾に生きてきただけあると、噂されているのを知ってますか?」
「心外だな。僕は媚びているんじゃなくて、純粋に千後瀧先生を尊敬しているだけなんだけど」
陽文さんは怒らなかった。
そんなふうに言われると、わかっていて紫水様といるからか、怒らずに笑っていた。
「鴉の一族は、先生の寛大な心に感謝するべきだよ? そうじゃなかったら、今ごろ、龍の配下になってたと思うなぁ」
「ぼくもそう思いますっ!」
蒼ちゃんは頷いた。
「白蛇はやすやす下ったようですが?」
「紫水さま強いしー。ぼく、子供だしぃ」
なぜか、継山さんだけでなく、陽文さんまでもが、蒼ちゃんに冷たい視線を向けた。
人間の姿になったのは最近だけど、本当はもっと年上らしい。
「それで、鴉は世梨ちゃんを諦めて、そっちのお嬢さんと結婚するのかな?」
「まさか。諦めていませんよ。自分の妻は世梨さんだけと、決めていますからね」
継山さんの返事に、蒼ちゃんがすばやく反応し、バッと前に飛び出して両手を広げる。
瞳の色が青墨色から青色に近づき、戦おうとしているのがわかった。それを止めたのは、陽文さんだった。
「蒼。ここでは、騒ぎを起こさないように。三葉百貨店に来店するお客様は、特別な買い物をする方が多い。お客様の楽しみを奪ってはいけないんだよ」
結婚したばかりの若い夫婦が家具を選び、よそゆきの子供服を探す奥様、ネクタイピンを選ぶ老紳士――普段と少し違う特別な物を求めて来店している。
雰囲気を壊し、水を差すような真似をしたくない。
そう陽文さんは考えているようだった。
「あやかしの力が見れると思って、楽しみにしてたのに、つまらないわ。戦わずに、どうやって世梨をどう守るつもりかしら? 馬鹿にされても平気そうだし、本当は弱いんじゃないの?」
「安っぽい挑発ですね」
陽文さんは笑ってかわす。
挑発に乗らなかった陽文さんを馬鹿にし、玲花は従えた死霊たちを自慢げに見せつけた。
すでにそれは死霊と呼べず、禍々しく巨大な怨霊で、死霊が見えない私にもその影を目にすることができた。
――あの中に祖父もいるのだろうか。
いないと思いたいけど、玲花がなにをするか、わからなかった。
死霊たちは物悲しい声を上げ、蒼ちゃんは耳を塞ぐ仕草をし、陽文さんは不快そうに眉を顰めた。
「一流の物を身に付けていたとしても品性の無さは隠せないな」
「なんですって!」
争いになる――そう思った瞬間、陽文さんの手から白い炎が現れた。
白い炎は私と陽文さん、蒼ちゃんに重なり、分身を作り出すと、体から離れて前へ出る。
「時は金なり。僕はね、暇つぶしにもならない遊びはやらない主義なんだ」
玲花たちと私たちの分身がいる世界を隔てるように、透明な幕が下り、向こう側とこちら側を分断する。
向こう側では、白い炎で作った偽者だと気づかずに、玲花たちが会話を続けている。
金色に染まった陽文さんの瞳。穏やかに微笑んでいるのに、その雰囲気は人と呼ぶにはほど遠く、氷のように冷たく感じた。
陽文さんが指をパチンと鳴らすと、透明な幕が幾重にも下り出し、玲花たちの姿はやがて見えなくなった。
「世梨ちゃん、蒼。行こうか」
いつもの優しい陽文さんの顔に戻り、笑顔をこちらへ向けた。
それを見て、蒼ちゃんもホッとした様子だった。
「陽文さん。あれは幻影ですか?」
「そうだよ。しばらく、気づかずに話しているんじゃないかな」
これなら、店内の雰囲気を壊すことなく、買い物を楽しめる。
「若いあやかしたちは、力ばかりを見せつけたがるから困る。人の世に溶け込もうというのなら、人間が決めたルールに従わなくてはならないんだよ。蒼、ちゃんと心得ておくように」
「う……。わかりました……」
人の姿になって長いからか、陽文さんには余裕がある。
「それじゃあ、食堂に行って、なにか食べよう。そのうち、先生が合流するだろうしね」
「賛成ですっ!」
「はい」
食堂は屋上から数えて、一つ下の階にあった。
広いフロアに丸いテーブルがいくつも並び、エプロン姿の女給さんが立っている。
