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「えっー!」
「なんだ。その反応は! 驚いているだけか? それとも不満な顔か?」
「えっと、驚きのほうで……」

 リセが凄んできたので、間違っても『不満』なんて言えなかった。
 
「知らなかったの? 琉永るなちゃん? もしかして、詐欺?」
恩未めぐみさん、違うんです。普通の会社員だと思ってたんです」

 リセが麻王あさおグループの御曹司で、専務なんて……
 つまり、あの麻王あさお悠世ゆうせいと兄弟ということになる。

「俺が専務だと言ったら、すんなり結婚したか?」
「うっ……! だって、麻王あさおグループの専務夫人なんて、務まらないし、それに、私……」
「ほらな。俺はデザイナーの琉永るなが好きだ。だから、辞めろとは言わない」

 リセは私が一番大切にしているものがわかるのだ。

 ――今日、千歳ちとせの病院へ来てくれたのも、私が千歳を大切に思ってるから。

 リセは信用できる。
 正直にいつも自分の気持ちを口にする。
 
「嘘は一度も言っていない。再会の約束も婚約もすべて破ってないしな」
「うん……」

 ――だよね。私を私より、わかってる。大人で頭が良くて、余裕たっぷりなリセ。だから、リセといる時だけは、安心していられる。

「だから、専務夫人でも社長夫人でも、構わないだろ?」

 リセは私の頬に手をあて、私を誘惑する。

 ――ず、ずるい。

 そう思うけど、その顔を至近距離で見て、お断りできるわけがなかった。
 美しいものに弱いのは、私だけではなく、周りもそう。
 映画のワンシーンの見るかのように、うっとりとリセを眺めている。
 
 ――私もいるんですけどね?

 納得できない気持ちだったけど、イチャイチャしていると思われるのも困るので、リセから距離を取る。

「それでどうしたい? このままだと『Fillフィル』はなくなる。INUIグループはファストファッションの大手企業だ。『Fillフィル』に似せたデザインの服を大量に生産して、安く販売するぞ」
「そんな簡単にはいかないよ。うちのブランドはこだわりがあるし、固定客も多い」

 リセは紡生つむぎさんの言葉にため息をついた。

「すでにINUIグループは動き出している。ファッションビルの隣の店舗が空いてるな?」
「空いているけど、まさかそこにINUIグループのブランドが入るってこと!?」

 恩未めぐみさんの顔が青ざめた。

「そうだ。隣に安くて似たような服があれば、そっちに客は流れる」

 もう始まっているのだ。
 啓雅けいがさんの私への仕返しが――どうしようと思っていると、リセは言った。

「これはINUIグループだけじゃない。『Fillフィル』は遅かれ早かれそうなっていた。シンプルでデザインがいい服を大量生産すれば、売れるからな」

 紡生さんは反論しなかった。
 トップデザイナーとして気づいていたのだ。
 そして、悔しそうにしている恩未さんも。

「なぜ、成長できなかったかわかるか? 素材が高いものに変わってきて、以前の客層から外れ、購買力が落ちている。素材にこだわりすぎた結果、素材のいいシンプルな服を置いているカジュアルブランド。それが、今のブランドイメージだ」
「リセ! 先輩達は一生懸命考えて……!」
「ありがとう。琉永るなちゃん。事実だからいいよ。かばわなくて」

 紡生さんは落ち込んでいるけど、リセは止まらない。

「素材のいいものを使いたいのは、どこも同じだ。だが、それで客を失うようなら、本末転倒。服は人が着てこそ価値がある」

 ――たしかに最近は新作の売れ行きが鈍い。セールを待って買うお客様が増えてる。

 以前なら、セール品と一緒に新作を買われたお客様も手に取り、悩んでいた。
 あれは、デザインが悪いとかではなく、気に入っても高くて買えなかったということだったのだ。

「それじゃあ、麻王専務なら、この『Fillフィル』をどう成長させていくつもりか聞かせてもらおうか」
「戦略をすべて話せない。ただ、この『Fillフィル』を世界的な有名なブランドにのし上げようと思っている」

