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第二章

15 始まった結婚生活

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 近くのお店をあおちゃんは案内してくれた。
 緩やかな坂の下にあるのは、豆腐屋、お肉屋、甘味処に蕎麦屋――郊外にしては店が多い。

「お店が多くて、賑やかな町なのね」
「前は虫のが聞こえるくらい静かだったんです。でも、地震があってから、こっちへ引っ越す人が増えてきたから、お店をやる人が出てきて、賑やかになりました」
「そうだったの」

 新しい木材を運び入れる人、七輪を買い求める人たちが、私たちの横を足早に通り過ぎていく。
 長く住むための準備をしている人が多い。
 この町は、さらに賑やかになりそうな気がした。
 お店がすぐ近くにあるとはいえ、手に持てる量は決まっている。
 米と味噌、お茶の葉、野菜などの食料品を買った。
 途中、鴉の姿を数羽見かけたけれど、私たちには近寄らず、郷戸ごうどの時と同じように鳴き声を上げただけ。
 蒼ちゃんが前に出て、ひと睨みすると、鴉は逃げるようにして、山とは逆方向へ飛び去っていった。

「あの鴉……」
「大丈夫ですっ! 世梨さまのことは、ぼくが守ります!」

 鴉たちがなにもせず、逃げるくらいだから、蒼ちゃんも弱くないと思う。 

「ありがとう。でも、無理はしないで。危ないと思ったら一緒に逃げましょう」
「はいっ!」

 それ以上、変わったことはなく、無事、買い物を終わらせて帰宅できた。
 蒼ちゃんが荷物を片付け、私のほうは夕食作りにとりかかる。
 さっそく綺麗になった台所でお米を炊く。

「蒼ちゃん、お皿はないかしら?」

 おかずをなにか作ろうと思ったけれど、皿がない。
 湯呑みだけではなく、茶碗も足りなかった。

「紫水さまが蒐集しゅうしゅうしたお茶碗とお皿があったと思いますっ! 持ってきます!」
「だっ、駄目よ! それはすごく高価な物だから、駄目! 今日は簡単な食事にするから、大丈夫!」
「えー? そうですか? けっこう素敵なお茶碗がありますよ?」

 首を横に振って、お断りした。
 紫水様が集めたという器の数々は、普段使いできるものではないと思う。
 今日はお味噌汁とおにぎりに決めた。
 湯呑みも使えば、お味噌汁の器代わりにはなる。
 ご飯を炊いている横で、味噌汁も作った。

「うわぁ、炊き立てのご飯だぁ」

 蒼ちゃんは炊き上がったご飯を眺め、にっこり微笑んだ。
 ガス式の炊飯器で炊いたお米はふっくらしていて、つやがある。
 ご飯を杓文字しゃもじで、ひっくり返すと釜の底にはご飯のお焦げが残っていた。

「世梨さま。おにぎりなら、ぼくもできます」
「じゃあ、一緒に作りましょうか」
「はいっ!」

 塩と海苔のシンプルなおにぎりに、お豆腐のお味噌汁。
 祖父が忙しい時の食事は、私と祖母で、おにぎりと味噌汁を作ったことを懐かしく思いながら、おにぎりを握った。

「紫水さま、きっと喜びますねっ!」
「そういえば、台所が使われてなかったみたいだけど、食事はいつもどうしていたの?」
「近くのお蕎麦屋とか、飯屋とか……。陽文ひふみさまが折詰弁当や稲荷寿司いなりずしを買ってきてくれました。陽文さんは紫水さまを尊敬していて、よく水墨画を見に来られるんですよっ!」
「そうだったの。だから、紫水様を先生と呼んでいるのね」

 陽文さんが頻繁に訪れるのなら、お客様用の湯呑みとお茶碗も必要になる。
 物はあるのに、日用品が足りてないという現実。
 蒼ちゃんは頬についた米粒にも気づかず、一心不乱におにぎりを食べていた。
 そんな蒼ちゃんを微笑ましく思いながら、味噌汁とおにぎり、お茶を用意し、お盆にのせる。
 そして、紫水様の仕事部屋の前まで持っていき、ふすまを叩いた。
 襖は開けずに、外から声をかける。

「紫水様。お邪魔して申し訳ありません。お食事を部屋の前に置きましたから、よろしければ召し上がってください」
「食事を?」

 いらないと言われるだろうかと、不安になった。
 紫水様の立ち上がる気配がし、足音が近づく。
 襖が開いた時、顔の表情を見て、ホッとした。
 私に向けられた目は優しく、持ってきた食事に視線を落とす。

「悪い。そういえば、蒼しかいないんだった。明日、千後瀧から女中を呼ぶ」

 紫水様は申し訳なさそうな顔をし、前髪をくしゃりと握りつぶした。
 そんな顔をする紫水様は初めてで、人と暮らすことに慣れていないのだとわかった。

「いいえ。平気です。なるべく、紫水様のご迷惑にならないよう過ごさせていただきます」
「迷惑なら、最初から家に入れない」
「そ、そうですよね……」

 千後瀧本家を破壊したという話を思い出し、うなずくしかなかった。

「言い忘れたが、鍵がかかっている奥の部屋には、俺が蒐集した物が置いてある。いわく付きの物ばかりだ。入る時は気を付けろよ」
「承知しました」

 いわく付きと言われては、開ける気にもなれなかった。
 掃除ができないのは残念だけど、それは仕方ない。

「他になにか必要なものがあるか?」
「そうですね……。掃除道具と食料。それから、それぞれのお茶碗と湯呑みでしょうか。できたら、お客様用のお茶碗もあれば、助かります」
「……なかったな」