焦げ茶色の大きな木製扉には、薔薇と蝶のステンドグラスがはめ込まれ、扉上部にもアーチ形をしたステンドグラスがあった。
美しい扉が、お客様を出迎えたかと思うと、食堂内の天井に豪奢な硝子製のシャンデリアが吊るされているのが目に入る。一歩足を踏み入れたお客様の目は、シャンデリアに向けられる。
そして、テーブルに置かれているのは、モダンなデザインのメニュー表。花の絵柄はアールヌーボー調で、まるで高級な洋食屋を訪れた時のような気持ちになった。
そんな大食堂は人気で、お昼前だというのに、すでに大勢の人で賑わっている。
「個室でも食べられるけど、どうする? 僕は世梨ちゃんと蒼ちゃんに合わせるよ」
「ここで食べたいです!」
「ぼくもっ!」
「わかったよ」
陽文さんが女給さんに目配せすると、窓際に席を作ってくれた。
大きな硝子窓から見える展望も素晴らしく、近くの席に座った子供が、椅子から立ち上がり、自分の家がどこか探して両親を困らせている。
蒼ちゃんと私も、つい探してしまったことは言うまでもない。
それくらい、素晴らしい眺めだった。
食堂には、コーヒーやソーダ水、あんみつ、ライスカレーなど、子供から大人まで喜ぶメニューが用意されていた。
陽文さんはコーヒー、私と蒼ちゃんはアイクリームを注文した。
私と蒼ちゃんは、ひんやり冷やされた器に盛られたアイスクリームを口にする。
「世梨さま。アイスクリームは甘くて冷たくて、とっても美味しいですねっ!」
「ええ。アイスクリームを食べると特別なかんじがするわ」
最近では、レモンやチョコレート味のアイスクリームが発売されたとか。
いつか食べてみたいと思いながら、食堂を見渡すと、アイスクリームは大人から子供まで人気のメニューらしく、よく売れていた。
「あっ!」
あと一口というところで、蒼ちゃんはズボンにアイスクリームを落としてしまった。
しょんぼりする蒼ちゃんにハンカチを渡す。
「大丈夫。家に帰って洗えば、綺麗になるわ」
「ごめんなさい……」
「蒼はアイスクリームを大事に食べすぎだよ。ゆっくり食べたら、アイスクリームが溶けるにきまってる」
「ハンカチを洗ってきますね」
立ちあがり、食堂を出て、同じ階にあったお手洗いでハンカチを洗う。
「そろそろ紫水様も来るといいけど……」
気にしないでおこうと決めたのに、やっぱり気になる。
紫水様は結婚話に怒って、本家の屋根を破壊したという。
そんな紫水様が、欲しいものを手に入れるためだったとはいえ婚約するなんて、それほど嫌な相手ではなかったのかもしれない。
紫水様が蒐集できていない祖父の着物は、まだ何枚もある。
「紫水様はおじいちゃんに憧れて、人の世界へ来たんだから……」
着物を優先して当たり前。
私はそれを承知で結婚した。
なのに、どうして今さら、紫水様に祖父の着物を優先してほしくないと思うのか。
「しっかりしなきゃ……。これは私と紫水様の契約なんだから……」
ため息をつき、洗ったハンカチを巾着に仕舞って、食堂へ戻る通路を歩く。
食堂まで、あと少しというところで、私の行く手を二つの影が阻んだ。
「あなたたちは……?」
書生姿の二人組は、人の姿をしていたけど、私を知っているようで、お互い目配せをし、手で合図する。
私を逃がさないためか、二人のうち一人が退路を塞いでから、私に話しかけた。
「やっと目障りな龍が、いなくなってくれたようじゃなぁ」
「当主がようやく嫁を迎えることができる。なんと、めでたい」
会話から、この二人は人間ではなく、鴉の一族であることがわかった。
人の姿でありながら、どこか人と違う。
「声を出しますよ……!」
私が強く言うと、鴉たちが笑った。
こだまする笑い声は、鴉が仲間を呼ぶ声に、どこか似ていた。
「我らが当主は賢いのぅ」
「おとなしくついてこないとおっしゃっていたのは、本当じゃった」
鴉の当主とは継山さんのことだろう。
なにをするのかと思っていたら、風呂敷包みとハサミを私に見せた。
「それはなに……?」
――嫌な予感がする。
郷戸の家で、私が文様を使うのを見ていた鴉たちは、私が大切にしているものを知っている。
