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第四話 美人画の怪~よひらの花が咲く頃に~

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水無月みなづき―――田植えも終わり、緑の苗と田の草が雨に打たれ、蛙の鳴く声が聞こえてくる頃。
俺はごろんと仰向けになって、どんよりとした灰色の空を見上げていた。
縁側に転がり、お気に入りの座布団を頭の下に敷き、目を閉じて雨の空気に包まれる。
外から流れ込む風が霧雨きりさめを運び、空気中に漂う微かな雨が心地いい。
もしかして、俺の前世は魚だったのかもしれない。
それもまたよし。
いや、待てよ。
ずっと泳ぎっぱなしというのも疲れるよな。
深海魚ということにしておこう。

「平和だ。素晴らしい」

今日も安海やすみだけに休んでいると思うだろう。
それは違う。
俺はただ寝転がっているわけではない。
こうして、横になり、庭を眺め和菓子職人としての美意識と季節を感じる感性を高めているのだ。
庭には様々な花木が植えてある。
残念ながら、今はまだ紫陽花あじさいの花は咲いておらず、緑の葉の中にまだ薄い緑色の蕾がぽつぽつと埋もれている姿のが見えるだけ。
だが、緑あふれる庭を眺めているだけでも気持ちがいいものだ。
庭の花木は俺のばあさんがほとんど植えた。
花好きな人で四季を楽しめるような庭にしたいとよく言っていた。
ばあさんが言った通り、四季を楽しめる庭になり、さぞや満足だろう。
だが、それと同時に大変なことになっていた。
……雑草がな。
あー、そろそろ草むしりをしないとな。
伸び放題になっている雑草を見てげんなりした。
雨が降るのはいいのだが、一日放置しただけで庭に緑の草がぽつぽつと顔を出す。
まだいいかと油断しているとすぐに成長して庭を緑で埋め尽くし、草むしりが修行僧なみの苦行くぎょうとなる。
まあ、今日は雨も降っていることだし、草むしりはできないな。
雨でよかったと一安心したところで軽く眠ろう。
そうしよう。
うとうとしながら、たまに目を開けて開けて天井の木目を数えた。

「 夏が終わるまでこうしていたい」

雨は嫌いじゃないが、梅雨のじめじめした空気と夏の息苦しい暑さが苦手だ。
食べ物を扱う身としては梅雨から夏にかけて、特に大変な時期だ。
いつもより神経を使う。

「夏が終わるまでとか……。安海ちゃんは秋になったら銀杏いちょうが散るまで、その次は桜の花が咲く頃まで昼寝をするんでしょ?」

「そうそう―――って、うわ!? 兎々子ととこ。勝手に入ってくるな」 

「むっ! 玄関で『ご免ください』って言ってから入ったのに気づかなかったのは安海ちゃんでしょ」

「そうか。それは悪かったな。じゃあ、またな」

「え!? もうお別れの挨拶!?」

「時は金なり。光陰こういん矢の如し。そういうことだ」

どうやら、眠っていて気づかなかったようだ。
俺としたことが、兎々子を茶の間まで入れてしまった。
兎々子は女学校が終わり、いったん家に寄ってからここに来たのか、今日は矢絣やがすりの着物とはかまではなく、流行りの着物柄である薔薇が描かれた着物と友禅の巾着、風呂敷を手にしていた。
友禅を普段使いに持てるのを見ると兎々子もお嬢様なんだなと改めて気づかされる。
兎々子が通う女学校は高価な友禅の着物を着てくる生徒が多かったため、友禅の着物を禁止したらしい。
それで今は友禅の小物が人気となっている。
ちょっとしたイタチごっこだよなと思わなくもない。

