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29 誰かを大切だと思うこと【梶井】
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甘い香りが部屋に充満している。
香水をつけすぎたのだろう。
化粧をして露出の高い服を着ていた母親が鼻歌を歌っている。
機嫌のいい母親を見て俺は嫌な予感がしていた。
「理滉、出かけてくるわね」
「新しい恋人ができたのか?」
「んー。そーなのかなー?わかんない。恋人かどうかは付き合ってみないとね」
どうせまた、ろくでもない男なんだろう。
「母さん。本選の演奏を聴きに来てくれるって言ってたよな?」
明日はコンクールの本選だ。
俺の応援に来ると前から約束していた。
それなのに―――また息子より自分を泣かせるような男を選ぶのだろうか。
「もちろんよ。理滉は私の自慢の息子よ?菱水音大附属高校に合格して特待生なんて、みんなからすごーいって言われているんだからー」
「だったら、明日は絶対に来てくれよ」
優勝すれば高校を卒業するのと同時に海外に留学することになる。
そうなったら、一緒に暮らすこともできなくなる。
「もおー。わかったわよ」
母はうるさいわねぇと俺を横目で見て不機嫌な顔をした。
俺は今まで我儘らしい我儘を言わなかったはずだ。
このお願いだけはきいてほしかった。
会場で選ぶつもりだった―――母か、チェロか。
優勝しなければ、菱水音大に進学するつもりでいた。
そして、母と一緒に暮らし続ける。
俺と一緒にいたいと少しでも思ってくれているのなら、来てくれるはずだと思っていた。
「じゃあ、行ってくるわね」
「待って。行かないで」
いつもなら、絶対に言わない言葉だった。
なぜかその日、ここにいて欲しいと思ってしまった。
「理滉。なに言ってるの?高校生にもなって子供みたいな真似をしないで」
とっさに母の手をつかんだけど、その手を乱暴に振り払われ、アパートのドアが閉まる。
一度も俺を見てはくれなかった。
俺を拒絶するように背中を向けて出て行った。
振り向きもせずに。
コンクール当日の朝、母はアパートに戻ってこなかった。
それが母の答えだと俺は思って諦めた。
『家族』という存在を諦めた瞬間だった。
俺の演奏の時間になっても母はこない―――わかっていたはずだ。
母は来ない。
俺は舞台に立つ。
母の好きなサンサーンスの白鳥。
観客席からは静かな熱が伝わってくる。
俺の演奏を聴き、感動してくれる。
俺だけを見てくれる。
母のために弾いていた曲は気づくと俺は母のためじゃなく、観客席に向けて弾いていた。
雨のような拍手を受けた。
結果はもうわかっている。
「梶井君。優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
―――これで母とは離れることになってしまった。
母は一人で暮らしていけるだろうか。
いや、むしろ俺がいないほうが自由でいいのかもしれない。
そう思った時だった。
「梶井さん!大変です!今、病院から電話で―――」
よくない知らせだとわかった。
俺がチェロを選んだから神様は俺から母を奪ったのだ。
絶望、苦しみ、後悔に苛まれてチェロを弾くことができなくなった。
めちゃくちゃな音。
もう無理だ、弾けない―――そう思った時、ひんやりとした感触がして目を開けた。
「チョンマゲオデコか」
苦しみの中で与えられた眩しい光。
母の代わりに神様が俺に与えた。
それを手放したくない。
必死につかんでいた。
その手を。
深い眠りに落ちた。
苦しい夢を次は見ない。
次に目が覚めた時は部屋にはコットンフレグランスの香りがしてた。
俺のそばで手を握り眠る奏花ちゃんがいた。
「嘘だろ」
体調が悪く、ベッドに行くのが面倒で床に寝転んだところまでは覚えている。
そこまではいい。
「ここにいたのか……?」
他人を部屋に入れただけじゃない。
身の回りの世話をされても気づかずに眠っていたことに驚いていた。
俺の体をソファーまで運んでくれたのだろう。
起き上がると額からタオルが落ちた。
看病をしてくれたのか、すやすやとそばで眠っている。
「無防備すぎるよ、奏花ちゃん」
指で髪をあげて顔を近づけた。
胸が痛い。
少しでも俺を想ってくれている?
ここにいるってことは俺のことが嫌いってことじゃないよな?
「愛おしいってこういうことを言うんだな」
いつも俺を助けてくれる。
俺が救うんじゃなく、君が俺を救ってくれる。
大事な存在だ―――手に入れたい。
頬を指でなでる。
彼女の体を抱きしめようとしたその時―――
「う、うーん……逢生、それは私の……プリン……」
キスしようとしてやめた。
なにをしようとしているんだ。
俺は。
バシバシっと頭を叩いた。
そして気づく。
彼女から漂うコットンフレグランスの香りに。
「あいつ……」
深月と同じ香りだ。
以前、彼女が使っていた香水と違う。
「どれだけ独占欲が強いんだよ」
不快にもほどがある。
自分がこんな余裕のない男だとは思わなかった。
眠っている女に手を出すほど馬鹿な男じゃない。
それに―――
「他の男の名前を呼ぶなよ……」
俺といる時くらい俺の名を呼んでくれよ。
あいつといる時間より、ずっと少ない時間だろう?
