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14 契約書

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 なかなかサインしようとしない私に、啓雅けいがさんはペンを指さし、無言で促す。
 千歳ちとせの顔を思い浮かべ、震える手で契約書を手元へ引き寄せた。

 ――なにもかも諦める覚悟をして、お見合いを承諾したんだから、ショックを受けるのはおかしいわ。

 そう自分に言い聞かせて、契約書と向き合う。
 そこから先は、動くことができなかった。
 リセがつけていたのと同じ香水の香りが、私の決心を鈍らせた。

 ――私が好きなのはリセだけ。

 あの出会いがなかったら、今、ここでサインをしていたと思う。
 リセは私に『さよなら』を言わなかった。

 ――あれは、リセの優しさだったってわかってる。

 馬鹿みたいだけど、私は再会を信じたかった。
 たとえ、恋人同士じゃなくても、デザイナーとモデルとして会えるかもしれないのだから。

「なにをグズグズしているんだ」

 啓雅さんは契約書にサインしない私に気づき、食事の手を止め、イライラして言った。

「結婚するしかないとわかっているだろう」
「何年かかっても、父の借金を返します。私はあなたと結婚できません」
 
 たった一枚の紙切れで、恋も夢も失うなんて、絶対に嫌だ。

「清中繊維がどうなってもいいのか!」

 啓雅さんの怒鳴り声が響き、店内のお客が嫌そうな顔をした。
 サービスを担当する店内のスタッフが、険しい顔をして、こちらのテーブルへ近寄りかけた瞬間――爽やかな香りが漂い、全員の視線を一瞬で奪った。

「若い女性を恫喝どうかつですか? 乾井いぬい専務?」

 長身で高級なスーツ姿、かけていたサングラスを胸ポケットへひっかけて、ささやくような声で、その人は私たちのテーブルのそばに立つ。
 
 ――私は夢の続きをみているのだろうか。

 彼から漂う私と同じ香りが、頭をはっきりさせた。

「リセ……!? どうして、リセがここに?」
琉永るなのお見合い相手を調査させていた。調査員が危険な雰囲気を察して、俺に連絡してきたというわけだ」

 どうやら、啓雅さんはリセが雇った人に、後をつけられていたらしい。

「あれだけ愚痴ったら、どんな相手なのか気になるのが普通だ」
「その節は、すみませんでした……」

 酔っぱらってリセに絡んだ記憶がしっかり残っている。
 しかも、この重い体を運ばせてしまった。

「ホテルでの一夜は、なかなか情熱的だった」
「えっ!? なにもなかっ……」

 私の唇に、リセの指が触れ、あの日を思い出させるような笑顔がとどめとなって、私を黙らせた。

「ホテル? 情熱的? まさか、結婚前に遊んでおこうと思って、浮気をしたのか!」

 啓雅さんが顔を赤くして、私をにらみつけた。

「浮気? 望んで結婚するならわかるが、これは琉永の望みじゃない」

 私の前に置かれた契約書を手に取り、さっと眺めると、一笑し、ビリビリと破いて啓雅さんの頭の上に降らせた。

「なにをする! お前、俺が誰だと思ってっ……!」
「お前? 俺にそんな口をきいていいのか?」
 
 啓雅さんはハッとして、サングラスをはずした後のリセの顔を見る。
 黙った啓雅さんを見て、リセは悪い顔で微笑み、店内にいたスタッフを呼び、耳打ちする。
 各テーブルに、ワインと店のおすすめ料理を少しずつ盛り合わせたアントレが提供された。
 リセは店内に向けて、軽くお辞儀をし、雰囲気は落ち着いたものに戻る。 
 そして、私の頭を『もう大丈夫だから』というように、優しくなでた。

「乾井専務と顔を合わせるのは、先月のパーティー以来か」
「そう……だったな……」

 リセのほうが年下のはずだけど、啓雅さんは遠慮がちな態度で、さっきの態度とまったく違っていた。

「INUIグループの専務が、女性を脅して結婚か。いいゴシップネタになりそうだ」
「週刊誌にネタを売るつもりか」
「必要ならばやる」
「脅しているのは、そっちだろう!」
「あぁ、そうかも?」