「兎々子。今日もお茶かお花の習い事があるんだろ? 油を売ってないで早く行けよ。おじさんに叱られて、また夕飯抜きになるぞ」

「そんなこと言っちゃっていいの? 安海ちゃん、私を追い返したらこれを食べられないよ!」

手に持っていた風呂敷包みを俺に見せた。

「なんだ、それ」

「安海ちゃんに柏餅のお礼だって言って、お父さんがサンドイッチを作ってくれたの」

「おじさんが? 毒でも入っているんじゃないのか」

「もー! お父さんがそんなことするわけないでしょ」

どうだか。
俺のことを毛嫌いしているおじさんがタダでこんな親切をしてくるわけがない。
俺がすぐに騙されて巻き込まれるお人好しだと思ったら大間違いだ。
重箱の蓋を開けた。
そこにはカツレツとキャベツ、ソースを挟んだサンドイッチがぎっしり入っていた。
これはうまい。
間違いない。

「豪華だな」

「材料が余ったらしいの」

これがあの鬼瓦おにがわら顔のおじさんがくれたものでなければ、俺も素直に受け取っただろう。
俺は念のため、サンドイッチのパンをそっと開け、中身を確認してみた。

「やっぱりな」

ひとつだけ大量に辛子からしが入っていた。
おじさんはお坊ちゃん育ちだけあって、やり口がわかりやすいんだよな。
それにしても二番煎じとは情けない。
兎々子は辛子を見て頬をひきつらせていた。

「お父さんてば!」

「和菓子屋の俺にはあんがあったが、おじさんは洋食屋だけあっていい案がなかったようだな」

「そんなに面白くはなかったけど、まあまあいい出来だと思うわ」

「……どうも」

兎々子に辛口評価されたが、無視されなかっただけよしとしよう。

「辛子の部分を取り除いて食べればいいだけだから、おじさんにありがとうと言っておいてくれ」

「う、うん……。どうしてお父さんは安海ちゃんのこと、こんなに目のかたきにするのかな」

「さあな。兎々子も食べろよ。こんなに食えない」

「いいの!? じゃあ、お茶いれるね」

「ああ」

食いしん坊の兎々子のことだ。
おじさんがサンドイッチを作っている間、自分も食べたいと思いながらヨダレを垂らしていたに違いない。

「あ、そうだ。兎々子、お茶はこれを使ってくれ」

「ほうじ茶?」

「そうだ」

今日のお茶は茶のくきの部分をほうじたほうじ茶。
香ばしく、いい香りがする。
四高しこう出身である帝大時代の友人がうまいお茶だからと言ってくれたものだった。
大蔵省に入省し、仕事が忙しいはずなのだが、時々ふらりと立ち寄って土産を持ってきてくれる。
持つべきものは友人だな。
そこまで思ってから、ハッとして周囲を見回した。

「安海ちゃん。どうかしたの?」

兎々子が急須きゅうすからお茶をそそいでいた手を止めた。

「いや……。嫌な予感がしただけだ」

有浄ありきよが現れるかと思ったが、現れなかった。
おかしいな。
いつも、そろそろやって来る頃合いなんだが。
いや、待っているわけじゃないぞ?
俺の心よ、今すぐ無となれ!
あいつが来るとロクなことがない。

「いただきまーす!」

兎々子が満面の笑みでカツサンドを手にすると大きな一口でパンを頬張った。
俺も一つ手に取り、口に入れた。
ふんわりした食パンに挟んだカツレツに甘辛なソースとシャキシャキとしたキャベツ。

「やっぱりおじさんの料理はうまいな」

「そうでしょ!」

得意げな顔で兎々子が笑った。
そして、俺に皿を差し出した。

「安海ちゃん。有浄さんの分も残しておいてあげて」

「は? あいつ、ここに来るのか!?」

げほっとむせかけて、慌ててお茶でカツサンドを流し込んだ。

「集合場所だから」

「ふざけんな! 俺の家を疫病神の集合場所にするな!」

「ひどーい!」

なにがひどいだ。
ひどいのは兎々子の方だ。
俺の天井の木目を数えながら昼寝という贅沢な時間を奪うとはお前は鬼か。
平穏が崩れ去ろうとしていた。
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