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第六話 夏の合戦~夜空の下の七夕流し~
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卒業する時期が迫っていた。
第一高等学校を卒業すれば、帝国大学へ進むのが定石。
手堅い一手だと言えよう。
だが、正直言って迷っていた。
やりたいこともなく、勉強も好きではないのにこのまま大学に進んで親に学費を払ってもらうのも申し訳ない。
そんなことを考えながら、かぶっていた学帽をとり、詰め襟の制服を脱いで着物に着替えた。
寮は嫌いじゃないが、やはり家はほっとする。
まだ学友の誰にも言ってないが、俺にはもう一つ親から言われていることがあった。
『上海に行って商売をしようと思っている。一緒に来るか残るか自分で決めなさい』
両親はこのまま目的もなく帝大に入学させるより、息子の性格を考えたら、向こうで商売をしたほうが合っているのではと考えたらしい。
祖父母は反対していない。
気ままな血筋の千年屋。
各々がやりたいことをやればいいというのが家風だ。
「やりたいことか……」
どっちに進むかで俺の将来は大きく変わる。
上海で親子一緒に商売をするというより、親は俺が怠けないか監視するつもりなのかもしれない。
そもそも俺が一高に入学した理由からして酷いものだった。
ぼんやりしている息子だが、勉強だけはまあまあできる。
とりあえず、学校に通わせておけば昼寝ばかりしてないで落第しないようにがんばるだろうという思惑があったためだ。
「おい、安海。あんこを炊いてみるか」
「じいさん」
年の割に体つきもがっしりして筋肉質なじいさんは腕っぷしも強く、昔は千年屋の親分と呼ばれていたらしい。
そんなじいさんに比べ俺はひょろっとしていて、お世辞にも喧嘩が強いとは言えない。
「小豆を置いとくぞ。気が向いたら炊け」
工場にきたら、なにかおやつがないかと思っていた俺だが、生の小豆を渡されてしまった。
当然だが、このままでは食べられない。
小豆を前にして俺はぼんやり工場の椅子に座っていた。
答えが出るかと期待していたわけじゃないが、工場にいると落ち着く。
きちんと片付けられ整えられた器具と祖父が集めた木製の型。
水道の水がぽとんと落ちて、たらいに波紋を描く。
しんっと静まり返った中、ばたばたと賑やかな足音が聞こえてきた。
「安海ちゃん、お腹空いたー!」
「俺もー。さすがに試験前は頭を使うからね。甘いものが食べたくなるよ」
兎々子と有浄だった。
俺が将来について深く悩んでいるというのにこいつらときたら、『千年屋』に来ればなにか口にできると思っているのだからのんきなものだ。
「今、全員出掛けてるから、なにもないぞ。俺に与えられたのは生の小豆だけだ」
「ええええ!」
「脳に栄養がいかないと俺の試験は絶望的だなー。あー、落第するかもしれない」
「いや、有浄。お前の追試は遅刻が原因だからな?」
有浄の脳はいろんな意味で正常ではないが、学力的には問題ない。
なにをしていたのか有浄は試験当日、遅れてやってきた。
成績は優秀で落第とは無縁の有浄なのだが、遅刻したせいで試験を受けることができなかった。
その言い訳ときたら『陰陽師の仕事があったんですよ』だからな。
教師の戸惑った顔を俺は今もまだ忘れることができない。
俺が『家業が神社の神主なんです。すみません』と一緒に謝ったからよかったものの、下手すると追試は受けれず、危うく落第するところだった。
まあ、教師も有浄を早く卒業させたいと思っていたから追試にもっていくのは難しいことじゃなかった。
「ねえねえ、安海ちゃん。小豆があるなら、あんこが作れるよね?」
「安海のあんこか。楽しみだなぁ」
小豆を炊くと一言も言っていないのに二人は俺に期待を込めた視線を送っていた。
一度言い出したら聞かない二人だ。
こうなることがわかっていて、じいさんは小豆を置いていったのだろうか。
仕方ない。
そう思って小豆を炊いた。
炊き方は知っている。
生まれた時からじいさんや親父の手元を見て育った。
難しいものだとは思っておらず、火にかけておけば簡単に炊けるだろうと簡単に考えていた。
だが、途中から水の加減、小豆の煮え方、じいさんや親父が炊いているものと違うような気がして不安になり、小豆の表面に自分の顔が映るのではというくらい鍋近くまで覗き込み小豆とにらみあった。
その嫌な予感は当たっていた。
仕上がったあんこはボソボソし、いかにも不味そうなあんこが出来上がってしまった。
水分が抜けきり砂糖が少なかったせいか、うっすら砂糖味がするだけのあんこ。
