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第四話 美人画の怪~よひらの花が咲く頃に~

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料亭『菊井きくい』は江戸の頃までは庶民でも気軽に入れる料理茶屋をやっていたそうだ。
けれど、周りに似たような料理茶屋がどんどん増え始め、これではいかんと思った『菊井』の初代が店を閉め、京へ修行に行くことを決意した。
修行を終え、戻ってきた初代が店を開き、料亭『菊井』が始まった。
今となっては一見いちげんさんお断りの店となってしまい誰かの紹介でない限り、まず入ることができない。
俺がこの辺りでなにか食べるとなると、同じ川沿いの並びにあるうなぎ屋と決まっていた。
店先の軒下のきしたで焼く鰻の蒲焼かばやきは甘いタレの焦げた匂いがして店の前を通ると、つい足を止めてしまう。
鰻の匂いをおかずにご飯を食べるという小咄こばなしがあるくらいだ。
それくらい食欲をそそる良い香りが鰻屋の前には立ち込めている。
炭火の上にジュッと油が落ちるのを見るのも楽しい。
ここの鰻屋の蒲焼きは焼けた皮がパリッとしていて、ふわふわの身は口の中に入れると溶けるようになくなる。
熱々の蒲焼きを白い飯の上にのせ、甘辛なタレをたっぷりかけて食べる鰻丼もいい。
じいさんに連れられて、よくこの川沿いの鰻屋に来たものだ。

安海やすみちゃん! 今日は鰻を食べに来たんじゃないでしょ!」

俺が先ほどから、ちらちらと鰻屋のほうに視線を向けていることに気づいたらしく、兎々子ととこに叱られてしまった。

「俺は鰻を食べて帰りたいよ」

俺の好物のひとつでもある鰻の蒲焼き。
鰻の蒲焼だけでも十分ごちそうだ。
高級料亭じゃなくていいから、俺はむしろ鰻が食いたい。
そして、帰って寝よう。
そうしよう。

「往生際が悪い」

俺が逃げようとしていることに気づいた有浄が襟首をつかんだ。

「俺は和菓子職人なんだぞ!? どうして俺がお前の助手をしないといけないんだよ」

「書生の服装をしているんだから、助手っぽくてちょうどいいじゃないか」

「だからだよ」

料亭『菊井』の前には指紋ひとつない黒の輸入車、ビュイックがとまっている。
雨が降ったとは思えないくらい綺麗にしてあった。
こんな車を使えるのは金持ちだけだ。
それに店の周りをぐるりと高い塀が囲み、外からどんな客が来ているのか見えないようになっており、中は立派な日本庭園が広がっている。
先ほどまでの雨で苔が濡れ、緑を濃くし、草木から落ちる雨雫あめしずくがつくばいの雨落あまおち石の上に浅く溜まっているのを目にした。
うん……風情があるな……
自分の家の庭とは全然違う。

「俺のような人間には敷居が高すぎるんだよ!」

俺はどこからどうみても使い走りにしか見えない。

「だから、安海も洋装にすればよかったんだ。一応、持っているだろ?」

「似合わない」

「そうだな」

そこは『そんなことない』っていえよ。
親友じゃなかったのかよ。
恨めしい目で有浄を見ていると、店の前にとまっていた車から人が出てきた。

「安海と一之森いちのもり? 見覚えのある奴らがいると思ったら、やっぱりお前達か!」

逸嵩はやたか!?」

車から降りてきたのは帝大時代の友人だった。卒業後もなにかと気にかけてくれる面倒見のいい奴で、兎々子達と飲んでいた珍しいほうじ茶を土産にくれたのもこの男だ。
背広せびろを着て立派な革靴にまだ珍しい腕時計をつけている。
俺が好奇心から腕時計をじっと見ていると、逸嵩はそれに気づき、見せてくれた。

「これはな、輸入品じゃないぞ。国産の腕時計でローレルという名前のものだ」

逸嵩は誇らしげに言った。
国産品であるということが、逸嵩にとって重要なことらしい。
腕時計を見せ終わると有浄に向かって軽く手をあげた。

「一之森。また会ったな」

また?
俺は二人に親交があったことを今知った。

「会いたくて会っていたわけじゃないけどね」

「お前は会うたび憎まれ口を叩くな」

「どこで顔を合せていたんだ?」

「まあ、いろいろとあるんだよ」

有浄が言葉を濁した。
それを見た逸嵩はなにか言いかけていたのを止め、咄嗟とっさに口をつぐんだ。
頭の回転がよく、察しのいい逸嵩は有浄の言いたくない空気に気づいたのだろう。

「ま、そうだな。お互い仕事のことを話すのは無粋ぶすいってやつか」

はははっと逸嵩は明るく笑って話を終わらせた。
そして、車のほうで待っていた数人の男に鋭い目で合図をしていた。
先に行けという意味だったのか、全員店のほうへ入って行った。
もしかして、逸嵩はけっこう偉いのか?
学生時代から存在感のある奴だと思っていた。
そんな逸嵩の容貌はまるで虎のように猛々しい。
目の上に大きな傷痕があり、髪は短く、体も大きい。
柔道や剣道を嗜み、喧嘩も強かった。
そして、野球と漕艇そうていの対抗戦には必ず助っ人として呼ばれるくらいだ。
その頃の俺はというと陽当たりのいい観戦席で昼寝をしていた(通常営業)。
どこにいても俺は俺。
すがすがしいまでに己を貫く姿勢は変わっていない。
見よ、俺の強固な意思を!
逸嵩も変わっていないように見えるのだが、さすがに学生時代よりは偉くなっているようだった。

