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第一章
7 契約結婚
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――死にたくない。
そう思い、着物から手を離した。
紫水様の目が真剣だったのもある。
「死にたいとは思っていないようだな。安心した」
「死にたいなんて……思ってないです……」
「なら、それ以上、着物から文様を奪うな。今、宿している文様も着物に返せ。体が疲れているのもそのせいだ」
「できません。これがあるから、私は生きていけるんです。祖父母との思い出を失くしたくない……」
祖父の着物は、本宮の叔父夫婦に売られるか、郷戸の母に形見分けとして渡された。
私の手元には一枚も残してくれなかったのだ。
「いや、盗んだ文様は返してもらう」
紫水様は続き間の襖を開けた。
着物を掛けた衣桁がずらりと並び、そのどれもが文様を失っている。
祖父の着物が、祖父の着物ではなくなってしまっていた。
不完全な着物は千秋の作品として、認められなかったのだろう。
偽物と判断された着物は、本物だと気付くことのできた紫水様の手に渡ったようだ。
「戻せ」
「嫌です!」
掴まれた手を振りほどこうと、もがいた私の声が夜の闇に響く。
私の声に反応した鴉たちが、庭の松の木に止まり、騒ぎ立てた。
『敵だ、敵だ』
そう鴉は言っている。
夜だというのに、やかましく鳴く鴉たちの声に誰かが気づき、どこかで窓が開く。
「なぁに? 鴉がうるさいわねぇ」
「嫌な声だわ」
使用人たちの気配と同時に、周囲にひんやりした水の空気が漂う。
ハッとして、紫水様の顔を見た瞬間、その黒い瞳は青みを帯び、細められ、夜の空を 一瞥した。
その瞬間、ドンッ――と雷が闇を切り裂き、小さな悲鳴がそこらで起きる。
「驚いた。春の雷か……」
「どこかに落ちてなきゃいいけどねぇ」
「おい、雨が降ってくる前に窓を閉めたほうがいいぞ」
数回鳴って止んだ雷は、鴉たちへの威嚇と、使用人たちを家の中へ戻すため。
紫水様の思惑どおり、雷を目にした使用人たちは窓や戸を閉め、夜は再び静寂を取り戻した。
「静かに。人間も面倒だが、あやかしどもが集まってくる」
雷に気を取られ、気づかなかったけれど、いつの間にか、客間の障子戸が閉められていた。
「騒ぎはまずい。お前も能力があると知られたくないだろう?」
黙って頷いた。
両親が知っているのは、玲花の力だけ。
私は自分の力を悟られたくなかった。
玲花のように役立つ力ではないし、なにより、文様を奪ったことが知られてしまう。
「俺は敵ではない」
紫水様の落ち着いた声が、私の心の動揺を鎮めた。
「俺が、お前の力に気づいたのは、着物から文様が失われていたからだ」
「どうして、私の仕業だとわかったんですか?」
「妻を亡くした千秋が暮らしていたのは孫娘だけだった。本物を偽物として売る者より、本物と知っている元の持ち主が、着物になにか細工をしたと考えるほうが自然だろう」
遡った結果、私しかいなかった――そういうことらしい。
叔父は幼い頃から、祖父の跡を継ぐことを諦め、着物に興味を持たないよう過ごしてきた。
だから、叔父は洋装派で、妻も洋服を好む女性を選んだ。
母ほど絵に詳しくなかった叔父は、祖父の着物の価値など考えず、売り飛ばし、お金に換えてしまった。
「誰も気がつかないと思ってました」
「千秋をよく知る者ならば、気づく。あいつが駄作を世に出すわけがないからだ」
祖父の真剣な姿を近くで見て育ったから、私も知っている。
知っていたのに、孤独に負けて、祖父の着物から文様を奪ってしまった。
それが、私の罪。