「千秋の着物じゃ!」
「どうだ。美しかろう!」
風呂敷の結び目をほどいて、広げられた着物は、祖父が私のために作った一枚、花嫁衣装だった。
華やかな赤の打掛には、祖父の私への想いが込められていた。
嫁ぎ先が幸せな場所であるように大輪の牡丹で願い、祝う気持ちは瑞雲で表現し、私の成長を蝶で喜ぶ。
そして、結婚相手と離れることなく永久に連れ添うようにと、二羽の鶴が舞う。
文様が亡くなった祖父の気持ちを私に伝えてくれる。
「おじいちゃん……」
打ち掛けを得意そうに祖父は祖母に見せ、まだ早いわよと、気の早い祖父を笑う祖母の顔が目に浮かぶ。
――私は打掛の文様だけは、奪えなかった。
祖父が私に伝えたかった言葉をそのまま残したかったから。
そして、見事な打掛の文様を奪う勇気が出ず、打掛が売られていく日、私は最後まで、この打掛を眺めていたのを思い出す。
「この着物を傷つけられたくないのであれば、我々と来るのじゃ!」
打掛の価値を知らない鴉たちは、ハサミを動かす嫌な音を鳴らし、私を脅した。
「やめて! この打掛が完成するまで、どれだけ大変か、あなたたちにわかるの!?」
私が怒っても鴉たちは笑うだけ。
人間の娘が、自分たちに敵うわけがないと侮っているのだ。
紫水様の龍文を使えば、なんとかなるかもしれない。
けれど、百貨店の中で騒ぎを起こすのはまずい。
龍文の破壊力が、どれだけの威力があるのか、わからず、百貨店を楽しんでいる人たちの顔を思い浮かべたら、使えなかった。
「わかりました……。あなたたちと一緒に行きます。だから、ハサミを仕舞ってください」
打掛を守り、店内を混乱させないために、私は鴉たちと一緒に行くことを選んだ。
逃げ出す機会があると信じて――
継山さんは以前と変わらず、垢抜けた服装で、白いシャツにジャケット、胸元にハンカチをちらりと見せていて、玲花と並ぶと、お洒落な恋人同士に見える。
「あれ? 世梨ちゃんだけじゃなく、僕もいるけど、目に入らなかったのかな?」
継山さんは陽文さんを鼻先で笑い飛ばす。
「龍に媚びへつらう、狐がいるそうですよ。狡猾に生きてきただけあると、噂されているのを知ってますか?」
「心外だな。僕は媚びているんじゃなくて、純粋に千後瀧先生を尊敬しているだけなんだけど」
陽文さんは怒らなかった。
そんなふうに言われると、わかっていて紫水様といるからか、怒らずに笑っていた。
「鴉の一族は、先生の寛大な心に感謝するべきだよ? そうじゃなかったら、今ごろ、龍の配下になってたと思うなぁ」
「ぼくもそう思いますっ!」
蒼ちゃんは頷いた。
「白蛇はやすやす下ったようですが?」
「紫水さま強いしー。ぼく、子供だしぃ」
なぜか、継山さんだけでなく、陽文さんまでもが、蒼ちゃんに冷たい視線を向けた。
人間の姿になったのは最近だけど、本当はもっと年上らしい。
「それで、鴉は世梨ちゃんを諦めて、そっちのお嬢さんと結婚するのかな?」
「まさか。諦めていませんよ。自分の妻は世梨さんだけと、決めていますからね」
継山さんの返事に、蒼ちゃんがすばやく反応し、バッと前に飛び出して両手を広げる。
瞳の色が青墨色から青色に近づき、戦おうとしているのがわかった。それを止めたのは、陽文さんだった。
「蒼。ここでは、騒ぎを起こさないように。三葉百貨店に来店するお客様は、特別な買い物をする方が多い。お客様の楽しみを奪ってはいけないんだよ」
結婚したばかりの若い夫婦が家具を選び、よそゆきの子供服を探す奥様、ネクタイピンを選ぶ老紳士――普段と少し違う特別な物を求めて来店している。
雰囲気を壊し、水を差すような真似をしたくない。
そう陽文さんは考えているようだった。
「あやかしの力が見れると思って、楽しみにしてたのに、つまらないわ。戦わずに、どうやって世梨をどう守るつもりかしら? 馬鹿にされても平気そうだし、本当は弱いんじゃないの?」
「安っぽい挑発ですね」
陽文さんは笑ってかわす。
挑発に乗らなかった陽文さんを馬鹿にし、玲花は従えた死霊たちを自慢げに見せつけた。
