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第四話 美人画の怪~よひらの花が咲く頃に~

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茶の間に戻ると、硝子戸の向こう側にはしとしとと梅雨らしい雨が降っていた。
縁側から見える庭にはまだ花を咲かせていない紫陽花が緑の葉を大きく見せている。
湿った風が入り、掛け軸を微かに揺らす。
兎々子ととこが幽霊が現れるかもしれないという緊張からか青い顔をしていた。
それを見た有浄ありきよが太郎に目配せした。

「あっ! 太郎ちゃん、どこいくの」

有浄の意を汲んだ太郎は兎々子の腕からスルリと抜け、店のほうへ逃げていく。

「兎々子。太郎が店の中に行かないように気をつけろよ。店に入ったら、太郎は次から出入り禁止な」

「わ、わかってるわ。太郎ちゃん、鬼みたいな安海やすみちゃんに叱られるわよ。戻ってきて!」

「誰が鬼だ」

兎々子がいなくなり、俺と有浄だけが残された。
有浄の手にしている盆の上には紫陽花の練りきりがのっている。

「花が咲かずとも花を咲かせることができるんだから、和菓子はいいね」

そんなことを言いながら有浄ありきよは両手で菓子皿を持ち、掛け軸の前に供えた。
そして、なにをするのかと見ていると有浄は掛け軸ではなく、縁側のほうを向いて呼んだ。

「ほら、紫陽花の花が咲いたよ。伝えたいことがあるんだろう?」

雨の庭の紫陽花の影の中から淡い存在がゆらりと現れた。
白っぽい影で形をわずかに残すだけ。
目を凝らして見ると学帽に書生姿の男だということがやっとわかるくらいだった。
なんとか形を保っているのは彼女のためだろうか。

『紫陽花が咲いたら君に自分の気持ちを伝えようと思っていた』

学帽に書生姿の青年が掛け軸に向かって手を差し出した。
憂いを帯びた表情をしていた彼女は微笑みを浮かべ、絵から抜け出ると恥ずかしそうにしながら手をとる。
それは恋をする女学生そのものだった。
ようやく誰からも咎められることなく近づき、触れることができたのだ。
二人は寄り添い満ち足りた表情で光に包まれ消えて行った。
光の中に消えた後、しばらく俺も有浄もなにも言わずにその場に立って彼らのことを思った―――

「あっー! 大変っ!」

―――のは、一瞬で太郎を捕獲した兎々子が戻ってきて大騒ぎした。

「ど、ど、どうするのっー! 絵の中の女の人がいなくなっちゃった!」

女性が立っていた場所は不自然な空白となり月見草だけが咲いている。

「私がいない間になにかあったの!?」

「なにもなかった」

面倒なのでそう答えたが、兎々子は俺の返事が気に入らなかったらしく、頬を膨らませた。

「こら、太郎」

残った紫陽花の練りきりを太郎が食べようとしたのを有浄がさっと取り上げた。

「これは富夕ふゆにやる分だ」

『あんな乱暴で気の強い女に譲る菓子はない!』

「だめだ。機嫌をとっておかないと、一之森神社の平和が脅かされる」

『ふん。女に弱い男だ』

幽霊のほうは片付いても一之森神社の家庭問題はしばらく落ち着きそうにはない。
睨みあう二人を眺め、兎々子がにっこりと微笑んだ。

「有浄さんと太郎ちゃん。仲良くやっているみたいで安心したわ。どうなるかと思っていたけど意外と気が合うみたいね」

気が合う?
どこをどうみたらそうなるんだろうか。

「太郎ちゃん。有浄さんのいうことを聞いてちゃんと仲良くするのよ」

『ワン!』

完全に犬になりきる太郎。
さっきの台詞を思い出せよ、犬。
誰が女に弱いって?
媚びる太郎を俺と有浄は冷たい目で見た。

「なあ、有浄。あの掛け軸はどうするんだ?」

犬と化した太郎のことはどうでもいい。
問題は絵だ。
人気画家が描いたという話だ。
なかなかの値打ちものであることを考えたら弁償しろと言われかねない。

「菊井さんからは返さなくていいと言われているんだ。大事な跡取り息子がノイローゼになった絵をそのまま所有しようとは思わないだろう」

「まあ、そうだな」

「とはいえ、月見草だけになった絵を望月子爵家に持っていったところでなんの慰めにもならない。どうするかな」

うーんと有浄は唸った。
元々自分の所有物ではない掛け軸だ。
捨てるに捨てられないのだろう。

「この絵を描いた人に一度相談するしかないか」

「また描いてもらうのか?」

「さすがに無理だと思うけど、なかなか変わった人だからね。話を聞いて興味を持つと思うよ」

画家という職業からして変わっている。
それを聞いて俺は一緒に行かないでおこうと心に決めた。
関わらない、近寄らない、巻き込まれないだ!
俺が平穏に暮らすための三原則を心の中で唱えた。

「その時は安海にも協力してもらうから、よろしく」

ぽんっと有浄が俺の肩を叩いた。
巻き込むのが早すぎる。

「お断りだ」

「じゃあ、兎々子ちゃんと一緒に行こうかな。相手は女学生に絶大な人気を誇る人気画家だからね。兎々子ちゃんも喜ぶだろうし」

「どんな寂しがり屋だよ。お前は誰かと一緒じゃないと行けないのか?」

俺は呆れた目で有浄を見た。
それなのに逆に有浄からはぁっとため息をつかれてしまった。
ため息をつきたいのはこっちなんだが。

「もっと和菓子職人として感受性を高めないとだめだよ、安海。そんな鈍いようじゃ心配になるよ」

なぜか、ダメ出しをされた。
俺が作った練りきりを一口で食べてしまうような奴に感受性うんぬんは言われたくない。

「そういえば、安海。逸嵩はやたかがここに来たのか?」

「ああ。ほうじ茶を土産に持ってきた」

「やっぱりね。なにか言われなかったか?」

逸嵩がやってきた時のことを思い出す。

安海やすみ。ずっと和菓子屋をやっていくつもりか? お前がやる気になれば、働き口のひとつやふたつ、すぐに見つかる。どうだ。一緒に働かないか』

土産だと言って、ほうじ茶を持ってきた逸嵩はやたかだったが、本題は仕事の勧誘だろう。
逸嵩と一緒に働けば逸嵩くらいとまではいかなくてもそこそこ贅沢な暮らしはできるはずだ。
好物のカステラも飽きるほど食べられるかもしれない。
けど、俺は―――

「いや、なにも」

そう答えていた。
逸嵩の話の内容を有浄は知っていたのか俺の返事を聞くと、それ以上なにも言わなかった。
俺と有浄は黙ったまま、雨が降る庭を縁側から眺めていた。
きっと心の中ではそれぞれ違うことを考えている。
しんっとした中に雨音だけが響いていたが、気まずくはない。
長年の付き合いだ。
なにも話さずともお互いを理解している―――この時はそう思っていた。
数日後、庭の紫陽花が花を咲かせた。
まだ続く梅雨の雨。
紫陽花の花が去年より色鮮やかに染まり、緑溢れる庭に咲いていた。
望月家が好む月見草と同じ四辺の花。
その花の名をよひらの花という。

【第四話 美人画の怪~よひらの花が咲く頃に~  了】

【第五話 憧れの女学生らいふ~季節外れの雪と溶けない氷~  続】
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