「ここへ俺が来たのは、着物を手に入れるだけじゃない。その力は、人の身に過ぎた力だと、警告するために来た」
「人の身に過ぎた力ですか……?」
「疲労しているだろう。元々、人の身で使えるような力じゃない。それをいつも使っていれば、やがて力尽きる。そして、弱い人の体では耐え切れなくなり死ぬ」
「……死ぬ」
これは、脅しじゃない。
以前のように、眠っても疲れが取れない日々が続いていた。
新しい生活に慣れていないだけだと思い、気にしていなかったけれど、体に宿した文様のせいとは考えなかった。
文様は私を守るものだと、思っていたから。
「わかったら、戻せ。それに文様を盗んだことで、あやかしどもは、お前の力に気づき、自分の嫁にしようと狙っている」
「そんな……。誰も……私のことなんて……」
「鴉の一族だけじゃない。この一帯にいる奴らは、お前が持つ力に気づいたぞ。だが、鴉に負けて、表に出てこない。鴉の一族は、ここら一帯を自分の縄張りにし、他の奴らを従えてから嫁に迎える」
いつも、私を監視していた鴉。
あれは偶然ではなく、獲物を逃げられないよう囲み、それから、確実に手に入れる算段だったのだ。
「今、鴉が鳴いてるのは、自分たちの縄張りに、獲物を奪う奴がやってきたと教えている」
雷によって、一度は鳴き止んだ鴉たちだったけれど、今度は離れた場所で鳴き、仲間を呼ぶ。
庭から聞こえる羽ばたきは一羽二羽の音ではなく、数を徐々に増やしているのがわかる。
「なぜ、私を妻にしたいのか、その理由がわかりません」
「文様を奪う力だ。その力に目を付けた。気づいているだろうが、俺も 陽文も人ではない」
紫水様たちが人ではないと言われても驚かなかった。
雨を止ませ、雷を操る力は、私や玲花が持つ能力とは格が違う。
人であるほうが、不自然だ。
「ほとんどが、棲家を追われた神だ」
「紫水様と陽文さんも居場所を失ったんですか?」
「いや? 俺と陽文は、人の世に興味があって人の姿を望んだ。だが、それは稀なことらしい」
確かに『神様を返上して、人間になります』なんて、ちょっと変わっているかもしれない。
「俺は蒐集、陽文は享楽。つまり、人の人生を楽しみたかったということだ」
「……わかりやすいです」
物欲を優先していると語った紫水様は、堂々としていた。
その私欲を隠さない態度が、いっそ清々しい。
「人になれず、神でもなくなった我々は、あやかしと呼ばれる。あやかしから、人により近くなるため、人を知らなくてはならない……らしい」
紫水様は自分の手のひらをジッと見つめた。
私に説明してくれているけれど、紫水様自身もよく理解していないようだった。
「力を持つ人間の娘を妻にすれば、人に近しくなれるのですか?」
「たぶんな」
「それで、私が狙われているのですね……」
「そうだ。特殊な力を持つ娘との間に、生まれた子は、あやかしとしての力を失わない。あやかしたちは己の血筋と力を絶やさぬように、嫁としての資格を持つ娘を探し回っているってわけだ」
そんな事情があるとは知らず、私は不用意に力を使い、鴉たちに見られてしまった。
「一族を守るためでもある。あいつらが必死になるのも無理はない。このままだと、お前は鴉の嫁になるぞ」
「そんな……」
「俺と取引をするか? 千秋の着物に文様を戻すと約束するなら、お前の身を守ってやる」
「身を守ってもらう代わりに、私は文様を失うということですか?」
「なんだ。不満か」
祖父が死に、私は今まで持っていたものすべてを失った。
この身に、優しい思い出を閉じ込め、それに縋って生きてきた。
「私を守るなんて、信じられません。価値があると言われても、私は自分の価値がわからない……」
私が文様を返したら、紫水様は着物を持って、東京へ戻ればいいだけ。
鴉の嫁になろうが、あやかしたちに狙われようが、どうでもいい話だ。
