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3 尾鷹の若様

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諦めて家に帰るしかない―――立ち上がろうとしたその瞬間、黒塗りの車がすぐそばにとまった。
日奈子ひなこ?」
車から出てきたのは杏美あずみちゃんのお兄さん、尾鷹おだか壱哉いちやさんだった。
尾鷹の若様、王子と呼ばれている壱哉さんはそこいるだけで圧倒的な存在感があり、若様と呼ばれるだけあって、気品があり、綺麗な顔立ちをしている。
それに比べ、私は地面に転がり、無様ぶざまな姿をさらしていた。
「い、壱哉いちやさん……」
「転んだのか?立てるか?」
「は、はい」
壱哉さんは私の手を引いて立ち上がらせると、地面に散らばった荷物まで拾ってくれた。
「その紙袋は?」
「クリーニングに出す服で急ぎだったので、それで」
壱哉さんが運転手にちらと視線を送っただけで、運転手さんはクリーニング屋の前に車をとめて、紙袋を預けてきてくれた。
「ごめんなさい。壱哉さん。迷惑をかけてしまって」
ぺこぺこと頭を下げるしかなかった。
壱哉さんはこんな私に慣れっこなのか、特に何も言わずに私をまじまじと見ていた。
多分、壱哉さんにしたら『またか』くらいなのかもしれない。
申し訳ない……。
会社に着くと、車を降りて壱哉さんが言った。
「怪我の手当てするからこっちに」
壱哉さんは手を引いて駐車場から社内に入ると守衛さん達や業者の人が使うエレベーターに乗った。
エレベーターは業者用らしく、廊下の端の目立たない場所にあり、そこから役員室があるフロアに入った。
「すごく大きな会社ですね」
「そうか?」
「はい」
窓の外には人が豆粒くらいにしか見えないし、他のビルを見下ろせる。
早く着いたおかげでぱらぱらと出勤してきた人達を窓から確認できた。
部屋に入ると、壱哉さんはロッカーから救急箱を持ってきて、テーブルに置くと蓋を開いた。
「あ、ありがとうございます」
どうして消毒液と絆創膏を持っているんだろう。
「足だして」
あ、足っ!?
壱哉さんにこの太い足を見せるなんてできない!
ぶんぶんと首を横に振った。
「自分でできますからっっ!!」
ストッキングも替えないと―――顔を赤くして言うと、寂しそうな顔で壱哉さんは言った。
「そうだな。昔と違うか」
「えっ…えーと、じゃ、じゃあ、お願いします」
物陰でストッキングを脱ぎ、戻ってくると椅子にちょこんと座った。
壱哉さんは消毒液で傷口を消毒してくれた。
昔から、よく転んでいたから、面倒見のいい壱哉さんに手当てをしてもらったのを思い出していた。
「懐かしいですね」
そうだな、というように壱哉さんが頷いた。
絆創膏をはってもらうと、不思議と痛みが引いたような気がした。
「入社おめでとう」
「あっ、いえっその!私、コネ入社というかっ!水和子みわこお姉ちゃんが頼んでくれたおかげで、なんとか入れてもらえたんです。でも、一生懸命頑張ります!掃除だとしてもっ!」
「掃除?」
壱哉さんは不思議そうな顔で首をかしげた。
「それじゃあ、入社式があるので行きますね!本当にありがとうございました!また社内で会うこともあるかもしれませんが、ご迷惑をおかけしないように精一杯頑張ります!」
深々とお辞儀をして部屋から出た。
うー……。顔が赤くなっているのがバレてないといいけど。
やっぱり、壱哉さんはすごくかっこいいなあ。
昔から私が困った時は助けてくれるし、なんでもできるし、イケメンだし―――私の憧れの人だった。
そう。憧れ。
恋心なんて、恐れ多くて抱けない。
それに壱哉さんは水和子お姉ちゃんと付き合っているって噂もあるし、将来はもしかしたらお兄さんになるかもしれないのだ。
お兄さん―――それでもいいかもしれない。
あんな素敵で頼りになるお兄さんがいる杏美あずみちゃんがうらやましい。
近くの女子トイレでストッキングをはいた。
ドジな私を予想して替えのストッキングを持ってきてよかった。
予想通りなのが悲しいけど。
誰か入ってきたみたいで、トイレのドアの向こうが騒がしくなった。
「ねえ、聞いた?尾鷹専務に秘書が付くらしいわよ」
「うそっ!ずっと秘書はいらないっておっしゃっていたのに」
尾鷹専務って確か壱哉さんのことだよね?
「私達、秘書室の中から選ばれないらしいけど」
「妹さんかもねー」
「あり得るわね」
「専務って広報部の呑海どんみさんと付き合ってるんじゃないの?一緒にいるの見かけたって聞くし」
自分じゃないのにその名前を聞くとドキッとした。
「あの二人、お似合いよね」
「呑海さん、美人で仕事もできるし、感じのいい人だし、ケチのつけようがないわ」
さすが水和子お姉ちゃん。
評判がいいみたいだった。
外が静かになったのを見計らって、トイレから出て一階エントランスに行くと、新入社員と思われる人達が大勢いた。
入社式に間に合ってよかったあー。
泣きそうだったのも忘れて、今はあのカッコイイ壱哉さんを至近距離で見れたことを神様に感謝していた―――もうあの距離で見ることはないだろうなぁなんて、のんきに思いながら。

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