もうこれはあんこと呼べない。
形がなくなるまで小豆を煮た物と言ったほうが正しい。
和菓子屋の孫のくせにあんこも炊けない俺。
二人に食べさせる前に一口食べてみたが、じいさんや親父のあんこに比べて口当たりも悪く、少しも美味しいとは思えなかった。
「わぁー! できたの?」
「へぇー。ちゃんと煮えてるじゃないか」
俺が鍋の中のあんこを食べて沈黙していると、二人が横から顔を覗かせ、ちゃっかり来客用の茶碗と箸を手にして食べる構えを見せていた。
俺が止める間もなく、二人は鍋からあんこを茶碗に山盛りとって食べ始めた。
「おい、待て」
腹が減っていたのか、二人はご飯でも食べるかのようにあんこを口の中に放り込んでいく。
「不味いだろ。無理して食うなよ」
「え? うまいよ。小豆の味がちゃんと残っていて、あっさりして食べやすい」
「うん。おいしいっ! 安海ちゃん、あんこが炊けるなんてすごいね。やっぱり和菓子屋さんの息子だよね!」
二人は何度もおかわりをして鍋にあったあんこを全部食べてしまった。
俺も茶碗にあんこを山盛りにして食べた。
けれど、それはやっぱりボソボソとして味気ないあんこで、食べても美味しいとは思えなかった。
「さーて、腹もふくれたし、帰って勉強しようかな」
「私は安海ちゃんと遊んでから帰ろうっと」
俺がいいとも悪いとも言ってないのに兎々子は遊んで帰るつもりらしい。
兎々子の手には孫に甘い兼岡商店のじいさんに買ってもらったばかりのお手玉があった。
友禅のお手玉を取り出して兎々子は工場の机に並べた。
「安海ちゃんは和菓子屋さんね。これはお饅頭。私はお客さん役だから、ちゃんとお饅頭を売ってね?」
友禅のお手玉がお饅頭とはどんな和菓子屋だよと思いながら、鮮やかな柄のお手玉を手にした。
「安海が店を継いだら、『千年屋』の和菓子をずっと食べられるな」
「あんなに不味いあんこをずっと食べたいわけないだろ」
「安海のあんこが一番うまいよ」
「うん。一番おいしい! また作ってね。安海ちゃん」
まだ二人には上海に行くかもしれないという話をしていなかった。
だから、俺が迷っていることも二人は知らない。
けれど今―――
「和菓子屋は考えてなかったな」
三つ目の選択肢がそこにはあった。
自分が不味いと思って食べ残したあんこを全部食べた。
食べ終わった時、俺は決めた。
もっとうまいあんこを炊けるようになって二人に俺が作った和菓子を食べさせてやろうと。
第一高等学校を卒業すれば、帝国大学へ進むのが定石。
手堅い一手だと言えよう。
だが、正直言って迷っていた。
やりたいこともなく、勉強も好きではないのにこのまま大学に進んで親に学費を払ってもらうのも申し訳ない。
そんなことを考えながら、かぶっていた学帽をとり、詰め襟の制服を脱いで着物に着替えた。
寮は嫌いじゃないが、やはり家はほっとする。
まだ学友の誰にも言ってないが、俺にはもう一つ親から言われていることがあった。
『上海に行って商売をしようと思っている。一緒に来るか残るか自分で決めなさい』
両親はこのまま目的もなく帝大に入学させるより、息子の性格を考えたら、向こうで商売をしたほうが合っているのではと考えたらしい。
祖父母は反対していない。
気ままな血筋の千年屋。
各々がやりたいことをやればいいというのが家風だ。
「やりたいことか……」
どっちに進むかで俺の将来は大きく変わる。
上海で親子一緒に商売をするというより、親は俺が怠けないか監視するつもりなのかもしれない。
そもそも俺が一高に入学した理由からして酷いものだった。
ぼんやりしている息子だが、勉強だけはまあまあできる。
とりあえず、学校に通わせておけば昼寝ばかりしてないで落第しないようにがんばるだろうという思惑があったためだ。
「おい、安海。あんこを炊いてみるか」
「じいさん」
年の割に体つきもがっしりして筋肉質なじいさんは腕っぷしも強く、昔は千年屋の親分と呼ばれていたらしい。
そんなじいさんに比べ俺はひょろっとしていて、お世辞にも喧嘩が強いとは言えない。
「小豆を置いとくぞ。気が向いたら炊け」
工場にきたら、なにかおやつがないかと思っていた俺だが、生の小豆を渡されてしまった。
当然だが、このままでは食べられない。
小豆を前にして俺はぼんやり工場の椅子に座っていた。
答えが出るかと期待していたわけじゃないが、工場にいると落ち着く。
きちんと片付けられ整えられた器具と祖父が集めた木製の型。
水道の水がぽとんと落ちて、たらいに波紋を描く。
しんっと静まり返った中、ばたばたと賑やかな足音が聞こえてきた。
「安海ちゃん、お腹空いたー!」
「俺もー。さすがに試験前は頭を使うからね。甘いものが食べたくなるよ」