「少なくとも、あやかしたちはお前をこのまま放って置かない。一番安全なのは、お前が俺の妻になることだ」
「紫水様の妻になる……」
「形だけでも、強い者の妻になれば、弱い者は手を出せない。実際、鴉たちは近づけずにいる。だが、それでも諦めずに追ってくるだろう。その時、お前は自分の価値を知る」
紫水様の言うとおり、紫水様たちが郷戸へやってきてから、鴉たちは遠巻きに眺めるだけで、近づいてこない。
鴉たちにとっての『恐ろしい客』であり、私を嫁にしようと目論んでいた鴉は、紫水様たちが邪魔なのだ。
「お前が生きていくには、千秋の着物が必要なんだろう? だから、文様を奪った。千秋の着物さえあれば、文様を奪う理由はなくなる。違うか?」
「そのとおりです……。おじいちゃんの着物には、幸せだった頃の思い出が詰まっているんです。幸せだった頃の自分を忘れたくなかったから、私は文様を奪った……」
「俺は責めてるわけじゃない。千秋が孫娘のために作った着物は、お前の物だ。好きにしたらいい」
紫水様は 衣桁に掛けられた桜色の着物を手に取り、広げると、私の体に羽織らせた。
夜の闇に桜が白く浮かび、美しく咲いている。
「俺は嫁取りをしないつもりだった。だが、このままだと、お前が死ぬ」
「そんな死ぬだなんて……」
「危険だから言っている。体に負担がかかっていることを自覚しろ」
自覚していても口に出せずにいたのは、私を心配してくれる人は誰もいなかったからだ。
私を大切に育ててくれた祖父母がいなくなった今、私が縋れるのは、自分の力だけ。
腕をなでた手を止めた。不安になると、無意識のうちに自分の腕をなでてしまう癖がついてしまった。
「私が紫水様の妻だなんて、ご迷惑でしょう……。それに、着物は紫水様が買い取られた物です。私が図々しく自由にしていいものではありません」
「なんだ。俺が独り占めすると思ったのか。俺は自分の欲に従い蒐集するが、作り手の遺志は尊重する。無粋な真似はしたくない。その着物もお前が一番よく似合う」
本当に祖父の着物が好きで、本業が蒐集家というのも嘘ではないらしい。
「俺は物を蒐集するのが仕事だ。お前は文様を使い、千秋の着物を探し、俺の手伝いをする。その代わりに俺はお前を他のあやかしから守る。これで、対等な契約だ。悪い話ではないと思うが?」
――契約結婚。
つまり、形だけの結婚をするということだ。
「紫水様はおじいちゃんの着物を一緒に探してくれるんですか?」
「そうだ。世梨。俺が千秋の着物をすべて取り返してやる」
「すべて……」
続き間に並んだ着物を眺める。
文様を失った着物は駄作だ。
天才着物作家と呼ばれた祖父の着物を、私が駄作にしてしまった――私は祖父に謝りたい。
後悔が今になって押し寄せてきた。
「泣くな。千秋もわかっている」
「でも、私がおじいちゃんの名を貶めて……」
「あいつは気にしない。自分の名誉より、お前を遺して逝くしかないことを気にするような奴だった。お前のために、千秋が作った着物の数々がそれを語っているだろう?」
紫水様の熱のない指が私の涙をぬぐう。
「俺の本業は蒐集家。本性は龍。人ではないが、世梨。俺の妻になるか?」
「龍……龍神……」
「そうだ。そこらのあやかしどもとは、格が違う」
人ではない者の妻になる――それでもいい。
私をここから連れ出して、祖父の着物を取り戻してくれるのなら、この身を捧げることくらいなんでもない。
「承知しました。紫水様の妻になります」
形だけとはいえ、私は龍神である紫水様に嫁ぐことを決意し、この契約結婚を承諾した。
「よし。では、着物に文様を戻せ。ここにある着物だけでも戻せば、少しは体が楽になる」
手をかざし、着物へ向ける。
私の利き腕から、少しずつ文様が這い出て、本来あるべき場所へ戻っていく。