すでにそれは死霊と呼べず、禍々しく巨大な怨霊で、死霊が見えない私にもその影を目にすることができた。
――あの中に祖父もいるのだろうか。
いないと思いたいけど、玲花がなにをするか、わからなかった。
死霊たちは物悲しい声を上げ、蒼ちゃんは耳を塞ぐ仕草をし、陽文さんは不快そうに眉を顰めた。
「一流の物を身に付けていたとしても品性の無さは隠せないな」
「なんですって!」
争いになる――そう思った瞬間、陽文さんの手から白い炎が現れた。
白い炎は私と陽文さん、蒼ちゃんに重なり、分身を作り出すと、体から離れて前へ出る。
「時は金なり。僕はね、暇つぶしにもならない遊びはやらない主義なんだ」
玲花たちと私たちの分身がいる世界を隔てるように、透明な幕が下り、向こう側とこちら側を分断する。
向こう側では、白い炎で作った偽者だと気づかずに、玲花たちが会話を続けている。
金色に染まった陽文さんの瞳。穏やかに微笑んでいるのに、その雰囲気は人と呼ぶにはほど遠く、氷のように冷たく感じた。
陽文さんが指をパチンと鳴らすと、透明な幕が幾重にも下り出し、玲花たちの姿はやがて見えなくなった。
「世梨ちゃん、蒼。行こうか」
いつもの優しい陽文さんの顔に戻り、笑顔をこちらへ向けた。
それを見て、蒼ちゃんもホッとした様子だった。
「陽文さん。あれは幻影ですか?」
「そうだよ。しばらく、気づかずに話しているんじゃないかな」
これなら、店内の雰囲気を壊すことなく、買い物を楽しめる。
「若いあやかしたちは、力ばかりを見せつけたがるから困る。人の世に溶け込もうというのなら、人間が決めたルールに従わなくてはならないんだよ。蒼、ちゃんと心得ておくように」
「う……。わかりました……」
人の姿になって長いからか、陽文さんには余裕がある。
「それじゃあ、食堂に行って、なにか食べよう。そのうち、先生が合流するだろうしね」
「賛成ですっ!」
「はい」
食堂は屋上から数えて、一つ下の階にあった。
広いフロアに丸いテーブルがいくつも並び、エプロン姿の女給さんが立っている。
焦げ茶色の大きな木製扉には、薔薇と蝶のステンドグラスがはめ込まれ、扉上部にもアーチ形をしたステンドグラスがあった。
美しい扉が、お客様を出迎えたかと思うと、食堂内の天井に豪奢な硝子製のシャンデリアが吊るされているのが目に入る。一歩足を踏み入れたお客様の目は、シャンデリアに向けられる。
そして、テーブルに置かれているのは、モダンなデザインのメニュー表。花の絵柄はアールヌーボー調で、まるで高級な洋食屋を訪れた時のような気持ちになった。
そんな大食堂は人気で、お昼前だというのに、すでに大勢の人で賑わっている。
「個室でも食べられるけど、どうする? 僕は世梨ちゃんと蒼ちゃんに合わせるよ」
「ここで食べたいです!」
「ぼくもっ!」
「わかったよ」
陽文さんが女給さんに目配せすると、窓際に席を作ってくれた。
大きな硝子窓から見える展望も素晴らしく、近くの席に座った子供が、椅子から立ち上がり、自分の家がどこか探して両親を困らせている。
蒼ちゃんと私も、つい探してしまったことは言うまでもない。
それくらい、素晴らしい眺めだった。
食堂には、コーヒーやソーダ水、あんみつ、ライスカレーなど、子供から大人まで喜ぶメニューが用意されていた。
陽文さんはコーヒー、私と蒼ちゃんはアイクリームを注文した。
私と蒼ちゃんは、ひんやり冷やされた器に盛られたアイスクリームを口にする。
「世梨さま。アイスクリームは甘くて冷たくて、とっても美味しいですねっ!」
「ええ。アイスクリームを食べると特別なかんじがするわ」
最近では、レモンやチョコレート味のアイスクリームが発売されたとか。
いつか食べてみたいと思いながら、食堂を見渡すと、アイスクリームは大人から子供まで人気のメニューらしく、よく売れていた。
「あっ!」
あと一口というところで、蒼ちゃんはズボンにアイスクリームを落としてしまった。
しょんぼりする蒼ちゃんにハンカチを渡す。