兎々子と有浄だった。
俺が将来について深く悩んでいるというのにこいつらときたら、『千年屋』に来ればなにか口にできると思っているのだからのんきなものだ。
「今、全員出掛けてるから、なにもないぞ。俺に与えられたのは生の小豆だけだ」
「ええええ!」
「脳に栄養がいかないと俺の試験は絶望的だなー。あー、落第するかもしれない」
「いや、有浄。お前の追試は遅刻が原因だからな?」
有浄の脳はいろんな意味で正常ではないが、学力的には問題ない。
なにをしていたのか有浄は試験当日、遅れてやってきた。
成績は優秀で落第とは無縁の有浄なのだが、遅刻したせいで試験を受けることができなかった。
その言い訳ときたら『陰陽師の仕事があったんですよ』だからな。
教師の戸惑った顔を俺は今もまだ忘れることができない。
俺が『家業が神社の神主なんです。すみません』と一緒に謝ったからよかったものの、下手すると追試は受けれず、危うく落第するところだった。
まあ、教師も有浄を早く卒業させたいと思っていたから追試にもっていくのは難しいことじゃなかった。
「ねえねえ、安海ちゃん。小豆があるなら、あんこが作れるよね?」
「安海のあんこか。楽しみだなぁ」
小豆を炊くと一言も言っていないのに二人は俺に期待を込めた視線を送っていた。
一度言い出したら聞かない二人だ。
こうなることがわかっていて、じいさんは小豆を置いていったのだろうか。
仕方ない。
そう思って小豆を炊いた。
炊き方は知っている。
生まれた時からじいさんや親父の手元を見て育った。
難しいものだとは思っておらず、火にかけておけば簡単に炊けるだろうと簡単に考えていた。
だが、途中から水の加減、小豆の煮え方、じいさんや親父が炊いているものと違うような気がして不安になり、小豆の表面に自分の顔が映るのではというくらい鍋近くまで覗き込み小豆とにらみあった。
その嫌な予感は当たっていた。
仕上がったあんこはボソボソし、いかにも不味そうなあんこが出来上がってしまった。
水分が抜けきり砂糖が少なかったせいか、うっすら砂糖味がするだけのあんこ。
もうこれはあんこと呼べない。
形がなくなるまで小豆を煮た物と言ったほうが正しい。
和菓子屋の孫のくせにあんこも炊けない俺。
二人に食べさせる前に一口食べてみたが、じいさんや親父のあんこに比べて口当たりも悪く、少しも美味しいとは思えなかった。
「わぁー! できたの?」
「へぇー。ちゃんと煮えてるじゃないか」
俺が鍋の中のあんこを食べて沈黙していると、二人が横から顔を覗かせ、ちゃっかり来客用の茶碗と箸を手にして食べる構えを見せていた。
俺が止める間もなく、二人は鍋からあんこを茶碗に山盛りとって食べ始めた。
「おい、待て」
腹が減っていたのか、二人はご飯でも食べるかのようにあんこを口の中に放り込んでいく。
「不味いだろ。無理して食うなよ」
「え? うまいよ。小豆の味がちゃんと残っていて、あっさりして食べやすい」
「うん。おいしいっ! 安海ちゃん、あんこが炊けるなんてすごいね。やっぱり和菓子屋さんの息子だよね!」
二人は何度もおかわりをして鍋にあったあんこを全部食べてしまった。
俺も茶碗にあんこを山盛りにして食べた。
けれど、それはやっぱりボソボソとして味気ないあんこで、食べても美味しいとは思えなかった。
「さーて、腹もふくれたし、帰って勉強しようかな」
「私は安海ちゃんと遊んでから帰ろうっと」
俺がいいとも悪いとも言ってないのに兎々子は遊んで帰るつもりらしい。
兎々子の手には孫に甘い兼岡商店のじいさんに買ってもらったばかりのお手玉があった。
友禅のお手玉を取り出して兎々子は工場の机に並べた。
「安海ちゃんは和菓子屋さんね。これはお饅頭。私はお客さん役だから、ちゃんとお饅頭を売ってね?」
友禅のお手玉がお饅頭とはどんな和菓子屋だよと思いながら、鮮やかな柄のお手玉を手にした。
「安海が店を継いだら、『千年屋』の和菓子をずっと食べられるな」
「あんなに不味いあんこをずっと食べたいわけないだろ」
「安海のあんこが一番うまいよ」
「うん。一番おいしい! また作ってね。安海ちゃん」
まだ二人には上海に行くかもしれないという話をしていなかった。
だから、俺が迷っていることも二人は知らない。
けれど今―――
「和菓子屋は考えてなかったな」
三つ目の選択肢がそこにはあった。
自分が不味いと思って食べ残したあんこを全部食べた。
食べ終わった時、俺は決めた。
もっとうまいあんこを炊けるようになって二人に俺が作った和菓子を食べさせてやろうと。
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