「蝶文、菊文、薔薇まであるのか。千秋め。後から新しい文様を試したな」
俺が知らないものまであるなと、不満げにぶつぶつ言っていた。
紫水様は心から、祖父の着物が好きなのだとわかった。
だからこそ、紫水様が人でなくても信じられたのかもしれない。
祖父の着物を愛する者同士として――文様の名を呼び、体からひとつひとつ解放していく。
部屋に花や生き物が満ち、華やかで美しい光景を作り出す。
「桃源郷のようだ」
そう言って、紫水様は眩しげに目を細め、黙ってその光景を眺めていた。
並んでいた着物に柄が戻った瞬間、体から力が抜け、崩れ落ちそうになった私を紫水様が受け止めた。
魂に対して肉体が重いという感覚は初めてで、自分がどれだけ、限界まで力を使い、危険な状態であったのか、ようやく理解した。
「疲れただろう? もういいから、休め」
「紫水様……」
「なくした文様の代わりに俺の印をやる。それを契約の印とする」
ひんやりとした水のような感触が手のひらに伝う。
紫水様の唇が手のひらに触れているのに、それは氷水に触れたような感触だった。
「龍の文様だ。これで、お前は俺の加護を受け、文様を身に宿していても、疲れにくくなる」
唇が離れた後には、手のひらに黒く小さな文様が刻まれていた。
まるで、墨絵のような。
「紫水様の唇は……冷たいです……」
「人から遠い存在だからな。人に近づくには、人を知らなくてはならない」
――だから、我らには嫁がいるのだ。
その声は紫水様だったのか、外の鴉が言った言葉だったのか、意識が遠退く中、確認することはできなかった。
けれど、熱がないはずの紫水様が刻んだ龍の文様。
手のひらから、ないはずの熱を感じ、不思議と心が安らいだ。
私は祖父母が亡くなってから、初めて深い眠りに落ちることができたのだった。
そう思い、着物から手を離した。
紫水様の目が真剣だったのもある。
「死にたいとは思っていないようだな。安心した」
「死にたいなんて……思ってないです……」
「なら、それ以上、着物から文様を奪うな。今、宿している文様も着物に返せ。体が疲れているのもそのせいだ」
「できません。これがあるから、私は生きていけるんです。祖父母との思い出を失くしたくない……」
祖父の着物は、本宮の叔父夫婦に売られるか、郷戸の母に形見分けとして渡された。
私の手元には一枚も残してくれなかったのだ。
「いや、盗んだ文様は返してもらう」
紫水様は続き間の襖を開けた。
着物を掛けた衣桁がずらりと並び、そのどれもが文様を失っている。
祖父の着物が、祖父の着物ではなくなってしまっていた。
不完全な着物は千秋の作品として、認められなかったのだろう。
偽物と判断された着物は、本物だと気付くことのできた紫水様の手に渡ったようだ。
「戻せ」
「嫌です!」
掴まれた手を振りほどこうと、もがいた私の声が夜の闇に響く。
私の声に反応した鴉たちが、庭の松の木に止まり、騒ぎ立てた。
『敵だ、敵だ』
そう鴉は言っている。
夜だというのに、やかましく鳴く鴉たちの声に誰かが気づき、どこかで窓が開く。
「なぁに? 鴉がうるさいわねぇ」
「嫌な声だわ」
使用人たちの気配と同時に、周囲にひんやりした水の空気が漂う。
ハッとして、紫水様の顔を見た瞬間、その黒い瞳は青みを帯び、細められ、夜の空を 一瞥した。
その瞬間、ドンッ――と雷が闇を切り裂き、小さな悲鳴がそこらで起きる。
「驚いた。春の雷か……」
「どこかに落ちてなきゃいいけどねぇ」
「おい、雨が降ってくる前に窓を閉めたほうがいいぞ」
数回鳴って止んだ雷は、鴉たちへの威嚇と、使用人たちを家の中へ戻すため。
紫水様の思惑どおり、雷を目にした使用人たちは窓や戸を閉め、夜は再び静寂を取り戻した。
