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3 パリ!?

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「ひどい顔……」

 鏡に映った自分の顔に苦笑した。
 泣いたせいで目は赤く腫れ、メイクは落ち、疲れきった顔をしている。

 ――もらったばかりのハンカチを使ってしまった。

 他人のほうが、私に優しいなんて、なんだかやりきれない。
 子供みたいに泣いてしまった自分に落ち込んだ。

「メイク、落とさなきゃ……」

 『Loreleiローレライ』のスーツを着替え、メイクを落とした。
 アパートの部屋には、私と妹の写真が飾ってあり、写真が目に入った。

「しっかりしないと……。千歳ちとせには大学進学を諦めさせたくないし、仕事だって、まだ辞めなくていいんだから、泣いてる場合じゃないわ」

 働きだした私は、千歳が入院を終え、戻ってきたら一緒に暮らせるように、一人暮らしにしては広めの部屋を借りた。
 父と継母がいる家に、千歳一人を残したくなかったからだ。

 ――頑張るから、千歳には生きててほしい!

 父と継母は、私の弱みが千歳だとわかっている。
 だから、このお見合いからは逃れられない。
 
「でも、結婚してみたら、いい人かもしれないし……」

 そう口に出してみたけれど、あの馬鹿にした態度を思い出して、気持ちが沈んだ。
 『Loreleiローレライ』のロゴが入った紙袋が目に入り、紙袋からブーケとワンピースを取り出す。

「嫌なこともあったけど、あのぶつかった人は、すごく綺麗な男の人で、親切だったわよね。それに、リセにどことなく似ていたかも」

 モデルのリセは中性的な美しさがあり、私の憧れである。

「リセは女性なのに、男の人に似ているなんて失礼かもしれないけど。雰囲気が似てる気がしたのよね……」

 ブーケを眺めていると、少し元気が出て、これをドライフラワーにしようと思いついた。
 花は一本ずつバラバラにして、紐に吊るす。
 一瞬の出会いは、まるで夢でも見ていたかのようだった。
 ただ素敵な人だったことは、しっかり覚えている。
 きっと周りには女の人がたくさんいて、モテモテな人に違いない。

「待って? もしかしたら、メンズモデルか俳優だったりして……」

 それくらいカリスマオーラを感じた。
 男性なのに、花嫁のブーケを持っていても違和感がまったくないのもすごい話だ。
 むしろ似合ってた。
 ブーケトスで女性に間違えられて、投げられてしまうのも納得できる。
 
 ――あの人を思い浮かべて、イメージすると、なにか描けそうな気がする。

 でも、しっかりとした顔が思い出せなかった。
 目に焼き付ける前に、別れたことが本当に悔やまれる。
 でも、恋に落ちる前に、私は自分の心にブレーキをかけた。
 結婚相手が決まったのだから、私は誰にも恋をしてはいけない。

「私の結婚相手はINUIグループの御曹司様……」

 乾井と聞いて、私は名前を聞いたことがあると思った。
 安さを追求し、品質は二の次だと評判のINUIグループ。
 ワンシーズン限りの服を作るファストファッションを中心に、国内外で展開するアパレル界上位企業の一つ。
 安く手頃に、流行の服を着れるから、それが悪いとは言わないけれど、クレーム処理が雑だという点が気になる。

「でも、大手なのよね。一度、取引が入れば、しばらく会社は安泰っていうくらいの大口だし」

 だから、INUIグループ専務となれば、父と継母の態度が低姿勢なのも納得だ。
 乾井啓雅さんの価値観が、今のINUIグループと同じものであるなら、私の考え方とは異なる。

 ――断れるものなら、断りたい。今日の様子だと、文句を言わず、逆らわない便利な妻が必要で、弱みにつけこんで結婚を決めたっていう雰囲気だった。

 だから、向こうから断ることはない。
 ハンガーにかけたワンピースを眺め、溜息をついた。
 私が作ったワンピースは洗濯機で洗えたけれど、ハイブランドの『Loreleiローレライ』のワンピースはクリーニング行き。
 布素材にシルクが使われていて、洗濯機で洗うなんてとんでもない。
 もしかすると、糸もシルクかもしれない。
 『Loreleiローレライ』ならあり得る。