 リセは笑って私の腕をつかんで立たせた。

「おい! 待て!」
「俺に命令するつもりか?」

 あのモデルのリセとは、まったく違う顔をしていた。
 リセの微笑みは、人を惹きつける。
 けれど、今のリセは人を黙らせ、圧倒する力を持っていた。
 啓雅さんは表情を強張らせ、伸ばした手を引っこめた。

「琉永。行こう」
「で、でも……」
「大丈夫」

 啓雅さんは怖い顔をして、私をにらんでいる。

 ――このまま、啓雅さんを無視して、リセと一緒に行って、本当に大丈夫?

 仕返しせずに、黙って引き下がるようなタイプではない。
 迷う私を見て、リセは私の肩を抱き、耳元でささやいた。

「琉永の婚約者は俺だろう?」
「あんな冗談みたいな口約束をリセは覚えていてくれたの?」
「冗談? 俺は本気だ」

 リセは強い力で私の手を引き、その場から連れ去った。
 追いかけてくるのではないかと思っていたけど、啓雅さんは追いかけてこなかった。

「顔色が悪いぞ。歩けるか?」

 レストランの外に出て、エレベーターに乗る。
 よほど顔色が悪かったのか、心配そうに私の顔を覗きこんだ。

「無理そうなら、パリの時みたいに抱えていくけど?」
「そっ……それはやめて!」

 せめてあと三キロは減ってからなら……ううん、絶対に重い!

「リセ。お店にワインと料理のお金を払ってこなかったけど、大丈夫?」

 ぷっとリセは吹き出した。

「食い逃げになると思って心配していたのか?」
「そ、それだけじゃないけど……」
「このホテルはグループ系列のホテルだから、顔パス。後から、請求書を回してくるだろう」
「グループ? 本社?」
「俺が働く麻王あさおグループ傘下のホテルだ」
「麻王グループで働いてるの!?」
「そうだ」

 多くの分野に幅広く進出する麻王グループ。
 『財閥』と呼ばれてもおかしくない大企業だ。
 アパレルの分野でも有名なブランドをいくつも抱えている。

「俺の本業はモデルじゃないって言わなかったか?」
「会社員とは思わなかったから……」
「会社員か。会社員で間違いないが。まあ、いいか」

 リセはなにがおかしいのか、ずっと笑ってる。
 別れた朝、リセがスーツ姿だったから、他にも仕事をしているのかもしれないと思っていた。
 でも、あまりにもモデル姿が似合いすぎて、モデルのイメージが強い。

「こっちが本業だ。モデルは頼まれてやっただけだからな」
「そうだったの……」

 麻王グループ傘下のブランド『Loreleiローレライ』。
Loreleiローレライ』のトップデザイナーである悠世ゆうせいさんは、麻王グループの社長の息子だ。
 雑誌のプロフィールに書いてあったのを思い出し、リセがモデルに抜擢され、ショーに出演してもおかしくない。

 ――社長の息子に頼まれたら、社員のリセは断れないわよね。

 悠世さんは正直、憎たらしい人だなって思っていたけど、リセをモデルに起用してくれたのは嬉しい。
 そうじゃなかったら、私はリセに憧れることもなく、出会う機会もなかったはずだ。

「リセはモデルでも会社員でも、活躍していてすごいんですね」
「なんだ。突然、他人行儀になって」

 笑ってるリセから目をそらし、うつむいた。
 リセはモデルだけでなく、スーツ姿のリセも人の目を集めるくらいかっこいい。
 すごく目立っていて、特に女の人から見られている。
 ホテルのロビーから、地下駐車場のエレベーターに乗り換えて地下へ向かう。
 たったそれだけの短い時間で、何人の女の人の視線を奪ったのか……
 リセは慣れているのか、それとも気づいていないのかまったく気にしていない。