この胸の痛みは熱のせいだ。
熱が下がれば、また俺は元に戻れる。
ものわかりがいい大人の男に。
香水をつけすぎたのだろう。
化粧をして露出の高い服を着ていた母親が鼻歌を歌っている。
機嫌のいい母親を見て俺は嫌な予感がしていた。
「理滉、出かけてくるわね」
「新しい恋人ができたのか?」
「んー。そーなのかなー?わかんない。恋人かどうかは付き合ってみないとね」
どうせまた、ろくでもない男なんだろう。
「母さん。本選の演奏を聴きに来てくれるって言ってたよな?」
明日はコンクールの本選だ。
俺の応援に来ると前から約束していた。
それなのに―――また息子より自分を泣かせるような男を選ぶのだろうか。
「もちろんよ。理滉は私の自慢の息子よ?菱水音大附属高校に合格して特待生なんて、みんなからすごーいって言われているんだからー」
「だったら、明日は絶対に来てくれよ」
優勝すれば高校を卒業するのと同時に海外に留学することになる。
そうなったら、一緒に暮らすこともできなくなる。
「もおー。わかったわよ」
母はうるさいわねぇと俺を横目で見て不機嫌な顔をした。
俺は今まで我儘らしい我儘を言わなかったはずだ。
このお願いだけはきいてほしかった。
会場で選ぶつもりだった―――母か、チェロか。
優勝しなければ、菱水音大に進学するつもりでいた。
そして、母と一緒に暮らし続ける。
俺と一緒にいたいと少しでも思ってくれているのなら、来てくれるはずだと思っていた。
「じゃあ、行ってくるわね」
「待って。行かないで」
いつもなら、絶対に言わない言葉だった。
なぜかその日、ここにいて欲しいと思ってしまった。
「理滉。なに言ってるの?高校生にもなって子供みたいな真似をしないで」
とっさに母の手をつかんだけど、その手を乱暴に振り払われ、アパートのドアが閉まる。
一度も俺を見てはくれなかった。
俺を拒絶するように背中を向けて出て行った。
振り向きもせずに。
コンクール当日の朝、母はアパートに戻ってこなかった。
それが母の答えだと俺は思って諦めた。
『家族』という存在を諦めた瞬間だった。
俺の演奏の時間になっても母はこない―――わかっていたはずだ。
母は来ない。
俺は舞台に立つ。
母の好きなサンサーンスの白鳥。
観客席からは静かな熱が伝わってくる。
俺の演奏を聴き、感動してくれる。
俺だけを見てくれる。
母のために弾いていた曲は気づくと俺は母のためじゃなく、観客席に向けて弾いていた。
雨のような拍手を受けた。
結果はもうわかっている。
「梶井君。優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
―――これで母とは離れることになってしまった。
母は一人で暮らしていけるだろうか。
いや、むしろ俺がいないほうが自由でいいのかもしれない。
そう思った時だった。
「梶井さん!大変です!今、病院から電話で―――」
よくない知らせだとわかった。
俺がチェロを選んだから神様は俺から母を奪ったのだ。
絶望、苦しみ、後悔に苛まれてチェロを弾くことができなくなった。
めちゃくちゃな音。
もう無理だ、弾けない―――そう思った時、ひんやりとした感触がして目を開けた。
「チョンマゲオデコか」
苦しみの中で与えられた眩しい光。
母の代わりに神様が俺に与えた。
それを手放したくない。
必死につかんでいた。
その手を。
深い眠りに落ちた。
苦しい夢を次は見ない。
次に目が覚めた時は部屋にはコットンフレグランスの香りがしてた。
俺のそばで手を握り眠る奏花ちゃんがいた。
「嘘だろ」
体調が悪く、ベッドに行くのが面倒で床に寝転んだところまでは覚えている。
そこまではいい。
「ここにいたのか……?」
他人を部屋に入れただけじゃない。
身の回りの世話をされても気づかずに眠っていたことに驚いていた。
俺の体をソファーまで運んでくれたのだろう。
起き上がると額からタオルが落ちた。
看病をしてくれたのか、すやすやとそばで眠っている。
「無防備すぎるよ、奏花ちゃん」
指で髪をあげて顔を近づけた。
胸が痛い。
少しでも俺を想ってくれている?
ここにいるってことは俺のことが嫌いってことじゃないよな?
「愛おしいってこういうことを言うんだな」
いつも俺を助けてくれる。
俺が救うんじゃなく、君が俺を救ってくれる。
大事な存在だ―――手に入れたい。
頬を指でなでる。
彼女の体を抱きしめようとしたその時―――
「う、うーん……逢生、それは私の……プリン……」
キスしようとしてやめた。
なにをしようとしているんだ。
俺は。
バシバシっと頭を叩いた。
そして気づく。
彼女から漂うコットンフレグランスの香りに。
「あいつ……」
深月と同じ香りだ。
以前、彼女が使っていた香水と違う。
「どれだけ独占欲が強いんだよ」
不快にもほどがある。
自分がこんな余裕のない男だとは思わなかった。
眠っている女に手を出すほど馬鹿な男じゃない。
それに―――
「他の男の名前を呼ぶなよ……」
俺といる時くらい俺の名を呼んでくれよ。
あいつといる時間より、ずっと少ない時間だろう?
この胸の痛みは熱のせいだ。
熱が下がれば、また俺は元に戻れる。
ものわかりがいい大人の男に。
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