「大丈夫。家に帰って洗えば、綺麗になるわ」
「ごめんなさい……」
「蒼はアイスクリームを大事に食べすぎだよ。ゆっくり食べたら、アイスクリームが溶けるにきまってる」
「ハンカチを洗ってきますね」
立ちあがり、食堂を出て、同じ階にあったお手洗いでハンカチを洗う。
「そろそろ紫水様も来るといいけど……」
気にしないでおこうと決めたのに、やっぱり気になる。
紫水様は結婚話に怒って、本家の屋根を破壊したという。
そんな紫水様が、欲しいものを手に入れるためだったとはいえ婚約するなんて、それほど嫌な相手ではなかったのかもしれない。
紫水様が蒐集できていない祖父の着物は、まだ何枚もある。
「紫水様はおじいちゃんに憧れて、人の世界へ来たんだから……」
着物を優先して当たり前。
私はそれを承知で結婚した。
なのに、どうして今さら、紫水様に祖父の着物を優先してほしくないと思うのか。
「しっかりしなきゃ……。これは私と紫水様の契約なんだから……」
ため息をつき、洗ったハンカチを巾着に仕舞って、食堂へ戻る通路を歩く。
食堂まで、あと少しというところで、私の行く手を二つの影が阻んだ。
「あなたたちは……?」
書生姿の二人組は、人の姿をしていたけど、私を知っているようで、お互い目配せをし、手で合図する。
私を逃がさないためか、二人のうち一人が退路を塞いでから、私に話しかけた。
「やっと目障りな龍が、いなくなってくれたようじゃなぁ」
「当主がようやく嫁を迎えることができる。なんと、めでたい」
会話から、この二人は人間ではなく、鴉の一族であることがわかった。
人の姿でありながら、どこか人と違う。
「声を出しますよ……!」
私が強く言うと、鴉たちが笑った。
こだまする笑い声は、鴉が仲間を呼ぶ声に、どこか似ていた。
「我らが当主は賢いのぅ」
「おとなしくついてこないとおっしゃっていたのは、本当じゃった」
鴉の当主とは継山さんのことだろう。
なにをするのかと思っていたら、風呂敷包みとハサミを私に見せた。
「それはなに……?」
――嫌な予感がする。
郷戸の家で、私が文様を使うのを見ていた鴉たちは、私が大切にしているものを知っている。
「千秋の着物じゃ!」
「どうだ。美しかろう!」
風呂敷の結び目をほどいて、広げられた着物は、祖父が私のために作った一枚、花嫁衣装だった。
華やかな赤の打掛には、祖父の私への想いが込められていた。
嫁ぎ先が幸せな場所であるように大輪の牡丹で願い、祝う気持ちは瑞雲で表現し、私の成長を蝶で喜ぶ。
そして、結婚相手と離れることなく永久に連れ添うようにと、二羽の鶴が舞う。
文様が亡くなった祖父の気持ちを私に伝えてくれる。
「おじいちゃん……」
打ち掛けを得意そうに祖父は祖母に見せ、まだ早いわよと、気の早い祖父を笑う祖母の顔が目に浮かぶ。
――私は打掛の文様だけは、奪えなかった。
祖父が私に伝えたかった言葉をそのまま残したかったから。
そして、見事な打掛の文様を奪う勇気が出ず、打掛が売られていく日、私は最後まで、この打掛を眺めていたのを思い出す。
「この着物を傷つけられたくないのであれば、我々と来るのじゃ!」
打掛の価値を知らない鴉たちは、ハサミを動かす嫌な音を鳴らし、私を脅した。
「やめて! この打掛が完成するまで、どれだけ大変か、あなたたちにわかるの!?」
私が怒っても鴉たちは笑うだけ。
人間の娘が、自分たちに敵うわけがないと侮っているのだ。
紫水様の龍文を使えば、なんとかなるかもしれない。
けれど、百貨店の中で騒ぎを起こすのはまずい。
龍文の破壊力が、どれだけの威力があるのか、わからず、百貨店を楽しんでいる人たちの顔を思い浮かべたら、使えなかった。
「わかりました……。あなたたちと一緒に行きます。だから、ハサミを仕舞ってください」
打掛を守り、店内を混乱させないために、私は鴉たちと一緒に行くことを選んだ。
逃げ出す機会があると信じて――
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