「静かに。人間も面倒だが、あやかしどもが集まってくる」
雷に気を取られ、気づかなかったけれど、いつの間にか、客間の障子戸が閉められていた。
「騒ぎはまずい。お前も能力があると知られたくないだろう?」
黙って頷いた。
両親が知っているのは、玲花の力だけ。
私は自分の力を悟られたくなかった。
玲花のように役立つ力ではないし、なにより、文様を奪ったことが知られてしまう。
「俺は敵ではない」
紫水様の落ち着いた声が、私の心の動揺を鎮めた。
「俺が、お前の力に気づいたのは、着物から文様が失われていたからだ」
「どうして、私の仕業だとわかったんですか?」
「妻を亡くした千秋が暮らしていたのは孫娘だけだった。本物を偽物として売る者より、本物と知っている元の持ち主が、着物になにか細工をしたと考えるほうが自然だろう」
遡った結果、私しかいなかった――そういうことらしい。
叔父は幼い頃から、祖父の跡を継ぐことを諦め、着物に興味を持たないよう過ごしてきた。
だから、叔父は洋装派で、妻も洋服を好む女性を選んだ。
母ほど絵に詳しくなかった叔父は、祖父の着物の価値など考えず、売り飛ばし、お金に換えてしまった。
「誰も気がつかないと思ってました」
「千秋をよく知る者ならば、気づく。あいつが駄作を世に出すわけがないからだ」
祖父の真剣な姿を近くで見て育ったから、私も知っている。
知っていたのに、孤独に負けて、祖父の着物から文様を奪ってしまった。
それが、私の罪。
「ここへ俺が来たのは、着物を手に入れるだけじゃない。その力は、人の身に過ぎた力だと、警告するために来た」
「人の身に過ぎた力ですか……?」
「疲労しているだろう。元々、人の身で使えるような力じゃない。それをいつも使っていれば、やがて力尽きる。そして、弱い人の体では耐え切れなくなり死ぬ」
「……死ぬ」
これは、脅しじゃない。
以前のように、眠っても疲れが取れない日々が続いていた。
新しい生活に慣れていないだけだと思い、気にしていなかったけれど、体に宿した文様のせいとは考えなかった。
文様は私を守るものだと、思っていたから。
「わかったら、戻せ。それに文様を盗んだことで、あやかしどもは、お前の力に気づき、自分の嫁にしようと狙っている」
「そんな……。誰も……私のことなんて……」
「鴉の一族だけじゃない。この一帯にいる奴らは、お前が持つ力に気づいたぞ。だが、鴉に負けて、表に出てこない。鴉の一族は、ここら一帯を自分の縄張りにし、他の奴らを従えてから嫁に迎える」
いつも、私を監視していた鴉。
あれは偶然ではなく、獲物を逃げられないよう囲み、それから、確実に手に入れる算段だったのだ。
「今、鴉が鳴いてるのは、自分たちの縄張りに、獲物を奪う奴がやってきたと教えている」
雷によって、一度は鳴き止んだ鴉たちだったけれど、今度は離れた場所で鳴き、仲間を呼ぶ。
庭から聞こえる羽ばたきは一羽二羽の音ではなく、数を徐々に増やしているのがわかる。
「なぜ、私を妻にしたいのか、その理由がわかりません」
「文様を奪う力だ。その力に目を付けた。気づいているだろうが、俺も 陽文も人ではない」
紫水様たちが人ではないと言われても驚かなかった。
雨を止ませ、雷を操る力は、私や玲花が持つ能力とは格が違う。
人であるほうが、不自然だ。
「ほとんどが、棲家を追われた神だ」
「紫水様と陽文さんも居場所を失ったんですか?」
「いや? 俺と陽文は、人の世に興味があって人の姿を望んだ。だが、それは稀なことらしい」
確かに『神様を返上して、人間になります』なんて、ちょっと変わっているかもしれない。
「俺は蒐集、陽文は享楽。つまり、人の人生を楽しみたかったということだ」
「……わかりやすいです」
物欲を優先していると語った紫水様は、堂々としていた。