「世界って……リセ……」

 驚く私を見て、リセは優しく微笑んだ。

「琉永に嫌われたくないからな」
「それって、琉永ちゃんがいなかったら、潰れるのを見届けていたってこと!?」
「そうだ」

 テーブルの上にあったデザイン画で、紙飛行機を折ると、リセはそれを飛ばした。

「学生時代は天才と呼ばれたデザイナーとパタンナー。だが、経営は別だ」

 紡生さんの足元に、紙飛行機が滑るように墜ちた。
 そのデザイン画は、紡生さんのものだ。
 つまり、リセから見て、ボツだということだ。

「世界を選ぶか、INUIグループに潰されるか、どちらがいい?」

 リセが聞くまでもなく、全員、INUIグループのに行く気はない。

「INUIグループには行かない……」

 紡生さんは絞り出すような声で言った。
 きっと今までで一番自分のデザインを貶されたはずだ。
 それでも紡生さんは『Fillフィル』を残したいと思っている。

「よし。それなら決まりだ」

 リセはテーブルにあったデザイン画をすべてゴミ箱に捨てた。

「リセ! なんてことするの!」

 私がゴミ箱からデザイン画を拾おうとしたけれど、それを紡生さんが止めた。

「甘い言葉を言って誘うINUIグループより、毒舌辛口な麻王理世を私は信じる。悔しいけど、『Fillフィル』は成長が衰えてきていたのは事実だ」
「おい……。誰が毒舌だ」
「みんなには言わなかったけど、紡生と私には、以前からINUIグループへ引き抜きの話が来てたの」
「引き抜きって……! 紡生さんと恩未さんがいない『Fillフィル』じゃ、やっていけません!」
「二人がいるから、このブランドがあるのに!」

 不安げな表情で、全員がリセを見た。
 このままの形で、『Fillフィル』を残すには、リセの力が必要だった。

「現状を理解したか」

 リセは理世になっていた。
 あの優しくて、悩みを聞いてくれたモデルのリセはいない。
 いまのリセは、完全に麻王理世だ。

「これはすべてボツだ。デザイナーは全員、自信のあるデザイン画を提出。描いたものは俺が見て、いいと思ったものを商品化する」

 ざわっと事務所内がざわめいた。
 今までは紡生さんと恩未さんが、私たちのデザイン画を見てきた。

 ――デザインチェックを理世がやるなんて、きっと反発される。

 戸惑っていたけれど、紡生さんが足元のデザイン画を拾ってゴミ箱に捨てた。
 それを見て全員、なにも言えなくなった。

「わかった……。デザイナーは全員参加で、デザイン画を提出。彼の目にかなったものだけを商品化していく」
「紡生!」

 恩未さんを手で制し、紡生さんは言った。

「恩未。『Loreleiローレライ』を一気に有名にしたのはこの男だよ。麻王悠世がインタビューで言っていたんだ。プロデュースは自分だけど、経営は弟だって」
「そういえば……」

 リセは自分のことを知っていたのが、嬉しかったのか、にこりと微笑んだ。

「学生の頃から、父の仕事を手伝っていた。悠世は才能があったし、俺にはやりたいことがなかった。だから、俺が後を継ぐことにしたというだけの話だ。『Loreleiローレライ』は経営の勉強のために手掛けた」

 ――勉強で?

 しんっと静まり返った。

「『Loreleiローレライ』のパタンナーを一人寄越す。パタンナーたちは『Loreleiローレライ』のパタンナーから、服のシルエットの美しさを学んでほしい」
「シルエット?」

 リセはライトをつけ、影絵を作った。
 影だけなのに、リセだとわかるのは、スタイルと姿勢の良さ――そして、着ている服の形が体に合っていて、美しいからだ。

「カジュアルな服だが、形が美しければ、ハイブランドと並んでも恥ずかしくない」

 たしかにリセが着ている服は、体にぴったりあっていて、袖もちょうどいいサイズ感。
 上手く着こなしているからだと思ったけど、服もすごいのだとわかった。

「だが、作るのは既製服だ。採寸して作るオートクチュールとは違う。体のつくりが人によって違っても、限界だと思うところまで近づける。いい素材を使いたいなら、自分たちのレベルも上げる必要がある」

 リセが思い描いたのは、シンプルでカジュアル、それでいて上品なものを。
 それは、『Fillフィル』というブランドをリセがわかっているからこそ、提案だった。
 恩未さんと他のパタンナーたちはうなずいた。

「みんな、私は頑張る。だから、みんなも頑張ってほしい! このままだと『Fillフィル』は奪われてしまう。奪われるくらいなら、魔王にだって魂を売って阻止してやろう!」
「誰が魔王だ」

 リセには申し訳ないけど、私も紡生さんの言葉にうなずいてしまっていた。
 みんなの気持ちがひとつになったところで、リセがが椅子から立ち上がった。

「琉永。帰りは迎えにくるから、仕事が終わっても一人で、ここから出ないように。準備ができたら、すぐに新居へ移ろう」
「は、はい」

 新居と言われて、自分は本当にリセと結婚し、妻になったのだと自覚した。

「大変だけど、琉永ならできるよ」

 リセは私の手を握り、利き手にキスをする。
 上目遣いで私を見つめた時は、あまりの美しさに倒れそうになった。

 ――百枚どころか、五百枚だっていけそう!