「雨の日に着るようなワンピースじゃないわよね」

 ゆったりとしたコットン素材のルームウェアは、紺色のコットンシャツに白と紺のギンガムチェックのパンツ。
 ベランダから見える外は薄暗くなり、まだ雨がしつこく降り続いていた。
 温かい飲み物でも飲もうかと、ポットを手にした瞬間、スマホの着信音が鳴った。

「あれ? 職場から電話?」

 電話の相手は、デザイン事務所の所長『Fillフィル』のトップデザイナーである紡生つむぎさんからだった。
 何の用だろうと電話をとった。

「もしもし、紡生さん? なにかありました?」

『HEY! 琉永るなちゃーん! フランスに行きたくなーい? フランス、パリ!」

 その声は鬱陶しい雨すら、ものともしない明るい声だった。
 底抜けに明るい紡生さんなら、雨に濡れても笑っていそうだけど――パリ!?

「私がパリに行くんですか? こんな急に!?」
『そぉ。本当は私が行く予定だったんだけどさ。デザイン画が終わらなくて、メグミンがさぁー』
『次にメグミン呼びしたら、完成しているデザイン画を刻むわ』

 電話の向こうで、ハサミをシャキシャキ鳴らす音がして、紡生さんのテンションが、一気に下がるのがわかった。
 さっきまでの浮ついた声が、紡生さんから消えた。

『あの、琉永ちゃん。聞こえたと思うけどさ……。しっかり者のパタンナーにして我が相棒の恩未めぐみさんがですね。デザイン画が終わるまでは日本を離れることは許さんって、鬼のようなことを申されているんですよ」

 紡生さんと恩未さん――二人は私の専門学校時代の先輩だ。
 デザイナーとパタンナーのコンビで、突出した才能を持った二人は、有名なブランドに就職するのではと学生時代から囁かれていた。
 けれど、二人で『Fillフィル』という小さなブランドを立ち上げて、インターネットを利用したEC販売を中心に始め、そこから徐々に大きくしていった。

『シンプルでおしゃれ、長く使える定番デザイン。日常に特別な着心地の良い服を!』

 それが先輩たちのブランド理念。
 クローゼットを開けた時、無意識に選ばれる服を作る。
 その服は着ていて、心地がよく落ち着くから、無意識に選ぶのだと紡生さんは言う。
 そんな考えでやってきて、たった二年で、ファッションビルに店舗を構えるようになったのはさすがだけど――トップデザイナーの紡生さんは、かなりの自由人である。
 その手綱を握ってるのが、パタンナーの恩未さん。

『紡生。あと電話の時間はあと五分よ』
『ひっ! そ、それでさ。フランス行きをキャンセルするのももったいから、私の代わりに琉永っち、いってきて』
「私は嬉しいですけど、いいんですか?」
『研修だよ、研修! 琉永ちゃんにとっては勉強になるだろうし。残念だけどね……』

 紡生さんはちょっとスネたように言った。

『本当はすっごく行きたかったんだよぉー! ショーに招待されてたのにさぁ』
「ファッションショーですか!?」
『そーよ!それも『Loreleiローレライ』が出るんだよ! 夢だよね。パリのファッションショーの舞台で、自分がデザインした服をトップモデルに着てもらう。あー、いーなー』
「さすが『Loreleiローレライ』ですね」

 ちらりと見たのは今日、継母に渡されて私が着ることになった『Loreleiローレライ』のワンピース。
 ショーを間近で見られるのかと思うと、すでに胸がドキドキした。
 しかもフランス、パリ!

「ありがたく行かせていただきます!」

 もちろん、私は快く引き受けた。
 今、日本にいたくなかったのもある。
 啓雅さんと二人でなんて会いたくない。
 少なくとも日本にいなければ、絶対に会えない。
 電話を切ると、すぐにスーツケースを取り出し、出発の準備に取りかかった。
 私はまるで、ここから逃げるようにして、パリへと向かったのだった。
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