 仕事部屋を覗かれるのが、嫌かもしれないと思って廊下で待っていたけど、紫水様は部屋の中へ私を招き入れた。
 すずりにはったすみの濃い黒色が残り、室内には墨の清香せいこうが漂う。
 制作途中の水墨画を乾かしているのか、まだ書きかけのものが、床に広げられていた。
 時間の経過によって、変化する墨の色は多彩な色を生む。
 まだ途中の水墨画は山水図。
 岩場の人家、奥には霞んで見える人里――絵の中に広がる幽玄の世界がそこにはあった。

「黒一色なのに、たくさんの色が使われているように見えます。青にも灰にも。とても綺麗です」
「それなら、よかった。俺は最初、千秋せんしゅうの弟子になるつもりだったんだが、あいつが俺に水墨画をやれと言うから、こっちをやるようになった」
「おじいちゃんがそんなことを?」
「ああ。千秋はやめろとは言わない。その代わり才能がない奴に、やれとも言わない。……残酷な奴だ」

 私は祖父から、なにを言われただろうか。
 あまりに幼くて、最初に描いた絵のことは、忘れてしまった。

「そうですか。でも、紫水様の水墨画は見事だと思います。いつも飾って眺めたいと思うくらいに」
「似ているな」
「え?」
「千秋の最高の褒め言葉はそれだった。そして、あいつは世梨の絵をよく飾っていた」

 それは身内の贔屓目ひいきめで、祖父が孫の絵を飾っていただけだと思う。

「そうですね。私は孫ですから……」
「そんなことはない。千秋は厳しい男だった」

 私と紫水様の目が合う。
 もしかして、紫水様は以前から、私を知っているのだろうか。

「そうだ。世梨に財布を渡しておく。そのほうが楽だろう」

 私に手渡されたのは、ずしっと重い財布で、中身は全部お札だった。
 小銭がないこともだけど、すぐに数えられないお札の枚数に動揺してしまった。

「あ、あの……」
「足りなかったか」
「いえっ! 足りてます!」
「足りなかったら、まだあるぞ」
「平気です!」

 紫水様が文箱ふばこの中から、おもむろに取り出してきた追加の札束を見て、慌てて断った。
 金銭感覚が違いすぎる。
 紫水様はお腹が空いたのか、おにぎりを口に入れた。

「食べやすいし、うまいな」
「おじいちゃんが忙しい時、食事は大抵、おにぎりだったんですよ」

 お味噌汁とおにぎりが定番だった。
 夜遅くまで、作業をしていることもあり、手軽に食べられるものを好んだ。

「千秋が……。そうだ。世梨。これをやろう」

 紫水様が棚から取り出したのはスケッチブックだった。
 真新しいスケッチブックと鉛筆。これは、祖父がくれたのと同じ物だった。
 私に渡す時、祖父は決まって――

「好きなものを描くといい」

 ――そう言うのだ。
 生活の中にある物でいいから、好きなものを描けと。

「……不思議ですね」
「うん?」
「紫水様はおじいちゃんと同じことを言うんです」

 紫水様は私が祖父と似ていると言ったけれど、それは違う。
 好むものが似ているからか、血の繋がりのある私より、紫水様のほうが、祖父に似ている。

「遺された者は、先に逝った者の面影を探して、寂しさを紛らわせているのかもな」

 紫水様は少し複雑な顔をして言った。
 祖父を知る者同士、気持ちを理解できるからこそ――手元のスケッチブックを見つめる。
 同じスケッチブックだったのは、偶然ではないのかもしれない。
 紫水様も私と同じように、祖父からスケッチブックを渡されたことがある。
 そんな気がした。
 
「ありがとうございます。時間ができたら、なにか描いてみます」
「ああ。それから、外に出るのはいいが、蒼を必ず連れていけよ。鴉があれで諦めたとは思えない」
「はい」

 紫水様の言うとおり、今日も怪しい鴉が、私と蒼ちゃんを見ていた。
 蒼ちゃんがいたからか、鴉は近寄らず、遠くで鳴いただけだった。

「紫水様がおっしゃるとおり、蒼ちゃんと一緒に、おでかけします」
「ああ」
「紫水様、おやすみなさいませ」
「おやすみ、世梨」

 挨拶を交わして眠る。
 そんな当たり前のことが嬉しくて、笑みをこぼすと、それを見た紫水様も微笑んだ。
 紫水様の部屋を出ると、玄関前を電灯が白く照らしていた。
 台所の窓のからは、通り向かいの家々にともる蜜柑色の灯りが見える。
 夜の灯が胸に温かみを持たせ、流れる優しい空気は、孤独だった私の心を埋めてくれる。
 まだ結婚生活二日目なのに、気が付くと、私はここで紫水様たちと少しでも長く一緒に過ごせるようにと願っていた。
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