「待った、待ったぁー! なに二人の世界を作ってるんだよ。私たちにはないわけ!? その優しい言葉はっ」
「あいにく妻限定なもので。これ、連絡先。なにかあったら連絡しろよ」

 理世は紡生さんと恩未さんに、一枚ずつ名刺を渡した。

「今後のことは、また後日、詳しく話す。まずは、このブランドを代表するようなすばらしいデザイン画を楽しみにしてるよ」
「ぐっ! わ、わかりました」
「『Loreleiローレライ』のパタンナーに、よく学べよ」
「はい……」

 言い終わると、リセは時計を見て、急いで事務所から出て行った。
 
 ――麻王グループ専務だし、自分の仕事もあるのに、理世は私のためにスケジュールを空けてくれてたんだ。

 リセの優しさに胸が苦しくなった。
 
 ――デザイン画、がんばろう。リセをがっかりさせないように!

 そう思ったのは、私だけじゃないようで、最近、現実逃避をしていた紡生さんが、天に向かって拳を掲げた。

「デザイン画百枚! やってやる! このまま、馬鹿にされて終わってたまるかっー!」
「パタンナーは今あるサンプルが、『Loreleiローレライ』のパタンナーに劣らないかどうか、各自見直しましょう!」

Loreleiローレライ』のパタンナーに学べるチャンスなんて、滅多にない。
 全員、真剣な表情をし、動き出した。

 ――『Fillフィル』の空気が変わった。今までとは違う。
 
 漠然としたものから、目指すものがはっきりした。
 この空気を作ったのは、リセだ。 

「魔法みたい」

 理世といるとなんでもできる気がする。
 たくさん、アイデアが沸いてきて、どれだけでも描けてしまう。
 
「うわ! なに、そのネジ一本ぶっとんだ顔は」
「幸せボケってあるのね」

 先輩たちは徹夜準備なのか、自分の机にガム、栄養ドリンクを並べ出した。

「琉永ちゃん。いったいどこで、麻王グループの御曹司と出会って、結婚までに至ったの?」

 恩未さんが気になっていたらしく、私に話しかけた。

「最初の出会いはわからないんですけど、私がリセとしっかり話したのは、この間のパリです」
「へっ!? ちょっ、ちょっと! 琉永ちゃん、まさかこの間のパリ出張で?」

 紡生さんが動揺し、鉛筆を床にバラバラと落とした。
 恩未さんは石像のように固まっていた。

「はい。一目惚れって本当にあるんだなって思いました」
「紡生っー! あんたのせいよ!? あんたのせいで、琉永ちゃんがあんなとんでもない男に引っかかって! どーするの? ねえっ!」

 恩未さんが紡生さんの胸倉をつかんで揺さぶった。

「わぁー……責任感じるぅ……」
「私は感謝してます」
「いやいやいや!? あ、あのね、確かにモデルのリセはどこのブランドも使いたがるくらい素敵なモデルだよ? でもね、彼女じゃないっ! 麻王グループの次期社長なの! やり手な腹黒男で有名なんだよ」
「そうそう! あの男がプロデュースするもので失敗したものはないんだから。つまり、計算し尽くされた完璧なプラン。だから、琉永ちゃんのことも以前から狙っていたと思うわよ」

 いつもは冷静な恩未さんまで、私のことをリセが以前から好きだったみたいなことを言い出した。
 そういえば、『一目惚れ』って言ってた。
 私と初めて出会った場所は、まだ教えてもらっていない。

「リセは私でなくても、素敵な女性が周りにたくさんいそうですし、私を狙う必要なんてないありません。でも、私はリセに少しでもふさわしい女性になりたいって思ってます」
「ぐっ! ピュアすぎる! 恩未! なにを言っても駄目だ! 琉永ちゃんの頭の中は春だ! 蝶が飛んで、虫がわいている!」
「どうやらそのようね」

 ――虫って失礼な。
 
 リセの素敵さを私が語るしかないと思った。

「二人とも疑心暗鬼になりすぎですよ。リセは優しくて親切で、頼りになるんです。何度も私の窮地を救ってくれたんですよ」
「あ、うん……。だからね、その何度もどうして、都合よく現れたんだろうって……ね?」
「偶然です」
「そ、そっかあ……」

 紡生さんは虚ろな目をして、鉛筆を数本握りしめて固まっていた。

「紡生。あんた、これからは真面目に生きなさい。純粋な琉永ちゃんを魔王に差し出してしまったんだから、絶対、地獄行きよ」
「そうだね……」

 私はまだリセの麻王グループ専務、次期社長という肩書のすごさを実感できてなかった。
 
 ――私の中で、リセはまだリセで、理世ではなかったのだった。
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