「こんな場所に安海がいるってことは一之森の仕事を手伝っているのか?」

「そうだよ。今日の安海は俺の助手だ」

なにが助手だ。
いつもの流れで巻き込んでおいてよく言うよ。
だが、断れなかったのも事実なので黙っていた。

「一之森。安海にあまり迷惑をかけるなよ」

さすが逸嵩。
わかっている。
俺はうんうんとうなずいた。

「そっちこそ政財界の有力者達相手に金魚の糞みたいにくっついてなにをしようとしているのか知らないが、毎日お偉いさん達のご機嫌伺いとはご苦労なことだね」

二人は笑顔でにらみ合った。
実はこの二人、学生時代からあまり仲は良くない。
喧嘩するまでには至らない程度の仲の悪さで俺としてはちょっと気まずい。
空気が悪くなりそうなところで兎々子が俺の着物の袖を引っ張った。

「安海ちゃんと有浄さんのお友達?」

俺の後ろにいた兎々子に逸嵩が気づき、興味深そうにじろじろと眺めた。

「へー。珍しいな。一之森ならともかく安海が女連れなんて滅多にみない」

兎々子が恥ずかしそうにお辞儀をした。

兼岡かねおかとっ、とっ、と……兎々子ととこです!」

お前は鶏にエサでもやってるのか?
俺達の前だと威勢のいい兎々子も初対面の男の前だと緊張するらしい。

「可愛いな。安海の許嫁か?」

「いや。ただの幼馴染み」

「なんだ。つまらんな。お前はそろそろ所帯を持ったほうがいいんじゃないか?」

「いや、面倒だ」

「お前はいつもそれだな!」

即答した俺に逸嵩は大笑いした。

「兎々子ちゃん。近寄らない方がいいよ。逸嵩は女好きだからね。女とみたらすぐに手を出す」

「残念。俺はしばらく女遊びはできない。結婚したばかりだからな」

「結婚!?」

「そうだ。望月子爵家に婿養子として入った。だから名前も変わった。今は望月もちづき逸嵩はやたかだ」

「この間、ほうじ茶を持ってきてくれた時はなにも言ってなかったよな」

「言うのを忘れていた」

俺と有浄は結婚相手に同情した。
逸嵩は豪快で頭もよく、なにかあったら逸嵩に頼るのが一番だと言われるくらい頼られる男なのだが、細かいことにこだわらない性格だからかすべてが大雑把だ。
付き合う女がすぐに変わっていたのも相手が逸嵩の行動と思考についていけなくなり、別れるということが多かった。
それに今まで付き合っていたのは芸者やカフェーの女給じょきゅうで子爵令嬢とうまくやっていけるのだろうか。

「結婚したといってもたいして生活に変わりはない。俺の能力を買ってくれている上司に見合いを勧められて結婚しただけだからな。報告することと言えば、名前が変わったことくらいだ」

自由恋愛に憧れる人間が増えたとはいえ、見合いが一般的だ。
親が勝手に決めて結婚当日まで顔を知らないということもザラにある。
だから、逸嵩が特殊なわけではない。
そんなものなのだ。
わかってはいるが、俺は自分がいかに自由に生きているか実感した。
逸嵩はちらりと料亭の入り口を見た。

「そんなわけで、今から上司と食事だ。安海。俺は行くが、困ったことがあれば、なんでも言えよ」

気のせいでなければ、逸嵩は有浄を見ていたような気がする。
有浄のほうは笑顔を浮かべたまま、黙っていた。

「ああ。ありがとう」

逸嵩は笑いながら軽く手をあげ、急ぎ足で去って行った。

「安海ちゃんのお友達にしたら覇気のある人ね。お金持ちそうなかんじがしたけど」

「俺に覇気がなくて悪かったな」

「子爵家の婿養子になった後は大蔵省を辞めて議員をしているそうだから、そこそこ金はあるだろうね」

「議員!?」

俺が驚いていると有浄はうなずいた。
なぜ議員になっているのだろうか。
てっきり大蔵省で働いているとばかり思っていたのだが、違っていたらしい。

「時代を変えるのはああいう男なのだろうけど、俺は好きにはなれない。なにもかも急ぎすぎなんだ」

有浄はそう言うと帽子を目深にかぶり料亭の中へと歩いていった。

「安海ちゃんのお友達にしてはちょっと変わってたよね」

「そうか?」

「うん」

兎々子はうなずいて、有浄の後ろを追いかけていった。
友人とはいえ、俺にすべてを話すわけじゃない。
逸嵩も有浄もだ。
だが、結婚のことも議員のことも知らないとなると、故意に隠したのでは? と疑いたくなる。
俺が世間に興味がなさすぎるせいなのかもしれないが―――

「友人ね」

俺の周りの友人はいろいろと胡散臭い奴が多すぎる。
だからこそ、深入りはしない。
してたまるか。
すでに有浄に巻き込まれている身としては十分すぎるくらい平和を脅かされている。
今も現在進行中だ。
俺はやれやれとため息をつきながら、二人の後ろを歩き、料亭の中へと入っていった。
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