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第七話 闇色のしっぽと祭囃子~夏の夜船~

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有浄ありきよに出し抜かれてしまった次の日、俺は心に決めていた。
俺は負けず嫌いな方ではない。
どちらかと言うと平和主義で争いを嫌う性質だ(たぶん)。
だが、こればかりは譲れない!
俺は有浄に負けずに朝湯あさゆに行く!
そう決意して拳を高くかかげた。
商売柄、身を清潔に保たなければならないため内風呂うちぶろがあるのだが、風呂屋の風呂はやはり別格だ。
下駄を履き、店をしっかりと閉めて風呂屋へ向かった。
朝もまだ早いことから蝉の声もどこか控えめだ。
納戸なんど色の浴衣を着て手ぬぐいを持ち、風呂屋の煙突を見上げて歩く。
風呂屋が近づくと俺と同じように朝湯を目的にやってきた人達が『ゆ』の文字が書かれた暖簾のれんをくぐり、中へ入って行くのが見えた。
沸かしたての一番風呂に入ろうという魂胆こんたんだろう。
暖簾には女湯、男湯の文字があり、青い暖簾がかかった男湯の入り口から中に入った。

「おや、『千年屋ちとせや』の若旦那さんじゃないかい」

「どうも」

番台にいたのは昔馴染みの風呂屋のばあさんだった。
兼岡商店の妖怪タヌキじじいと並んでこの通りでは妖怪より妖怪だと言われている。
そんな風呂屋のばあさんは吝嗇りんしょくが過ぎて嫁も逃げたという話だが、本当のところは違っていた。
ばあさんは商売下手な息子夫婦に嫌気がさし、算盤そろばん上手な養子が見つかったと言って息子夫婦を追い出してしまった。
息子より風呂屋。
とんでもないばあさんだと言われているが、俺は風呂屋が潰れなくてよかったと思っていた。

多助たすけさんはいい男だったよ。頼りがいがあってどっしり構えて。あんたもじいさん目指してがんばんな!」

俺にまだ可能性を見出そうとしている風呂屋のばあさん。
死ぬまでに俺がじいさんのようになる可能性はゼロだ。
だが、希望を打ち砕かないために俺は真面目な顔でうなずいた。

「頑張ります」

「あんたは素直ないい子だよ。帰りに上で麦茶とかりんとうでも食べてきな」

「はい」

じいさんの威光に俺は素直にあやかっていく。
なぜなら、麦茶とかりんとうが魅力的だからだ。

「そういえば、一之森いちのもりの神主さんも昨日来ていたねぇ。あれは恐ろしく顔の綺麗な男だよ。私が若けりゃ手を出していたね」

俺は何も言えなかった。
せめて、相槌くらい打つべきだったかもしれないが、俺には無理だった。
さすがに今のばあさんから若かりし日のばあさんを想像するのは難しい。

「気をつけなよ。綺麗すぎる人間はこの世ならざる者に気に入られて、あちら側に連れていかれてしまうからねェ」

「それなら、大丈夫だ。あいつがマシなのは顔だけだ」

それははっきり断っておいた。

「一之森神社の娘さんもそりゃぁ綺麗な人だったよ。私の若い時とよーく似てたね。色白でさァ」

風呂屋のばあさんが昔の自慢話を始めたのを耳にして気配を消し、そっとその場を離れた。
年寄りは話が始まるとなかなか終わらない。
脱衣所の木の箱に番号が黒い字で書いてあり、箱を開けると編んだ籠が一つ備えられていた。
そこに着替えを入れる。
まだ人も少なく空いていて、大騒ぎする者もいない。
朝湯はこれがいい。
のんびりと貸し切り状態の湯船に浸かるのが最高に贅沢だ。

「おお!」

真新しいペンキ絵は剥げたところがひとつもなく、富士山が堂々として見えた。
タイル張りになった洗い場と浴槽は清潔感があり、水道にはカランがつき、近代的になっている。
さすが改装したというだけある。
そして湯には有浄が教えてくれたとおり、青々しい桃の葉が浮いていた。
石鹸で体を洗ってから熱めのお湯に浸かった。
白い湯気が心地よい。
湯に浸かりながら富士山の絵を眺めた。
海と松、そして鶴も描かれ、縁起のいい絵だ。