その私欲を隠さない態度が、いっそ清々しい。
「人になれず、神でもなくなった我々は、あやかしと呼ばれる。あやかしから、人により近くなるため、人を知らなくてはならない……らしい」
紫水様は自分の手のひらをジッと見つめた。
私に説明してくれているけれど、紫水様自身もよく理解していないようだった。
「力を持つ人間の娘を妻にすれば、人に近しくなれるのですか?」
「たぶんな」
「それで、私が狙われているのですね……」
「そうだ。特殊な力を持つ娘との間に、生まれた子は、あやかしとしての力を失わない。あやかしたちは己の血筋と力を絶やさぬように、嫁としての資格を持つ娘を探し回っているってわけだ」
そんな事情があるとは知らず、私は不用意に力を使い、鴉たちに見られてしまった。
「一族を守るためでもある。あいつらが必死になるのも無理はない。このままだと、お前は鴉の嫁になるぞ」
「そんな……」
「俺と取引をするか? 千秋の着物に文様を戻すと約束するなら、お前の身を守ってやる」
「身を守ってもらう代わりに、私は文様を失うということですか?」
「なんだ。不満か」
祖父が死に、私は今まで持っていたものすべてを失った。
この身に、優しい思い出を閉じ込め、それに縋って生きてきた。
「私を守るなんて、信じられません。価値があると言われても、私は自分の価値がわからない……」
私が文様を返したら、紫水様は着物を持って、東京へ戻ればいいだけ。
鴉の嫁になろうが、あやかしたちに狙われようが、どうでもいい話だ。
「少なくとも、あやかしたちはお前をこのまま放って置かない。一番安全なのは、お前が俺の妻になることだ」
「紫水様の妻になる……」
「形だけでも、強い者の妻になれば、弱い者は手を出せない。実際、鴉たちは近づけずにいる。だが、それでも諦めずに追ってくるだろう。その時、お前は自分の価値を知る」
紫水様の言うとおり、紫水様たちが郷戸へやってきてから、鴉たちは遠巻きに眺めるだけで、近づいてこない。
鴉たちにとっての『恐ろしい客』であり、私を嫁にしようと目論んでいた鴉は、紫水様たちが邪魔なのだ。
「お前が生きていくには、千秋の着物が必要なんだろう? だから、文様を奪った。千秋の着物さえあれば、文様を奪う理由はなくなる。違うか?」
「そのとおりです……。おじいちゃんの着物には、幸せだった頃の思い出が詰まっているんです。幸せだった頃の自分を忘れたくなかったから、私は文様を奪った……」
「俺は責めてるわけじゃない。千秋が孫娘のために作った着物は、お前の物だ。好きにしたらいい」
紫水様は 衣桁に掛けられた桜色の着物を手に取り、広げると、私の体に羽織らせた。
夜の闇に桜が白く浮かび、美しく咲いている。
「俺は嫁取りをしないつもりだった。だが、このままだと、お前が死ぬ」
「そんな死ぬだなんて……」
「危険だから言っている。体に負担がかかっていることを自覚しろ」
自覚していても口に出せずにいたのは、私を心配してくれる人は誰もいなかったからだ。
私を大切に育ててくれた祖父母がいなくなった今、私が縋れるのは、自分の力だけ。
腕をなでた手を止めた。不安になると、無意識のうちに自分の腕をなでてしまう癖がついてしまった。
「私が紫水様の妻だなんて、ご迷惑でしょう……。それに、着物は紫水様が買い取られた物です。私が図々しく自由にしていいものではありません」
「なんだ。俺が独り占めすると思ったのか。俺は自分の欲に従い蒐集するが、作り手の遺志は尊重する。無粋な真似はしたくない。その着物もお前が一番よく似合う」
本当に祖父の着物が好きで、本業が蒐集家というのも嘘ではないらしい。
「俺は物を蒐集するのが仕事だ。お前は文様を使い、千秋の着物を探し、俺の手伝いをする。その代わりに俺はお前を他のあやかしから守る。これで、対等な契約だ。悪い話ではないと思うが?」