「それにしても厄介な男とお見合いしたな。あいつはなかなか厄介な男だぞ」
「そうですよね……」

 リセを巻き込んでしまった。
 私が思っていたより、啓雅さんは策士だった。

 ――まさか、契約書まで用意して、逆らえないようにするとは思わなかった。

 金額までしっかり書いてあり、その額は三千万円。
 私のお給料で、すぐに返しきれないような金額だ。
 そこまでの金額になるまで、待っていたのかもしれない。
 あのお金で私を買ったつもりでいる。
 そうだとしたら、啓雅さんは計画的に、私との結婚を考えていたはずで、簡単に諦めるとは思えなかった。
 ようやく手に入った都合のいい相手をやすやす手放すだろうか。

 ――怖い。きっと啓雅さんは怒ってる。父や継母に連絡して、治療が必要な千歳を病院から追い出すかもしれない。

「琉永。送っていく」
「えっ……!? そこまで迷惑はかけられません」
「今さらだろ」
「ご、ごめんなさい」

 過去を思い出して、しゅんっとしてしまった。
 しかも、地下駐車場までついてきて、私ときたら、リセにどれだけ迷惑をかけるのか、情けない気持ちになった。

「琉永に話したいこともある」
「私に?」
「そう琉永に」

 リセの笑顔は、私を安心させる。
 これ以上、なにも悪いことが起きない気がして――パリにいた時もそうだった。
 嫌なこと全部、忘れさせてくれる。
 車のドアを開け、私を助手席に乗せた。

 ――リセは優しすぎる。こんなに親切にされたら、期待してしまう。

 私の隣の運転席に、車のハンドルを握ったリセ。
 リセはがいるだけで、気持ちが落ち着く。

「パリの時より、笑顔がないな」
「あの時は、リセが私に楽しい気持ちをくれたから」
「俺が?」
「私、パリでリセが出演するショーを観ていたの。リセは誰よりも素敵で、あなたをイメージした服を作りたいって思った。だから、どんどんデザイン画が思い浮かんできて……」

 声が震えた。
 でも、伝えておきたかったのだ。
 啓雅さんと結婚すれば、私は仕事を続けられない。
 自由さえなくなる。

「私、リセに出会えてよかった」

 だから、今、きちんと自分の思いを伝えておきたかった。
 どうしても。

「こっちはそんなつもりないのに、まるで別れの言葉みたいだな」
「え?」

 リセは私の前に一枚の紙を見せた。

「こ、こ、婚姻届!?」
「俺の名前は書いた」
「ど、どうして!?」
「あの男と結婚する前に、俺と結婚すればいい」

 一瞬、リセがなにを言っているのか、わからなかった。

「俺と結婚してしまえば、あいつと結婚せずにすむ」
「待って! そんなボランティア精神で結婚してどうするの? リセにはもっと素敵な人がいるでしょ」

 慌てる私の手の中に、婚姻届けが落ちてきた。

「俺がボランティアで結婚するような人間だと思うか?」

 リセは自分の考えをしっかり持っていて、優しくても同情で結婚を決める人ではないと思った。 
 でも――

「どうして私を?」
「一目惚れ」
「えっ!? 私に? どこで出会っていたの?」
「それは秘密。琉永が思い出して」

 ――一目惚れしたのは、私のほうなのに。

 ネモフィラ色のワンピース、ホテルのロビーでぶつかったあの人はリセに似ていた。
 たったあれだけでリセが私を好きになるとは思えない。
 けど、私の記憶には、それだけしか……

「私とリセが会ったのは……」
 
 自信なさげに答えを口にしようとした私を見て、リセは笑い、車を止てキスをした。

 ――違う。ホテルのロビーじゃない。

 ハズレた罰なのか、繰り返されるキスは、私にリセの唇の感触を覚えさせ、忘れられなくなるほど、執拗にキスをされた。
 唇が離れた後も熱を感じるくらい。
 シートに沈む私の髪をなで、リセは耳元でささやく。

「同じ香りだな」

 それを意識していたのは私だけじゃなかった。
 パリで別れてから、ずっと私たちは同じ香りをつけていた。
 
 ――パリで過ごした夜を忘れないように。

 近づいたリセの顔を見て、目を閉じ、もう一度リセと深いキスをする。
 リセに触れられ、私の体にまとう香水の香りが濃くなったような気がした――
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