「極楽とはこのことか」

束ねた桃の葉を手で沈めて遊ばせていると窓に目がいった。
硝子窓には今風にステンドグラスが入っている。

「ばあさん、張り込んだな」

天井を仰ぎ見ると高い場所にある窓も同じようにステンドグラスが入っていた。
緑や黄色、赤のステンドグラスから明るい陽光が射し込んで浴室を鮮やかに照らしている。
ばあさんにしては趣味が若い。
これは算盤上手な養子の趣味だろうか。
俺と同様に天井を見上げて頭の上に手ぬぐいをのせている人がいたが、特に会話はない。
朝湯は静かに湯につかる客が多く、タイルの上に寝そべり、またお湯に入るという人もいる。
だが、ここの風呂屋の湯は熱めのため長湯はきつい。

「これ以上はのぼせる……」

何事もほどほどだ。
風呂から出て浴衣を着ると二階に向かう。
改装前の木の階段はミシミシと音を立てて危険だったが、階段も修繕したらしくねじり柱の洒落た階段になっていた。
二階の座敷にいるのは俺だけで、さっそく窓を開けると朝の通りをせわしなく歩いていく人々が大勢いるのが見えた。

「こちらに麦茶を置いておきますね」

声をかけられ、振り返るとばあさんの養子だと思われる女性が麦茶とかりんとうを持ってきてくれた。

「ありがとう」

俺と同じくらいの年齢頃だろうか。
地味な色の着物に白い割烹着かっぽうぎ、頭には手ぬぐいをかぶり、目を合わせることなく無言で会釈する。
お世辞にも愛想がいいとは言えない。
おとなしい人らしく麦茶とかりんとうを置くとさっさと二階の階段を降りて行った。
無駄話をしないというのも吝嗇なばあさんが気に入った理由のひとつかもしれない。
麦茶を片手に窓の縁に座り、膝の上にかりんとうをのせた。
二階に吹き込む夏の風を受けていると下から大きな声がした。

「あれっ!? 安海やすみちゃん、朝からお風呂屋さん?」

兎々子ととこ。お前は元気だな……」

こっちが呆れるくらいにな。
ぶんぶんと下から手を振っている。
兎々子は今から女学校らしく、矢絣柄やがすりがらの着物にはかま姿は変わらなかったが、髪だけは夏のためかすっきりと三つ編みにしてリボンをつけていた。

「かりんとう食べてる! ずるーい。私はこれから学校なのにー!」

俺がかりんとうを食べているのを目ざとく見つけ、白の帆布製はんぷせい鞄の肩掛け紐をいじけたように指でひねっていた。
あれは昨日の俺だな。
やれやれと膝の上の紙皿のかりんとうを包み、こぼれないようにぐるりと紙のてっぺんを捩じった。

「兎々子。手を出せ」

「うん」

ちょうど真上から兎々子の手の中にかりんとうが入った紙の包みが落ちた。

「わ、わっ!」

地面に落とさないように兎々子はわたわたしながら、受け取ると中身を見てにっこりした。

「かりんとう!」

「教師にバレるなよ」

「うん。ありがとう。安海ちゃん、いってきます」

ひらひらと俺は二階から手を振った。
かりんとう一つで機嫌が直るのだから、安いものだ。

「『教師にバレるなよ』か。この暑いのに熱いな! 安海!」

ちょうど入れ違いでやってきたのは背広せびろ姿の男だった。
そんな知り合いは一人だけ。
逸嵩はやたかが新聞紙に包まれたものを高くかかげて言った。

「安海。あゆを持ってきた。焼いてくれ」

「今行く」

鮎と聞いて俺はいつになくさっと立ち上がった。
風呂に入った後の朝飯に鮎とは豪勢だ。
風呂屋から出ると逸嵩はすばやく俺をつかまえ、がしっと肩を組んだ。

「かりんとうのきみがお前にいてよかった。俺はこのまま安海が干からびて、じいさんになるんじゃないかと思っていたぞ」

「なにがかりんとうの君だ。変な名前を付けるな」

兎々子をかりんとうの君と呼ぶ逸嵩。
学生時代に蛙を緑色と詠んだ時から進歩のなさを感じていた。
だいたいかりんとうの見た目からして、そんな上品じゃないだろう。
そこは鮎だけに歩めよ―――と、駄洒落が浮かんだが、かりんとうの君と変わらない気がして口には出せなかった。
ちょっとこれは再考しよう。

「安海。一昨日の晩、一之森を見かけたぞ」

「有浄を? どこで?」

「夏祭りだ。一人でいたから声をかけなかったが。あいつは毎年、夏になるとそこらへんじゅうの夏祭りに現れる。安海、お前は知ってたか?」

強い風が吹き、家々の軒下に吊るされた風鈴が一斉に鳴り響いた。
それはまるで警告のようないつまでも耳に残る音だった。  
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