――契約結婚。
つまり、形だけの結婚をするということだ。
「紫水様はおじいちゃんの着物を一緒に探してくれるんですか?」
「そうだ。世梨。俺が千秋の着物をすべて取り返してやる」
「すべて……」
続き間に並んだ着物を眺める。
文様を失った着物は駄作だ。
天才着物作家と呼ばれた祖父の着物を、私が駄作にしてしまった――私は祖父に謝りたい。
後悔が今になって押し寄せてきた。
「泣くな。千秋もわかっている」
「でも、私がおじいちゃんの名を貶めて……」
「あいつは気にしない。自分の名誉より、お前を遺して逝くしかないことを気にするような奴だった。お前のために、千秋が作った着物の数々がそれを語っているだろう?」
紫水様の熱のない指が私の涙をぬぐう。
「俺の本業は蒐集家。本性は龍。人ではないが、世梨。俺の妻になるか?」
「龍……龍神……」
「そうだ。そこらのあやかしどもとは、格が違う」
人ではない者の妻になる――それでもいい。
私をここから連れ出して、祖父の着物を取り戻してくれるのなら、この身を捧げることくらいなんでもない。
「承知しました。紫水様の妻になります」
形だけとはいえ、私は龍神である紫水様に嫁ぐことを決意し、この契約結婚を承諾した。
「よし。では、着物に文様を戻せ。ここにある着物だけでも戻せば、少しは体が楽になる」
手をかざし、着物へ向ける。
私の利き腕から、少しずつ文様が這い出て、本来あるべき場所へ戻っていく。
「蝶文、菊文、薔薇まであるのか。千秋め。後から新しい文様を試したな」
俺が知らないものまであるなと、不満げにぶつぶつ言っていた。
紫水様は心から、祖父の着物が好きなのだとわかった。
だからこそ、紫水様が人でなくても信じられたのかもしれない。
祖父の着物を愛する者同士として――文様の名を呼び、体からひとつひとつ解放していく。
部屋に花や生き物が満ち、華やかで美しい光景を作り出す。
「桃源郷のようだ」
そう言って、紫水様は眩しげに目を細め、黙ってその光景を眺めていた。
並んでいた着物に柄が戻った瞬間、体から力が抜け、崩れ落ちそうになった私を紫水様が受け止めた。
魂に対して肉体が重いという感覚は初めてで、自分がどれだけ、限界まで力を使い、危険な状態であったのか、ようやく理解した。
「疲れただろう? もういいから、休め」
「紫水様……」
「なくした文様の代わりに俺の印をやる。それを契約の印とする」
ひんやりとした水のような感触が手のひらに伝う。
紫水様の唇が手のひらに触れているのに、それは氷水に触れたような感触だった。
「龍の文様だ。これで、お前は俺の加護を受け、文様を身に宿していても、疲れにくくなる」
唇が離れた後には、手のひらに黒く小さな文様が刻まれていた。
まるで、墨絵のような。
「紫水様の唇は……冷たいです……」
「人から遠い存在だからな。人に近づくには、人を知らなくてはならない」
――だから、我らには嫁がいるのだ。
その声は紫水様だったのか、外の鴉が言った言葉だったのか、意識が遠退く中、確認することはできなかった。
けれど、熱がないはずの紫水様が刻んだ龍の文様。
手のひらから、ないはずの熱を感じ、不思議と心が安らいだ。
私は祖父母が亡くなってから、初めて深い眠りに落ちることができたのだった。
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貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
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